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初恋

作者:赤羽 一郎

       一

 昼を少し過ぎた頃になって小学校の教室が急に陰り始め、窓から見える空に雨雲が広がると、僕は決まって勉強の手を止めて曇天の空を眺めた。僕の住む町は標高が高く、そのせいか時に空がとても低くなり、雨雲が今にも落ちてきそうな高さに漂うこともあった。
 小学生であった僕は、五年生になった時分から、そんな景色を見ると、これから何か起こるのではないかと胸を躍らせるようになった。校舎の前に植えられた桜の木が風に吹かれると、その思いは一層強くなった。葉が風を受けてざわめく音は、まるで何事かを語り合っているように聞こえた。
 すっかり暗くなった教室では、級友が教師に指示されて教室の電灯を点ける。それでも、僕はずっと窓の向こうを眺め続けた。僕の関心は悉く曇天の空に注がれていたのである。教師はうつろに窓の外を見ている僕を見つけては、
「小林君、次、読んでください」
 などと、指を指して意地悪に当てることがあったが、僕の耳は不思議と教室内の音を聞いていて、ちゃんと答えるものだから、教師は随分驚いたような顔をしたものである。
 そんな時、僕は少し得意そうに再び窓の向こうへと目をやった。
(こんな日は、どこか空気が妖しい。魔法のような力が働いているのに違いない。きっと何かが起きる前触れに違いない)
 と思っていた。
 しかし、僕の胸騒ぎにも似た期待はいつも裏切られた。終業時間近くになって降り出した雨が覆う通学路を、学校指定の黄色い雨傘を差して、それをたまに手の平でくるくると回してみては、友人と帰宅することで一日は終わるのであった。僕の期待は、いつしか祈りにも似たものとなっていった。
 そんな空想に一人耽る僕は、はたから見れば夢見がちで内気な少年という印象であっただろうが、実際は違って、すこぶる負けん気の強い少年であった。僕は、何事も級友に遅れをとることを潔しとしない性分であった。そのため、運動も勉強も人並み以上に出来た。誰かがテストの点数を自慢をすれば、次はその者にテストの点数で勝つことを目標として勉強し、常に勝った。学校行事であった競歩大会では、ただ、負けるのが悔しいという思いだけで好順位を得た。勉強や運動以外のことであっても同様で、例えば好きな子が出来ると、どうにか好きになってもらえないかと人目も気にせず話しかけた。わざと嫌がるような事さえしてみては、一生懸命に気を引こうとした。そして、やはり努力の成果は得られた。ただ、恋心に関しては、級友が面白がって騒ぐのが嫌だったのと、好きな子がころころと変わったため長続きなどした試しがなく、淡い思い出を重ねるのみであった。
 思えば少年の世界は未だ狭く、手を伸ばせば届くものばかりであったのである。幼い僕は、努力をして結果を出す経験を重ねるうちに、頑張ればどのような事でも人並み以上になることができると信じるようになっていった。

       二

 僕は六年生となった。上級生が卒業し、小学校で怖いものはもはや教師のみとなった。目の上のたんこぶが一つ取れたのである。意気揚々と、何事も楽しく感じられる毎日が始まった。ただ、六年生になっても僕の癖は直らず、急に教室が陰りだすような日には、うつろに曇天の空を眺めていた。
 新学期が始まってから数ヶ月が過ぎた初夏のある日―あの、曇天の空模様となった日に―僕は下校途中で見慣れない少女を見かけた。少女は黄色い傘を差していたためよくは見えなかったが、歩く度に揺れる傘の下から横顔が見えた。色白で線の細い身体をしていて背が高い。白いスカートを、雨に濡れるのも気にしない様子でひらひらとさせて歩いていた。年頃は僕より幾分か下に見えた。
 小学校は一学年が三組ほどで成り立っていたから、同じ方角へ帰る生徒で歳が近ければだいたい皆、顔と名前が一致するものであったが、その子は見たことがなかった。僕は、きっと転校でもしてきたのだろうと一瞥しただけであったが、黄色い傘と白いスカートのコントラストがやけに脳裏に染み付いて、しばらく離れなかった。
 それから一ヶ月ほどが経って、毎週二回開かれる朝の全校集会で僕は再び少女を見かけた。全校集会は体育館で行われるが、その際、生徒達はステージに向かって学年毎に列をつくり並ぶ。少女は僕より二学年下の列に並んでいて、四年生であることが分かった。背が高いため、身長順に並んだ列の後ろの方に居て、丁度僕の真横、数メートル離れた場所に立っていた。僕はちらりと見て、
(ああ、あの子だ)
 と思った。大きな目と小高い鼻が印象的で、美形であると認識した。僕は、可愛い子が転校してくる、よくあるパターンだなと思い興味本位で何度も少女を見た。しかし、二学年も離れていれば接する機会など無い赤の他人のようなものである。やがて興味は失せて、僕はしばらくすると校長先生の講話に聞き入っていた。その日の講話は校長先生の小学校時代の思い出を織り交ぜた話であり特に面白かったのである。
 季節は既に真夏となっていた。体育館は扉を開け放たれていたけれど、とても涼しいと言えるような気温ではなかった。
 校長先生が講話を始めて十分ほど経ったとき、何やら四年生の列の後ろの方が騒がしくなった。たまに生徒同士がふざけてひそひそ話をすることがあったから、僕はそれが高じたのだろうと気にせずにいた。しかしどうも違うようである。校長先生が話をしながら首を伸ばして四年生の列の後ろの方を見ている。体育館の端に並んだ教師達の中から、四年生の担任をしている女性教師が、その列へと向かうのが見えた。
 僕はその時になって初めて横を向いて事態の如何を見た。そこには、少女が男子生徒の背中をさすっている姿があった。どうやら男子生徒は貧血で倒れたらしく、体育座りをして頭をうなだれていた。体育館に並んだ小学生達の列の後方には緊張が走り、少しくざわついていた。僕も初めは男子生徒の容体を気遣ったが、間もなく少女の姿に目が釘付けとなった。
 少女は、膝を抱えるように座って男子生徒を介抱しようとしていた。眉間に皺を寄せて、困惑した表情をしていた。その姿はとても可憐であった。それに加えて、僕は深い優しさを見た。自分でも不思議な感覚で、狐につままれたように、ただ呆然と少女を見ている僕が居た。

