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MUGEN

作者:赤羽  一郎
 
       一

 夕方になって急に陰りだした空から、叩きつけるように雨が降り出した。
 春子は肩に掛けていた鞄を頭上にかかげ、大通りに並ぶビルの壁づたいを小走りに走る。東京の夏の熱気やら湿気が、スーツに包まれた細い身体に纏わり付いた。
 天気予報は晴れであったのに、どうやら運が悪かったようだ。昨日カットして整えた髪も、クリーニングに出したばかりのスーツも、こうなっては台無しである。
 雨に加えて額からは汗が流れ、化粧が落ちていく。周りを見回したが、傘を買えるようなコンビニは見当たらない。
 泣き出しそうに顔を歪め、それでも春子は走った。急がねばならなかった。今日はこれから、彼氏とダイニングバーでデートをする予定になっていたのだ。
 もっと早く会社を出れば良かったのだが、社内の会議が長引いたのと、トイレで念入りに髪やら化粧を直していたことで、ギリギリの時間になってしまった。
 大好きな彼氏を待たせまいと、それだけしか考えていなかった。大学を卒業して就職した会社で、長い間の片思いを成就させてやっと掴んだ恋人である。おまけにまだ付き合って一ヶ月で、不安定な時期でもあった。
 跳ねる雨水を蹴りながら、春子は走った。しかし、目的のダイニングバーが、やたらと遠くに感じる。
「最悪……」そう言って、春子は地下鉄へと下る階段の入口で足を止めた。運動不足のせいだろう、疲労で細い足が震えている。
 空を見上げ、一面を覆う雨雲をにらみ付けた。容赦なく叩きつける雨がやむ気配は全く無い。まるでずぶ濡れの迷い犬のようだ。こんな自分を見たら、彼氏は何と言うだろう。
 そんな事を考えながら目線を下げると、一台のタクシーが春子を目掛けて走ってくるのが見えた。春子は反射的に手を降った。助け舟とはこのことである。タクシーという手段があったことを、忘れていた。きっと、ずぶ濡れの春子を見て客になりそうだと考え近づいて来たのだろう。
 タクシーは、ガードレール沿いにぴったりと滑り込んできた。ドアが開かれる。春子は両手でガードレールを押さえ、それをひょいと跨ぐと、後部座席に乗り込んだ。
「すいません。裏町にあるGUDENEまでお願いします」
 相変わらず顔を歪め、春子は言った。そして、鞄からハンカチを取り出し、雨で濡れた頭から足まで丹念に拭いた。タクシーなら、GUDENEまで五分もかからないだろう。何とか間に合いそうである。
「とんだ雨ですな」運転手はそう言うと、バックミラー越しに春子を見た。
 運転手は初老の男性といった風情で、白い髭を生やし、黒縁の眼鏡を掛けている。恰幅のよい体格をしている。帽子で髪型までは分からないが、ほぼ白髪であるようだ。
「ええ」春子はそう言うと、困ったというような表情をつくって見せた。腕時計で時間を確かめる。
「お急ぎですかな?」運転手は落ち着いた口調で聞いた。「ええ」春子は短く返事をした。
 しかし、運転手はバックミラー越しに春子を見たまま、一向にウインカーを出さない。落ち着いているのは口調だけでないようだ。その態度は春子の癇に障った。急いでいる事くらい、今の自分を見れば瞬時に理解できるだろうに、この運転手といったらどうだろう。
「これから用事があるんです。早く出してもらえませんか?」少々厳しい口調で春子は言った。運転手は目を少し、丸く大きくして見せると、「おやおやお嬢さん、厳しいですな」と尚もバックミラー越しに春子を見た。ふてぶてしい態度である。春子の頭に血が上ってくる。
「すいませんけど、私、あなたと話してる時間なんて無いんです。早く出してください」
 半ば叫びそうになりながら、春子は言った。
「まあまあ」運転手は後ろを振り返ると、両手で春子をなだめるような仕草をした。「私の話も聞いてくださいよ。何せこんなどしゃ降りの夕方に、綺麗なお嬢さんを乗せたのはいいが、その姿でその用事とやらに行くつもですかな? まるでドブネズミか、何かの化物みたいじゃないですか。悪い事は言わないから、少し落ち着いて考えたらどうかね」
 運転手はそう言うと、にっこりと、白い歯を見せて笑って見せた。
「それは……」化物と言われ、春子は動揺を隠せなかった。初老の男性から見て化物なら、彼氏はどう思うだろう? 百年の恋も冷めるとか、そういうことになりはしないか。
「でも、行かなきゃ行けないんです。待ってるから」
「待ってる? ふーん。彼氏とかかね?」
「そうです」意気消沈した春子の口調に、さっきまでの厳しさは無い。
「それならなお更だね。このまま行かせるのは気が引けるね」
