第114話「ルジェの決意」
ヴァレンス関の先は異国である。そうして、いったん入ったらそうそうは故国に帰って来られない。事が事であったがためにヴァレンスに行くことにしたが、ここにきて唐突に希望の光が射し込んだ。その光に強烈に心が吸い寄せられる自分がいて、しかし、それは同時にこれまで自分のために尽力してくれた人たちを裏切ることになる。
――ま、考えてるのはそんなとこだろう。
アレスは、ルジェの暗い顔を見ながら心中を推し量った。
客観的に考えてみれば、ここはやはりヴァレンスに逃げ込むべきではないか、とアレスは思う。ソイロ少年を寄こした「ティア」なる人がどういう人間かは分からないが、大した策士ではあるまいと思う。なにせ、ルジェは既に二度も敵に襲われているわけであって、もしその場にアレスがいなかったらおそらく死んでいた。ティアが打った手は遅すぎたわけである。そんな危なっかしい手に導かれてミナンに留まるのは得策とは言えない。
しかし、故国を出るということに対する切なさは、そういう損得の感情とは別のところにあって、それゆえにルジェの苦悩は深くなる。その苦悩をゆっくりと待ってやれない理由がアレスにはある。アレスは隣にいる白髪の少女をちらりと見た。エリシュカは、心を奪われたかのように翼をもつ馬に見入っている。そのまま彼女の横顔を見ていると、視線に気がついたエリシュカがアレスを見た。アレスは目を逸らすと、
「ルジェ。悪いが、早く決めてくれ。もし、オレたちに対して義理立てしてるなら、そういうのは必要ない。あんたを連れてきたのはただのついでだ。どっちみちヴァレンスには用がある」
口早に言った。
ルジェはなお心を決めかねているように押し黙っている。
ソイロが口を差し挟んだ。
「迷うことないよ。ヴァレンスなんかに行くよりぼくたちと一緒に残ったほうがいい。なんで何も悪いことしてないのに、ルジェがミナンを出て行かなくちゃいけないの? 太子なんかやっつけちゃえばいいんだよ」
ルジェはハッとした顔を作ると、その瞳に寂しげな色を混ぜた。しかし、それは一瞬だけのことである。ルジェは憂いを振り払ったかのようなすっきりとした表情で、このままヴァレンスに向かう旨をソイロにはっきりと伝えた。
「ルジェ、どうして?」
「ごめん、ソイロ。本当のことを言うと、ボクもミナンを出て行きたくはない。でも、そうすべきだってことが、君のおかげで今はっきりと分かった」
「え? どういうこと?」
ルジェはその問いには答えず、
「君はこのまま帰って、ティアやみんなにボクは大丈夫だって伝えてくれ」
言った。ソイロ少年は納得できない顔である。
「ぼくたちのこと信用できないの、ルジェ?」
「そうじゃない」
「だったらさ」
「ソイロ。言う通りにしてくれ」
ルジェは、腰をかがめて目線の高さを合わせるとソイロに圧するような口調で言った。
顔を赤くしたソイロは、足を思いきり地面に打ち付けて感情を露わにすると、「分かったよ!」と叫ぶように言ってその場から走り出しテバーンのもとまで行った。それから、小さな体で器用に騎乗すると、テバーンをゆっくりと歩かせて戻ってきた。間近で見たテバーンの顔は馬に似ているが、横に間延びしていて、どこかおっとりしているような雰囲気を与えた。
――間が抜けた面だなあ。
と思ったアレスだったが、口には出さなかった。伝説の生物ともなれば人語を解するかも知れず、さらには無礼な人間に対して口から炎を出すくらいのことはするかもしれない。
「せっかく来てあげたのにさ!」
ソイロはルジェに対して憤懣やるかたないという調子の声を落とした。
「ありがとう、ソイロ」
それに対して、ルジェは澄んだ笑顔を見せた。
「いったん帰るけど、すぐにまた仲間を連れてくるからね」
「ソイロ。ボクのことは気にしないでいいから、王都で王にお仕えしてくれ」
「だからあ、ぼくは王の家臣じゃないって言ってるだろ」
ソイロはべーっと舌を出すと、今度はアレスに顔を向けて、
「お前が勇者だっていうこと今イチ信用できないけど、今は信じてやる。ちゃんと、ルジェを守れよな」
偉そうな口調で言うと、テバーンの首元を撫でた。
風が起こるともに、大きな二枚の翼がはためいて、すぐにソイロは空の人となった。
「またあとでね、ルジェ」
自分を見上げる顔の一つに笑顔で言うと、今度はまた別の顔に向かって、
「ヤナのブース!」
少し離れたところで待っているオソとズーマに聞こえそうなほど大きな声で言った。
ヤナは静かに笑っている。
アレスは、ソイロがそのうち自分の無分別を後悔することになるだろうと思った。もう一度ルジェのところに来た時に、彼はおそらく生涯で最も恐ろしい思いをするに違いない。
「すみません、ヤナさん」
謝るルジェに、ヤナは全然気にしていないかのような淑女然とした澄ました顔で応えた。
アレスは、一行を促して馬車に戻らせた。ルジェの意志をもう一度確認するようなことはしなかった。それは彼にとって失礼であるし、また何より、時間が勿体なかったからである。