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創造という力
作:君塚正太


 私は哲学に当たる学問を用いて自分の考えを述べたいと思う。それは哲学という学問である前に人間に許された自分のみならず周りを包括的に囲むものを解明したいと思う人間じみた探究心の現れでもある。その卑しくも不完全な私の考えうることを自然や他の人間に当てはまることを望み、一般的観念に対して批判的な論文を提示したい。

人々の漠然とした不安

人々は何故漠然とした不安を恐れるのだろうか?その部分やさらに周りの包括するものについて私の経験を用いて考えを述べたいと思う。

テロ

人はなぜテロに対して不安を感じるのだろうか?私はテロという言葉が独り歩きをして人々を怖がらせようとしているだけなのではないかと思う。そのテロという言葉に人々は何を感じるのだろうか?死に対してか、それとも自分にその厄災が降り注ぐであろうと勝手に予測してしまう自分の考えに対してだろうか?人は必死にテロリストは悪いものと決め付け自分の中にある漠然とした“テロ”というものに対して立ち向かおうとする。それはあたかも実体のないものに対して立ち向かおうとするのと同じである。テロリストというものが自分の身近にいると信じ込み、それにおびえ、さらにそれも自分の作り出した心の幻影にほかならないものであるから立ち向かうすべを人は知らないであろう。それは自分に対して立ち向かうことを意味するから。だがここでひとつ考えて欲しい、テロリストをイスラム教徒全てとみなし非難し、攻撃することを。確かにこれに一理あると思う、自分の中にある漠然とした不安を実在するイスラム教徒というものに置き換えられるのだから。しかしこれは倫理的には許されない。自分の弱さを他人に投影して、それを面白がる。まさしくこれは子供のする行為である。くだらない自分の弱さをイスラム教徒に投影する事など、唾棄すべき事であり、廃絶すべき事である。一つ断っておくが、私はここで単純にイスラム教徒を例に挙げただけである。他にもIRAなどの過激派組織はある。だから、変な誤解をイスラム教にしては欲しくないものである。それにテロを起こしているのはイスラム教のワッハーム主義者たちである。それにコーランにも女子供を攻撃するな、などの著述が見られる。したがってテロを起こしているのはイスラム教の中でもごく少数でなのである。
さあ、これで実体のなかったものを実在するものにでき、自分の不安を実体のあるものに向けることができると人は思うであろう。これによって自分の中にある漠然とした不安感を解消できる淡い期待感によって物事がはっきりわかったような気になれるのである。だがこれは一時的な安心感を得るにとどまり、人はまたすぐに恐怖感に襲われる。なんにしても人が今やっている拉致問題やテロに対しての不安感はこういうものであろう。一時的な安心感を手に入れようと必死になり、自己保身に走り、周りを見ない。この繰り返しである。

自己の正当化

 人は何故自己の正当化には走るのだろうか?私はそれが少なからず人間には必要だということがわかる。それは真に自分の存在を確かめる行動である。おそらく人は大抵の場合言い訳をするだろう。それこそ自己の正当化のある意味いい題材だと思うのでそれに対しての考えを述べたいと思う。会社に遅れて言い訳をするとき人はどういうだろうか?「昨晩だれだれと打ち合わせをしていて、」「電車が遅れまして、」などだろう。多かれ少なかれ、会社に遅れた理由を話すのに無理やり、物や人に責任転換をするのが見受けられる。要は全ての責任が自分にあるというのが怖いのである。この気持ちは私にもわかるが、そのせいにされた人はそれを知ったときどういう気持ちになるだろうか?まずわかるように前に述べた言い訳の例を見てみると、ある程度その人の気持ちが解ってくる。注目するべきは言い訳する人が自己の正当化のために、人であれ物であれ、それに非難の目を向けさせ、自分の不注意をそらさせようとしている点である。その行動はそのせいにした人や物が居てもいなくても関係がなく、自分の正当化に集中している気があるため無意識のうちにほかの人を自分と同じ人であると認識できなくなっている。これはあまりにも自分本位でよくよく考えるとひどいことである。
次にこれに似た現象である自慢について考えてみたい。これは言葉のとおり自分で自分自身を少しなりとも誇張して他人に対して自分を高く見せる方法である。しかしこれは前者との間に決定的な違いがある。それは目の前に対象の人物が居なくては意味がないということである。対象の人物が目の前に居て自分のすごさを語ることによって当然言われた人も目の前に居るのだから返答がある。その返答はいろいろで自分にとって都合が悪いこともあるし、善いこともある。ある意味問いかけを行っているともいえる。それはすばらしいこととはいえないまでも私は前者よりフェアであると思う。今述べた2つの例以外にも自己を正当化する行動はいろいろあるが、その中で私は自分自身を本当の意味で高めることを志しているので選択肢も変わってくる。その私の自己を確かめる行動の元は夢に対する躍動であり、自分自身周りを卑下することなく本当に高めることにある。

不安に対する探求

私はこの現状を見ていて非常に苦しいので、その渦の中で必死にもがきながらも解決策を見出したくこの問題に対して提案を行いたいと思う(少なからず私も自己保身を行っていることには許しを願いたい)。

まず、その漠然とした不安感とは何なのか?おそらくこれは、20台半ばになっても仕事に就かず、生活している人が感じるであろう不安に似ているのではないかと思う。周りの友人を見ればみんな仕事をし、生き生きしているように見えるであろう。だが、働いている人をよく観察すればこれは間違っていたことにすぐ気がつく。働いている人の中にもわずかながら本当に生き生きと夢をもって働いているものがいるのも事実だが、私の思いこみかもしれないが大半の人はそうではないであろう。私は、歳が同じで働いている人とそうでない人との違いは、ほとんどないように思える。それは、働いている人は働いてない人より、自分は社会に出ていると思い込みさらに自立しているなどの言葉でそれを飾りつけることによって、力の弱い自信によって自分の心をわずかに奮い立たせているに過ぎないであろう。しかし、漠然と仕事をしていない人がそういう言葉を聴いたときにはひどく自尊心を傷つけられショックを受けるであろう。そのことによって働いている人の自尊心はわずかながら高められ、自分はこの人とは違うと思い込む。だが、これは本当に小さい力なのでたとえ仕事をしていなくても夢を持ってまい進している人には容易に跳ね返される。実際にこの状態で仕事をしている人にはなおさら相手にすらされない。
このような状況はなぜ起こるのか?それは自我が何かを渇望しているのだと思う。自分自身への不甲斐なさを必死にほかのもので置き換えそれを満たそうとする。しかしそれでは本当の意味でそれは満たされない。だが、それは満たされるものではないであろう。人はそれによって衝き動かされているに過ぎず、人が必死にそれを満たそうとしている行為はそれを押さえ込もうとすることに他ならないからである。それというのはその人の心の中にある自分の夢への渇望とそれを達成しようとする自分自身が持っている情熱の残り火であろう。人がそれをほかのものへ置き換えていくら満足させようとしてもそれは満足せず、しぶとく心の奥深くで燻ぶるであろう。この厄介者を相手に人は悩みこむが私は悩む必要などないのだと思う。なぜなら悩む理由は動物が本来持っている本能に近いであろう自分の抑えがたい情熱を必死で消そうと試みる、自分すなわち自然の摂理に反対の行動を行うことに対しての苛立ちであろう。だからこの部分は素直に自分の野心すなわち情熱を受け止め、その火を大きくすればいいだけのことである。だがこれは容易なことではないと人は言うかもしれない。確かにその進むであろう道は困難の極みであろう。今まで味わったことのない苦しみや努力をしなければならないだろう。ここで考えて欲しい。ここまで私の言ったことは負の部分しか見ておらず物語で言えば半分も言っていない。そのつらい道を歩んでいるときに想像して欲しい。そのつらい道のりの先には自分が望んでいた以上のものが待っていることを。それは自分が今までに味あったことのない満足感や開放感であろう。その感覚をいうと始めて人間として生を受けたような感じであろう。しかし不安というものは良い意味でも悪い意味でも何かを駆り立てる動機となる。人は一年後にがんで死ぬと宣告された場合、周りが今までと違った風景に見えるだろう。それは死ぬ恐怖に押しつぶされ絶望に慄くか、今まで当たり前だった出来事をすばらしいことと感じ反対にそれにあがなうかのどちらかである。前者は、不安を通り越し絶望を抱え暮らす生ける屍となり、今までの人生の感傷に浸るのみであろう。後者は、今まで生きた人生より死に迫りつつある現在のほうが輝かしく思えるだろう。それは死という不安に対して自分の希望を持って立ち向かう小さな光となる。

