第132話「ヴァレンス王都へ パート5」
ヴァレンス王都ルゼリアの西に「暗黒の森」という広大な森がある。西から王都に入る者は、森を大きく迂回して二三日を無駄にしたいのならば別であるが、たいていの者が通り抜けなければならない。ルゼリアの防衛上、西のかなめであって、古昔、西から攻め込まれた場合ここで敵軍を迎え撃つことが多かった。森を利用して伏兵を敷くのが定石である。現在は、ヴァレンスの西にある国はミナンであって、かの国とは同盟を結んでいる以上戦火からは遠い。
「『暗黒の森』という名前から、気味の悪い森を想像していたんですが、綺麗なところですね」
御者台でオソが言った。森を貫く街道上である。梢を通してきらきらとした光のかけらが降り注いでいる。
「ヴァレンスには、わざと悪い名前をつけることによって害を避けるっていうしきたりがあるんだ。ここが防衛上大事なところだから、わざわざ悪い名前をつけたんだな。悪い名前は、その名前を持つものに悪意を向けるやつに逆に呪いをかけるという信仰がある」
アレスが答えた。
オソは感心したような顔をしてから、
「それはあらゆる名前に言えることなんですか?」
と訊いた。
「基本的にはな。ただ、悪い名前ってのは良い名前があるからこそ悪い名前になれるわけだ。だから、良い名前もつけなければいけない。防衛拠点に悪い名前をつけるのなら、防衛される場所には良い名前をつける。例えば今、向かっているルゼリアは昔の言葉で、『繁栄の都』という意味だ」
「人の名前はどうなるんです?」
「なかなか良い質問だな。人の場合もわざと悪い名前をつけるっていうこともあるけど、ヴァレンスでは隠し名の方が一般的だな」
「隠し名?」
「本名の他にもう一つ名前を持つんだよ。それを『隠し名』っていうんだ。たとえば、ナヴィンがいるだろ」
そう言って、アレスは、少し前で馬を歩かせている女隊長に向かって顎をしゃくった。
「あの『ナヴィン』っていう名前は、『隠し名』なんだ。本名は別にある。ただ、本名の方は滅多に名乗らない。本名っていうのは自分と一体をなしていて、それを知られると自分が支配されるっていう考え方があるからだ。だから、本名を知らせていいのは、自分を支配して良い人物、例えば、親、主君、師、恋人、に限られるわけ」
「初めて知りました」
「この風習が残ってるのは、この辺りではヴァレンスだけだからな。ただ、ミナンでも親しい人間にあだ名をつけることってあるだろ。あれは、この『隠し名』の名残だよ。まあ、『隠し名』の場合は親しくない人間を呼ぶときに必要なわけで、あだ名の場合は親しい人間を呼ぶときに使うわけだから、ちょっとねじまがって伝わったわけではあるけど」
「じゃあ、『アレス』っていうのも『隠し名』なんですか? アレスには他に名前が?」
「さあどうかな。オレはここの生まれだなんて言った覚えはないぜ」
そう言ってアレスは笑った。少し不満げな顔をしているオソに、
「本名を知るってことは、知られた方にとっては支配される危険があるわけだけど、知った人間にも危険がある。知った人間は、そいつと分かちがたく結び付けられてしまうんだ。運命を共有することになる」
なだめるように言ったあと、不意に後ろを向いて、客車の戸がしっかりと閉められているのを確認してから、今言ったことをエリシュカには黙っておくようにオソに釘を刺した。
オソには、
――そう言えば……。
と思いあたったことが一つある。エリシュカのことだ。彼女のことは、オソを初めとしてパーティのみんなはリシュと呼んでいる。それはエリシュカ自身が自分のことをそう呼ぶように言ったからだ。エリシュカによると、彼女の族では本名を呼ぶことができる人は限られているらしい。リシュというのは、一種の「隠し名」であると言える。
ところが、ただひとりアレスだけは、エリシュカのことをそのまま本名で呼んでいる。これはどういうことを表しているのか。今の話から推して考えれば、エリシュカを本名で呼ぶということはそれはすなわち、アレスがエリシュカの人生を引き受けたということに他ならない。オソは感動した。エリシュカに対してだけではない。それが、アレスが人に対するときの基本的な態度であるような気がした。
「どうした、変な顔して?」
オソは首を横に振った。
「いいえ。ただ、あなたについてきて正解だったと思っただけです」
「何かいいことあったか?」
「ありました」
「他のヤツラもオソくらいいいヤツだといいのになあ。特にエリシュカ。本当にどうにかなんないの、あの子? 可憐さのカケラもないからなあ。何でも力づくで言うこと聞かせようとするし。まるで、魔王ですよ。そうだ、エリシュカのあだ名決めようぜ、オソ。『小魔王』ってのはどうだ?」
かんらかんらと笑いながら言うアレスの隣で、オソは微笑さえしなかった。いやに生真面目な顔でまっすぐ前を見て、アレスの言ったことが聞こえなかったような様子でさえある。
「あれ、オソくーん? もしもーし。どうかしましたかあ?」
まさか! と思ってバッと後ろを振り向いたアレスだったが、大丈夫、客車のドアは閉まっていた。憤怒のエリシュカの顔などは無かった。
「驚かせるなよ、オソ」
「女性の悪口に関わるな、というのが父の教えです」
オソは申し訳なさそうな顔をした。
アレスはニヤケ面を引き締めた。
「馬車を止めろ」
すぐにそれに従うオソ。
両脇の木々からぬらりといくつかの影が現れて二台の馬車を取り囲んだのは、それから少ししてのことであった。