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其来(それから) ~ 闇に蠢く光の蟲の場合
作者:
※東方Projectの二次創作物です。嫌いな方はごめんなさい。
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 蟲のこえがきこえた。
 
 十五夜に心奪われた麓の森は、気を失ったように押し黙っていた。獣の息づかいもない。虫の鳴き声もない。草木の囁きもない。皆十五夜に魅せられ、焦がれ果てたように森はしんとしていた。
 めいめい勝手に腰を据えて月見を楽しむ(ぶな)の木々のひとつ、茣蓙を敷いたような(すすき)原に身を潜めて、リグル・ナイトバグは独り、目を瞑っていた。彼女独りだけが、(たけなわ)な月見の宴から遠い。

 傍目にはまるで蟄虫(ちっちゅう)のごとく外の世界を隔てて居るけれど、冬籠りをしているわけではない。まず季節は秋も只中で、仲秋のある日。場所は月明かりをたたえた森の中で、紅葉の鮮やかな処だ。冬支度さえまだ早い。それにこの名月に対し、お尻を向けて惰眠を貪る程、面目無い事もないだろう。彼女を包む芒でさえ、そのおぼろげな頭を垂れ、風流の感慨にふけっている。
 そもそも、寝床が恋しい季節の穏やかなねぐらなのであれば、冬眠でなくとも体も顔も緩むのが、情というものだ。ところが今の彼女には、その片鱗も見ることはできない。彼女の躯は躍動する刹那の静止のごとく固い。(かお)は獰猛な肉食獣のそれのごとく険しい。時折口元から漏れる呼気が、唸りを伴い生じることから、心中穏やかならざる事は明らかだ。今この場に居る意思ある者のうち、最も活動的なのは誰かと問われれば、彼女を置いて他に居ない。
 
 彼女がそうして居る理由は今し方、隠世(かくりよ)の幽霊に襲われたことによる。正確には彼女から、獲物の人間と定めて襲ったのだけれど、その相手は全く元気な幽霊だった。
 しかもそれは、ここ幻想郷に住む者の例に漏れず強敵だった。彼女はそれの猛攻に抗う術なく、ラストスペルを隠れ蓑にして姿をくらまし、ここで災厄の過ぎるのを待っていた。身じろぎもせず、呼気も伏せ、自身を草花か木石のようにして、胸の内に芽生える焦燥を黙らせた。
 
 迫り来るものか過ぎ行くものかすら判然としないまま、時ばかりが過ぎていく感覚を、彼女は心の内に覚えた。固く閉じた目はとても開けられそうになく、食いしばる歯の疲労に舌下は痺れ、伏せられた呼気に鼻も解らず、こわばった体は風の感触すら定かでない。そんな無感覚のなか、心の内に只きち、きちと、積算する時刻音ばかり響くのが、今の彼女の全てだった。
 安堵できるものが何もない。どころか、心の内の時刻音は、それが重なる度に、彼女のなかに余計なものばかりを積み上げていくように感じられた。
 居た堪れなくなった彼女は、残された聴覚を頼りとして、外界との繋がりに望みを賭けることにした。何事か変化があれば、それが心に新たな波紋を落とす。願わくば、それが彼女に心地良い波であるよう。
 
 そうして彼女は、まるで無音の外界に、僅かに、しかしはっきりと、蟲の(こえ)が聴こえるのを感じた。
 それは彼女にとって、不可思議だった。彼女は必死だったので、懸命にそれが何かを考えた。考えれば考えるほど、彼女の頭のなかは、浮かぶ言葉で天井をふさがれて息苦しくなった。なおも懸命に、それに意味を求めた。求めれば求めるほど、彼女の頭のなかは、こだまする言葉に渦巻かれて溺れた。さらに懸命に、それが何をもたらすものか案じた。案じれば案じるほど、彼女の頭のなかは、溶け落ちる言葉に淀んで(くら)くなった。
 その聲は、何も答えないように思えた。ただ何言かを紡ぐばかりの木偶の坊のようで、彼女は途方に暮れた。