人々の不安

話を元に戻すが、前章のこのような道筋を歩んだときに、テロに対する漠然とした不安感はそれほど脅威に見えなくなっているであろう。それはある程度自分の心の中で心像として見え、そのものについて考えられるであろう。テロという漠然とした恐怖ではなく、自分の中にある必死にもがく自我であるということ。それには仕事上のいやなこと、テロは悪いものだと決め付け思考しなくなった自分、満たされることのない欲望や行き場のない情熱などが絡みつくであろう。そういうものが見えたときに気づくはずである。その恐怖とは人工的に作られたものであり、本能で感じる恐怖とは別個のものであるということに。本能的な恐怖とは、まさに目の前に迫ってきている目に見えるものであり、人工的な恐怖とは自分の理性が経験を使って作り出した偶像であるということに。最近の人が本能で感じる恐怖と人工的な恐怖との違いは簡単である。例を挙げるとたとえば列車事故が起こったとき人々はその現場の映像を見て、怖いと思い、昨日まで平気に乗っていた電車が急に怖く見えてくる、これが人工的な恐怖である。本能的な恐怖とはどういうものなのかというと、まず自分がタイムスリップしてきた原始人だと想像して欲しい。最初にあなたはどういう行動をとるだろう?猛スピードで走る列車を見て直感的に危険だと思い恐怖するであろう。たとえそれがとまっていて乗ることを進められても最初は怖いと思い恐る恐る乗るであろう。直感的に危険だと感じるこれが私は本能的な恐怖であると思う。
要は自分の夢をかなえようとはするがその先が見えず漠然と感じる不安とテレビや周囲によって刷り込まれたテロと言う言葉に対する見えない恐怖という感情は同じであるということである。

本能的な恐怖

だがそんなに今の人が列車をそんなに怖く感じるであろうか?おそらくある程度歳を重ねた人は感じないであろう。何故だろう?おそらくこれには人々が良く用いる慣れと言うものが関係しているだろう。慣れるという行為は人が最初は怖いと思いながらも理性によって自分の自我と対話し、本能を抑制する行為である。確かに最初はそうであるが時とともにその好意は機械化していき、無意識下に吸い込まれ、ほとんど意識しなくなる。そしてあたかも最初から自分にあった本能のように振舞うのである。だが、それを意識せずに生活してる中であるきっかけが起き、本能的な恐怖を抑制していたもののたかがはずれ、過去に感じた恐怖が再燃するそういうことであろう。しかし本能的な恐怖はそれほど大きな力を持たず、自分の理性がかかってくるすなわち人工的な恐怖のほうが人々を恐怖させるであろう。なぜなら人工的な恐怖によって自分の理性が停止し、今まで理性によってある程度理解されていた怒りや憎しみなどの感情が行き場を失うからである。

人工的な恐怖

人工的な恐怖にも大きく分けて2つの物があるだろう。それは理性が停止することによって起きる恐怖と、自分のことを一人の人間として理解できなくなった理性が引きおこす恐怖である。それは何かというと、常に一人の人間はこの世に生を受けたときから自分を唯一の自分とみなし、世の中には自分の自我すなわち経験やそれによって作り出される考え方は自分唯一のものであると少なからず思う傾向がある。だがその考えは本能的に感じる仲間意識、要するに人々がいう社会というものと対立するだろう。その対立は歳を重ねるごとに増していく。われわれがよく親や年上などから教えられる常識や社会に出るという言葉は社会的な生活をするためにということでよく言われる。それがまさにわれわれの感じるであろう第2の人工的恐怖に対立してくる。