「随分気の利くタクシーなんですね」春子は窓の外から一向に止む気配の無い雨を見ながら言う。このタクシーを降りて他の手段を探す選択肢は、考え付かない。
「とにかく、急いで向かってください。あなたには関係の無いことなんだから」春子はシートに片手を掛け、身を乗り出して懇願する。
「まあ、落ち着きなさいって。さっきこの雨で電車が止まったって、さっきラジオで聞いたよ。彼氏もどうせ来れないさ。メールで確認でもしてみればいいじゃないか」
「そんなこと……」そう言って、春子は鞄から携帯電話を取り出した。すると丁度、メールの着信が入った。
『ごめん。電車が止まったようで、大分遅れそうなんだ。こんな雨だし、今日のディナーは延期してもいいかな?』
 彼氏からのメールである。春子は一瞬運転手を見ると、すぐに、『了解です。残念だけど、また今度ね』と打ち返した。少しだけ、腹が立った。自分はこんなに努力してダイニングバーに向かっているのにと、春子は思った。電車が止まったって、タクシーがあるではないか。やはり、気持ちは自分の方が大きいのだろうか? 告白したのが春子であるから、しょうがないと言えばしょうがないが、メールだけでキャンセルってのも納得がいかない。せめて声を聞かせてくれてもいいのに。
「どうだい? 言ったとおりだろう?」運転手は前を見ながら、笑って言った。
「そうね」春子はカチッと大きな音をさせて、携帯電話を折り畳んだ。
「まあ、そんなに気にすることじゃないですよ。男と女の感性は次元が違うからね」
「そうね」春子は溜息を付くと、「駅まで行って」と言った。しかし、運転手はまだ何か考えているようで、タクシーを発進させようとしない。
「今度は何よ?」春子は苛立ちながら、運転席のシートを手の平で軽く叩いて言った。
 運転手は少しく沈黙した後、「いや、突然こんな事を言って申し訳ないんですがね」と、もったいぶるように言い、春子の方を振り返った。そして、
「今日、お嬢さんが私の最後のお客さんなんですよ。私はこれでお役御免でしてな。お嬢さんを送ったら、退職するんです」
 と、運転手は白い歯を見せて言った。
「はあ? 何よそれ。だからって、私に何の関係があるの? それに、まだ時間あるじゃない。」春子は面倒くさそうに答える。
「いや、そういう決まりなんですよ。私達の間では。ちょっと特殊ですがね。それでね」運転手は、助手席に置いてある黒い年季の入った小さな鞄から、何枚か用紙を取り出した。
「ここにサインをしてくれれば、特別アトラクションにお連れすることが出来るんです」運転手はその用紙とボールペンを春子に差し出す。春子は訳が分からず、身を後方に引いた。この運転手は、とんでもなく怪しい奴に違いないと、春子は思った。恐怖さえ感じる。
「そんな怪しいもの、私は結構です。駅に向かってよ。退職でも何でもすればいいじゃない」春子の言葉には怒気が含まれている。
「まあ、そう言わないでくださいな。私、お嬢さんを連れて行かないと、ドライバーとして失格なんですよ。もしお連れすることが出来なければ、私はひどく怒られるんです。どうか、このとおり」
 運転手はそう言うと、手を合わせ春子に拝みかけるように頼み込んだ。それを見て、春子はいよいよ恐ろしくなった。このまま運転手の近くにいたら、襲われてしまうかもしれない。外は相変わらずのどしゃ降りであったが、タクシーを降りるべくドアのレバーに手を掛けた。
「ちょっと待って」
 運転手が身をのりだし、春子の肩に掛かった鞄のベルトを掴んだ。春子は取り乱し、叫んだ。
「何よ! やめて! 離して!」
「いや、ちょっと。待って。私の話も聞いてください!」運転手も叫ぶ。
「何よ! 変態! 離して!」春子は運転手を拳で何度も叩いた。
「あっ、痛い。暴力は、暴力はやめましょう。お嬢さん、お嬢さん、気を確かに!」運転手は春子の鞄のベルトを掴んだまま、懇願するように言った。春子は尚も運転手を叩いたが、襲われることはなさそうだと分かると、手を止めた。しかし、目の前の男と密室でこれ以上過ごす事は考えられない。
「だから、何なのよ。 警察に通報しますよ」そう言うと春子は、運転手から鞄をもぎ取り、今度こそどしゃ降りの外へ出ようと、ドアのレバーに手を掛けた。
「お客さん!」運転手が叫ぶ。
「何よ! まだ何かあるの? この変態!」
「変態だなんて人聞きが悪い。やめてください」運転手は肩で息をしながら言うと、一度深呼吸をして、言葉を続けた。
「お嬢さんね、いいですか、何かとても大切な事をお忘れではないですかな?」
「何も忘れてません! 急に何なのよ。この変……」