 だから彼女は暗澹(あんたん)たる思いで、それを聴いた。互いの掛け合いのようでもあるけれど、まるで支離滅裂で。一方的な繰り言のようでもあるけれど、まるで理解不能で。心からの謳歌のようでもあるけれど、まるで意味不明で。そこに論理だの脈絡を添えようとしても、まるで我楽多なのだと思って、考える頭を放り投げて聴いた。ところがそうすると、音は次第に聲に変わって彼女の心に落ちてきた。
 それは言葉ではなく、言霊のようだった。だから彼女は本能的に、その聲自体が意味そのものだと知った。ただ、音としての意味はなく、聲としての感情のみがある。それは理性から解き放たれて、本能で感じるべきものだった。最も根源的で、全く原始的なものだった。
 
 それは彼女の心に、十五夜に心奪われて正体を無くし、まるで憑き物か化かし合いのように混沌を極めたごとくの、宴のように映った。だけれど彼女には、一般に言うところの宴とは趣を異にするように感じられた。宴というのは、本来は落ち着いた気持ちで楽しむものだ。ところが蟲の聲のそれは、より活動的で、より荒々しく、脈動しているかのようだった。
 
 そうして聴いているうちに、彼女はもう先の荒廃した心の内が、この何とも言いようの無い聲に、洗い流されてしまった事に気付いた。固く閉ざされた目を開け、口元を緩ませ、緊張をほぐして、ようやく落ち着きを取り戻すと、まずは辺りを一望して、身の安全を確認した。
 そこにはもう、先の物騒な幽霊の気配はなかった。彼女はここにきてようやく安堵し、肩を落としてひとつ長い溜息を吐いた。
 
 ああ怖かった。幽霊なんて、そんなに珍しくもないもんだと思ってたけれど、先のは一体何だったんだろう。ただ冷やっこいだけの奴じゃなかったなあ。包丁を長くしたような棒っきれで追い回してきたのは、ありゃあ怖い。他の同胞達にも十分言っておかないといけない。でも、みんな私と違ってあんまり頭が良くないから、説明して理解してくれるかな。一度、数匹連れて行って、目に焼き付けた方が良いかしらん。
 
 つうと、背筋に厭な汗が伝う気がした。止せば良いのに、彼女は数匹の同胞を連れて先の剣呑な幽霊を追い、一刀の下に斬り潰されるさまを想像した。
 
 いやいやいや、とても駄目だ。間違いない、きっと斬り潰されてしまう。百歩譲って、斬られるのについては、まだ良い。同胞達にも足の節から先を無くしても健気にしているのが居るし。首やお腹でなけりゃ、最悪でも何とかなる、と思う。
 ただ、潰されるのはいけない。あれは、怖い。たった一瞬の事で地面に磔にされて、何が起きたのか確認もできなくて、それでも一切が終わってしまった事に気付いてしまうのが、怖い。虫は生命力が強くて、それにきっと気付いてしまうのだから、なおいけない。それでも、体全体をやられてしまったのならまだましだ。首だけとか、お腹だけとか。生きていられる時間が長くなればなる程、より怖い。
 ああ、いやだいやだ、もう考えるのは止そう。
 
 苦渋の色を浮かべた顔で、首を左右に振る。ふい、ふいと、彼女の触覚が右に左に振れて、怖い考えを秋の夜風の感触で塗り替えてくれた。それだけで彼女は、先程までの考えなどすっかり忘れて、物憂くも懐かしい気持ちになり、月を見上げた。
 月明かりが煌々として、墨染の染め抜きのように、格式高く冴えていた。墨汁で満たされたような空には星も見えず、たまに薄墨が月に掛かる以外は何も無い。それならこの森も等しく漆黒に染められてしまいそうなものなのに、森は黄金とも白銀ともつかない月に照らされて、それと同じ色に染まっていた。

 このあたりは樗が多く自生しており、紅葉の燃え立つような朱と黄が、月夜によく馴染んだ。もう葉も散り始めているのか、地面にはふかふかとした落葉が敷かれて、絨毯のような心地良さを与えた。他にも桂や唐松、水楢(みずなら)なども生えているけれど、樹木にそれ程明るくない彼女にとっては、ここは樗林なのだという認識しかしていなかった。
 なにぶん、団栗が沢山落ちているので、同胞達が生活するには実に適している。そして団栗といえば樗だろう、という認識のため、彼女はここには樗が多く自生しているのだと思っている節があった。
 彼女の立つ場所には、一様に腰元あたりまで伸びた芒が生えていた。時折流れる風に体をあずけ、気持ち良さそうに体を揺らす姿は、地面に降り立った雲海のようでもある。紅葉と月明かりに染まった色合いが果敢無くて、好い。黄昏に染まった夕焼け雲のようなそれは、そよ風に煽られるたびにゆら、ゆらと彼女の心を揺らし、少しの侘びしさをたたえて胸の内を通り過ぎた。
 