社会

では、そもそも社会という意味とは何なのであろうか?その意味を深く突き詰める前に今の社会と昔との社会というものにどう違いがあるか考えてみたい。
我々は現代において、パソコンや高度に発達した道具を使っている。昔の原始時代では道具は自然のもの少し改良して使っていた。確かにこの事実だけを見れば大きな違いがある。しかしここでひとつ疑問がある、現代の人は本当に高度に発達した道具を使っているのだろうか?我々が道具に使われているのではないのか?それはどのような意味かというと、先進国の人々が未開の地の原始的な人々の生活を見たときに、とても一緒に暮らせないと思うだろう。その人たちと自分は違うと思い戸惑いを覚えるだろう。それはなぜなら高度に発達した道具たとえば水道設備やパソコンなどによって、理性が慣らされてしまっているからである。水道の構造を知っているものが何人いよう?パソコンはどういうもので、何でできているか完全に理解できている人はいるだろうか?物は全て分解すると何の物質でできているかがわかる。だが我々はひとつの物質の振る舞いなど気に止めず相手にしない。パソコンはただパソコンと認識するにとどまりそれが何によって構成されているかなどまったく気にしない。物をよく観察することによってその物質の振る舞いがある程度認識でき、これが自分の想像力を掻き立てることを知らない。物質の表面の事柄しか認識せずにそれを深く認識しようとしない場合、それを道具に使われてというのだと思う。
だがはたして本当に使っている道具以外の本質的な違いはあるのだろうか?まず社会的な構造を見てみると原始的な人々はいくつかの集団を作り、その集団を村などと呼び暮らしている。これはおそらく理性ではなく本能に根ざした考え方だろう。なぜかというと、犬や蟻などを観察すればわかるが彼らも人と似た形の集団を構成し、社会を作り生きているからである。さらにもうひとつ付け加えるなら、現代の人と先ほど述べた人との社会生活を比べればいい。現代の人も同じく国や市、町という集団を作って生きている。このことについてもう少し考察してみると、蟻塚には女王蟻がいる。人間社会の国にも大統領がいる。これから集団が小数の代表を立てそのために働いているという共通点が両方に見出だせるであろう。しかし、大抵の人々はこういわれたら我々は蟻とは違うというかもしれない。何故こういうのか私にはある程度わかる。そこには自分を唯一の人すなわち絶対的なものと定義する理性が否応にも介入してくるからである。このことから、少なからず理性というものは自分本位に考えるものだとわかってきた。説明すると、人なら誰しも思うことだろうが、毎日同じことの繰り返し(実際は多少違うが)を仕事や学校でやっていると飽きや倦怠感が体のうちから沸いてきてそれによって悩んだり、新しい刺激のあるものを欲しがるであろう。これは自分に対しての苛立ちすなわち理性が引き起こす欲求である。
だが、社会というものは集団を構成し、秩序を構成する。反対に理性は自分本位に考え、欲求が本能と自然の間に葛藤を引き起こし秩序を乱す。これによって私たちの理性と自然が作り出した社会というものが反発し合い、社会というものが理性を押さえ込むことによって秩序を安定させようとする。しかし理性というものは自分本位に考え周囲のことに関心を持ちにくいので社会に対して反発する。その過程で人は自分らしさがなくなること、理性が停止することに恐怖を覚える。いや、おそらく理性が恐怖を引き起こし、人にそう思わせるのだろう。社会と理性というものは反発しあう。社会は輪廻を好み、人間が理性の中の知性というもの使って進歩を続ける限り、社会はそれに相対して圧力を強めていく。それはある問題を提示してくれる。我々が本当に理性に振舞わされ、社会につぶされるときに人間というものはなくなるだろう。我々の祖先が生まれる前地球には恐竜がいた。自然が生物を使っていろいろな実験を繰り返しているのかのように恐竜は自然に適応できなくなり絶滅した。社会は社会、理性は理性と個別に考えた場合それは物質の表面を見ることと変わらないであろう。本当に人間の本質を見るひとつのことに社会と理性という反発しあうものについて、人間がどう振舞うかということが含まれるだろう。この章では社会というものに重点を置き、理性を補足に使ったがこれは自然から見た人間というものにより近いだろう。

理性

理性は人間社会においてどういう役割を果たしているのだろうか?人間はよく他の人間を憎むがこれはどうだろうか?これにはまぎれもなく理性がかかわってきているだろう。私の言う人間の理性というものはおよそ4つの要素、記憶、予測、仮構能力、それを現実世界と誤差はないか精査する能力になると思う。私が何故人間の理性といったかというと、どうやら他の動物にも理性に似かよった機能があるようなのである。それが何であるかというと人間の持っている4つの要素の内、3つの要素、記憶、ある程度の予測、そして仮構機能である。これは動物に実際に試してみればわかる。例を言うと私の家猫は誰がえさをくれるのかを覚えている。それに外に行く合図をすると玄関までついてくる。これは習慣であり、記憶の使い回しであると人は言うかもしれないが、実際に合図を見てやってくることからみて前の記憶を使い、予測を立てていることが推測されるのである。仮構機能というもの想像することによって仮の物体を自分の前に実際にあるかのように作り出すことである。人間の場合は現実との違いを把握できるが、猫の場合、それは人間で言う幻に近いだろう。まず猫に口で息を吹きかけると嫌がるが、それを数回繰り返した後に私がそのまねをするだけで実際に息を吹きかけられた時と同じ反応を示す。(あまり実際にやらないで欲しいが。)その行動を見ると、まるで幻に対して反応しているように見えるのである。これが猫の仮構機能である。人の場合も記憶を使って予測を立てる。先ほども言ったように人は予測した出来事を現実と比較して起こること仮想か現実ではないかあると程度精査できる。鏡に映っている自分の姿を見て、自分と何が違うのかある程度成長した人ならわかる。これは当然のことかと思われるかもしれないが最初にその姿を自分で見たときは、は戸惑ったはずである。今では鏡に映る自分の姿が点対称であると頭で思考を行って認識はできるが、実際に鏡を使ってひげや化粧などをすれば、現在でも多少の戸惑いはあるだろう。それはどういうことかというと、何をするにあたっても人が一番初めに考えることすなわち記憶を使って予測を立てる場合にはその都度理性が多大に影響し、無意識下に自分本位に考える。それは自分に非常に都合のいい想像であり、それをやるときに自分に不都合がないかという非常に自己中心的な考え方である。だがそこに現実と自分の作った仮想現実との違いを精査する能力が介入してくると考え方が変化を起こす。第一に、現実と仮想の違いを精査する能力になってくる者の中に“社会”という存在がある。しかしそれは周りの目を気にする考え方や法律などによって作り出される者に戒律を押しつけられるに等しいことなのである。それは当然理性を押しつける。それらの均衡が続くうちはまだいいが、それでも理性が社会を押し除けようとする力と社会がそれを押さえつける力は常に反発を繰り返してぎりぎりの均衡を保っているにしかすぎない。その現象は常に私たちの中で繰り返されている。簡単にその現象が自分の中で繰り返されているのがお分かりになるだろう。毎日のように繰り返される何かへの渇望、それが自分の中で不安や欲望などを常に生み続けている原因のひとつであることが。自分の中で自分の記憶から予測を人は生み出す。そこに大抵の人々は社会という現実と仮想との違いを精査する能力と思われるものを持ち込む。それは自分が持ち込むというより、押し付けられるというほうが正しいだろう。なぜなら、社会というものは前日述べたとおり自然にとって必要なもので集団を構成する。それは、その集団の秩序を守るということが第一の目的であり、その段階で意見の違いを好まない。私は社会という言葉を良く使う人々が集団に属するとみんな一様に意見が同じ方向に向かっていることがわかった。
この時、人は社会には人間関係があるというがこれは人間に限ったものではない。蟻にも犬にも、社会というものが存在し他のものとの関係がある。しかしその社会は自然が作り出したものでありそこは秩序を保つことが第一の目的であり、ある程度以上の理性が介入することはない。だが、人の場合は厄介なことに理性が社会に干渉し、そこに社交性や人間関係といわれるものが生じる。これは、自然が作り出した産物ではなく自分本位に考える理性と社会との狭間に生まれた副産物であり妥協案である。妥協案という言葉を見ればわかるがこれを双方が承諾するかは別である。もし、理性が少しでも異議を唱えればたちまち人間関係が崩壊の一途をたどり自分に対して自己の正当化や欲が増大し、それが社会とますます対立を深めその形は憎しみや怒りとなって社会に向けられるであろう。その段階で人が人を傷つけるということがおきるがたとえそれが身近な人であろうが知らない人であろうが大差はない。身近な人であった場合、その人というものは自分を理解してくれている人、すなわち自分とある程度意思が共有しているものだと思い込んでいるため、その人に理解されなくなったのではなく、その人を自分が理解できなくなったときそれは喪失感や孤独感として現れ、あたかも体に入ってきた細菌を抗体が攻撃するかのように自己防衛に走るのである。その細菌というのは社会であり、抗体はそれに拒絶反応を示した自分の理性である。この行動を人はよく理性がなくなった行動というがそれは違う。その理性がそうさせるのである。
また、自分の中で社会の意見が大きな地位を占め、理性を圧迫した場合。自分の中で理性を押さえ込み、社会の言うとおりになろうとする。理性を抑え込むときに重要なものも押さえ込まれるそれは、理性が作り出す創造である。やはり理性が社会と相反するために、理性のみを見た場合に見られるいいと思える部分である、創造力と言うものも悪いと思える部分である自分本位に振舞う考えと一緒に区別されることなく抑え込まれる。理性というものは今現在人間にしかなく、他の動物にはない。理性というものは人々が残した言葉や書物から経験を得、それを自分自身が体験してきた事柄と混ぜ合わせることによって、創造することができる。まさしくそれによって今我々が使う道具や学問が存在することは明白であり、異論の余地はない。その理性が生じさせるあらゆるもの不安、欲望、創造力などを、社会にとって不要なものとみなし、捨てた場合我々はただ単に自然というものが作り出した社会というものに操られる人形のごとく、同じ場所にとどまり続け、あたかも自分たちは前進していると思い込むにとどまるであろう。その先に真の進歩はなく、ただ自然によって生かされ繰り返される生が用意されているだけである。
 我々は理性の介入なしに思考は行えない。また思考するときに大抵の場合社会を考えずには行動しない。この大抵の場合といった意味は、社会のほかに自分の戒律、倫理、道徳観をおく人間の突然変異と呼ぶべき人々がいるからだ。それは突然変異であるがため周りから気味悪がられるが、その人たちなくして我々は今の時代を築くことはできなかった。その人たちがいたから、今の人間という特質を社会がある程度保持しているといったほうが間違いではなかろう。この人たちと大抵の人間の本質を見極めないような人々が厳しい、たとえば氷河期に生きたとすればどちらが絶滅するだろうか?一般的に動物の社会では大きい体や鋭い牙を持った優秀な選ばれたものが生き残りやすい。私はそれを前者だという。しかしその人たちは他の人々に人間の可能性を教えたがり、助けるだろう。昔いたその人々もそうしたのだろう。それは本当の自然の法則に背く大きな過ちである。それは今となってみれば大きな大罪になっている。自然環境は乱れ人間に牙を向いている。この状況は痛ましい物だが紛れも無い現実なのだ。
ここまで考えればわかるが、自然というものが我々を生んだ事実を覆せないように、我々は自然が生み出した社会というものなしでは生きられないのである。自然が作った社会というものと自然が作ったとはいえ社会に対して反抗的に振舞う理性というものがどうすれば社会と共存し、その規則を活かし、今より高い位置にあげることができるのか?その考えを述べる前に現代のメディアが演じている役割を述べたいと思う。