       三

 それからというもの、僕は少女に心を奪われるようになっていった。全校集会が開かれる日になると、僕の胸は躍るようになった。体育館は、僕が少女を至近距離で見ることができる唯一の場所であった。たまに僕の視線に気付くのだろうか、少女がこちらを見る事があったが、その時など、僕の心は歓喜したものである。この頃には、自分の恋心を嫌でも自覚するようになった。
 しかし、二学年離れ、面識も無く、名前さえ覚束ない関係を僕にはどうすればよいのか名案などなく、次第に大きくなる感情に悩む日々を送り始めた。ただ、僕は努力をすれば大概のことは何とかなると信じていたから、またしても、それまでと同様に、どうにか少女を振り向かせようと決意した。
 分かっていることは、四年生で、帰る方向が同じということだけであった。僕は、少女が転校生である可能性が高いと考え、登校班毎に作成され各家庭に配られた名簿を調べてみることを思いついた。そして、昨年から今年の間に、新たに加わった女子生徒の名前を探した。果たしてそのような子は一人だけで、「M」という子だけであった。僕の住む地区の隣の地区に住んいることも確認した。
 次に、僕はMが属している登校班の班長を調べた。六年生にもなると、登校班の班長を務める生徒が多くなる。知り合いが班長であればMに近づくきっかけとなる。すると、伊藤君という隣のクラスの生徒がMの属する登校班の班長であった。僕はしめたと思った。伊藤君と僕は、小学校四年生のときにクラス替えが行われるまで同じクラスで、結構仲が良かったからである。そして、小学校で伊藤君を見かけると偶然を装って近づき、
「やあ」
 などと声をかけ話しかけた。話題など適当に作ればいい。僕の目的はMに関する情報であった。伊藤君は、僕が急に頻繁に声を掛け始めたからだろう、当初は怪訝そうな顔をしたが、以前よりも仲良くなるにつれ、そんな表情は見せなくなった。
 僕は伊藤君に、自分がMのことを好きだということを気付かれないよう、決して自分からはMの話をすることはなかった。小学校では、誰が誰を好きであるとかいう類の噂はすぐに広まり、火事のように野次馬がたかって二人の間を引き裂いて終わるのだ。僕はそのような袋小路にはまりたくなかった。僕のMに対する思いは、それまでの恋心とは全く違っていた。
 休みの日などは、一日中Mのことを考えた。布団に入っても、考えるのは、Mのことであった。しかし、名前以外ほとんど何一つ知らない。思い出されるのは、白く透き通るような肌と、大きな目であった。
 Mという存在は、僕に襲い掛かっていた。何をしても頭から離れない。胸が締め付けられるのを感じた。そんなことは今まで経験したことが無かった。
(これはきっと、あの曇天の日の魔法に違いない)
 と僕は考えるようになった。運命であると。そして、なんとしてでもMと話したいと願った。