「私は変態ではありません。 やめてださい」運転手は春子をなだめるように言う。そして、大きく溜息をつくと、
「今日は、何の日ですかな? まあ、彼氏とデートの予定であったとは思いますが、もっと重要な事を忘れていませんか?」
 と、春子の目を覗き込むように言った。春子はその言葉の意味をすぐには飲み込めない。黙ったまま、運転手を見る。春子には思い当たる節が無い。何故運転手がそんな事を言うのかは分からない。それでも、何かあっただろうかと、記憶を辿り始めた。
 運転手は春子の様子を見て、
「今日は七月五日ですね。例えば、あなたのお母様が……」と言う。
 その言葉を聞くと春子は、あっと、声を上げた。そして、「七月七日、七夕の二日前……」と呟いた。
「やっと、思い出しましたかな」運転手は前に向き直ると、深く溜息をついた。春子は、呆然とした様子で後部シートで固まっている。
「何でしたっけな?」運転手はもったいぶるように聞いた。春子は、その言葉に促されるようにして言葉を発した。
「お母さんの命日。七年前に他界した」
「もう随分前ですな」運転手は前方を見ながら言った。ワイパーが等間隔に動く音が、タクシーの中に響いている。

       二

「どうして?」短い沈黙の後、春子は口を開いた。
「どうして? とは?」
「どうしてあなたがお母さんの事を知ってるの?」
「いや、こんなどしゃ降りの日にずぶ濡れでタクシーに乗るお嬢さんはね、大概みんな何か忘れてるものなんですよ」
「冗談言わないで。あなたはさっきはっきりとお母様って言った。どこかで会ったことあるの? 私の事も知ってるの?」
 問い詰めるように春子が質問する。
「いや、会ったことはないですよ。あなたにも、今日初めてお会いしました」
「じゃあ、何故……」春子は目の前の運転席に座る男の後ろ姿を、まばたきをせずに凝視している。
「そうですな。まあ、特別アトラクションに参加していただけるなら、もしかしたら分かるかもしれませんな」
 運転手は小さく咳をすると、そう言った。
「何か変なこと、しないでしょうね? 私、こう見えても空手初段なのよ」春子が声を低くして言う。
「私は変態ではないですって。安心してください。ほんの一時間程度で終わりますよ」運転手は前を向いたまま言った。春子は今の事態の全てを飲み込むことは出来なかったが、身の危険は無さそうだと思った。
「さあ、どうします? 早くしないと日が暮れてしまいますよ?」運転手が用紙を春子に差し出す。春子はしばらく微動だにせずに座っていたが、
「分かった」と言って用紙を受け取ると、殴り書きでサインをした。
「ありがとうございます。それではこれから、お嬢さんを特別アトラクションにお連れします」運転手はそう言い、ウインカーを出した。そして、ゆっくりとタクシーを発進させた。タクシーは大通りを走り始めた。後部座席の窓から、一組のカップルが相合傘で肩を寄せ合い歩いているのが見えた。春子は、それを目で追いかける。あんな風になれたらいいのにと思った。
「それで、その特別アトラクションて、一体何なの?」春子は運転手に尋ねた。
「まあ、すぐに分かりますよ」運転手はそう言うと、ダッシュボードの中から地図を取り出して広げる。
「ちょっと、前見て運転してもらえませんか?」春子はうっとおしそうに言った。運転手は、何かを確認し終えると、地図を助手席に放り投げ、
「いや、大丈夫。すいませんな。それではそろそろ行きますよ。ほら、もうすぐ、あの辺りです」と言い、前方に見える、大通りがゆ大きくカーブしている場所を指差した。そこには、最近出来たばかりの商業デパートが建っている。
「え? あそこ?」春子は怪訝そうに言う。デパートにこの運転手と一緒に入るのだろうか。特別アトラクションというのは、何でもない、ただの陳腐な催しか何かなのだろうか。いずれにせよ、嫌だと思った。
「いやいや、ちょっと違います。まあ、もう、すぐに分かります」運転手はそう言うと、急にタクシーのスピードを上げた。メーターが角度を増していく。遂には、時速百キロメートルを超えてしまった。幸い、前方に大通りを走る車の姿は無い。だが、法定速度はたかだか時速五十キロメートル程度のはずである。
「ちょっとあんた、スピード出しすぎじゃない!」春子は驚いて、大きな声を出した。運転手は春子の言葉など聞こえないといった様子で、前方を見ている。
「やめて! お願い! お願いってば!」春子が叫ぶ。運転手は春子を無視するように、黙っている。春子はその態度から、運転手は、デパートに突っ込もうとしているに違いない。きっと、もう死のうとしているのに違いないと、考えた。その間にも、デパートは急速に近づいてくる。それはもう、目の前にあるように思えた。春子は顔を両手で覆うと、後部座席で最期のときを待った。その瞬間、運転手の声が聞こえた。