メディア

現代の日本の家庭でテレビがない家はほとんどないだろう。このことからわかるように我々の生活からメディアは切っても切り離せないものになっているのはわかるだろう。私が言いたい意味としては生活ではなく社会から切り離せないものになっているといったほうが正しいだろう。ではメディアは社会というものに変わってどういう役割を演じているのだろうか?その考えを今から述べたいと思う。
 メディアというものは実にいろいろな意味で面白いが特に面白いのがそれに影響されやすい人々の反応だ。たいていの人はテレビを通じて何の疑いもなく情報を受け取る。その情報を正しいことかどうか確かめる必要もないといわんばかりに。確かに事実にほとんど即しているものもあるだろうが、私はここでみなさんに一つ考えて欲しいと思う。何が正しいのかという問題ではなく、人々がメディアという媒介を通じて自分が報道されている場所や人に会ったかのごとく思い込むということ、さらに人は自分の意思が入り込むことのない一方通行の意見を見聞きし、何の疑問も抱かない自分の理性に対してである。少し考えてみればわかるがメディアを通じて得られる情報は多少の違いはあっても一様に同じ傾向を持っている。それは常に人々に一定の先入観を刷り込むということである。これは当然のことではある。なぜなら、メディアというものに対して全ての視聴者が意見を述べることなどできるわけがなく、意見をメディアに出しても向こうの都合などもあり、1億人の意見など到底聞けるわけがないからである。大量の情報が毎日のようにメディアを通じて流れ込んでくる今日、人々はメディアが流す情報を鵜呑みにする。さらにその情報を周囲の人と話し合い、みんなと意見が大差なく合致していることに安心感を覚える。安心感を何故覚えるかは簡単な理由である。なぜなら自分のもっている情報をほかの人と交換し、合致することに対して、自分は社会の一員であるという仲間意識がわくからである。人はこの話し合いが想像をいろいろ引き起こす非常に有意義なものと思う傾向があるのである。しかし、この想像は決して創造にはならず、一様にメディアから報道された大雑把なイメージを受け継いでいるように思われる。それが悪いイメージならその延長線上で繰り返され、その事象に対して、人々の大雑把な先入観の色合いが非常に濃くなっていくのが目に取れる。だがここで感じて欲しい、日常生活の中で人はいろんな人に会うがその人に対する印象は千差万別だということに。自分が気に入った相手のことについて別の人に印象を聞いてみたら自分といっていることが正反対だったなど、よく起こることである。テレビで言われる人に対しての印象が一様にほとんど同じだということは実に不思議であり、おかしことである。要は、人と意見が同じことに対して安心感を覚えるのではなく、疑問を覚えて欲しいということである。そして、メディアが演じている役割というのは後に述べる宗教に類似している点が多いということである。少し言うと、メディアは社会という集団組織の秩序をまとめ上げるのに非常に効果を挙げている。これは宗教にもいえることであり、本来の宗教の意味もこれに沿った部分が非常に多いであろう。宗教というものには根本に聖書が存在し、それに沿って活動が行われるためあまり急激に形を変えることは少ない。だがメディアはこの点が宗教と大きく違い、情報というものに常に翻弄され続ける運命がある。情報というものは実に厄介で元の情報が事実と違っており、それが何も考えずメディアの情報を鵜呑みにする国民に伝えられた場合、彼らは、理性が作り出す恐怖に操られ、悲しいことにまるで砂糖に群がる蟻や大きい親に驚いて逃げる鳥のように右往左往する。しかし、これを全部メディアのせいにするのは間違いだろう。確かにメディアの影響が今日国民に対して大きいのは事実であるが、その国民意識が低下しているのも事実である。この低下している意識とは物体の表層しか見ようとせず、深層には決して立ち入らない姿勢のことである。それには学校の教育制度や社会の現姿勢などもかかわってきているだろう。社会というのをよくよく見てみると小学生の子供の延長線上にあるもにしか私には見えない。それを具体的に言うと、我々は小さいころには他人のものを盗ってはいけないといわれる。そのころにはっきりとした認識はなくとも、私は当然道徳的にいけないことだと思っていた。だが社会では道徳的にではなくて、法律に接触しなければ道徳など考えなくてもいいと思っている人が多いことがわかってくる。これで日本の国会などでよくやられるなじり合いなどの解決策が見えてきた。それは、人は当然自分自身への道徳的戒律を持つべきであり、たとえ法律に触れずとも、自分の道徳に対して自分が許せぬことを犯した場合、そのことに対して自分自身を罰する心を持つべきだということを。
しかしながら人の心は厳しいことを自分自身に負わせる事を嫌う。それは紛れもなく我々が持つ自分本位な理性が作り出すものである。これは事実であるが、人はなんとなく悪いと思うことをやろうとしたとき、後ろめたい気持ちや自分自身との対話で「それをやるな」などの声が心像として聞こえてくるだろう。この時に起きる現象も紛れもなく理性が起こすことで疑えない。最初の理性と後者では少しばかり意味合いが違う。前者は理性が自然に起こす現象で、それは本来自然が人間を生み出したときに与えた理性というものに最も近いだろう。後者は前者の理性が頭をよぎった後に起こる現象である。このことから、これには少なくとも本来の理性に何らかの要素が付け加わっており起こるであろうことがわかる。その要素とはおそらく、道徳心であり、その人が歩んできた人生で会得してきた経験と、その中から生み出された考え方である。