 うん、よくよく見れば、このあたりは凄く好い。折角の十五夜なんだし、厭なことは、ぱあっと忘れて、今夜はここでお月見をしようかな。ああでも、疲れたから少しお腹も減ったなあ。どうしようかな。
 
 残念な事に、彼女はあまり頭がよくなかった。だから、怖い考えを止すのと同時に、彼女は彼女だからこそ為し得た邂逅(かいこう)についても、その意図を深く考えることもなかった。
 
 
 ◇◇◇◇◇◇
 
 
 その日の夜は、ずいぶんと長いように感じた。
 
 ひとしきり幽霊への恐怖に怯え尽くしたリグル・ナイトバグは、疲れてお腹が減ったので、一度ねぐらに戻り、秘蔵の蜜壺を持って神社の裏山にある水場までやって来た。
 境内裏から入ってすぐに湖がある。けれども、そこの水は不味い。特にこの季節は落葉がひどく、湖の中で枯葉が泥状に腐食して沈殿するため、少し渋くなるのだ。見栄えからして、湖というよりは沼と称したほうが正しいようにも思えた。

 それより何より彼女は、そこに住むヌシが怖いと思っていた。永く生きた亀のようなのだけれど、いつでも全く同じ場所に同じ向きで居座り、甲羅は厚く苔生し、長く髭を伸ばした姿が不気味なのだ。二言三言会話をした事があり、実に温厚なのを知ったのだけれど、とにかく表情が見て取れない。あと、起きているのか寝ているのかもよく解らない。生きているのか死んでいるのかもよく解らない。少なくとも彼女には、話をしている時に、とりあえず生きてはいるみたいだな、と感じられた程度だ。
 その亀に話しかけて以来、彼女はあえてこの湖を縦断しようとせず、少し大回りをして、水源まで辿ることにしていた。
 
 水源の水はとても澄んでいた。森に囲まれて隠れたように佇む、切り立った岩場と苔の合間から、僅かずつ滲み出るように湧いていた。その清水が、彼女にはすこぶる美味しく感じた。水質とか成分とかはよく解らないけれど、彼女にとってここの水は、とても甘く、懐かしく、力強く感じた。
 彼女が物心付いて幾星霜、これまで幻想郷の様々な場所の水をたしなんできたけれど、ここの水ほど美味しい場所を彼女は知らない。それはもちろん、土地ごとに水の味は違うし、余程ひどい水質でない限りは、どの土地の水も特色があって美味しい。特に絶品と思われる水場も幾つかあり、彼女はそうした場所へ、気の合った蛍仲間を連れて飲みに行くこともあった。
 だけれど、ここは彼女だけが知る彼女だけの穴場で、未だ誰にも教えたことは無かった。何というか、ここは彼女独りだけが居ることで落ち着くことができ、水を美味しいと感じられる場所のような気がした。そして、この場所を他の誰かに覗かれてしまうという予感が、彼女に少しの気恥ずかしさを感じさせた。
 もしかしたら、彼女の生まれ育った場所の水なのかも知れない。でもそれは彼女が物心付く前の事なので、本当のところは彼女にも、それ以外の何者にも解らない。実に曖昧な感覚だけれど、それは彼女が持つ間違いのない感覚だったので、その感覚に正直に、ここを彼女だけの縄張りとしていた。
 
 近場に生える熊笹の葉を丸めて容器にし、岩清水を満たしてから、彼女は岩場に腰を下ろしてひと息吐いた。まずは、ゆっくりと心を落ち着かせて、平生の通りに穏やかな気分を作ることだ。
 ややあって、彼女は心が落ち着いたので食事を摂ることにした。でも、汲んだ清水をひと息に飲み干すようなことはしない。まずは蜜壺の花の蜜をひと粒、舌に乗せてゆっくりと転がす。花のふくよかな香りが口内に十分に満たされ、とろけた蜜が舌を包み込んだ頃合いで、清水をちびりと口に含む。
 それでもまだ飲み下さない。少しの蜜と少しの清水を、舌下に忍ばせて馴染ませる。そうして鼻を通る甘い芳香を楽しんだ後、喉に転がして息を吐く。吐き出す吐息にもかすかに蜜の香りが含まれているので、ゆっくりと、長々と息を吐く。食事では余韻を楽しむゆとりも大切なのだ。
 
