第139話「覚えておいてほしいこと」
昼下がりの柔らかな光に世界は輝いていた。
まるでこの世界が善いものだけで作られているかのような風情である。
――人や国がどういう状態でも、世界には関係ないってことか。
微笑したアレスに皮肉な気持ちは無い。むしろ、そうでなければならない、と深く納得するものを覚えていた。
「わたしは生まれてきてはいけない子だったみたい」
眠ってしまったのかと思って、寄りかかっている少女の顔をそっと確かめてみたところ、エリシュカはおもむろに口を開いた。
「白い髪の子は不吉の象徴。スミヤ族に災いをもたらす」
そっと歌うように言うエリシュカの次の言葉を、アレスは静かに待った。
「そういう言い伝えがある。わたしは生まれたときから監視された。何か特別な力を持っていると思ってたみたい。そんなの無いのに。不吉の子の災いが怖いならいっそ殺せばいいじゃんって思うけど、スミヤ族は死をケガレとして嫌うからそれもできないの。わたしを殺したら、それがケガレになって族を襲うって信じてたみたい。わたしはずっと一人だった。でも、いじめられたりしたわけじゃない。ただ誰も話す人がいなかっただけ。家族もわたしに会うことを禁じられていたし。ヒマだったから、ずうっと剣をおもちゃ代わりにしてた。剣だけが友だち。そのうち、わたしは死病にかかった。病気もスミヤ族の嫌うケガレで、重い病気にかかった人は村から追い出していいっていうルールがあった。わたしは追い出された。村の人は安心したと思う。死病は必ず死ぬから、自分たちの手で殺さなくて済んで。追い出されたわたしは、家族が連絡してくれたおかげで、研究所に行くことになった。後は前に話した通り」
エリシュカの声は普段と変わらない。日常の会話をするときと同じトーンである。それは、まるで誰か、自分とは関係の無い第三者のことを話しているかのような素っ気なさだった。
アレスには返す言葉が無い。安っぽい言葉を返せば、エリシュカの過去自体が安っぽく見えるようになる。それは彼女への冒瀆というものだ。アレスは、取られている手をエリシュカの頭に回すと、日を受けて輝いている髪をくしゃくしゃっと撫でた。言葉を返す代わりだった。
「嫌いになった? わたしのこと?」
エリシュカは前を向きながら言って、御者台から伸びる足をぶらぶらさせた。
アレスは、はっきりとした声で、「全然」と答えた。
「わたしは不吉の子よ」
「違う」アレスは力強い声を出した。
「さっきの話聞いてなかったの?」
「聞いてたよ。でも、オレが違うって言ったら違うんだ。キミはただの女の子だよ……まあ、若干カワイイけどな。でも、ただ、それだけだよ。オレが今そういうことにした。いいな?」
「うーん……」
「うーん、じゃないんだよ。いいか。今後、キミのことを不吉の子とか言うヤツは全員オレがぶっ飛ばしてやるからな。キミ自身もだぞ」
「わたしを殴るの?」
「そうだ。お尻をひっぱたいてやる」
アレスがこれ以上ないくらい真面目くさった顔で言うと、エリシュカは微笑んだ。そのあと、「分かった。お尻叩かれたくないから言うとおりする」と言って、アレスからちょっとおしりをずらして離れると、両手を空に上げて伸びをした。
「あー、お腹空いた」
さきほどまでの無色透明な声に鮮やかな色をつけて、エリシュカが言う。アレスは少し安心したが、何ゆえの安心なのかと考えれば、考えるまでもないことになって、結果、あまり考えたくないということになる。アレスは自分の真情を軽口の元に隠した。
「キミは食べてるか寝てるかのどっちかだなあ。まるで、赤ん坊だね」
「わたしは十三歳」
「じゃあ、もっと十三歳らしいことしろよ」
「例えば? アレスが十三のときは何してたの?」
「オレは剣を振ってたよ。剣一筋の剣士だからな。けっして女の子のお尻を追いかけたりはしていない! そんな風に思われるのは心外だね」
「何も言ってない。……そんなことしてたの?」
「いや、だからしてないって言ってるだろ。聞いてなかったのか?」
「婚約者がいるのに!」
「いやいや、ちょっと待てよ、エリシュカちゃん。オレが十三の時はまだキミと婚約してないだろ。したのはついこの前なんだから」
「関係ない!」
そう言うとエリシュカは再び体を寄せてきた。
何をされるのだろうか、と戦々恐々としたアレスだったが、起こったのは自分の肩口に少女の柔らかな頬が当たることだけだった。
「覚えておいてね」
エリシュカはささやくような声で言った。
「さっきの話、アレスに覚えておいて欲しかったから話したの」
アレスはにべもなく言った。「やだね」
エリシュカは、バッと顔を起こすと、その手をアレスの頬に伸ばした。
自分のほっぺたをつねろうとする手をアレスは止めると、ちらっとだけエリシュカの綺麗な目を見て、
「すぐ忘れるから、また話してくれ」
とぞんざいに言って前を向いた。そのあと、「夢の中のオレが何をしても、現実のオレはキミを置いてったりしないから安心しろ」と小声で言った。小声ではあったが聞こえるくらいの声で言ったつもりである。しかし、エリシュカは、折良くあくびをしていたらしく、
「聞こえなかったから、もう一回言って」
とアレスに、恥ずかしいセリフを繰り返すよう要求した。
「いや、絶対聞こえてたよね、今の」
「何のこと?」
「いーや、聞こえてたね」
「もう一回!」
王都ルゼリアの外郭部が見えてきたのは、アレスとエリシュカが「聞こえてたハズ、オレはもう絶対に言わない」「聞こえなかったの、もう一回言ってよ、ケチ」という言い合いに疲れ果てたころのことであった。夕闇にはまだもうしばらくある。