自由と女性

 自由という言葉を聴いたとき人は何を欲し、思い浮かべるのか?それは今生きている人生と違ったものであるのは間違いない。自由という言葉を思い浮かべてから人は「何がしたいこれがしたい」という。この言葉から簡単に自由の一般的観念がわかる。それは自分が持っていない新しい権利や前に失った権利を取り戻すことに等しい。それはほとんど言葉のあやに過ぎない。なぜなら、職業選択の自由という言葉があるが、これは一時の自由にしか過ぎない。本当に職業を選択できる人がこの世に何人居ろうか。職業を本当に自由に限りなく選べる人は努力を人の何倍も行い、辛酸をなめた人のことを言う。それをやらずに我々は自由だというのはあまりにもおこがましい。自分が貧乏なのは金持ちのせいなどとは決して思ってはならない。金持ちの子供には味わえない辛酸を子供のときになめた子供はすばらしいダイヤの原石となる。それをどう成長させるかは周りの力や本人の努力による。自由という言葉は平等という言葉にも直結してくるが、それはわかりやすい変化だ。男女平等が認められたとき、女性は「自由を勝ち取った」と言ったがそれは違う。自然を考えれば動物は男女不平等である。だが、彼らは不平不満を漏らさず分担を守る。このことから全ての生物に不平等は常に付きまとうがそれは不平等のほうが効率のいい場合に限る。それは平等をも凌駕する。女性が行う職業を減らすことが効率を悪くするので自然の成り行きでその制度はなくなっただけである。それはこうとも取れる、たとえ前と同じ状況になってもそうは長くそれは続かないし、それを取り戻しても自由ではなく唯効率が良かったから元の形に戻ったに過ぎないと。今の女性ははっきり言ってでしゃばりすぎだと思う。男性に適した職業があればそれは生まれたときに与えられた肉体がそれにうまく適合しているに過ぎないが、それを変えることは自分を猫に変えることぐらいばかげている。大抵の場合それは肉体的な問題が絡んでくることが多い。逆に言えば思考することに性質の違いは多少あろうがたいした問題でないとも言える。現状を見て女性に自分の能力をもっと活かしてほしいと思う。私の精神的水準で見た男性と女性を比べると、男性の場合大体の人が幼稚だがそれを抜きんでて優秀なものも数多くいる。じょせいのばあい幼稚な人も優秀な人も男性よりあまり多くは無く、中間層が多いように思える。それはある意味女性の人間転換期を示唆しているのかもしれない。それはどっちに転ぶかわからない。女性が人類の先駆者になるか落伍者におちるかはわからない。私は男性であり女性の考えていることがある程度はわかるが男性と話す場合よりわからない場合が多いからだ。
だからこの問題を解決に導くのは私より女性に任したほうがよろしいと思う。ずいぶんずさんな文になってしまったが、最後に私が思うには女性は感情的になりやすい。それは正確に物事を考えることに悪影響を及ぼす。しかしまたそれは人々を揺り動かす大きなエネルギーにもなる。このことを考慮に入れて考えて発展させてもらえれば光栄である。

正義と悪

 私は幼いときに正義というものに漠然とした憧れを持っていた。それは幻夢を見ているかのような憧れだったと思う。そのときの自分は絶対に自分が正しいことをすることに憧れたのだろう。それは正義と対をなす悪というものを決め付ける行動でもあった。このとき私の中に正義の人間はいるが、悪の人間というものは存在しなかったのである。悪という存在を作り上げるときはできる限りその人の人間性をなくすほうがいいように思える。簡単に言えば宇宙人などが一番手っ取り早いのである。宇宙人は人間でなく仲間ではないという認識が人にはある。映画でよく宇宙人が攻めてくるシーンがあるがあれはとてもじゃないが現実味を帯びてはいない。わざわざ遠くからやってきて地球を侵略してなんになるのだろうか?昔、ヨーロッパの人々が世界を公開している途中に未開人を見つけたとき彼らはほとんどの場合あちらから攻撃をされなければ積極的に仕掛けることはなかった。それらの国の中にもあくどいことを考えた輩もいるが、大抵の場合少しなりともその土地の人々に理知が認められれば友好を結ぼうとした。なぜならいうまでも無くその人々の技術や文化を取り入れたほうが将来的にいいからである。たとえその人々が粗暴であってもヨーロッパ人が宣教師を勤め秩序の維持を図り、理知の光を与えた場合もある。この粗暴な行動も悪いという観念ではなく、外的から身を守る本能的な行動に近いだろう。私が非常に怖いのは、人が正義という考えでなく、観念に支配されるときである。正義という観念に支配されるとき人は自分のやる行動を自分勝手に正しいと思い込みもそこに義はなくなるのである。ここまで読めばわかると思うが、私は正義という言葉が嫌いだ。だが心の中に義というものはある。それは自分が一時に正しいとは思っても、常に自問自答を繰り返し自分への批判を繰り返し、考えを成長させることにある。ここで考えて欲しい常に自分が正しいと思って行動するのと人に自分が正しいと言いながら常に自分自身への批判を繰り返し自問自答すること、自分は常に正しいと思い行動することは一見すごいことに思えるがそれは自分が行動することによって周りの人は多少変化するが、自分はほとんど変化しないことを意味する。自分自身に批判を繰り返す場合周りに自分が正しいということで説得力を保つが自分では常に思い悩み他人への批判以上に自分を批判することになる。正義という言葉には非常に力がある。それは人が真に正しいこととは何なのかと自問自答することをやめさせられ、あの苦しい悩むことから開放させてくれる。その症状はある種、薬物の中毒症状に近いものになるだろう。薬物中毒の人は悪いとわかっていても居場所を求めて薬物にさらに手を出す。しかしその中でも多少なりとも客観的に自分を見ようとする。それは自分が薬物を使っているという紛れもない認識があるからだ。ただ、正義という言葉は集団によって真の意味を見出すため、客観性を失いやすい。自分の国が正義と思い込んだ民衆は一人ではなく大きなひとつの塊となって、周りを飲み込む。そこで出てくる意見は客観性を失う。それは大多数の人々が「我々が正義」ということを唱えると「我々は悪だ」という正反対の意見など許さなくなるのである。そこで交わされる意見は発展していくかのように思えるが実は多方向ではなく一方向にしか発展を許さないのである。我々にもし正義という意味がわかるのならば、それは常に自分の心に戒律を持ち、自分ひとりのことは決して考えず、公共の利益となるときのみ個々人の力を役立てることを望むであろう。それはたとえ自分の息子が心もとない人に殺されようとも自分の心の戒律によって、そのときに自分らしい感情を消すことに他ならない。たとえ同じ方法で相手に報復を行っても無くなったものが戻ってこないのは明白であるが、私は人間の感情が高ぶり経験を用い推測を行わなくなったときに理性の暴走を押さえ込み、その時点で理性を軽蔑するよう要求する。この憎しみや失ったものを取り戻そうとする幻想に手を貸さないということは非常に酷である。だが人間らしさとは何なのだろうか?このような感情から人間が逃れられないように自然が我々を作ったならば、人間は滅ぶことを約束されているだろう。
しかし私は人間の創造主でもなく、自然を完全に理解しているわけでもないので結論はわからない。ひとついえる事として、今の我々に正義は無い。それはあまりにも客観性を失いやすい不都合な生き物だから。その一人である私はこうも思う。その最初は周りの動物と区別のつかなかった我々が良い意味でも悪い意味でも発展しているのは人間だからである。そこに正義という指針があったとしても意味を成さない。私たちには正義の本当の意味がわからないから。今の時代に正義というものが少しなりともあるなら、それは誰かが暗闇で立ち止まっているなら蝋燭の灯で周りを照らし、指針を示すことだろう。