「さあお嬢さん、行きますよ!」運転手はそう言って、アクセルをめいいっぱい踏み込んだ。春子は、運転手の声に反応し、顔を覆う両手の隙間から、外界の様子を覗いた。

       三

 指の間から、春子は世にも奇妙な光景を見た。タクシーはビルの中を走っていた。何もかもが、半透明となってタクシーをすべり抜けていく。人も、商品も、形はあるが色の薄い膜のようなものとなっていた。デパートのアナウンスが聞こえる。が、誰もタクシーの事に気が付いていない様子であった。タクシーはスピードを落とさずに走る。食料品売場、書店、レストランを走る。すると、辺りの景色がどんどん色の薄いものとなっていった。物体と物体の境界は曖昧になった。やがて、目に見えるのは白い光のみとなった。それからまたしばらくすると、今度は景色が暗くなり始め、星のようにまばゆい数多くの小さな光が見えてきた。金や銀、青や赤の光の玉が散らばり、とても綺麗だ。タクシーは白い光に包まれながら、光の玉のシャワーの中を走る。
「こんな事って……」春子は唾を飲み込んだ。何か夢でも見ているのだろうかと考える。
「驚きました? まあしょうがないでしょうね。でも、決め付けはいけませんな。世の中にはこんな事もあるんですよ」運転手は春子の反応を楽しむように言った。
「どういう事なの?」
「どういう事? 私にとってはこれが普通です。夢幻タクシーですから。当たり前ですよ。まあ、人は自分が見聞きしたものしか信じないものですから、お嬢さんのように思うのもしょうがないですけどね」
 運転手はそう言うと、おっと忘れていたと言いながら、メーターの横にあるスイッチのようなボタンを押した。すると、メーターのディスプレイに、『MUGEN』という文字が表示された。
「MUGEN?」春子はそう呟くと、緑色に光るその文字を見つめた。
「夢と幻と書いて夢幻です。今時ボタン式でね。アナログですな」運転手はそう言って笑った。
「説明してよ」
「まあ、そう急かさないでください。私も夢幻タクシーの運行は初めてなんですよ。練習はずっとしてきましたけどね」
「こんなの信じられない」
「気持ちは分かりますけどね。今までの人生で、信じられない事なんていくらでもあったでしょう。それと、だいたい同じですよ」
 宇宙空間のような場所で、運転手はタクシーを止め、「それではこの辺りで、お客様に説明させていただきます」と言った。何か取り扱い説明書のようなものを広げながら、慣れない手つきで文字を指でなぞり話し始めた。
「何から話せばいいですかな。話すと長くなりますから、手短で申し訳ないですけど。うーんとですね。この技術は第二次大戦中にドイツで生まれ、それをアメリカのNASAだかどこかの、ナントカ博士が実用化しまして、いや、申し訳ないですな、忘れてしまいました」取り扱い説明書の記述を探しているようだ。
「そんなのいいから」春子はじれったくなって言った。
「いや、すいませんな。とにかく、タクシー業界の一部では、運転手の退職日に、夢幻タクシーを運行することになっているんですよ。夢幻タクシーっていうのはですね、つまり、まあ簡単に言うと、お嬢さんの記憶の中のある一定の事象に関して、時空を超えて見に行く事が出来るタクシーです。タイムトラベルのようなものです。ただし、未来に行くことができるのは、死ぬ一日前の人間に限られています。未来は自分で切り開くものですが、それを見るってのは、生きている意味を無くしますからね。死ぬ寸前の人間はそういう面で影響が無いですからいいんですけども。それから、一人の運転手が乗せることができるのはたった一人でしてね」
「そんな事、聞いた事が無い」
「そりゃあ、世界的極秘計画ですからな。同志は世界中にいるようですが、技術が革新的過ぎましてな、回数を制限されているんです。タクシー業界では、退職日にしか運行できないないことになっています。どこか、私も知らない場所でデータが集計され、今後来るべき未来のために日夜研究がされていると、まあ、そういうことです」
 運転手は自慢げに言った。
「そんなデータを集めてどうしようというの?」
「そんなの分かりません。人間の記憶について研究しているんだと聞いた事がありますがね、詳しい事は教えてもらえません。私達はただ、言われたとおり業務をこなしているだけですよ」
「ただのタクシーが極秘計画なんて、どうかしてる」
