第116話「ヴァレンス入国 パート2」
「アレス、アレス……」
オヤジがもう一人のオヤジをひきつれて戻ってきたとき、エリシュカがアレスを起こそうとしたわけであるが、そのとき彼は夢を見ていた。
夢の中でもアレスは眠っていた。恐るべき二度手間である。
レースのカーテンを通して部屋の中に日の光が入っている。
アレスはベッドの上ですやすや眠っている。そこへ忍び寄るようにしてやってくる一つの影。それは、一瞥したが最後それこそ完璧に目が覚めて、興奮のあまり充血必至の美少女だ。華奢な背をまるで滝のように流れる豊かな赤色の髪、生まれてから一度も触れられていないかのような白い頬、エメラルドの向こうを張ってしかも押し勝てるような綺麗な翠色の瞳はいたずらっぽく輝いている。
彼女はアレスの傍らに立って、「起きてください、アレス様」と何度かつぶやくようにする。その小声から分かるように本気で起こしたいという気色ではない。やすらかに眠り続けるアレスを見て微笑んだ彼女は、何を考えているのか、頬を赤く染めて、その世にも美しい顔をアレスの顔に近づけるようにする。彼女の唇は、アレスの唇に狙いを定めている。あとほんの少し、紙一枚の厚さまで迫ったときに、アレスの目がパチリと開く。
「う、うわあああ。な、なにしてんだよ」
ベッドの上で、慌てて後ずさるアレス。
少女は小首を傾げると、あどけない笑顔で言う。
「起こして差し上げようと思って」
「何でキスしようとすんの!」
「それがわたくし一流の起こし方なんです」
少女は悪びれない。それから、両手を突き出すと唇も突き出すようにしながらアレスに迫る。
アレスはすばやくベッドを降りると少女の突進をかわす。
「なぜ逃げるのです?」
少女の翠色の瞳は軽く責めるような色を帯びて、しかしそれが本気でないことをアレスは知っている。彼女はノリと適当が服を着て歩いているような女の子であり、アレスのような純情少年をからかうことを至上の喜びとする性ワルなのである。
「失礼な。わたくしを誰だと思っているのです」
「セラ」
そこでアレスは目を覚ました。ぼやけた視界に、エリシュカの顔が映っている。何だか機嫌の悪そうな顔である。形の良い眉を吊り上げている。アレスは体を起こしてソファに座ると、頭を振った。
「どのくらい経った?」
「…………」
「エリシュカ?」
「『セラ』って誰?」
「何だって?」
「今言ってたでしょ、『セラ』って。女の名前」
エリシュカは視線で穴でも開けようとするかのようにじっとアレスを見た。
アレスは立ち上がると、近くの椅子に座っていたヤナに自分がどのくらい寝ていたのか尋ねた。
「一時間くらいよ」
「もう少し寝たかったが仕方ないな」
アレスは袖をぐいっと引かれた。無論、エリシュカである。
「答えて」
「何を?」
「セラ、について」
「話すと長くなる」
「時間はたくさんあるでしょ」
「今は忙しい」
エリシュカはかっと目を見開くと、もう一方の手でアレスに制裁の拳を振るった。
ビシッという小気味良い音がして、アレスはエリシュカのパンチを受け止めた。
エリシュカはとても婚約者に向けるとは思えないような憎々しげな目をアレスに向けると、「ズーマ!」と、一声鋭い声を、ヤナと同じように椅子に座っていた銀髪の青年に向かってかけた。
「アレスの初恋の女の子だ」
ズーマは期待を裏切らない。あっさりとした声で言って平然とした顔をしている。
アレスは、ズーマを睨みつけたりして無駄にできる時間が今はないということが分かっていたので、新来の客に向かって目を向けた。ヴァレンス関の長の横に身なりの良いやせた男が立っている。三十がらみであろうか。アレスはひと目で、いけすかない男だと思った。男の目には、まるでつまらないものでも見るかのような傲然とした色がある。
「ヴァレンス国境警備軍の副長のジュピールだ」
男は神経質そうな高い声で言った。
「お前たちが、自称ミナンの第四王子ご一行か?」
聴く者の癇に触れずにはおれないような小馬鹿にした言い方であった。
「ジュピール殿、失礼ですぞ。ルジェ王子に向かって」とオヤジ。
「ですから、自称『ルジェ王子』でしょう?」
「ミナン王家の紋が刻まれた小刀をお持ちです」
「そんなものはいくらでも偽造できます。大体にして、王子の同行者が女と子どもというところからしておかしいでしょう」
ジュピールは鼻を鳴らした。全くルジェのことを本物と認めていない様子である。
アレスの限界は近かった。普段ならばもう少しは我慢できるのであるが、疲労とストレスのせいで、堪忍袋の緒はいつでも切れるような状態になっていた。今度一言でもくだらないことを言ったら、男を殴り飛ばしてここを出てやろうと心に決めた。
「とりあえず、そちらの王子が本物だということが確認できるまで、ここにいてもらうことになる。ゆっくりしていけ」
――よし、なぐろう!
そう思って、男に歩み寄ろうとしたところ、アレスは服の袖を取られたままだということに気がついた。