       四

 伊藤君とにわかに親しくなった僕は、何かと理由をつけては伊藤君と下校を供にするようになった。伊藤君と一緒に居れば、Mが通りかかったとき顔見知りになれる可能性が高いと考えたのである。
 それでも、しばらくはMに会うことはなかった。そこで、伊藤君とただ一緒に下校するだけでは駄目だと観念し、歩く速度を速めたり、わざと遅く歩いたりして、Mと遭遇する機会をうかがった。Mがまだ下校していないと思えば遅く歩き、既に先に帰ったと思えば速く歩くのである。
 通学路の脇に並ぶ水を張った田圃で水切りをしたり、土手に生えた草の中から四葉のクローバーを探したりと、時間を潰す方法はいくらでもあったし、逆に、鬼ごっこや、草で造った船を水路に投げ入れて競争させてみたりと、時間を早める方法もたくさんあった。
 伊藤君にしてみれば、いい迷惑であっただろうが、何でも人並み以上にこなす僕の方が学校での立場が上であったためであろう、伊藤君は従順であった。自分のことしか見えなくなっていた僕が強引に伊藤君を振り回すうちに、そのような関係は強化された。
 殊勝な努力の結果、僕は果たしてMと遭遇する機会を何度か得ることが出来た。そんなとき、伊藤君は登校班の班長であるから、Mと親しげに話す。
「友達出来た?」
「出来た」
 伊藤君とMの会話を聞きながら、僕はその声を耳で必死に追った。そして、自らの計画が成就した興奮と喜びを胸のうちに隠し、何事も無いかのように隣を通り過ぎた。
 僕がMをまじまじと見る事ができるのは、ほんの数秒だけであったが、それでも、Mが僕の存在を認識したと確信した。「伊藤君の友人」として。
 何度かそのような僥倖を得たが、それでもなかなかMと話すことは出来なかった。緊張して話しかけられなかったのである。どうすることも出来ない僕は、Mといつも一緒に居る林さんという女子をからかった。石を蹴ったり、道端の草をむしっては投げたりというように。無論、林さんとの面識もほとんど無かったのだが、意識していないためいとも簡単にからかうことが出来た。僕は狡猾にも、隣に居るMが僕に嫌悪感を抱かないように注意しながら、林さんをからかう程度を調節した。それだから、僕がからかう姿を見てMは笑っていた。Mの笑う姿を見て、僕は天にも昇る心地がした。
 毎日、毎日、Mと下校の途上で会うことだけが楽しみになった。その想いは日に日に強くなった。そのうち、全く馬鹿らしい事ではあるが、一向に進展しない状況に対するもどかしさから、僕は自己流の、自分だけのまじないのような言葉を考案し、独り口ずさむようなことさえするようになった。
「神様、仏様、ご先祖様、悪魔様、どうかMと両思いになれますように」
 と、風呂の湯船に浸かりながら、毎日十回唱えるのである。八方塞の状況に精神が圧迫されるのを、そうやってしのいでいた。
 伊藤君は鈍感で、僕の気持ちに気付くどころか、僕が林さんを好きであると勘違いしたようであった。あまりにも僕が林さんをからかうからであろう。
「小林君てさあ、林のこと好きなんだろ」
 そう詮索する伊藤君に、僕は、
「あんな奴を好きになる訳ないじゃん」
 などと、本心から頑なに否定してみせたが、そう思われていても気が楽でよかった。僕は、自分がMのことを好きだという真実を、一寸たりとも、誰にも知られたくなかったのである。
 晩夏に行った修学旅行においても、僕はその秘密を守り通した。宿泊した旅館の一室で電気を消すとともに始まった、好きな女子の告白大会でも、僕は、友情と自分の恋を天秤にかけ、Mの名前を出すことはしなかった。ただ、友人達が次々と告白する中で、何も言わずには居られなくなり、好きな人の名前は六文字であるとだけ告げた。それは真実であった。精一杯の譲歩である。そうして何とかその場を切り抜けた。
 後日、その場に居た友人が、それを同級の三宅さんという、名前が六文字の女子に告げたらしく、三宅さんはやけに僕に優しくなった。
「小林君て可愛いところあるよね」
 三宅さんも僕に気があったのであろう、そのような事を言って、ことあるごとに僕を意識しているという態度を示してきたが、僕はその度に、
「何だよ」
 とぶっきらぼうにその場を流して逃げていた。三宅さんは、それを僕が恥ずかしがっていると勘違いしたのか、にたにたと笑い更に僕に絡もうとした。僕は、あの夜に、好きな子を告白しなくて良かったと心の底から思った。

       五

 何ら進展のないまま次第に季節は変わり始め、夕暮れの到来が早くなり、涼しい風が吹くようになった。小学校は、後期委員会の編成時期を迎えた。小学校には四年生から六年生までの生徒で組織する各種の委員会があって、前期と後期で皆どこかの委員会に属することになっていたのである。それは、清掃委員会や購買委員会、花壇委員会といったものであった。六年生にもなれば、委員長や副委員長級の役になることもあった。委員会は、毎月二回、開催日の最終時限を使って開かれていた。担当の教師はいるが、行事や業務の決定などの基本事項を除いて、運営は概ね生徒の自主性に任されていた。
 委員会が同じになると、当番やなんやらで、下級生と接する機会も生まれる。そのため、僕はMと同じ委員会になることを願った。もし同じ委員会になることが出来たならば、毎月二度、必ず同じ部屋に集まることになる。僕の存在をMは認識しているはずだから、二人の間が近くなる可能性が格段に高くなる。
 ただ、願うといっても手段など無い。僕は自己流のまじないを続けるだけであった。僕はこの頃になると、何ら進展しない片思いに疲れ始めていた。それだから余計に、何とかこのチャンスをものにしたいと考えた。伊藤君なら、Mがどの委員会に入るのか、もしくは入りたいのかを知っているのではないかと思い、何気なく聞くことは出来ないかと、僕は帰り道で何度も伊藤君から聞き出そうと試みたが、結局話の流れをつかむことは出来なかった。
 そして、苦悩のうちに属する委員会を決定するホームルームの日がやってきた。何らMの情報を得ることを出来ないまま、僕はその場に臨むこととなった。
 自己推薦により、一つ、また一つと、級友が属する委員会が決まっていく。僕は、ただじっと、Mはどれだろうか? もう決まってしまった委員会の中にあるのではないだろうか? などと考えながら、委員会と生徒の名前が書かれていく黒板を見ていた。焦りが募ったが、手を挙げてしまえばそこで終了となる選択に、僕は決断できないままでいた。委員会の候補は次第に数を減らしていく。その度に、僕は心臓を削られるような心地がした。
 しかし、やがて候補がめっきり減ってくると、僕は自分に嫌気が差してきた。こんな可能性の低い選択に賭けるなど、自分はなんて馬鹿で愚か者なのであろうかと思えてきて、次第に投げやりになった。
 結局、最後の二つ、三つほどに候補が絞られてから、やっと僕は手を挙げた。図書委員会であった。Mと同じ委員会になることはないだろうと諦めていた。図書委員会は人気が無く、誰かと競合することもなくあっさり決まった。
 僕は本が好きでよく図書館を利用していたし、図書館司書の先生が好きであったから、Mと同じ委員会でなくても自分は最良の選択をしたんだ、これで良かったんだと自分に言い聞かせた。
 その後行われた六年生の図書委員予定者の会議で、僕は皆から委員長に指名された。何事も人並み以上に出来たため、それはごく自然の成り行きであった。 
 僕は委員長になることが決まると、図書館司書の神山先生に挨拶に行った。神山先生が委員会の担当となるはずであったからである。高齢の者が多い小学校の教師の中で、神山先生はかなり若かった。二十代前半であっただろう。頻繁に図書館を利用していた僕は、図書館で、よく神山先生に声をかけてもらった。
「小林君、漫画ばかりじゃなくて、字も読まなきゃ駄目だよ」
「漫画にだって字があるじゃん」
「絵が多いでしょ」
 僕は伝記物の漫画が好きで、古今東西を問わず片っ端から読んでいたが、神山先生の忠告以後は、小説なども借りるようになった。そんな僕を見て、神山先生は内緒で飴玉をくれた。
「本は心のダイヤモンド」
 というのが神山先生の口癖で、図書委員は皆、自然とこの言葉を覚えた。生徒にも図書にも愛情を捧ぐ先生であったから、皆に人気があった。昼休みなど、貸出カウンターの奥にある神山先生の机の周りには、必ず二、三人の生徒が居て、楽しそうに話す姿をがあった。
 図書委員長として事前に挨拶に来た僕を神山先生は随分と誉めてくれた。僕は、やはり選択は間違っていなかったと自分に言い聞かせた。

