第110話「ミナン関突破」
どうやら敵は夜陰に紛れて襲いかかるというありがちだが、実際やられると厄介なことは考えなかったらしい。あるいは、もう追っ手はいないのかもしれないが、その点に関してはアレスは楽観していない。
――関を過ぎたあとに襲撃するつもりかもしれない。
ミナンの関を過ぎたあと、ヴァレンスの関までは一種の干渉地帯であり、どちらの関所の国境警備軍もいちいち守ってくれたりはしない。そもそも、国境警備軍は、国境を見張るだけの組織であり、市民を守るような警察組織ではないのである。
「そういうわけで、各自警戒を怠らないように」
出発前の訓示はリーダーの仕事である。そうして、大抵そういうものは聞かれないのが普通である。ご多分にもれず、アレスのありがたい注意は誰にも見向きされなかった。早朝の弱い光の下で、アレスは声を大きくした。
「おい、おまえら! ちょっとはオレの言うことを聞け。グレちゃうぞ! いいのか、リーダーが不良になっても?」
エリシュカはあくびをしながら客車の中へ、ヤナはストレッチして体をほぐしている。ルジェは疲れた様子で御者台に乗り、励ましの言葉をかけるズーマに弱々しく微笑んでいた。
「いつでも出発できますよ、アレス」オソが頼もしい声を出した。
アレスはヴァレンスに着いて一段落したら髪を染めることを決意した。ついでに、耳にスタッドも留めてやるし、腕に入れ墨だってしてやろう。そうして、赤マントを羽織り、背には金字で「魔王上等!」と刺繍する。それもこれもリーダーを尊重しないメンバーのせいである。みな、あとで後悔するがいい!
朝のひんやりとした空気の中、関に向かって馬車が走る。アレス達より先に、既に商隊がのろのろと進んでいた。ミナンの関では、一応、出国手続きが取られるわけだが、特別な審査などは無い。簡単に姓名を書かされることと出国目的を聞かれるくらいのものである。指名手配犯ででもなければ、出国を止められることはない。
関の役人たちはエリシュカの白い髪を物珍しそうに見て、ヤナの明るい笑顔に見惚れただけで、他四名の男どもには大した関心もないようだった。ただ、ルジェが男だと分かったときには、軽い驚きがさざ波のように男たちの間を伝わった。
拍子抜けするほど無事にミナン関を越えて、山道を登り始める。
レネピル山地は場所によると急峻なところもあるが、大部分はなだらかであり、アレスたちが行くのもむろんゆるやかな上り坂である。向こう側のヴァレンスの関までは、急げば二日で踏破できる距離。
「馬がかなり疲れています」
オソが手綱を取りながら、心配そうな口調で言った。それもそのはずであった。インチキ騎士団に出会ってからこれまで大した休息も取らせず、ほぼ走りづめに走らせている。その疲労への対策のため、ズーマが呪文をかけているわけだが、その呪文の効果は、疲労をなくすのではなく、あくまで一時的に疲労を感じさせなくするものにすぎない。そして、感じさせなくするとはいってもそれには限度があって、体は着実に重くなりついには動けなくなる。便利な呪文であるにも関わらず、アレス達にかけないのはそれが理由であった。いざというとき動けなくなってしまったら、どうしようもない。
「あと二日だけ耐えてもらうしかない。ヴァレンスにつくことができれば、オレたちの勝ちだ」
アレスは、客車の屋根スペースに行くと、辺りを窺った。後ろから敵が来る気配はないが、もしかしたら昨夜の夜中に、関ではないところからレネピル山地に入り、先回りして待ち伏せしているという可能性もある。
「なに、キョロキョロしてるの?」
アレスが油断なく周囲を見回していると、エリシュカがやってきて言った。
「安全確認だよ」
ふーん、と答えたエリシュカの顔には珍しく影が差している。
「どうかしたのか?」
「アレス……」
エリシュカの目には思い詰めたような色がある。
一体どんな告白がなされるのだろうかと、緊急時にも関わらず、どきりとしたアレスだったが、
「わたしの髪って変?」
「はい?」
「白い髪ってやっぱり変なの?」
そんな大した話でもなかったらしい。と言ってしまえば、それは乙女に失礼だろう。どうやら先ほど、関を通る時に、役人の男たちにじろじろ見られたことを気にしているようである。
「答えて」エリシュカの眼差しは真剣である。
アレスは別に変じゃないよ、と簡単に答えた。
「でも、さっきの人たち、じっと見てた」
「それは、エリシュカが可愛いからだろ。可愛い女の子を見るのはこれ、男の性質なんだ。仕方ない」
エリシュカは目をしばたたかせた。
頬を染めたりするような反応を待っていたアレスは、拍子抜けした。
「わたし、可愛いの?」
真顔でそんなことを訊かれると、肯定するのが難しくなる。真面目に答えてしまったら、彼女がどこまでも増長するのは目に見えている。
「ねえ? どうなの?」
宝石のような瞳も、鈴が鳴るような声も、月光を集めて作ったかのような肌も、全てがその単語のためにふさわしいものだったが、アレスはそれを言うのを憚った。ここが正念場である。ここを間違えたら、彼女との間のパワーバランスは完全に崩壊してしまうだろう。今でさえ、崩壊寸前なのだ。
アレスは迷う振りをしながら、
「ま、まあまあなんじゃないかな」
無難な答えをしておいた。
エリシュカはがっかりした様子でもなく、ちょっとつまんなそうな顔をしただけである。
そのうち自ら気がつくことだろう、とアレスは思った。
「さ、オレは忙しいんだ。用が済んだら、下で大人しくしてくれ」
「手伝う」
珍しく殊勝な心がけに頭をなでなでしてやると、「ここから蹴り落とされたいの?」という言葉が、特にすごむでもなくかけられて、アレスは慌てて手を引っ込めた。