第97話「イードリ再出発」
朝になった。
と言っても、まだ空が明るくなる前である。
早いうちに出発したいアレスは、鳥の声が今日という一日を祝福してくれているのを耳にしながらすばやくベッドを出ると、他の部屋のお寝坊さんたちを起こしにいくことにした。同室のズーマは既に起きているようでもう姿が見えない。どこで油を売っているのか。階下で朝のお茶でも飲んでいるのかもしれないが、この宿で早朝サービスが期待できるかどうかは疑問である。
隣の女の子グループの部屋の戸を叩くと、反応はなかった。アレスはもう一度コンコンと叩き礼儀を通した。不用意に入ったりすれば寝乱れた姿を見るようなことになって、あられない姿を見られた乙女たちからどんなイチャモンをつけられるか分かったものではない。
やっぱり反応が無かったので、仕方なく戸を開けてほの暗い部屋の中を進んでいく。一台のベッドの上で、エリシュカが寝息を立てていた。体を揺すってやると、まだ起きたくないのだろう、「うーん」とむずかる声が口元から漏れた。そのあと、
「アレス……死なないで……」
真情を込めたような悲しげな声が薄闇を昇った。
こんな爽やかな朝にどんな夢を見てやがる、と思ったアレスは、無理矢理起こしてやれと、エリシュカの体を強く揺さぶってやった。すると、
「ごめんなさい、アレス。わたしのために……」
しんみりとした声が続いて、アレスはどんよりした。
どうやらアレスは、エリシュカの夢の中で彼女をかばったか何かして死んだようである。やっと起きた彼女にどういう死に様だったのか問い詰めてみたが、エリシュカは「何のこと?」と分からない声を出した。
「オレが死んだのに何で覚えてないんだよ」
「何言ってんの? 寝ぼけてるの?」
「……いや、何でもないよ。覚えられてても何かそれはそれでいやだ」
「もう朝?」
「そうだよ。希望の朝だ。まあ、オレは若干、絶望的な気分だけどな。すぐ出るぞ、準備してくれ」
返って来たのは返事ではなく、生欠伸をかみ殺す声である。
ヤナを起こそうと思ったアレスだったが、もう一つのベッドは空だった。寝具が綺麗にたたまれている。どうやら既に起きて行動しているらしい。イードリを出てから帰ってくるまでの間、ヤナの実務的な能力を嫌というほど見せつけられて己の事務処理能力の無さにがっくりきているアレスは、今ここに彼女がいない理由は、何らかパーティにとって有益なことをしてくれているからだろう、と推測した。
もぞもぞ動き始めたエリシュカを横目にして部屋を出ると、隣室にノック無しで突入した。男に遠慮は無用である。オソとルジェは、どちらも弱々しい声を出して、あと数時間は優に寝ていたいような様子を見せたが、アレスは容赦しなかった。強引に毛布をひっぺがして、「起きろ!」と強い声を出す。二人は、二日酔いの酔っぱらいのようにふらふらと起き上がった。
「三分で準備して降りて来い」
アレスの計算では、仮に追っ手がかけられていた場合、昨夜から今朝にかけて半日ほど休んだことによって、そろそろ追いつかれることになっている。ここから先、ヴァレンスまではヨーイドンのかけっこになるだろう。できるだけフライングして距離を稼いでおきたい。
アレスは階下に降りると、まぶたと鼻にスタッドを留めた宿の主人に、出発する旨を告げた。料金は既にヤナ・パパによって支払われているので、出ることを告げるだけでよい。
「まだ市門は開かねえと思いますがね」
不良中年はぶっきらぼうに言った。朝が白々と明けてくる頃にならないと市門は開かない。
「開くまで待つさ」
アレスは肩をすくめた。
門までゆっくりと行く頃に夜も明けるだろうし、それにどこかで食料を調達しなくてはならない。そんなことをしているうちに調度良い時間になるだろう。アレスはこの辺にある食料品店の場所を訊いた。
「でも、まだ開きませんゼ」
近所の店の場所を答えたオヤジが付け加える。
「なにもかも開かないんだな、この町は。まあ、門はともかく店の方は何とかするさ」
アレスは礼を言った。
外から宿の中に入って来たヤナとはち合わせたのはそのときである。
「気が変わって、やっぱりパパのところに帰ったのかと思った」
アレスが軽いジョークを飛ばした。
「そんなに帰したかったら帰ってやってもいいけど、今、馬車に積み込んできた食料とその他もろもろは返してもらうぞ」
ヤナは余裕のある笑みを浮かべている。
アレスは自分の想像が見事的中したことを認めると、二度と「帰れ」などと言わないということを、大地の神に宣誓した。
「オヤジのつてで回してもらったんだ。金は立て替えておいたから、後で返してくれ」
「ヤナがモテない理由が分かったよ。その完全無欠さによって、男が劣等感を抱くからじゃないか?」
「そんな男に興味はないから大丈夫だ。いつでも出発できるぞ」
そこでヤナはしげしげとアレスの頭を見た。
「髪くらい梳かせよ、アレス。後頭部がかなりはしゃいでるよ」