第99話「イードリ再出発 パート3」
門は問題なく開いた。
イードリを再出発する一行。
早朝の白い光の下に浅黒い大地が悠々とたたずんでいる。
街道をゆく二乗の馬車は大海に浮かぶ二艘の小舟に似ていた。
「信じられません。研究所がイードリの監獄を襲撃するなんて」
ルジェが言う。
御者台の隣に座っていたアレスは、その声音からごまかしの色を聞かなかった。
イードリの東門を出る前に、アレスは、自分の馬車のメンバーをオソからルジェに入れ替えた。昨夜、情報屋協会の長に聞いたことについてルジェに意見を求めたかったからである。ちなみにそのとき、エリシュカにも後車に行ってもいい旨告げたのだが、それを言った途端、にゅっと少女の手が伸びて、アレスは片頬をつねり上げられた。
「この口? この口が言ったの?」
アレスはもう一つの頬が同じ目にあう前に、いささか不明瞭な発音で失言を詫びた。そのお茶目な彼女は淑女らしい所作でルジェにアレスの隣を譲った。そうして客車の中に大人しく入った。淑女は二度寝のお時間なのである。
「ミハイル博士は良識のある方です。そんなことをするわけがありません。それに、いったい何のために山賊を開放する必要があるんですか」
ルジェは少し興奮気味に言った。
アレスはその言葉を白けた気持ちで聞いていた。ミハイル老は、子どもを超ド級の魔導士にしたり、おっさんを獣人に変えたりという非人道的な実験を行っていたマッドサイエンティストである。その彼が良識ある人間だとしたら、ミナンの常識は一風変わったものになって、とてもついていけるものではない。
「いえ、しかし、それは国が認めた正規の実験なのです。それに、博士の呪式のおかげで我が国の戦力が大幅に増強されるかもしれないのですから」
「国が強くなるために有効なら、何でも正義か?」
「それは……」
ルジェは一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐ迷いを振り払ったかのように、
「国が強くなければ国民を守ることはできません。国には、王家には、その義務があるのです。そのためには、もちろん可哀想なことだとは思いますが、多少の犠牲はやむをえません」
断固とした声を出した。
アレスも全くの子どもではないので、ルジェの言うことが一面の真実を表しており、そうしてもし自分がルジェの立場であればそう言う他ないだろうことは分かっていた。しかしそれでも、それぞれにたった一つしかない命を「多少」なんぞと表現して悔いを見せないボンボンの顔を、殴りつけたいという気持ちを抑えるためには最大限の努力を要した。
アレスはしばらく無言で馬車を走らせ続け、気持ちの高ぶりを冷やした。
「ロート・ブラッド団の件はどうだ? どうして国の施設が、元山賊を雇用するんだ? 人手不足なのか?」
「いえ、それについては知りませんでした」
「研究所にいたのに?」
「ほとんど博士としか話していませんでしたので」
「都合の悪いことは知らないってことだな」
「……返す言葉もありません」
今度はルジェが押し黙る番だった。
どうやら訊いても無駄だったようである。イードリの監獄襲撃については何も知らないらしい。ルジェに訊けば何か分かるかもと期待していたアレスはがっくりきたが、すぐに気分を改めた。知らないなら知らないままの方が良い。既に問題は両手を塞いでいる状態であって、これ以上現れても対処しきれない。アレスはエリシュカのために、二人の少年少女の無事を祈っておいた。
日がゆっくりと昇り始め、地から闇が払われてきた。
随分経ったが、ルジェは口を開かない。ちらりと横を見ると、眠っているわけではないらしい、何か考え事をしているかのような暗い面持ちで前を見ている。
気まずさに耐えられなくなってきたアレスは、こんなときこそエリシュカの出番だと思って彼女の到来を心待ちにしていたが、どうやら爆睡中らしく、客車の戸はうんともすんとも言わなかった。
「何考えてるんだ?」
とうとうアレスは思い切って話しかけた。男に話しかけるのにどうして、まるで喧嘩中の恋人に話しかける時のような勇気を持たなければいけないのか、ということはあえて考えないようにした。
ルジェはホッとしたような顔をしたあと、「フェイのことを考えていました」と寂しげな笑みを見せた。
「長いのか」
「半年の付き合いです」
そう言うと、ルジェはイードリに至るまでの半年の冒険譚をなつかしそうに語り出した。王子の冒険は魔王を倒したり、財宝を求めたりするものではなく、人を探すためのものである。ミナン国の中で野に埋もれていた賢者や強者の類を、既に数人、王に推挙しているということである。
「ボクの気まぐれに、仕事とはいえ、よく付きあってくれました。最高の友人です」
「じゃあ、信じてやれよ。三日しか付き合わなかったオレが信じてるんだから」
ルジェは嬉しそうにうなずいた。
そのときである。
アレスは不意に立ち上がると、手綱をルジェに預けた。
「どうしたんですか?」
「客だ。ちょっと挨拶してくる。そのまま走らせろ」