権利と義務

 人間は何故深く思考するのか?それはまさしく人間特有のものであり他の動物はそれほど思慮深くはない。動物はせいぜい生きるために考え、悪いや善いなどの感覚はそんなに存在しないだろう。人間はほかの動物より身体能力が劣っており、思考というものはそれを補うかのごとく自然が我々に与えた能力のように思える。当然それは身の周りにあるものを工夫して生活することを要求していた。我々が今、身の回りにあるもの、たとえば政治や経済に対して物を言うのも、動物が手に入れることのできないものである。動物は思考という行動を犯さなくても、生きるためにという理由で最低限他の動物に対して干渉する。しかし、それは常に自分の身にも厄災が降り注ぐことを暗黙のうちに承認しているのでその動物の最低限権利の行使を許している。思考することは自分の自由ではあるが、その考えを周りの人に言う場合、当然義務を果たさねばならない。それは意見を人の前で言い、語りかける義務である。その義務を果たさず自分の意見を認めて欲しいといっても何者も真に認めはしないだろう。今現在私の周りを見て権利と義務を当然のごとく守るものは少ない。この原因は自由という厄介な観念が邪魔をしてくることにある。この自由とは最低限の義務を果たした後に生じるものである。ある人が植物を育てた時、食べる権利があるのは、彼が惜しみなくその植物を育む義務を行ったことに他ならない。
 人は国という言葉を聴いたとき何を思い浮かべるだろうか?「私たちがいるのはこの国があるからだ。」などの戯言を私は頻繁に聴く、それは自分の住んでいる国がまるで神様に作られたかのように聴こえて不快感が募ってくる。自分の国が誰によって建国されたか聞かれた場合、私も口ごもるが唯これだけは言える。それは国というものは人が作り上げた統治機構であり、その根拠として動物の社会には村や町ほどの単位はあろうが、国というあまりにも抽象的に人々をまとめ上げる機構は無いと。ここでする納税の義務や勤労の義務は間違いなく自然本来の義務ではなく、人間本来の義務ですらないかもしれないといえる。権利というものは何かしらの必要性が無いと本来語られないものである。それは「自分には夢があるから勉強やスポーツをがんばる。」などのことである。ここで感じて欲しい。実際にそれをやっている方にはわかると思うが、こういうときに夢を望む権利として勉強を義務とするなどややこしいことを考えるだろうか?それは考えないし、感じすらしないことである。そこにあるものは唯自分を駆り立てる躍動だけであり、義務とするものは夢を手に入れるために当然することなのである。この場合には権利と義務はペンギンの子供のように当たり前についてくるが、権利と義務というものは大抵の場合認識されず、思い過ごされている。この重要性を失うことはペンギンが自分の子供を見失って永久にその子会えなくなることに等しい。もしも自分が夢への躍動を失いかけたときこういえば最初の気持ちを思い出すだろう。「そこにあきらめた自分がいる。それは暗闇を手探りに進んでいるだろう。出口の光があまりにも小さくて、近くまできているのにわからない。そのときに重要なのは出口の光ではない。進んで努力をしている自分なんだと。」この言葉を見ればわかるが、本来何かの権利を求めたときから義務は当然ついてくるものなのだ。権利ばかりを叫び義務を置き去りにするのは遊園地で迷子になったわが子を引き取りに行かないことに思える。これを見聞きした人はその人を人でなしだと思うだろう。これはまさしく子供を生んで育てるという義務を放棄したという事象が生み出す不快感である。我々が権利を当然のように主張するが、義務を果たしている人は少ない。私たちが義務を行わなかった人に対して不快感を抱く場合は、自然の動物が行っていることに相反する場合が多いだろう。これが全てとはいえないのも事実ではあるが、それは自分の生まれる前からの地域や国の慣習や親に言われた先入観によって作られたものが大部分であり、基の源流は自然が作り出したといって正しいであろう。この人工的に作られた義務への先入観は正しいときもあれば、間違っていることも多い。私がこれへの解決策として言いたいのは、人は昔から言われていることを正しいと決めつけたがる。この精神がそもそも間違っている。なぜなら状況や環境が変われば自然の動物でさえ適応することに努めるのに、それを解明しようと努める人間がそういうことをしないのは実に浅ましいことであることはすぐにわかる筈である。これを私は俗的に保守的人間というが、このような種類の生物は絶滅を約束されている。進化をやめた生物が生存競争に負けたように、そのときにずっと立ち止まるのは時間の流れに逆らい内に閉じこもり、進化をやめた人に他ならないからである。