 うん、美味い。今年集めた蜜も良い出来だなあ。今年のは香りが薄いのに、甘味がしっかりしているな。これは白詰草をベースにしたブレンドかしらん。菜の花も甘味が強くて良いけれど、あれは少し香りがきついんだよね。上質の岩清水と合わせるには、こういう、ほのかな香りのが嬉しいわね。
 
 などと評したかはさておき、彼女はそうして数刻を掛けて、猪口に一杯程度の岩清水を堪能した後、蜜壺をねぐらに戻して、また麓の森へ姿を現した。
 
 時間にして、およそ日の出近い刻限のはずだ。なのに、月はなお墨染の染め抜きのごとく煌々と冴え、空は墨汁で満たしたごとく暗澹としていた。あわよくば十五夜を楽しもうと思っていた彼女も、さすがにこれは妙に感じた。辺りは先程とは打って変って、ずいぶんと賑やかになっていた。
 森が落ち着きを取り戻し、虫や小動物が秋の夜長に歌うのは、常の事であるのであまり気にしなかった。それよりも遥か()の方にある竹林で、誰かが弾幕を展開しているのが気になった。彼女は先の乱暴な幽霊のことを思い出し、身震いした。
 
 そういえば、先の幽霊は、ぜんたい何であんなに急いでいたんだろう。夜中の散歩にしては、行き先があるみたいだったし。ん、まあ、そのお陰で私は命拾いしたんだけど。多分、本当に用の無い散歩だったら、言葉通り斬り潰されてたんだろうなあ。厭だなあ。
 また光った。花火みたいだ。いや、星空かしらん。時折長く伸びるのは、流れ星かな。あんなのとやり合ったら、私なんて炭にされるだろうな。潰されるよりは良い、のかな。いやいや、違う。ううん、どうにも、この時期は仲間が眠りに就くことが多いから、悲観的な気持ちになっていけない。それにしても一段と凄い戦いみたいだ。何かの異変、なのかな。
 
 そう考えると、今宵の月は何だか妙な感じがした。暦上、今宵は俗に中秋と呼ばれる。時期もあいまって、丁度真円の名月が拝める、はずだ。だのに、何かが欠けていた。それは幾望(きぼう)よりも望月に近く、しかし望月に満たないような。あるいは既望(きぼう)のようで、そうでないような。あるいは全く目に見えない何かが欠けてしまったような。それは妖怪でなければまず気付くことの無い、しかし明らかに満月に満たない何かだった。
 彼女はその月を、じっと見つめた。まるでそれが月ではない何かである事を悟り、それが何なのかを見定めるように、ただ見つめた。そうすると、いつしか彼女の目には、それが古代文字であしらわれた魔方陣か何かの、全く得体の知れない模様のように感じられたので、彼女は思わず目を疑い、瞬かせてこすり、改めてそれを見返した。
 
 ぞくり。
 
 それは多分、月なのだろう。常の通りにあざも見受けられるし、おできのような凹凸も見受けられる。照らす月光は青白いくせに、自身は黄金とも白銀ともつかない、生意気な色をしている。ただ、どういうわけか、貌が違う。彼女はそれを何故か、若かりし頃の月なのだと思った。そしてまた、そんな莫迦な、とも思った。
 
 ざわり。
 
 さらにこの月は、貌だけが若返って、その実は虚ろな眼をしている。つまり、昔の月の活動写真を見ているような──煌々と照らす月光が、まるで月光の意味を成していない。今浴びている月光はとうの昔に過ぎ去っていて、今ここにあるように見えるのに実は存在していない。力強く注がれるように見えるその青白い光線に、彼女は全く力を感じられない。
 