「そう、そこなんです。誰も、タクシーがタイムトラベルなんてと思うでしょう。だから極秘に計画を進めるのに都合がいい。しかも、乗客はランダムですから、色んな人間が乗る訳です。色んな記憶がある訳だ。データを集めるのにはもってこいなんですな。よく考えたものだ。頭のいい連中ですよ」
 運転手は本当に感心しているという様子で、何度も頷いた。
「どうしてそんなタクシーをあなたが?」
「私ですか? いやね、就職した会社がそういう会社だったってだけです。まあ、その中で早くから選抜されてはいましたがね、初めはそりゃあ私も驚きましたが、今じゃ普通です。会社に特別訓練場がありましてな、定期的に訓練しているんです。まあ、模擬ですけどね。これをやらなきゃ私達はある団体からひどく怒られるんですな。同志からも軽蔑される」
 春子は矢次早に質問をする。
「もし、私がこの極秘計画の事を誰かに喋ったらどうなるの?」
「うーん。それは難しい質問ですね」運転手はバックミラー越しに春子を見た。「一応マニュアルでは、もしこの技術の事が外部に漏れた場合、その原因者を付きとめて、歴史を変える事になっています」
「歴史を変える?」
「ええ。原因者がこの世に存在しなかったことにすると、そういう事のようです。ただね、お嬢さんが誰かに話しても、誰もこの事を信じないでしょう? だから、放っておくことにしているみたいですよ。隠そう隠そうとすればするほど、暴こうとする奴が現れる。ぶっ飛んだ真実ってのは、放っておくのが一番。誰も信じないですからね。まあ、安心してください」
 運転手はそうに言うと、再び取り扱い説明書に目をやった。
「私だって、まだ信じてなんかない。何か嫌な夢でも見ているんじゃ……」春子は自分の頬を軽くつねってみた。痛みを感じた。
「まあいいでしょう。それでは、まずイントロダクションということで、お嬢さんの頭の中の記憶の一片を辿ってみましょう」
 運転手がエンジンを掛ける。真っ暗な宇宙空間に、エンジン音が響いている。
「さあ行きますよ」運転手はそう言うと、ライトをハイビームにして走り始めた。ライトが照らし出す闇の向こうには、何も無い。しかし、しばらく走ると、辺りの景色がまた白く光り始めた。タクシーは光の中をスピードを上げていった。

       四

 やがて徐々にではあるが、辺りの景色がはっきりとしてきた。それはどこか地方都市の、古本屋のようであった。タクシーからは、古本屋の内部の映像が、白い光の中に浮かび上がって見えている。春子は身を乗り出した。
「あれは、私の実家の近くにあった本屋さんだ」
「思い出しましたかな」運転手は満足そうに言った。
「ええ、小さい頃、よくお父さんが連れてきてくれたの」
 春子がそう言ったとき、古本屋に中年男性と少女が入店してきた。
「あれって」春子は思わず声を上げた。それが、春子の父親と、幼い春子であったからである。
「まあ、こんな感じですかな。どうです? 面白いでしょ」
「不思議ね。信じられないけど、確かにあれは、私ね」そう言う春子の前で、幼い春子は父親に何かをねだっている。父親は、本棚を見回したているが、どうやら目当ての本は無いらしい。春子は泣き出しそうな顔になると、父親の腕にしがみ付いて顔をうずめた。父親はそんな春子を連れて、店内の奥にあるレジに向かうと、店員に何か話しかけた。すると店員はレジの下の棚から、一冊の厚い雑誌を手にして、春子の父親に渡した。
「あの本は……確か、少女漫画雑誌だった」
「よく覚えていますね。学校で流行っていたんでしょう。話題に乗り遅れない様に、ねだって買ってもらっていたんですね」
「くだらないけどね。そうじゃなきゃ仲間外れにされちゃうのよ」春子は当時のけなげな自分を見て言った。
 幼い春子は飛び跳ねて喜んでいる。父親が春子の頭を撫でた。
「お父さんも、こう見るとまだ若いわね」春子は自分を可愛がる父親の姿に、胸が熱くなった。
「人間は知らず知らずのうちに年を取るからね。親孝行はこれからでも出来ますよ」運転手の言うその言葉に、春子はうつむいた。母親はもう、この世に居ないからである。
「それより、あの、店員を御覧なさい」と、運転手が指を指した。「あの店員はね、今大学生でね、この店でアルバイトをしているんだが、大学を卒業しても不景気で就職出来ず、郷里へ帰るんですな」
「それで?」
「郷里へ帰った彼は、数年後に、世を恨んで連続殺人を起こすんですな。連続児童殺傷事件て言ってね」そう、運転手は淡々と話した。「有名な事件ですが、お嬢さんはまだ小さかったから、知らないでしょう。そりゃもう酷い事件でした。彼の郷里の隣町で一週間の内に三人の児童が誘拐され、殺されたんですよ」
