第119話「ヴァレンス入国 パート5」
ヴァレンス関長のオヤジは気を利かせて、出発前に多少の食料を寄付してくれた。
「恩に着るよ」とアレス。
「大したことはしてない。道は分かるのか?」
「行ったことがある」
アレスはルジェの横に飛び乗った。
馬車が昼下がりの街道を走り出した。ヴァレンスは森の豊かな国である。広々とした平野のそちこちに濃い緑が密集しているのが目に映った。
「悪かったな」
「何がです?」
「あのまま休みがてら待ってたら、多数に守られながら優雅に王都まで行けたのにさ」
ルジェは首を横に振ると、
「必要ありません。アレスがいてくれれば安心ですから」
そう言って微笑した。
美貌の少年に微笑みかけられたアレスはクラッとして、かえすがえすも彼が女の子でないのが惜しいと思った。
「ルジェ、妹とかいないよな?」
「妹はいませんが、妹だと思っている子はいます」
「可愛い?」
「どうでしょう。でも、容姿はともかく、いい子ですよ。ティアって言うんですけど」
どこかで聞いたことのある名だったと思えば、それもそのはず、先ほど空飛ぶ馬に乗って現れた少年が口にした名前である。
「叔母――ユリエ妃――の侍女なのですが、ボクとも血のつながりがあるんです」
王子と血のつながりがあったら王女ということになってしまいそうだが、そうではなく、母方の血に連なる子であるということだった。
「ユリエ妃が父王に輿入れなさるときに、妃がお寂しくないようにと話し相手として連れて来られたのです。ボクより年下なんですけれど、聡明で勇気もある。ボクよりずっと男らしいんじゃないかと思います」
「男らしい子はもう間に合ってるよ。オレが知り合いたいのは、ちゃんと女の子してる子なの。こうさ、パンケーキか何かを主食にしてさ、将来の夢とか希望とかで胸をいっぱいにしてさ、いつも笑顔でいるような子なんだよ。そういう子、知らない?」
ルジェは律儀な男である。アレスの冗談にも真剣な様子で考えてくれた。そうして、出た結論は、水平方向への静かな首振り運動だった。アレスはさすがにがっくりきた。淑女の中の淑女が集まるべき王宮で生まれ育ったルジェが、女の子らしい女の子を見たことがないとすると、市井の中にいないであろうことは火を見るよりも明らか。もっとも、アレスの描く女の子像がそもそもおかしいとしたら話は別であるかもしれないが、彼自身は自分の感覚は正常であると信じている。
日が弱くなって辺りが茜色に染まった頃のことである。ヴァレンス国内に入ったからには追っ手の心配も減った。夜を昼に継いで強行軍をする必要は無くなったので、そろそろ野営する場所でも決めるかと思っていたとき、後ろから迫ってくる騎馬の一団があった。三十騎ほどはいるだろう。騎馬集団は、アレスたちの馬車を避けるようにして先に進み、前に回り込むと、前方に整然とした列を作った。かなり訓練された動きである。
アレスたちは馬車を止めるほかない。
「殺気は感じないけど、ま、どちらさんだかちょっと訊いてくるとするか」
アレスが馬車から下りてすたすたと歩いていくと、向こうからも馬を降りて歩いてくる影がある。
二人は、数歩の距離を隔てて立ち止まった。アレスの手には光の剣があって、それは用心のため歩きながら準備したものだった。
「ルジェ王子ご一行とお見受けします」
影はまだ年若い少女の姿となった。黒髪をざっくりと短くした爽やかな風貌であるけれど、身に付けた革の鎧が良く似合っている。いっぱしの戦士の匂いがした。
「あんたは?」
「ナヴィン。国境警備軍の長です」
「何の用だ?」
ナヴィンはかすかに戸惑ったような顔をして、護衛に参りました、と答えた。
「関でのいきさつを聞きました。部下が失礼を。我々が王都まで王子を護衛いたします」
「問題は二つだ、隊長」
アレスは剣を持っていない方の手の指を二本立てた。
「まず一つ目はあんたらが本当に国境警備軍なのかどうかが分からないということだ」
「われわれが偽物だとでも?」
「可能性の問題だ。自分たちが本物だっていう証明はできないだろ?」
「……もう一つは?」
「仮に本当にあんたらが国境警備軍だとしても無能な副長を持つような部隊だ。ついてこられても迷惑なだけだ」
ナヴィンは、ふうとため息をつくと、四角四面な態度を少し崩して、
「あなたは?」口調を気安いものにした。
「オレが誰かなんてことはどうでもいい」
「名乗りなさい。わたしは名乗った」
「アレス」
ナヴィンがかすかに顔をのけぞらせた。「その名前は――」
「この国では特別なんだろ。耳にタコだよ。さ、もう行ってくれ」
「子どもの使いじゃない。帰れと言われてただ帰れない。邪魔だと言うなら、そちらの目に入らないところで護衛させてもらいます。隣国の王子をただ行かせたとあっては、あとで王女から叱責を受けますので」
そう言ってナヴィンは背を見せると、部下の下へと戻った。
すぐに部隊が二つに割れて、一つは馬車の前方へと進み、もう一つは馬車の後方へと回り込んだ。