 ぞくり。
 
 月には、人間の感じ得ない力がある。それは夜に生きる妖怪にとって、欠かせないものだ。人間が日光に恵みを求めるなら、妖怪にとっては月光がまさにそれだ。だから、日が常の通り朝に昇って夕に沈むごとく、月も暦の通りに満ち欠けを繰り返し、繰り返す日々を通して、あまねくこの地を照らしてくれなければ困る。いわんや、昨晩見た月が今晩になって若返るなど、全く困る。
 
 ざわり。
 
 影響はそればかりでない。彼女の同胞達は、日の光に路を照らし、月の光に刻を読んで生きている。月光が失われた今、同胞達はその場を動くことすら叶わない。
 そしてその状況が行き着く先は、癲狂(てんきょう)か、最悪、狂死か。
 
 きち。
 
 それは突然のことで、彼女は思わず耳を押さえてうずくまった。歪な月に心奪われて正体を無くし、まるで憑き物か化かし合いのように混沌を極めたごとくの、宴の聲。支離滅裂で、理解不能で、意味不明な、最も根源的で、全く原始的な聲。そこここに在り、そこここに亡い、誰しも知っており、誰しも識らない、等しく必要で、等しく無用の聲。それが一斉に、何事かを彼女へ語り出した。
 いくら耳を押さえても、構わず彼女に這入り込んだ。いくらうずくまって体を強張らせようとも、構わず彼女を打ち負かした。
 
 彼女はたまらず、森を駆け出し逃れようとした。けれども、その聲は一向に止むことなく、ただ無表情に、ただ単調に、ただ自動的に、彼女の心をさいなみ続けた。終いに彼女は、これが何者かの聲なのか、それとも自分の声なのかすら判然としなくなり、狂った月の下、狂った聲に塗れて、狂った声をあげて、
 昏倒した。
 
 蟲のこえがきこえた。
 
 
 ◇◇◇◇◇◇
 
 
 リグル・ナイトバグは、数日の間をぼんやりと過ごした。食事は摂らなくても、体内に栄養の蓄えがあるので特に問題はなかった。
 どうやってねぐらに戻ってきたかも判然としないけれど、彼女はここ数日間を、露草の繁る寝床の上で過ごした。幾星霜を生きたのかも判らない水楢の古木の、うろにまで侵食した露草の群生は、彼女の体を安らかにさせた。けれども、あの夜から彼女の心は、自責と後悔の念で満たされて、その動きを停滞させていた。
 
 うろの出入口から、外の景色はある程度見て取れた。あの不気味な月夜がいつ過ぎたのかは判らなかったけれど、いつしか日が昇り、月が昇って、幻想郷には日常が戻ってきた。彼女が考えたような最悪の事態には至らず、同胞達は今日も、日の光に路を照らし、月の光に刻を読んで過ごしていた。あの夜、迷惑な幽霊が去った後に騒ぎ始めたのは、その時限りの恐慌だったらしい。その事については、彼女は安堵していた。
 だから、今彼女の心を支配しているのは、自責と後悔の念だけだった。それはあの、理解し難い聲を聴いてから、ずっと続いていた。聲の意図するところは、やはり判らない。ただ彼女には、これまで生きてきたなかで、何故それを聴いてやる事ができなかったのか、という無念だけがあった。
 多分それは、彼女が妖怪になったときに、一番しなければならない事だったに違いない。彼女は虫を操ることに長けてはいるが、本来は蟲を操る程度の能力を持つ者だ。
 
 蟲と虫は、本来が違う。蟲は妖怪変化を含む生物全般を指し、虫は蛇などの小動物を指す。言葉としても明確に分けられていて、語源から違う。ただ、時の流れが言葉の意味を曖昧にさせ、意味をこそ重要視する妖怪の性が、彼女に自らの領分を見失わせた。
 彼女は以前、紙魚(しみ)に幻想郷縁起なる書物のことを聞いたことがあった。そこには、古来、蟲の妖怪が鬼や天狗と並ぶ恐怖の対象だったと記されていた。過去形だ。今は違う、とその書物は言っていた。
 それを聞いた時の彼女は、何の考察もせず、単純に怒りをあらわにした。虫を司る大妖をつかまえて、何が怖くないものか、と。折しも人里では幻想郷縁起の改版が執筆中とされていたので、それが発刊されるまでには、何としても虫の威厳を回復して、恐るべき大妖として里の人間共に知らしめなければいけない、と決意を新たにしたことを思い出した。面目無いことに、彼女はたった今それを思い出した。