「あの人が、そんなことを……」春子が見ている青年は、実に誠実そうな出で立ちであった。父親と何か談笑している。父親と青年は顔見知りらしい。そのうち、幼い春子が伸ばした手を握り、握手をした。幼い春子は嬉しそうに、何度も手を握って振っている。
「お嬢さんのために、漫画雑誌が売り切れないよう、いつも一冊売らずに取っておいたようですな」
 春子は全く記憶に無かったが、見えている映像からすると、それは確からしい。
「変えられないの? その未来って」春子は尋ねた。青年は、幼い春子の恩人であった。
「そうですな。変えられないこともない」運転手は腕を組んだ。
「それなら――」と、春子は言ったが、その言葉を運転手は遮った。
「変えたって、変わらないんですよ、人生なんて。ああ、すいませんな。つまりですな、人間の一生なんて、山あり谷ありと決まってるんですよ。そういうものなんです。プラスマイナスゼロなんですよ。山、山、山、谷、谷、谷、かもしれない。しかし、トータルで見れば、良いことも、悪いことも、全体としてだいたい皆同じなんです。あとね、端から見れば順風万端な人生を送っている人でも、苦悩は抱えるもんです。逆に、どん底にいるように見える人でも、些細な幸福が人一倍ありがたく思える。トータルでは同じなんです。だから、あの青年の人生の一部分を変えたところで、彼の人生全体は変える事は出来ない。それなら、何もしない方がいい」
「でも、せめて人殺しなんてしないように……」
「それが出来れば、世の中から戦争も無くせるかもしれませんな」運転手はそう言って少し考える様子を見せた。「でもですな、これは私にも分からないのですが、人間の一生ってのは、だいたい決まっているようでしてな、あの青年の殺人を止めたところで、彼はまたどこか別の場所で同じような事件を起こすんですよ。そういうものだと言ってしまえばそれまでですが。それと、歴史を変えようとする者は、それなりの見返りを求められるということも、データの解析結果から明らかになってきているようでしてな。もしかしたら、お嬢さんが殺されるかもしれない。この世のルールのようなものだと私は考えていますがね。まあ、まったくの無駄という訳ではないですが、下手に歴史を変えようなんて、思わない方がいい。もう随分と前の話になりますが、私の先輩が乗せた客が、大雨の日に川に流されて死んだ弟を助けたいと涙ながらに言うものですから、先輩も遂には根負けしてその場面に連れて行ったところ、急にタクシーから降りて弟を助けに行ってしまいましてな、一緒に川に流されてしまったことがありました」
「お客さんは?」春子は唾を飲み込んで尋ねた。
「それはね、その日に死んでしまったことになったようですな」運転手は手を首に当てて、横に引いて見せた。「少し無駄話をし過ぎました。時間も無いでしょうから、先を急ぎましょう」タクシーのエンジンが掛かり、ゆっくりと走り出した。そして、再び辺りは白く光始め、やがて暗くなった。さっきと同じだ。タクシーは様々な色の光の玉の中を走る。
「綺麗でしょう?」
「ええ、まるで宇宙にいるみたいね」
「宇宙だって、これほど綺麗には見えませんな」
「そうかしら。ところで、この光の玉は何なの? ただの光?」
「ただの光だなんて……」運転手はそう言うと、運転席の窓を開け、外へ手を延ばした。そして、流れてくる青い玉の一つを手の平でキャッチすると、「これを御覧なさい」と言って、春子に差し出した。
 春子は、その青い小さな玉を受け取ると、覗き込むように見た。小さな玉をよく見ると、中で何かが動いている。小さすぎてよくは分からないが、どうやら何かが入っているようだ。
「それは人間の記憶ですよ」と運転手は言った。訳が分からない様子の春子を見て、笑う。
「この光の玉全部が、人間の記憶なの?」
「そういうことですな。人間が喜怒哀楽の感情を持つと、そのエネルギーは時空を超えてこの場所で玉になる。そして、永遠に漂い続けるんです」
 運転手は次に、右方向に向かい指を指した。
「あれが何か見えますか? 見えないですかな。ちょっと行ってみましょう」と言い、タクシーのハンドルを右に切る。
 少しして見えてきたのは、なにやらバキュームカーのような大型車であった。誰か、日本人ではない人間が乗って操縦している。バキュームカーは、光る玉を次々と吸い込みながら走っている。
「今は作業中ですかな」運転手は、バキュームカーの操縦者に向かい手を上げた。操縦者もにっこりと笑い、手を上げた。
「あの人は何をしているの?」
「掃除です。記憶の玉のね。人間が今まで色んな感情を放出するものですから、この場所もだんだん汚れてきましてな。特に戦争なんか起きると、とんでもないくらい玉が増えるんですよ。だから、その筋の者がああやって定期的に掃除してるんです」
