第108話「ミナン―ヴァレンスの国境へ」
アレスは、エリシュカの怒りをギリギリで避けられたことを自分の日頃の行いを大地の神が見ていてくれたからであると断じた。
「良いことはしておくもんだよなあ。な、オソ?」
お昼前のまだ爽やかな光の中を馬車は走っている。アレスが、追っ手に迫られたときには全く感じていなかった自らの死をなぜだか仲間と一緒にいるときに感じたときから、二三時間ほど経っている。今はアレスが御を行っていた。隣にはオソがいる。エリシュカは客車の中で優雅に横になっていた。
「せっせと山賊とか、研究所所員とかを殴り倒しておいてよかったよ」
アレスが言うと、オソは調子を合わせるような笑みを見せた。それから、前を向いて、遠く先を見るような目をした。行く先にはヴァレンスがあるわけだが、オソが見ているのは隣国ではないだろう。もっと先を見ているような、そんな気がアレスにはした。
「後悔してももう遅いぞ、オソ」
わざとということもなく、アレスは明るい声を出した。それがアレスの性情である。してしまったことは仕方がない。これから先にワンダフルな未来を描くしかないのである。
オソは慌てて首を横に振ると、イードリを出たことに後悔は無い旨を、はっきりとした声で口に出した。
「父のことを考えていました」
「イードリ市長? 太子の使者を無視したり、馬車をポンと二台も貸してくれたり、なかなか豪気な人だよなあ。オソまでつけてくれるしさ」
「……それは逆です」
「ん?」
「わたしを厄介払いするために、馬車をお貸ししたのだと思います」
珍しくオソが興奮した口調になっている。
アレスは前を向いたまま、しばらく口を閉じた。どうやらオソは父であるイードリ市長に何かしら鬱屈した感情があるらしい。それを吐き出させて良いものか、迷ったのである。気持ちというものは、言葉にしてしまえば常にすっきりするというものではなく、言葉にすることによってそれがより淀むということもある。どうしようかなあ、と思ったアレスだったが、決断する前に、
「すみません。唐突に変なことを言い出して」
とオソが謝り出したので、アレスは決断の苦渋から解き放たれた。
「ま、生きてりゃ色々あるよな。ルジェは兄貴につけ狙われてるし、エリシュカは死の病に侵されてるし、まあ、ヤナは物見遊山的な所があるけどさ」
オソは急に恥じ入ったように体を縮めて、
「殿下と、リシュさんに比べたら、わたしの悩みなんてちっぽけなものです」
声を小さくした。
「比較なんかできないよ。悩みってのは人それぞれで、誰も他の人の悩みを悩んでやったり、自分の悩みを他の人に肩代わりしてもらったりはできないんだからな」
アレスの声には力みが無い。そういうことをさらりと言えるということが、たくさんの悩みを抱えてきたことの証左のように、オソには思えた。
「アレスは、どうしてわたしと同じ年なのにそんなに強いんですか。どういう日々を過ごしてきたら、そうなれるんでしょう」
「興味ある、オレの過去?」
「はい」
「そんなに面白いものでもないけどなあ」
「良かったら教えてください」
「先約があるから、その後でならいいよ」
アレスはオソに御を任せると、客車の中に入った。
片側の座席の上にエリシュカが横たわっていて、すやすやと寝息を立てている。アレスは対面の座席に腰を下ろすと、視界の中の少女が稀有な可憐さを持っていることを認めざるを得なかった。思わず、その零れるような白髪に触れたくなるほどである。そんな彼女がひとたび目を覚ますやいなや、まるで小鬼のようになるのであるから、女の子というのは全くもって得体の知れない存在である。怖い!
「うーん」
アレスの心の声が届いたのか、エリシュカがまるで抗議をするかのような声を上げた。
「アレス……」
その後に自分の名前が呼ばれたので、アレスはドキリとした。そうして、きっとまた彼女の夢の中で自分は殺されているのだろう、と思いげんなりした。ところが、
「やめて、アレス……」
どうやら違ったようである。エリシュカの声は悲しげなもので、どうやら夢の中のアレスは彼女にひどいことをしているようであった。アレスは、夢の中の自分にエールを送った。ガンバレ、オレ! 現実世界ではやり込められてばかりだが、せめて夢の中ならば、と自分の夢であるわけでもないのに、厚かましいことを考えた。
「置いてかないで」
エリシュカが聞くも痛ましい声を出した。同時に、目を覚ましたようである。むっくりと身を起こした少女の瞳は濡れていて、乙女の涙目で見られたアレスは、何だかいたたまれなくなった。エリシュカは、初めぼんやりとアレスを見ていたが、すぐに焦点を合わせると、涙を乱暴に拭ったあと、
「謝って!」
唐突に言った。
アレスは何が何やら、いつものことながら、さっぱり分からない。
「わたしの夢の中で、アレスは最低なことをした」
「おいおい。キミが見た夢だぞ」
「夢の中でも、あなたはあなたでしょ」
「なにそのリクツ」
「早く!」
さきほどの件もあるので、アレスは速やかに謝った。この頃、とみに謝ることになれてしまった自分がいるような気がしてちょっと切ない気持ちになる。エリシュカは真剣な表情で、アレスの謝罪を受け入れると、
「これからは夢の中でもちゃんとするようにして」
無茶なことを要求した。
アレスはうなずいた。何でもうなずいておくのが吉である。
ミナンとヴァレンスの国境に着くまでは、あと半日ほど残されている。