第118話「ヴァレンス入国 パート4」
大の男を一撃でもって地にうずくませるためには、よほど的確に急所をとらえ十分な速度と威力で打ちこまなければならない。それをやすやすとやってのけるあたり、ヤナはやはり只者ではない。見た目はスレンダーな美少女なのだが、中身には何か化け物じみたものが潜んでいるに違いない。
「アレスは決意した。けして、ヤナには逆らわないことを!」アレスが言った。
「そういうことは心の中で言え」
「なにも殴らなくても良かったんじゃないか、姐さん」
「つい反射的にだよ。それに守ってもらったくせに文句言うな」
「守ってもらわなくても、オレは別に大丈夫だったけどな。オレには、ホラ、エリシュカ爆弾があるからさ。いざとなったら、エイヤってね、エリシュカをポイっと」
女の子を投げるなどという非人道的なことを言ってのけた最低男は、一瞬後報いを受けた。
「イテ……痛いって、エリシュカ。髪を引っ張るな」
アレスは情けない声を出した。
ヴァレンス関の関長は同僚が殴られて床で苦しんでいるのを見ても、太い眉を少し上げただけで、動じたりはしなかった。こういう荒事を見慣れているのか、あるいはジュピール氏が同情に値しないのかのどちらかだろう。
苦しんでいたジュピール氏がよろよろと立ち上がって怒りに燃える目でアレスを見る。アレスは、やったのはヤナなのに、などという恨みがましい気持ちは持たなかった。リーダーとしてメンバーがなしたことの責任は取るつもりである。
「よ、よくも……よくも、こ、こ、このわたしに……」
まぶたをピクピクさせて、ジュピールが剣の柄に手をかけた瞬間、アレスはエリシュカを片手でかついだまま、もう一つの手で拳を作った。あわれ、ジュピール氏はアレスの拳を受け、その体をクルリと回転させると、もう一度床に倒れることになった。今度は完全に気を失ったようである。
「さてと」
アレスはエリシュカを床に立たせると、関長に向かって、もう一度馬車の馬を替えてくれるように頼んだ。
「ナヴィン……国境警備軍の長が来るまで待ったらどうだ?」
オヤジはジュピール氏が気絶したことについては一言も触れない。
「時間が惜しいんだ。それに、こんな男を副長に使ってるヤツだろ。どっちみち信用はできない」
「ナヴィンには副長を決める権限は無いからなあ」
「決める権限は無くても、せめて降格させることくらいはできるだろ。それをしないで今までつけあがらせてきた挙げ句が、隣国の王子の窮状をまともに取り扱わない愚かしさなんだからしょうもない。まあ、とにかく、オレたちは今すぐここを出る。ナヴィンさんには、あんたからうまいこと言っておいてくれ」
アレスの決意が固いことを見て取ったオヤジはドアを開けて外に出た。それにアレス達が、ジュピールをまたいで続く。
「この方たちの馬車の馬を替えて差し上げろ」
部下に向かってオヤジが言うと、それに答えて近くにいた数人の男たちがきびきびと動き始めた。
「ありがとうございます」
ルジェが礼を述べると、オヤジは恐縮した様子を見せた。本来であれば、伴をつけて丁重に王都まで送らなければならないところ、「このくらいしかできず申し訳ありません」と詫びた。
「いえ、十分です。国境警備軍は、国境の警備をするのが本来の仕事ですから。ボクのために、仕事がなおざりになるのは心苦しいですから」
ルジェが生真面目なことを言った。
それを近くで聞いていたアレスは苦笑した。国境の警備と言っても、国境を接しているミナンとは同盟を結んでいるのである。ミナンが急に裏切りでもしない限り、ミナン側から脅威が現れるなどということは無い。すなわち、ここの国境警備軍の仕事は、国境警備とは名ばかりの閑職に過ぎない。だからこそ、ジュピール氏のような者が副長になれるのである。
「ま、もっとも、貴族だからってことももちろんあるけどな」
「どういうことだよ?」と隣からヤナ。
「この国は貴族様が幅を利かせてるってことだよ」
「それはどこだって大抵そうだろ?」
「特にひどい。この国の要職は全て貴族によって占められてる」
アレスの目に、嘲るような色が浮かんだ。
「それにも関わらず、一年前の乱のときはその貴族さま方は何の役にも立たなかった。クヌプスをやったのは貴族階級の人間じゃなかった。士族階級の男……いや、男の子だったわけだからな。貴族ってのは普段威張ってるくせに、いざってときには全く何の役にも立たない。そんなのが上にいるわけだからな。どうしようもないな、この国は」
聞いていたヤナは首をひねった。
――まるで、ひとごとのような言い方だ。
とアレスの物言いに不審を覚えたのである。自分で救った国にしては、あまりに愛着がないような言い方である。故国というものにとらわれない自由な気質なのか。それとも……?
「お前が本当に勇者アレスなのかが、この国にいればはっきりするな。知り合いもいるだろうし」
ヤナは面と向かってアレスに言った。そういうはっきりとしたところが自分の美点であると彼女は信じている。
「別に隠すつもりはないんだけどなあ。ただ、話したくないだけで」
「同じことだろ」
馬のつけかえが終わったようである。
オソとルジェがそれぞれ御者台に上った。