「不思議な世界ね」
「初めて見れば、ね。そうですな、もう一箇所くらい、見せて差し上げましょう」運転手はそう言うと、バキュームカーを離れ、スピードを上げた。

       五

 現れたのは、中学校の校舎である。正面玄関の映像が見えてくる。何列にも並んだ下駄箱の横で、一人の少女が立っている。中学三年生の春子であった。そわそわした様子で、視線を下に向けたり、周りを見回したりと、落ち着かない様子だ。
「これは……」春子は思い出した。そして顔を赤らめた。
「お嬢さんが通っていた中学校ですな」
「こんなの見たくもない」
「まあ、そう言わないで」
 しばらくすると、一人の少年が鞄を片手で肩にかけながら、中学生の春子のもとに近づいてきた。中学生の春子は驚いた様子で顔を上げた。そして、鞄の中から何かを取り出そうとしたが、なかなか見つからないようである。やっと取り出したのは、一通の封筒であった。ラブレターである。春子はそれを少年に渡すと、うつむきながら一言、二言言葉を発した。そして、頭を下げると、どこかへ走って行ってしまった。少年はそれをすぐに鞄にしまうと、下駄箱から革靴を取り出して玄関を出た。
「どうですか? 懐かしいですかな。これで信じてもらえましたか?」運転手は言った。
「うん。もういい。こんな場面見せるなんて意地が悪い。私が失恋したこと、分かってるんでしょ?」春子は横を向いて言った。
「まあ、だいたいね。この後、あの少年から何も返事が無かったとか?」
「ええ、私は随分待ったような気がするけど、すぐに卒業してしまったの。付き合えなくてもいいけど、何かしら言ってもらいたかった。所詮、彼は女心を理解できない、ダメな男だったのよ」
「おや、まあ」運転手はそう言うと、大声で笑った。
「何がおかしいのよ。私この後何年も引きづったんだから」春子は苦々しそうな表情で言った。運転手はまだ笑っている。
「お嬢さん、男が女心を理解できないようにですな、あなたのような女性も、男心を理解できないんですよ」
「どういう事?」
「あの少年は、この日以降、あなたに話しかけようとしたみたいですが、お嬢さんがいつも下を向いて逃げるように行ってしまうものですから、最後まで話しかける事ができなかったようですな。今でも、お嬢さんが渡したラブレターを大事にしまってあるようだ。あなたも随分と酷い解釈をしますな」運転手は振り返り、春子を見た。春子はその言葉に驚いたのと、嬉しいやら悔しいやらで、胸が痛くなった。
「そうなんだ」春子は呟いた。
「彼と結ばれる可能性があったのは、お嬢さんが高校三年生の頃迄ですな。最期に彼と会ったときの事を覚えていますか?」
「可能性? 彼のことはあれから一度を見かけていない。違う高校に通っていたし、家も遠かったから」
「いやいや、会っていますよ。高校三年生の冬に。路線バスの中で」
「確かに私は、冬はバスで通学していた」
「バスの中で、あの少年はあなたを見かけました。たった一度だけ。あなたは受験参考書か何かを熱心に読んでいて、なかなか気付かなかった。少年は、通路を挟んだあなたの隣の席に座っていました」
「そんな近くに?」
「ええ。初めは気付かなかったようですがね。あなただと分かると、何度か話しかけようとしたようです。でも、出来なかった。彼の方が先にバスを降りましたが、ずっと、窓越しのあなたを目で追っていましたよ。でもね、それっきり、諦めたようです」
「それが分かっていれば、私だって話しかけたのに」
「青春ですなあ」
「他人事だと、楽しそうね」
「はっはっは。教えないほうが良かったですかな。でもね、覚えておいてほしいんです。お嬢さんは何かに熱中すると周りが見えなくなるようだから。私達の未来っていうのは、ある程度の枠組みはあるようですが、何パターンも用意されているんですよ。あなたが彼に気付いていれば、現在も変わっていたに違いない。だから、もし本気で何かを求めるなら、細心の注意を払うべきですな」
「分かった。でも、もう無理なんでしょ?」
「ちょっと、難しいですかな。彼は既にご結婚されています」
「そう」春子は小さく呟いた。
「男と女ってのは、永遠に理解し合えないものなんですよ。縄文時代からね。さあ、どうですか。でも、これで気が晴れたでしょう? お嬢さんはこの件がトラウマになっていたようですから、連れてきたんですよ」
「ええ、ありがとう。私、初恋で失恋したことで、誰からも好きになってもらえないんじゃないかって、ずっと思ってたの。でも、何だか安心した」
「それは良かった。この事も、よく覚えておくといいですよ。人間の悩みの多くは、誤解から生まれるんです。悩む必要の無いことで悩んで、命まで捨ててしまう人もいる。もったいない」