       六

 第一回後期図書委員会の日、僕は会場となる教室にわざと少し遅れて入った。委員長としての威厳を示そうと思ったのである。教室の前方にあるドアの前で、教室内の様子を伺おうと聞き耳を立てた。ざわついてはいるものの、皆委員会が始まるのを待っているといった様子である。僕は引き戸を力強く開けて、足早に教壇の机の前へと歩いた。持って来たノートをさも静かにしろと言わんばかりに音を立てて机に置くと、教室は一気に静かになった。
 僕は副委員長となった隣のクラスの横道君を見つけると、手招きをして呼びつけた。
「そろそろ始めようか」
 と、委員達の視線を感じながら言った。横道君は緊張している様子で、少し頷いて所定の場所に腰掛けた。
「それでは、これから第一回図書委員会を始めます」
 落ち着いた声で僕は言い、ゆっくりと教室の右隅から左へと目をやり、委員達の顔を睨み付けるように見た。委員長としての威厳は十分であった。教室は静まりかえったままである。僕は手ごたえを感じながら、なおも視線を動かそした。そして、教室の左隅を見たとき、僕は自分の目を疑った。
 そこに、ちょこんとMが居たのである。Mは教室の左隅に座ってこちらを見ていた。一秒間ほど、僕の身体は凍りついた。「まさか、そんなことが!」僕は心の中で叫び、唾を飲み込んだ。目は泳いでいたに違いない。しかし、完全勝利であったからであろう、僕はすぐに自分でも驚くほど冷静になった。そして、委員会をつつがなく進行した。Mの視線がずっと僕の方へ向けられているのを感じながら。
 それから僕とMが仲良くなるのに時間はかからなかった。僕はMに、上級生として、委員長として、努めて優しく接した。もちろん恋心は隠していた。Mもそんな、理由もない様子で優しく接する僕に懐き、二人はすぐに冗談を言い合う仲になった。 
 小学校の図書館では、図書委員が朝、昼、放課後と、交代で図書の貸し出し業務に従事する。僕は、Mが当番の日には何食わぬ顔をして図書館に行き、Mと談笑した。委員長の特権である。これで二人の間は急速に近づいた。
 しばらくすると、次第にMの態度が変わってきた。僕の顔を見て頬を紅潮させるようになった。目が潤んでいるように見える。下らない話を昼休み中ずっとしているし、僕を見ると寄ってくる。ある日、図書をMに手渡そうとして、僕の指がMの指に触れたときなど、Mの顔は真っ赤になった。その時僕は、Mと両思いになったと確信した。
 以後の日々は薔薇色であった。毎日学校へ行くのが楽しくてしょうがなくなった。もう、一人Mの事を思って苦しい日々を送る必要はない。口実を付ければ、いつでもMに会うことができたのである。