 だけれど、それは今にして思えば本当の事だった。彼女は、自分の能力が何であるかを、完全に履き違えていたのに他ならなかった。恐らく彼女が知識を蓄え、経験を身に付け、本気を出したなら、何者も抗う術はない。蟲を操るとは、すなわち全ての生物をその手中に納めることに等しい能力なのだ。それを彼女は完全に失念し、記憶していた能力すらも間違った解釈で使役していた。
 巷間でいうところの虫を操るのに長けたところで、どうだというのか。蟲を操る妖怪が弱い、と言われても詮無い事だ。それは全く、彼女の無知なるがゆえの自責だった。

 そして、それが解ったところで時すでに遅く、彼女に挽回できる余地もない事にも気付いた。今は、泰平の世だ。妖怪が人間を喰い、人間が妖怪を討つ関係も、もはや形骸化して久しい。スペルカードルールも手伝い、人間と妖怪の関係は全く穏やかなものになった。何よりこの幻想郷を囲う結界が、様々な理由で彼女を自由になどさせない。異変としての許容を超える力が、この幻想郷に在り続けることを許すはずがない。
 平和とは、弱者を弱者のまま、事もなしとすることだ。ここにおいて蟲は、そこここに在り、そこここに亡い、誰しも知っており、誰しも識らない、等しく必要で、等しく無用なものとなり果てたのだ。それは全く、彼女の愚図なるがゆえの後悔だった。
 
 彼女の疲弊した心は、そこまでを考えて一旦休息した。彼女は多分、これまでも蟲からの警告を聴いていたのに違いない。けれど、これまで永く生きてきて、その意味に疑問を抱くことを放棄していた。今回初めて、生物以外の相手と対峙して、ぼろくそに敗北したことで、改めて自分の至らなさを感得した。そして、同胞達が必要とする月の異常に気付いて、改めて蟲のことにも思い至った。
 ただ、結果としてはそれだけの事だった。前進も後退もない。結局彼女が無知であり愚図だという結論を得て、哀しい気持ちになっただけだ。

 けれども、解けたものはあったし、得たものもあった。後ろ向きな考えではあるけれど、つまり現状は現状のまま、今後もやはり今のまま、ということだ。そうすると、自責の念も後悔の念も、するだけ無駄なことを彼女は悟った。もし彼女が本当に妖怪の頂点に立つことがあるとすれば、それは幻想郷が崩壊する時なのだろう。その時はその時考えれば良い。
 数日を要してようやく、彼女は自分の気持ちにけじめを付けた。総論としては非常に間抜けな気もするが、どう仕様もないことに対する結論など、大概がところそんなものだ。これ以上うじうじと悩み続けても詮無い。自信をなくして妖怪を辞めるなど、それこそ詮無い。どうせ誰に迷惑のかかる悩みでもないのなら、彼女はやはり彼女の持つ間違いのない感覚に、正直になることが正解のように思えた。
 
 ただそんな彼女も、一つだけ、明確な意思をもって遂行しようと考えることがあった。だから、彼女は数日振りに寝床から這い出して、久々の月夜に身を晒した。
 数日間横たわっていたためか、体の節々が痛んだ。寝床である水楢の大木に負けじとばかりに、一つ伸びをして体をほぐしに掛かると、途端に頭のほうがぐらついた。目の回る感覚に足をよろけさせ、幹に手をついてうつむき、暫し耳鳴りの遠退くのを待った。
 心なしか、風か冷たいように感じた。それでもまだ秋の盛りなので、同胞達は元気良く秋の夜長を満喫していた。そして少し、彼女のことを心配してくれていた。
 
 近場の小川で簡単な食事を摂り、彼女はまた芒原に立っていた。月夜に心奪われた麓の森は、あの晩よりも安寧としていた。
 樗は今夜も朱々と紅葉した手指を広げて、澄み渡った月夜を仰ぎ見ていた。侘び寂びに長けた芒達も、互いに今宵の月を評するように、さやさやと囁き合っていた。同じように同胞達も、思いの丈を月夜に詠っていた。
 森を照らすは更待月(ふけまちづき)で、今宵もまた墨染の染め抜きのごとく冴え渡っていた。空は墨汁で満たされ、けれども今宵は薄墨が月に染むことはないようだった。
 
