第123話「ガミ市長の好意」
しばらくぶりにゆっくり休める夜となるはずだったが、ベッドが柔らかすぎて寝心地が悪く、アレスはうまく寝付かれなかった。安宿の固いベッドの上や、野営のテントの中の方が居心地がいいのだから、己のこれまでの貧乏暮らしが嫌になる。貧しさが染みついているのである。
「でも、金より愛だよな。エリシュカ?」
富など、愛に比べれば何ほどのものであろうか。アレスは愛の素晴らしさについて滔々と説いたが、エリシュカは豪華な朝食をはむはむするのに忙しく、答えは返って来なかった。
ガミ市長はなかなか如才ないオヤジで、アレスたちの出発前に、馬車をピカピカに磨き上げておいた上、食料や衣服なども積み込んでくれていた。それだけでなく、アレスが昨晩、半ば冗談で言ったことまで本当になった。
「末の娘がいるのですが、親の欲目を抜きにしてもこれがなかなか気のつく娘でして、どうぞ殿下のおそばにお仕えさせていただけないでしょうか」
などということを、ルジェは朝食後に市長から言われたのである。「従者は十分に足りているから」と穏便に断ろうとするルジェに、「お召し物をお替えになる際のお手伝いでも構いませんので、どうか」と執拗さを見せる市長。困り果てたルジェだったが、一宿の恩義があるので、とりあえず連れてくるように言うと、現れたのは十歳ほどの少女だった。
「市長。こんな幼い子に旅をさせるのはいかがなものでしょうか」
ルジェは語気鋭く言った。まだまだ甘えたい年頃だろう。親の傍から引き離して良いわけがない。ルジェは、少女を哀れむとともに、ロクでもないことを考えている父親に反感を持った。ガミ市長は、温和そうに見えるルジェが不機嫌さを見せたので、驚いて恐縮した様子である。それを見たルジェが、この話はこれでおしまいにしようと思ったとき、
「お邪魔になりませんので、お連れください」
と綺麗な声が上がった。
ルジェは初めてそこで少女の顔をしっかりと見た。栗色の髪を肩口できゅっと二本のお下げにまとめた、利発そうな目をした少女だった。ルジェは、膝を床につけると、少女と目線を合わせた。少女は、ルジェの目をまともに見返した。そのまっすぐな視線を受けたときに、ルジェは彼女の覚悟も受け取った気がした。
ルジェは立ち上がると、市長に向かって言った。
「誤解なさっていると思うから言うのですが、ボクは友好の使として王都ルゼリアに行くわけではありません。亡命してきたのです。ですから、あなたが何を望んでいるかは分かりませんが、おそらくそれにはお応えできないと思います」
市長はびくともしなかった。
「王子こそ誤解なさっていますよ。わたしは、ルジェ王子自身に惚れたのです。王子が今どんなお立場にいらっしゃろうと、それは関係がありません」
熱っぽい声であったが、ルジェの心は冷えた。幼い娘を亡命中の男に預けるなどというのは、正気の親のやることでは無い。それは娘への愛情の薄さを表していると思われても文句は言えまい。
少女はじっとルジェを見ている。その視線にすがりつくような色があるのをルジェは見て取った。
ルジェは、少し離れたところでこちらを窺っているアレスに目を向けた。アレスはうなずいた。自分で決めろ、という彼の心の声が聞こえた気がした。
ルジェはもう一度床に膝をつくと、少女に話しかけた。
「ボクと一緒に来るかい?」
少女はうなずくのに全くためらわなかった。
ルジェはすっと立ち上がると市長に向かって、「お嬢さんをお借りします」とはっきりと言って、それから少女に向かって手を差し出した。少女は小さな手をルジェの手に重ねた。
「名前は?」ルジェは優しく尋ねた。
「ターニャです」
「よろしく、ターニャ。仲間を紹介するよ」
ルジェがきゅっと手を握ると、ターニャは頬を染めた。
新たに一人の仲間を加えて、アレス達は出発した。昨日とは打って変わった晴天である。地上の濃い緑が空の爽やかな青に映えた。
「この調子だと、王都まで一週間くらいってとこだな」
アレスは、馬車の隣で馬を歩かせているナヴィンに言った。
「……一つ、お願いしたいことがあるわ」
「何だよ?」
「昨日みたいなことはやめてもらいたいの。今後、市に泊まるときは南門からは絶対に入らないようにしてもらいたいわ」
「分かった」
アレスは肩をすくめた。
ナヴィンは前を向いて、馬を走らせようとしたが、その前に、「さっき一週間って言ってたけど、それは何も無いときよ」と言った。その答えにアレスが首をひねっている間に、ナヴィンは列の先頭に出た。
彼女の言葉の意味はすぐに分かることになった。
その日の昼頃のことである。
アレスたちの一団の前に、汚い恰好をした男たちが群れになって現れた。
「あれは何です、アレス?」
オソが馬車を停めながら訊いた。
「何だと思う?」
「盗賊か何かでしょうか?」
「ご名答。どうやらヴァレンスは、少し見ないうちに盗賊の巣窟になったみたいだ」
男たちは叫びながら突撃してきた。