       七

 季節は初冬を迎える頃となった。僕の住む町は標高が高い位置にあり、冬になると星空がよく見えたが、その年はしし座流星群とてもよく見えるということで、理科を担当していた関という教師が天体観測会を企画した。夜、小学校の校庭に集まり流星群を見ようというのである。関先生が持参する望遠鏡で月を見ることも出来るという触れ込みであった。
 関先生は小学校で最高齢の教師で昔ながらの教育者であった。生徒が悪いことをすればげんこつをくれたし、こっぴどく怒ることもあったが、人情味がありどこか憎めない存在であった。理科の教師ということであったが、星にしか興味が無いらしく、その他の授業など、端から見ていてもつまらなそうに教壇に立っているのが分かった。定年退職を間近に控えていて、退職前に何か子供達にしてあげたいという思いから天体観測会の開催を決めたということを、後日僕は母親から聞いた。
 二回に分けて計画された観測会は、生徒の親に大変評判となり、僕のクラスでも大抵の者は参加するようであった。僕は星にそれほど興味がなくあまり乗り気ではなかったが、母親が是非参加したいというので渋々ながら参加することとなった。
 夜の六時頃、僕は母親の車に乗せられて小学校へ向かった。校庭の真ん中に、サーチライトが一つ煌々と置かれ、関先生が望遠鏡を準備する姿があった。参加者は次第に集まりだし、会場には熱気が生まれていた。参加者の吐く白い息がライトに照らし出されて、幻想的でさえあった。
 僕は、同級生の集団を見つけると、母親と離れ紛れ込んだ。しばし雑談などしていたが、普段と違い夜中ということもあって、皆少し興奮している。そんな空気を感じたのか、関先生がマイクを握り挨拶を始めた。
「こんばんは。今日はお集まりいただきありがとうございます。皆さんの日頃の行いが良いであろうから、よく晴れて星空が綺麗に見えております。月も出ています。望遠鏡を用意していますから、覗いてみてください。運がよければ、うさぎが餅をついているかもしれません。今年はしし座流星群がよく見えます。流星群は……」
 関先生の冗談を交えたイントロダクションは、笑いを誘いながら皆を星空に引き込んでいった。皆空を見上げながら、流星群の到来を待ち、思い思いに望遠鏡で月を眺めた。
 やがて、会場で歓声があがった。流星が一筋流れたのである。僕も必死で空を見上げた。それほど間を置くことなく、流星を見ることが出来た。それからも、流星が流れる度に歓声が上がる。
「願い事、しなくちゃね」
「今夜はいっぱい願いごとできるな」
 楽しそうに話す大人の声がする。それを聞いた僕は、Mの事を考えた。
(次、流れ星が流れたら、Mの事をお願いしよう)
 と思った。
 望遠鏡の前には順番待ちの列が出来ていて、しばらくは月を見る事が出来そうになかった。僕は同級生と話していたが、しばらくすると話題は尽きた。
 生徒の中には、その辺で鬼ごっこのような遊びをし始める者もいる。僕も空を見上げることに疲れを感じ、校庭の集団から歩いて少し離れ、体育館の脇にある錆び付いたベンチに腰を下ろした。ベンチの冷たさがズボンを通して太ももに伝わってきた。喧騒が遠ざかり、空気が一段と冷たくなった。
 僕はベンチの背もたれに寄りかかりながら、夜空を見上げ星を眺めた。オリオン座がくっきりと斜めに横たわっている。星座をなす星と星の間を目でなぞりながら、考えるのは、Mのことであった。
 僕は、今までに一度たりとて、こんな感情を抱いたことはないと、確認するように過去に好きになった女子の顔を思い浮かべては、Mと比べてみた。それまで、胸が締め付けられるようなことなどなかった。僕は、Mに対する感情こそが、これこそが、自分の初恋であると認めようと誓った。
 ひとしきり夜空を眺めた後、僕はおもむろに立ち上がり、再びざわつく光の方へ向かおうとした。すると、暗闇の向こうから誰かが走ってくる。その影は僕へ向かってきた。誰だろうと目を凝らすと、それはMであった。Mも天体観測会に参加していたのだ。いつから僕の姿を見ていたか分からないが、僕がベンチを立ってすぐに走って来たところを見ると、きっと大分前から分かっていたのだろう。走り寄るMを目の前にして、僕の足は止まった。Mは、笑い声を上げながら、僕の腕をはたいて逃げるように走って行く。僕はどうしたらいいか分からなかったが、Mの笑い声に招かれるように走った。校庭の隅を、二人は八の字を描くようにぐるぐると回っていた。僕は、Mをはたき返してやろうと考えたが、足は年長の僕の方が断然速く、すぐに追いついてしまう。そこで、僕はわざと速度を落とし、Mが逃げるままにしてやった。
 Mは、走るのと笑うのとで、息を切らしたといった様子で立ち止まった。僕も少し離れて立ち止まる。そこには、天体観測のために集合した者達とは、異次元の世界が出来上がっていた。二人は、白い息を吐きながら、笑顔で向き合っていた。初めに言葉を発したのは、僕の方であった。
「月、見た?」
 僕は、何を言えばよいか分からず咄嗟に質問をした。
「うん、見た」
「うさぎは見えた?」
「見えたよ」
「嘘つけ」
 Mは笑いながら、僕の方へ歩み寄ってきた。そして雑に腕を振り上げると、僕を再びはたく格好をした。僕はただ笑うだけで、避けようともしなかった。
 Mは嬉しそうに僕の腕をはたいたが、その瞬間Mが、
「好き」
 と言ったように聞こえた。
「え?」
 と僕がかすかな声を発しないうちに、Mは、校庭の、皆がいる光の方へ向かって走って行き、紛れて見えなくなった。僕は、呆然とその場所に立ち尽くしていた。そして、何度も、さっき聞こえた言葉を繰り返し思い出していた。
 天体観測会は盛況のうちに終わり、学校の話題をさらった。もう一回実施して欲しいとの要望が多数寄せられたという。関先生は上機嫌で、観測会で撮った写真や結果報告などを理科室の掲示板の前に張り出した。
 僕とMは、次の日も顔を合わせたが、互いに以前と変わらない態度であった。僕は、あの時Mが言った言葉を、本当にMは言ったのだろうか? 僕の聞き間違いではないか? と何度も思い返しては、Mの態度からそれを探ろうとしたが、Mはあの夜のことを、話題にも態度にも全く出さなかった。僕は両思いであると思っていたから、特段確認する必要などないかとも考えたが、もし、Mが僕に言った言葉が本当であったなら、今度は、僕がMに同じ言葉を言うのが礼儀であると思った。それは義務感のようなものであった。
 神山先生は、そんな僕とMを見ていて、二人の距離に気が付いたのか、二月の中旬に、僕に声を掛けて来た。
「小林君て、下級生に人気あるんだね」
 そう言ってにやにやと笑う。僕は何の事かと、しらばっくれた様子で神山先生を見た。もしかしたら、僕のMに対する恋心を気付かれたのかと警戒した。
「委員長としてよくやっているってことだよ。いつも図書館に来て下級生を指導してるじゃない」
 神山先生は僕の表情を確かめるように言う。
「そうですか?」
 僕は確かによく図書館に顔を出し、下級生の指導などをしているが、それは全てMがいるからで、Mがいないとなどは、単なるカモフラージュであった。しかも、Mがいるときは指導などせずに話をしているだけである。それでも、神山先生から見れば、指導をしているように見えるのかと、僕は少し安堵した。
「もうすぐ卒業だよね」
 神山先生は、僕に飴玉をこっそり渡しながら話す。
「僕は小学校の頃、好きな先輩がいたんだけどね、告白できないまま、先輩は卒業しちゃってさあ。今でもちょっと後悔してるの」
「はあ」
 僕は神山先生の話の脈がつかめずにいる。
「同じ中学校だったんだけどさあ、先輩には彼女がいて、悲しい思いをしたことあるんだよね」
「だから何なんですか? そんなの、今は関係ないじゃん」
 僕は、警戒のため少し反抗した態度をとって見せた。先生は少し驚いたといった様子で、
「関係あるの!」
 と小学生相手にムッとした表情をして見せた。
「もっと本を読んで賢くならなきゃね」
 神山先生はそっぽを向いて自室へと入って行った。僕は、怒らせてしまったかと反省したが、先生は、以後も気にもしていない様子で接してくれた。
 しばらく経ったある日、Mに会うために図書館に行くと、神山先生は僕とMを呼んで、二人に同じ飴玉をくれた。その飴玉の袋には、ハートのマークがあしらわれていた。