 蟲のこえがきこえた。
 
 うん、解っているよ。けじめは付けなきゃ。色々思うところはあったけれど、やっぱり私は、蟲を操る程度の能力を持つ妖怪だから。今がどうで、これからどうなるかは保証できないけれど、少なくとも私達は私達らしく、生きたいように精一杯生きて、後ろ暗いことなんて無しにしたいもん。
 
 その聲は、俗にいう虫の知らせというものに違いなかった。森の木々を数本隔てて、あの晩の幽霊──半人半霊が、こちらへ向かって来ていた。
 何をしに来たものかは判らないけれど、きょときょとと、しきりに辺りを見回しながら向かってくる。落とし物か、探し物かはよく判らない。たまに、夜雀、夜雀、とつぶやいている。けれどもそれは、覚悟を決めてここに立つ彼女にとって、とりあえずどうでも良かった。
 
 何より、舐められっ放しじゃあ厭だもんね。
 
 一匹の蛍の襲撃を開戦の火蓋に、彼女は半人半霊を伴って秋の夜空へと飛び出した。
 
 
 
 「じゃあ、斬り潰す前に私の邪魔をした理由を聞こう」
 
 結果は、あの晩と特に変わりはなかった。彼女は彼女から、その半人半霊に襲い掛かり、半人半霊は強敵だった。
 彼女は芒原に大の字になって、半人半霊を見上げていた。いつ斬り潰されてもおかしくないこの状況下で、彼女は全く慄然としていた。歯の根はどうしようもなく合わないし、手足はわなないて止まないし、喉はすくんで苦しいし、全身は冷たい汗で凍て付くようにおののいた。鼻も涙も口元も、だらしないくらいに流れた。
 半人半霊は、獲物の長刀を彼女の首元に定め、詰問していた。その全てが一刀の太刀のようで、気色も、眼光も、呼気すらも鋭い。彼女のことごとくを刺し貫いて磔にしたごとく、彼女をこの場に固定すると同様、半人半霊も動じなかった。貌無き表情で彼女を見下し、刃に問い、刃に答えを観んと、そうしていた。
 
 結末は最初から変わらず決まっていた。ただ、勝負だけが着いていなかった。彼女の目だけは、この現状でなおしっかりと今を生きていた。
 
 実のところ、彼女には決着など、どうでも良くなっていった。ただ、彼女はその生を、他の誰にも舐められないよう、堂々としたかった。そして、それを後押ししたものが、他ならぬ蟲の聲だった。
 蟲の声に意味はない。けれど、聲は彼女に、蟲の宴を映してみせた。その聲に彼女は、泰然たる在り方で、自若たる立ち方で、悠然たる生き方を感得した。それは彼女が持つ間違いのない感覚だったので、その感覚に正直に、彼女は彼女足ることを求めようとした。
 だから、生まれて初めて、蟲を操ってみせた。自身に内在する蟲を、聴こえる聲に合わせて、目の前の強敵にぶつけてみせた。
 残念な事には、いくらそうして気張ったところで、全く変われるものでもなかった。だから、彼女はやはり生命を惜しく感じた。自分が仕掛けたことにも関わらず、やはり惨めに震え、抵抗の術無しを体現するよりなく息を呑んだ。
 けれど今回は、後悔だけはしなかった。だから彼女の目だけは、この現状でなおしっかりと今を生きていたし、逃げることなく半人半霊を見つめた。
 
 そうして、ただ震える声を振り絞って、やっぱり強いや、と笑ってみせた。恐怖と苦悶に歪んだその表情は、けれど笑うことだけは許してくれた。
 半人半霊は暫く黙ってそうしていた。ややあって何事か悟り、長刀を納め、一言を残してその場を後にした。
 
 「貴女も、な」
 
 芒原に体を預けた彼女の頬を、秋風が撫でた。季秋も近付けば、やはり夜風は冷たくなったようだった。けれど、今の彼女には、それが十分な温かみのある風に感じた。
 彼女は最後に遺された言葉を深く、繰り返し噛み締めた。そうして彼女は、初めて自分に満足したことを感じた。
 
 蟲のこえは、きこえなかった。
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