第129話「ヴァレンス王都へ パート2」
バムル市を出てから二日が経った。この二日の間は平和であった。盗賊がピタリと出現をやめて、そのおかげでストレスフルな剣戟の音、血の匂いから逃れられてスッキリである。国境警備隊の隊員の運搬のことも気にしなくてよい。天候まで良い。今も、昼前の空は、ちぎれ雲がちょこちょこと浮かんでいるものの日を隠すほどではなくて、よく晴れていた。
「約束覚えてる、アレス?」
エリシュカが言った。御者台の上である。朝から御を行ってくれていたオソを客車で休ませて、今はアレスが手綱を握っていた。
アレスはフッと、子どもが精一杯背伸びしたような笑みを浮かべると、
「もちろんさ、ハニー。王都ルゼリアに着いたら結婚しよう。そうだ、仲人を立てないと行けないな。キミの族ではどうだか分からないけど、ヴァレンス式では、仲人がいない結婚ってのは正式なものとは認められないんだ。政府高官に知り合いがいるから、それに頼もう。時期はそうだな、先王の喪が明けてからの方がいいな。王の喪中に結婚ってのもなんか不吉だしな。新居を用意して、色々大変――」
滔々と述べ続けたところで、顎をぐにっとつかまれた。エリシュカは、「顎を割られたくないなら、ちょっと黙って」と冷たい声で言った。
「そんなことはどうでもいいの」
「ええっ! 『そんなこと』って、ぼくたち二人の最重要事項じゃないか、ハニー」
「その口調やめて」
アレスは顎に力が込められたのを感じた。顎先の割れた立派な紳士になることに全く興味の無いアレスは、慌ててうなずいた。
「忘れたの? わたしが結婚できる年になるまでまだ一年ある」
「忘れるわけないだろ。オレの独身生活の残り期間なんだから。あーあ、オレもあと一年経ったら冒険生活ともおさらばか。夫婦で冒険者って聞いたこと無いもんなあ。いたとしても、チョーだせえ。冒険者をやめてどっかの国に仕えてさ、朝は王宮に出仕、昼は妻手製の弁当を食べ――料理できるようになれよ、エリシュカ――夕方早めに家に帰る。妻は待ってましたと言わんばかりに、今日聞いた近所の噂話を綿々と話し続ける。それが終わったあと、オレは昔の冒険を思い出しながら眠りにつく。『ああ、オレだって昔はスゴかったんだ。魔王も倒したんだ』なんてことを思いながら、明日も早いからと目をつぶるんだよ。そうしてまた同じような日がやってくる。ああ、泣けてくるね」
「泣けば」
アレスは顎が悲鳴を上げているのを感じた。「割れちゃうよ!」と。アレスは、調子に乗ったことを謝った。そうして、結婚約束でなければ、何の約束のことを言っているのか尋ねた。
「剣が欲しい。買ってくれるって言ったでしょ」
アレスは首をひねった。記憶が確かならば、エリシュカの奪われた魔法剣を取り戻してやるということは言ったかもしれないが、買ってやると言った覚えはない。すると、エリシュカはぐっと眉根に力を入れてアレスをじいっと見つめた。
「いつ言ったんだよ、どこで?」
アレスが訊くと、
「昨日の夜、あなたのベッドの中」
というとんでもない答えが返って来た。
「え、覚えてないよ、そんなの。寝ぼけてたんだろ」
「寝ぼけてても何でも言ったことには変わりない」
「いやいや、そんなの無効だろ。……それになあ、キミ、何でオレのベッドの中に入ってくるの?」
「何でって?」
「いや、だから、何で潜り込んでくるんだよ」
「好きだから」
「…………え?」
「好きだからだけど、それがどうかしたの?」
エリシュカは言い淀むでもなく頬を染めるでもなくさらりと言ってのけた。乙女の告白にしてはあっさりすっきりとしすぎていて全く趣がないが、その方がエリシュカらしいことは確かである。
「そ、そうですか」アレスは呆けたような声を出した。
「そう、好きなの」エリシュカの目はどこまでも真面目である。
「ふ、ふーん……」とアレス。
「だから、剣買ってくれる?」
「ハイ……」
はっと気がついた時にはもう遅かった。アレスの顎から手を放したエリシュカの顔に、してやったりという小生意気な勝利の笑みが浮かんでいた。アレスは計られたことに気がついた。
「それもライザ姉さんに教わったのか?」
「何のこと?」
エリシュカは取り合わない。アレスは二つも年下の少女に手玉に取られたことに地団太を踏みたい気持ちだったが、御者台にいるのでそうも行かない。仕方なく、首を振って髪を振り乱してみた。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない。勇者、超ショック」
「あと、クリームパイもね」
「何の話だよ」
「クリームパイ食べさせてくれるって言った。覚えてないの? 何も覚えてないんだね」
「オイ! クリームパイはいらないって、キミ言ったぞ」
「事情が変わったの。今はいる」
「何だよ事情って?」
「食べたくなった」
「事情じゃないよ、ソレ!」
その日も一日、アレスとエリシュカの二人のやり取りのようにゆるやかな日であったが、夕刻、小雨が降り始めた。崩れた天気に合わせるように体調を崩した者がいる。パーティの最年少メンバー、ターニャだった。