       八

 卒業式の前日となった。六年生は皆思い思いに、最後の学校生活を過ごす。ある者は好きな先生に別れを告げ、ある者は、彫刻刀で自分の机に名前を刻んだ。
 僕は、昼休みに、卒業を控え盛り上がる級友との会話を上手くかわすと、図書当番をしているMに会うために図書館へ向かった。Mは、僕を見つけると、待っていたというように駆け寄って来た。
「おめでとう」
 Mは、涙目であった。僕は、あの言葉を言おうと、幾度となくタイミングを計ったが、終に言えず仕舞いであった。小学校を卒業しても、Mと再会することは難しくないだろうと考え、その場は諦めることにした。二人は両思いなのであるから、きっとまた言う機会が巡ってくると思った。
 それから、神山先生に挨拶をしようと、貸出カウンターの奥にある先生の机を覗き込んだ。
「先生、ありがとうございました」
「こちらこそ」
 先生も涙目であった。そして、
「小林君てシャイだね」
 と、すこし悲しそうな顔をして見せるのであった。僕は先生に手を振って、図書館を出た。翌日、僕は小学校を卒業した。

       九

 中学校に入学しても、相変わらず僕は伊藤君と下校を供にしていた。Mに近づこうとして伊藤君と接するうちに、僕と伊藤君は本当に仲が良くなり、親友となっていた。ただ、それでも僕はMのことを伊藤君に打ち明けることはなかった。
 Mのことが気になってしかたない僕は、度々、渋る伊藤君を誘って中学校からの下校途中に小学校へと向かった。そして、周辺を通学用自転車で徘徊しては、どこかにMが居ないかと辺りを見回していた。
 ある日、伊藤君を誘い、例のごとく下校途中に小学校の校庭に向かった。学校は終業していて人影はまばらであった。僕と伊藤君は校庭の隅をとりとめもなく歩いた。
 すると、校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下に人影が見えた。Mであった。放課後まで残って何かやっているのであろう。偶然通りかかった際に気付いたのか、Mは一人で僕達の方を見ていた。僕は、奇跡的な再会に胸を躍らせながらも、気付かぬ振りをして伊藤君と話していた。伊藤君がMに気付いて声をかけてくれないだろうかと期待したが、伊藤君は相変わらず鈍感で、そのような事は起きなかった。Mはしばらく僕達を見ていたようであったが、諦めたのか、その場から去って行った。
 僕は、翌週の同じ時間に、再び伊藤君と校庭に向かった。先週と同様に、校庭の隅で二人で遊んでいると、何時からか、やはり、Mが渡り廊下からこちらを見ている姿が見えた。僕は、Mはきっと自分を待っていたのに違いないと考えた。
 気をよくした僕は、次の週も伊藤君と校庭に行った。そして、今日も必ずやMが現れるに違いないとその瞬間を待った。伊藤君は僕が何故小学校に来たがるのか全く分からなかったに違いない。つまらなそうな顔をしながら僕の後に従っていたが、思いついたように僕に一つ提案をしてきた。
 伊藤君は鞄から何かを取り出し、僕に見せた。それは、タバコであった。親の吸っているマイルドセブン・スーパーライトを拝借して来たのだという。
「吸ったことあるか?」
 伊藤君は格好つけてタバコを咥え、ライターで火をつけると、満足そうな表情を浮かべて空に向かい煙を吐き出した。何度か吸ったことがあるらしく、慣れたものである。タバコなどに手をつけたことのない僕に自慢したかったのだろう、
「吸ってみなよ。美味いぜ」
 そう言ってタバコを一本差し出した。僕は、親が喫煙者だったこともあり、タバコの銘柄にはめっぽう詳しかったし、煙や臭いにも慣れていたが、決して吸ってみたいと思うことはなかった。それから、見つかればこっぴどく怒られるに違いないと思い内心躊躇したが、伊藤君に対するライバル心のようなものがあり、差し出されたタバコをおもむろに手に取った。
「いいか、肺に入れるんだぞ。吸って、深呼吸をする感じ」
 伊藤君は、指導するように僕に吸い方を教える。僕は、それに憤慨しながらも、伊藤君の言うとおりに一服してみた。瞬間、激しく咳き込んだ。それを見て伊藤君がゲラゲラと笑う。
「なんだよ」
 僕は、従順であるはずの伊藤君に笑われるのが悔しくて、再び、今度は煙の流れを喉で感じるように、ゆっくりと吸った。しかし、またしても咳き込んでしまった。
 伊藤君の大きな笑い声が校庭に響く。僕は、何度か同じことを繰り返しながら、咳き込まずに吸えるようになるまでタバコをふかしてみた。ただ、タバコなど、こんな不味いもの、二度と吸うものかと思った。
 そうしているうちに、僕にはある考えが浮かんだ。
(僕がタバコを吸っている姿をMに見せたらどうだろうか)
 と。中学生になり、少しく不良に憧れを持つようになっていた僕は、Mに今までとは違う姿を見せたいと考えた。もう小学生ではないのだと。
 そして、Mが現れるまでタバコを吸おうと、僕は伊藤君にタバコをせびった。伊藤君はもったいないからと渋ったが、取り上げるように奪った。
 三本目を吸っていると、随分と気持ちが悪くなってきた。我慢比べのように僕は自分を励ましていると、Mが渡り廊下に現れた。僕はここぞとばかりに煙を空高く吹き出した。伊藤君も負けじと空へ吹き出す。僕はちらちらとMの方を見て、その姿を何度も確認した。
 Mはずっと僕達の方を見ていたが、いつものように、しばらくすると去って行った。
 僕のささいな計画は達成された。僕は、Mはきっと、もっと僕に惹かれるようになったに違いないと空想に耽りながら帰路に着いた。
 翌週も、その翌週も、伊藤君と小学校の校庭に向かった。そして、慣れないタバコを吸って、Mを待った。しかし何故か、Mが姿を現すことはなかった。僕はおかしいなと思いながらも、きっと何か来れない理由があるのだろうと考えることにした。それからも、幾度となく校庭に赴いてみたが、結局Mが姿を見せることはなかった。
 次第に僕はMの事を忘れ始めた。中学校へは四つの小学校から生徒が進学してくるため、中には今まで見たこともない可愛い生徒もいる。僕の目はそんな子の方へと移っていった。やがて、Mのことを思い出すこともなくなってしまった。

