第144話「リーダーであることの重圧」
「片手でわたしの手を握って、もう一つの手で頭を撫でて。わたしがちゃんと寝るまでね」
ベッドで横になったエリシュカが強い口調で言う。
ベッド脇の床で膝をついているアレスは、仰せに従うので声量をできるだけしぼるように頼んだ。同室の仲間たちは皆、眠りについているのである。安眠の妨害はしたくないし、女の子に諾々と従っている姿を見られるのはもっと嫌だ。
幸いなことにエリシュカはすぐに寝息を立て始めたので、アレスは床に寝るような破目に陥らずに済んだ。彼女の小柄な体を抱き上げて、隣の女子チームの部屋へと向かう。両手がふさがっているので、戸を足で軽く蹴ると、すぐにヤナが戸を開けてくれた。まるで待っていたようなタイミング。本当に如才ない子である。
「たまには何にも無いところで転んでみたりした方がいいぞ」
アレスは小声で言った。同室のターニャは既に眠っているようだった。
「何の為に?」ヤナがささやき声で返す。
「隙を見せるために決まってるだろ。男はそういう仕種に弱い。転んだ拍子に下着とか見えたら最高」
偶然に違いないが、その瞬間、腕の中のエリシュカが、うーん、とむずかってパンチを繰り出してきた。その拳は、アレスのほっぺたにクリティカルヒットした。
ベッドにアレスがエリシュカを横たえると、その上にヤナが寝具をかけてやった。
「もう少しで冷たい床で朝まで過ごすことになるとこだった。ちゃんと教育してくれ」
「あたしが?」
「他に誰が? ヤナしかいないだろ」
「うーん、ぬいぐるみを抱いて寝てる身としては、あんまり強いことも言えないんだよなあ」
「オレはぬいぐるみじゃない」
「もちろん。だからこそ、リシュは一緒に寝たいんだろ」
アレスはベッドを離れる前に、エリシュカの髪に手を伸ばして、頭を撫でた。どうやらぐっすりと寝入っているようで反応が無い。部屋を出ると、一緒に廊下までヤナがついてきた。
「ま、まさか、ヤナ! ……ウソだろ? え、オレと?」
アレスは愕然とした声を出した。
ヤナはすっとアレスに近寄ると、
「とりあえず、そういう冗談に付き合う気は無いから。真面目な話だ」
澄んだ声を出した。続けて、
「リシュはちょっとナーバスになってるみたいだけど、心当たりは?」
言う。全く意外なことを言われて、アレスは驚いた。
「エリシュカがナーバス?」
全然そんな気配は無かったような気がするが。それとも、昨今では「ナーバス」という言葉の使い方が変わって来ているのだろうか。流行を行く若者世代によって何らか新しい意味が付与されてしまったのか。
「言葉通りの意味だよ。だから、リシュはアレスのそばにいたいんだろ?」
「どういうこと?」
「分かんないヤツだなあ。不安があるから、安心できる人の近くにいたいんだよ。それが女心だろ」
「……びっくりした」
「お前、ニブいからなあ」
「そうじゃなくて、ヤナから『女心』なんていう言葉が出てきたことにだよ。ヤナも女の子なんだな」
「今の言葉、一つ貸しとくぞ。いずれ厳しく取り立ててやるからな」
「ナーバスねえ……」
エリシュカがナーバスになっているとヤナは言う。それが本当だとしたら原因は何か。考えるまでもない。というか、エリシュカの現状、すなわち、故郷から離れ、家族から離れ、死病を患い、なおかつ異国にいる、という状態を考えれば、普通は神経を衰弱させない方がおかしい。それでもなお飄々としているようにも見えたのだが、ここはヤナの判断を信頼しよう、とアレスは思った。何せ、ヤナは女の子である。女の子の気持ちは女の子にしか分からない。
「分かった、気をつけるよ」
そう言って、別れようとしたところ、
「お前は大丈夫か?」
ヤナの声に引き止められた。
「何が?」
「いや、お前自身は大丈夫なのかってね。リーダーの責任は重たいだろうからさ。平気か?」
「オレは男だぞ」
「それは知ってる」
「じゃあ、訊くまでもないだろ」
「そうだな」
と言ったヤナの声は柔らかくて、次の瞬間、アレスは頭が撫でられるのを感じた。
「何やってんだよ、姐さん?」
「たまにはいいだろ? こういうのも」
「いいわけないだろ」
「そうか?」
賊の一団を手玉に取ることができるヤナの手は、しかし繊細で優しく、撫でられているうちに心の中にあるしこりのようなものがほぐれていくのをアレスは感じた。とはいえ、それを素直に認めるには、アレスはまだまだ男の子すぎた。
「もういいか?」
アレスが言うと、ヤナは少し笑ったようである。二人の間の闇が明るい色を帯びた。
「もっと櫛を入れたほうがいいな。これから毎日あたしが、リシュの後にくしけずってやろうか?」
「オレのより、ルジェとかの方がいいだろ」
「それはターニャに悪いし、何より、あたしキタナイものをキレイにする方が、綺麗なものをより綺麗にするよりも好きなんだよなあ」
アレスは汚物扱いされた頭を乗せたままヤナと別れると、男子部屋に戻ってベッドに入った。
かすかにエリシュカの匂いがした。
夢は見なかった。