生と死

 人間は、生と死について唯一考える生物であろう。人間は、よく生と死について考えるが何故だろう?そして何を感じるのだろうか?
 まずは人が死に対してどう認識を持つのかを述べたいと思う。死という言葉を聴いたとき人はどう感じ、何を思うのだろうか?死という言葉はおそらく生きることの終わりを意味するだろう。そこに恐怖を生み出す原因は死と言う言葉が表す漠然とした恐怖があるだろう。それは自分というものが無くなり、あたかも存在しなくなるかのような意味合いから生まれてきた恐怖であろう。どうやら、人間というものは自分の自我というものが見えなくなったときに恐怖を覚えるものらしい。これは理性が作り出した第2の恐怖である。それは自分が人生を歩むということが、死と言う物に駆り立てられ、歩かされる感じが少なからずするからである。人は自分で何かを成し遂げたときに歓喜を感じるが、それが誰かのおかげだったといわれたときに嫌悪感を覚えるだろう。それに似た現象である。その人やものが現実世界に存在すれば比較的解決策は見つけやすいが、死と言うものは現実には存在しない。私が今言った死と言うものは実際に人が死ぬことではなく、人が心の中で作り出した死という言葉に対する意味を言う。死という意味に対する心像を作り出すのはほかならぬ自分自身であり、解決方法も自分の中にあるということである。だがどうしても、人は自分の中にある死というものに対する意味と、現実の死というものを一緒に考えてしまう。しかしここで人は言うであろう「死というものを見たからその言葉が生み出されそのことを連想させる。だからそれを一緒に考えるのは当たり前だと」。
確かにその通りであり異論はない。だが、私はここでひとつ疑問を抱いた。その言葉の意味を連想させるのはほかでもない自分自身であろう。その自分の中の意識を通ってきた言葉は自分の記憶や偏見にすっかり色づけされており、自然が持つ本来の死という意味ではないだろう。自然の死というのは、動物を見てもらえばわかる。動物は死んだ後にバクテリアに分解され土に返り、そして土の養分になり、植物を育む。このように自然という言うものは良くできており、無駄がない。それは死にも言える。要は自然が作った人間にもちゃんとそれが受け継がれており、人間から見た死と言うものではないほかの生物の生に役に立つために自然の死はある。人間は動物のように死に寛容ではない。人間は、人間以外の動物が死んでいても目に付くとすぐにそれから目をそらす。それは、人間が見ていて気持ちが悪いとかほって置くと病気が蔓延するなどいろいろな理由をつけ、人工的に処理したがる。人間以外の場合はどうだろう?サバンナにいる動物たちを例にとって、自然本来の死についての認識を見てみたい。植物は草食動物に食べられ、草食動物はライオンなどの肉食動物によって食べられ、そのライオンが死んだら土に返るか、その前にハゲタカなどにまた食べられる。彼らはその行動を自然に準じて行っている。彼らは「死者への冒涜だからやめようなど」とは決して口にしない。なぜなら彼らはしにまったく執着することなく生に対してのみ執着しているからである。さらに詳しく猫を例にとって見てみると、猫は死期が近いことを悟ると目に付かないところに言って一人で死を迎える。私はこのことを見て猫の死に対してまったく執着しない態度ばかりかそれを毛嫌いして軽蔑しているのかのようにさえ思えた。以上のことから自然の死というものは、自然の生物に当たり前に受け取られ、そのものが死んだ後は、周りの生物の糧となるようになっており、その様子を見ていると自然が死というものを軽蔑し、それを周囲の生物の糧とする事によって、あたかも生きている生物を生のみに執着させようと巧みに誘導しているようにさえ思えるのである。

視覚

 人は目を使って何を見るのだろうか?目は現実を移しているのか私は疑問を覚える。ボールが目の前に飛んできて横に移動すればボールは自分に当たらずも元居た場所を通り過ぎる。それは当たり前だというかもしれないが、目でボールを見た後の行動は現実に即していない。ボールを見て反射的によけるのは瞬時に経験からボールが今のままでは当たると予測して行動を起こしたともいえる。これは現実を見るわけでもなく、思考を駆使するわけでもない。本能的な行動とも言えるが経験を駆使しているとも言える。だがこれは一般観念的な思考を伴わない行動であり、直観が引き起こす行動である。精神は思考を使って予測を行い、目は直感的な予測を行うのである。この2点に共通するのは両方とも経験を駆使している点である。その2つの意味合いは微妙に違う。前者は経験した事柄の一つ一つの場面または、一定期間の流動した経験を用いている。後者は、途切れることの無い経験を元に今の自分の判断能力を使い行動している。それはおよそ普段考える範疇が及ぶ範囲ではなく、いつもなら気をつければ避けられる危険も、気を抜けば避けられないということがおきたという経験が誰にでもあるだろう。いつも転ばない道路で今朝は転んだことなどである。それは習慣的に行っていた出来事に継起を与え緊張感を取り戻すことだともいえる。人は緊張しているとき瞳孔が大きくなる。これはこじつけかも知れないが目と緊張感の関係は否定できないだろう。
人が物をじっくり見て観察するとき、それは今まで見ていた何の変哲も無いそれから今まで以上のことを引き出そうとすることに他ならない。たとえば車の動く運動を観察すれば、車が通った後に残像を残す姿が見える。これは目で直観的に感じ取れる範疇である。この直観は精神的な思考を使って、絶対的未来を予測することは約束しない。この意味は、車が前方に移動する運動を交差点で右折する車に適応できないことと同じである。もっと詳しく言えば前に前方に移動する車を運転していた人は後者の人とは違い、その車の運転の仕方もわずかながら違う。しかし人間は視覚によって直観的に導き出される景色を無意識下の内に経験に当てはめる。私たちは経験に無い出来事が目の前で起こると驚く。それは自分が生きてきて経験しえなかったことか、前に自分が経験したそれが驚嘆に値したことを示す。その行為を受けるのが他人であるか、自分であるかということは視覚によって大きな差であるとは認識されない。それを自分に当てはめる場合はある程度合致の行くときが多いが、他人の場合は当然大きい誤差が生じる。他人はもちろん自分と違い身体能力や性格、考え方も違う。そのことを人は考慮に入れず、他人の行動を見たときに自分がその行動をするかのように平気に語る。これが明らかにおかしいのに大抵の人は疑問を抱かない。偉大な発明家や哲学者などの先駆者は確かに直観を下に物事を洞察していたが、これはもともと自分の見る世界だけが現実ではなく世界の事象を自分勝手とはいえ、想像力豊かに認識しようと努めたことに源泉がある。私は自分の見る世界だけが現実ではないのを知っている。彼らは、このことを念頭に常に行動しているため、視覚を使った行動にも他の人との差はある程度出てくるのは必然であった。一言で視覚といってもその目を使って物を見るのは自分であり、もし自分の心が沈んでいれば景色は澱んで見える。これは反対のことも当然言える。要は、目を使って物事を認識しようと努めるのは自分であるが、人は物事を自分の経験に自然に適合しようと努めるため不具合が生じる。このことを自覚し、世界を広げようとすれば自然に自分が見るものを洞察する感覚は変化を起こし、新しい発見が起こるであろう。だが人間が思う自分が自分であるとの認識は今までの経験を通じて言えることであるのも事実であり、経験的思考を使わざるを得ない。我々にできうることは経験を使いながら、自分の経験に溺れず物事を全ての人々が感じるであろう体験に結びつけることにある。