       十

 それから二年が過ぎ、僕は中学三年生になった。そしてぼんやりと、Mの事を思い出した。新入生にMがいるはずだったからである。しかし、小学生の頃のような情熱などはなく、探すこともなかった。僕にとってMとの思い出は、ありふれた、他の思い出と同じ程の価値しか持たなくなっていた。
 中学三年生になって二ヶ月が経過したある日、一年生の教室が並ぶ廊下を歩いていると、偶然Mを見かけた。僕の心は、一瞬その姿に敏感に反応したが、中学三年生と一年生では、あまりにも差がありすぎた。僕は、Mの子供っぽい姿に幻滅した。そして、小学生であった頃の恋心など、恋のうちに入らないと確信した。
 あれほど愛おしく思い慕った少女は、中学三年生の僕から見ると、ただの子供で、何故自分があれほどまでに恋心を抱いたのか不思議に思うほどであった。おかっぱの髪に丈の合わない制服は、野暮に見えた。
 Mも、僕の存在に気付いたようで、それからというもの、偶然Mを見かけるような時が何度かあり、Mの視線を感じることもあったが、そんなとき僕はMを無視するように、視線を合わせないようにした。
 一方、Mの友人であった林さんとは、すれ違えば二言、三言話をするようになった。互いに意識していないためか、すんなり話をすることが出来た。
 ある日の放課後に、玄関で一人で立っている林さんを見た僕は声を掛けた。
「お疲れ。何してるの?」
 林さんは、先輩に対する最大の敬意を表して頭を下げると、
「Mちゃん待ってるんです」
 と言った。僕は冷や汗を感じながらも、
「ああ、あいつね」
 と取り繕って言った。
「先輩、Mちゃんのこと知ってますよね?」
 林さんは無邪気に聞いてくる。
「うん。知ってるけど」
「ふーん」
 林さんは少し間を置いて、ひそひそ話をするように、手の平を口の横に当て、
「Mちゃん、昔先輩のこと好きだったんですよ」
 と言った。僕は、やはりそうであったのかと思ったが、もうどうでもよいことであった。僕は、
「知らねーよ」
 と突き放すように言った。林さんは、そんな僕に、ほっぺたを膨らませる真似をして見せると、
「先輩ひどい!」
 と怒るように言った。僕は、
「はいはい」
 とあしらいながらも、Mがこの場に到着するのではないかと心配し始め、早く林さんとの会話を終了させようとした。
「じゃあね」
 そう言って、まだ怒っている様子の林さんに手を振ると、その場を離れた。そして、足早に教室へと向かう廊下で、僕は何故自分がこれほどまでにMのことを避けなければならないのかと考えた。逃げるような真似までして。しかし、答えは出なかった。教室に戻った僕は、久しぶりに小学六年生の頃の事を思い出した。Mは色白で、目が大きく、小高い鼻の美少女であった。長いストレートの髪がよく似合っていた。しかし再び僕の前に現れたMは記憶とかけ離れているように思えた。何故だろうかと考えているうちに、
(自分はあの頃、Mのイメージに勝手に装飾を施して崇めていたんだろう。Mは実態から離れて神格化されていたのだ)
 という結論に達した。そんなようであったから、僕が中学校でMと話す機会は遂に訪れることがなかった。

       十一

月日はあっという間に過ぎた。高校三年生となった僕は、大学受験を控え受験勉強に勤しむ毎日を送っていた。高校までの道程は遠く、通常は四十分かけて自転車で通うところを、冬になってからバス通学に切り替えた。雪道は危ないし、少しでも時間と体力を節約しようという親の提案でもあった。
 バス通学を始めて少し経った、年が明ける少し前のある日、僕は夜遅くまで高校の空き教室で自習し、疲れてぼんやりとした頭を抱えながらバスに乗った。バスは電車の通らない、市街地から田園の広がる郊外へ伸びる国道を走る。僕はすぐに、半ば熱いとも言える暖房と、バスの心地よい振動で、うとうとと眠りに落ちそうになったが、急にバスの中へ吹き込んできた冷たい風で、一気に目を覚まされた。
 誰かが、途中のバス停で乗ってきたため、車体の中ほどにあるバスの扉が開き、外の空気が吹き込んできたのである。
 新たな乗客は、綺麗な高校生くらいの女性であった。僕服であったためおおよそどの高校かは察しがついた。僕は、バスの入り口よりも後ろの席に座っていたから、その姿がよく見えた。その女性は、僕の斜め右前の椅子に腰をかけた。僕の視線に気付いたのか、僕の方をちらっと見た。長い髪を後ろで縛っている。うなじが綺麗だ。肌は白く、眉は整えられ、薄い化粧をしていた。綺麗な顔立ちをしている。スカートもよく似合う。大人びた雰囲気があって、姿勢がよいためより美しく見えた。
 僕は、バス通学もよいもんだなと思いながら、その女性の後姿をずっと見ていた。女性は、僕のしつこい視線を感じるのか、もう一度、ちらりとこちらを見た。僕は、へらへらと心の中で笑った。そして、こんな女性が彼女になってくれたならどんなに嬉しいだろうか、友人達に自慢できるだろうなどと、叶わぬ夢のようなことを想像した。
 二十分ほどが経ち、その女性は降車しようとして、関の右上に備え付けられている紫色のボタンに手を伸ばした。次は僕の家のある地区の、隣町のバス停である。
「結構近いな」
 僕は驚きながら、その女性を見た。と同時に、衝撃が走るのを覚えた。僕が見ている女性が、あの、記憶の奥に埋もれている、小学生であった頃のMと重なったのである。
「まさか!」
 時間が急速に引き戻されるかのように、視界がモノクロになり、僕は小学生の頃に還っていくような感覚を覚えた。息が出来ないほどに動揺した。僕は平静を取り戻そうとして、
(Mに対する想いなど、中学三年生のときに冷め切ったはずだ)
 と、何度も何度も心の中で唱えた。僕が見ているのは、あの、神格化されたMそのものであった。僕は目をひん剥いて女性を見た。バスはブレーキを掛け、徐々に隣町のバス停に寄せていく。女性は鞄を手に取ると、ブレーキを掛けるバスの振動を身軽にかわしながら、前方にある出口へ向かい歩き始めた。
 僕は喉から手が出る思いで、後姿を見ていたが、その女性が代金をプラスチックの運賃箱に入れ、階段を降りる際に見せた、運転手に対する優しげな眼差しを見るに至って、女性がMであると確信した。
 バスは扉を閉めて再び動き出そうとする。僕は窓から、バスの横を通り過ぎるMを見下ろした。Mは、一瞬僕を見上げたが、その表情から感情を読み取ることは出来なかった。
 僕とMの間を、バスは徐々にスピードを上げて引き離していった。僕は顔を窓にへばりつけ、後方へ流れる景色を見ていた。心臓が鼓動を打つ音が聞こえ、手には脂汗を握っていた。
 僕は、次のバス停でいつものようにバスを降りた。僕の心の内など全く気にかけない、無感情にバスを操る運転手が憎く思え、運賃は、投げつけるように運賃箱へ入れた。
 家路までの坂道を月が照らしていた。光に照らされて、そこには、小学六年生に還った僕がいた。僕はとぼとぼと、肩を落として歩いた。走馬灯のように、すべての思い出は蘇り、僕は一筋の涙を流した。
「あの初恋は、本物だったのだ!」
 僕は心の中で叫んだ。小学校六年生の頃、僕はMに並々ならむ恋心を抱いたが、そのMは、やはりMであったのだ。
(何故自分は、Mに自分の思いを告げなかったのだろう? 何故、中学生となり浅はかな考えを抱いたのであろう?)
 そう自分を責めた。涙目を家族に悟られないように、気持ちが落ち着くように、ゆっくりと坂道を歩く。月の光が成す自分の影に、
「くそったれ」
 と僕は呟いた。そして、再びMに会ったならば、必ず声をかけようと誓った。それから、毎日その日と同じ時間のバスに乗ることに決めた。
 あの自己流のまじないを、やってみようかとも考えたが、高校生になった僕には、あまりに馬鹿らしく思えて出来なかった。そのためだろうか、それから、Mに会うことはなかった。大学へ入学するため、夜、東京へと向かう高速バスに乗った僕は、初恋が、今度こそ、本当に終わったのであると肩を落とした。

       十二

 月日は経ち、僕は、大学を卒業して社会へと投げ出された。これまでにいくつかの恋を経験した。Mのことは大切な思い出として、日の目を見ない宝物のように、胸の中にひっそりとしまってあるだけとなった。
 それでも、急に空が暗くなるような曇天の日には、決まってMの事が鮮明に思い出される。白い肌、大きな目、小高い鼻、長い髪、可憐で深い優しさ。風が吹くと、その映像はより鮮やかになる。黄色い傘を差して歩くMが見えてくる。街を歩く女性の中に、Mの面影を宿した者がいないかと探す自分がいる。僕の中で、Mは一層天高く昇ったのである。

                                    (了)

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