直観

 直観が鋭いことをよく勘がいいという。それはどういうものなのか考察したい。 私は直観には大きく分けて抽象的な直観、実在的な直観が存在すると思う。前者の直観は後に後者に執って代わる傾向が多く見受けられる。前者は光の性質にたとえて言うと、それは光が重力によって影響を受けるということであり、この場合の法則は光の性質の広い範囲を包括するとともに、一般的に太陽から出る光を見る我々に引き寄せられて光が向かっているのではなく、我々同様に光にも作用する地球の重力が根本的な要因だと導き出せる。もう少しわかりやすく言うならば、それは1+2=3であるという算数が今現在の世の中にはある。少し長くなるが主題から切り離せないので、この記号の羅列について少し言及したいと思う。この1+2=3はまず何がひとつで何が二つかということに疑問が及ぶ。それは酸素原子ひとつと二つの結合をこの式が表す場合、それは変化を意味し、3という数字の意味合いも唯の数字から変わってくる。この場合の3はオゾンになりうるもので性質がかなり元のものより異なる。根本的な原因が違ってくれば当然それに付随するものも変わってくるのである。石が重力に左右されるのと光が重力に左右されることはある現象から導いた法則であり、そのもの同士の本質が同じという意味ではない。私が物の本質を考えるとき私は自分の経験のみからなる知性なり、理性なりを介入させて思考を行いこの意見を述べている。努めているといったほうが誤謬が少ないだろう。このように行う直観のことを抽象的な直観と呼ぶ。後者の説明をしたいがこの場合のほうが数字で説明しやすいのでそれを使うとする。先ほど述べた1+2=3は人間が作り出したもの通貨やチョコレートなどの分割や数合わせには適しているが、自然の作り出したものに付き合わせるとその限りではない。これでほとんど説明は終わったようなものだがさらに付け加えると人の思考は時間や物を分割したほうがわかりやすいと思う傾向があり、それは社会経験的にその行動が習慣となっている人がこの行動を行う場合が多い。前者については空間的、時間的な変化を共にするのを基準とし、後者はただ2次元の範疇の中にしか、延長の可能性をその中にしか持たないとも言える。抽象的な直観は個性が強い色合いを示すためある程度意見の差異が認められ、多角性を基盤としている。実在的な直観とはちょうど自分なりの抽象的な直観が出た後にそのことについて話している社会に認められたと思われる人の意見を聞いて、前の意見を人々の前で言う前に自分の思考によって作り変え、無理やり変革を行い、排除しようと考えることである。それは前に話した人間本来の理性に対しての裏切りであり、もし今が原始時代なら早々とそういう動物は死滅したことに間違いない。動物の集団にも首長というものがいるが、それが力不足とみなした場合自分がそれにとって変わろうとするのはごく自然で集団全体のことを考えても非常にいい結果に成りうることである。その原因には人間の意志と呼ばれるものが大きく関わってきていると思う。意志はとにかく目標に対して進むという特質を持っている。それは要するに例えれば意見の話し合いから逃げたいと思えばその人は言い訳が多くなり、反対に立ち向かおうと思えば意見を強く言うなどのことである。あまりここで意志について深入りすると議題からずれるのでここまでにして意志について後に述べたいと思う。実在的な直観すなわち証明や実験にこだわる人は真理を見過ごしそれがたとえ法則として立てられても真理にはまったく手の届かない位置のものに他ならない。そもそも抽象的な直観の後に起こる人為的な直観に対して敬意を払うこと自体が馬鹿らしく、物事の本文を外れた事といえる。

哀れみ

人が人に対して情という感情を抱くのは少なからず、その情を傾ける相手に対して何かしらの優位を感じている場合が多い。その優位とは、もちろん現実的に裕福な国に生まれ、他国の悲惨な状況を知って援助する場合や、自分が相手の人生の哀れみを聞いて、癒してあげるという心の優位などである。それは先行投資を相手にしているともいえる。資本主義的に言えば、今後のために元手は早めに回収すべきである。その場でそういうことを慈善活動でした人々は、何かの元手を早めに回収しようとする。それは自分の行動で何人の人が喜んだ、自分でも人のために立てるなどで生じる自己満足や偽者の自信である。だがその行為がもろくも崩されるのが現状である。自分の助けた子供が3日後に死んだ、それを知らずしては幸せだろうが、それを知ったときあなたは何を感じるだろうか?自分の無力さか、それとも自分勝手に満足した自分の心の弱さにか?あなたがもしそこで立ち止まるならば、それは今までの行動は唯の自己満足を感じたことでしかない。あなたが自分の力を信じて前に進もうと思うならば、そのときからあなたは前とは比べ物にならない力強い力を感じるだろう。
しかし私はここでひとつ述べたい。このとき私が最もいいたいことは「自分が正しいことをしている」とは絶対に思い込んではいけないということだ。私は人を助ける仕事の端くれを前にしていたがそのときに常々思ったのが「自分が正しいことをしている」と思い込んだときそれは狂気の道を走るというに他ならないということだ。少数の人を殺せば多数の人が死なずにすむ、だから殺す。そこに正義は無い。あるのはただ人を数字に見立ててどちらが得かということだけだ。今の人々がよく言う正義の意味は大体こんなものだ。確かにこのほかにも人の命を助けることのみに全力を尽くした人もいるが、この人たちも形は違えど、似た世界を見たことだろう。
あなたがもしこの汚くも間違ってはいない道を歩むとき、あなたはそれを乗り切れる自信があるのか?それができないと思うなら自己満足の慈善活動で終わらせて普通の道に戻りなさい。もしその自信があり、その道を選ぶならばそれは大きな不利益をもたらす。自分のやっていることへの批判や自分の考えに対しての不満、周囲からの理解の無さ、それは大きな台風のようにあなたを飲み込みその底からあなたが抜け出せるかは俺にはわからない。その場所は今までの慈しみや哀れみの心だけでは切り抜けられない。そこには楽しみや充実感が無く唯、混沌があるだろう。その場所が紛れも無く地球であるということにすら疑問を覚えるだろう。本当に人のために動こうと思ったとき、他人から見ればそれはとてつもなく偉大に思えるだろう。だが、他人からの賞賛や利益を目的とするべきではなく、あなたが目的とするのは自分の意志の目標のみである。それが何であれ。

芸術

 私は自分が絵を見ているときに前に聞いたこんなことを思い出した。それは人が写真をとる行為が意味するのは心理学的に言えば、その景色を自分のものにしたいと思う願望の表れであると。これは本当にそうなのか?私は疑問を投げかけたい。人が絵や写真を見るときに何を感じるのか、考えてみたいと思う。まず、氷の上で微笑むアザラシの写真を見たときに私はなぜか安心感を覚えた。それは時間と空間の中で絶えず動き続ける混沌とした世界から自分の意志が時間の止まった写真の中に混沌を認識しないことに原因があると思う。それはまさしくその笑みの中に安心感を覚えるばかりではなく、その先のことをも安心が包み込んでくれるような感覚にしてくれる。これはある人間の本質を語ってくれる。それは何かというと、人は生きている中のその一時期に一番大きな感情によってある程度先導される。写真の大きな部分をアザラシの顔が占めれば安心感をしる。しかしその周りには当然氷山や海が多少映っている。そのことが何を物語るかというと補佐的な役割に過ぎない氷山や海は、アザラシを引き立てる自然に過ぎない。だがそれを前面に押し出せば反対に自然の力強さや偉大さを感じるということである。しかしながらその補佐をなくそうものならばそれは意味がかなり違うものになる。笑っているアザラシを檻の中で撮影した写真を見たとき人は安心感よりけなげに笑みを見せるアザラシに、情さえ覚えるだろう。














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