 運転手はそう言うと、タクシーのエンジンを掛けた。中学校の校舎が遠ざかって行く。
「夢幻タクシーって、楽しいわね」春子は小さくなる校舎を何度も振り返って言った。
「そう言っていただけると光栄です。それでは本題に入りましょう。次が本番、最後です」と運転手は言った。

       六

 白い光に包まれながら、タクシーは走っている。
「もう終わり?」と春子は少し寂しそうに聞いた。
「はい。でもね、次は、お嬢さんが一番行きたい場所へ連れて行って差し上げます。一度だけね。それがこの夢幻タクシーの特別アトラクションでしてな。行きたい場所のイメージを強く頭に浮かべてくれれば、そこへ向かいます」
「どこでもいいの?」
「いいですよ。ただし、お嬢さんが実際に居た場面でないと、行くことはできません」運転手はバックミラーを見た。春子は、腕を組んで考え込んでいたが、
「その前に、一つ教えてよ」と尋ねた。
「何ですかな?」
「運転手さんなら、どこへ行きたい? 参考までに」
「私ですか? そうですな」運転手はそう言うと、手を横に振って見せた。「私は、どこにも行きたいなんて思いませんね」
「どうして? 他人の過去を見るだけで、楽しいの?」
「まあね、私は仕事だからやっているだけで、興味はありませんな。以前は確かにそういう気持ちもありましたけどね。過去が見れて、変えられたとしても、結局はプラスマイナスゼロ。見てもしょうがない。そう割り切ってますな」
「でも、引っかかってる事とか、あるでしょ?」
「そりゃあありますよ。ありすぎて、何を見たらいいのか分からない位ですな。でも、そういうのは気の持ちようってもんです」
「そう考えられるならいいけど」春子はそう言うと、バックミラーを見た。「私は、お母さんに会いたい」運転手と目が合う。
「ははあ、今日はお母様の命日でしたな」
「ええ。そうだった。お母さんの命日を忘れるなんて、薄情な人間だよね」春子は悔しそうに言う。
「そんなことないでしょう。人間は皆、いつかは死ななければならない。いくら悲しいといっても、いつまでも悲しんでいても仕方がないでしょう」
「違うのよ。私、お母さんの最期を見とれなかったの」春子はそう言うと、話を続けた。「お母さんが他界したのは私が高校二年生の夏なんだけど、私その頃反抗期で、お母さんと喧嘩して、夏休みの間の数週間、家出してたの。友達の家を点々として。その間に、お母さんは脳梗塞で倒れて、その日のうちに死んじゃったのよ」
「それは残念でしたな」
「私凄く悲しくて、お母さんの命日には必ず思い出して、冥福をお祈りしようって、決めてたの。今まで欠かしたことなかったのに……」
「でも、彼氏が出来て、忘れてしまったという訳だ」運転手は相槌をうちながら言った。
「そうかもね。初めて出来た彼氏だから、最近はあまり他の事を考える余裕が無かった」
「そんなことでお母さんは怒らないですよ。それに、まだ今日は終わっていない」
「うん。分かってる」春子は少し笑みを浮かべた。
「そのお母さんに会いたいと、そういうことですな?」
「ええ。お願いできるかしら?」
「分かりました。それを聞いて安心しました。実はね……」運転手はそう言って、ダッシュボードに手を延ばすと、中から古びたノートを取り出した。それを春子に見せる。表紙には引継書と書かれている。
「高校二年生だったお嬢さんが家出をしている間に、私の先輩がお嬢さんのお母さんを夢幻タクシーに乗せましてな。その時、お母さんはお嬢さんを探していたようですが、一日も経たないうちに死んでしまう予定であったものですから、未来を見ることができたんです。自分がすぐに死ぬことを知った母さんは、先輩とある約束をしたんです。どういうことか分かりますかな?」あっけにとられている春子を、運転手は見た。
「分かんない」
「いつかあなたを夢幻タクシーに乗せて、自分が死ぬ直前に連れてきて欲しいと依頼されたんですよ。先輩も情が厚い人間でしてな。通常はそんな約束をしてはいけないんですが、必ず連れて行くと言ってしまったんですよ」
「それであなたは私を乗せたの?」
「ええ、メンバーの中で次に退職するのが私でしたから。もう、随分と前からお嬢さんの事を追ってました。一応、お嬢さんが大学に入学した頃から、私が所属する関東方面部隊の管轄になっています」運転手はそう言って、笑った。
「でも、私はお母さんの他界する日には、友達の家に居てその場面の記憶が無いから、行けないんじゃないかしら」
「よく気付きましたな。私達にとっても、それが大きな課題であったのですよ。原則はそのとおりです。しかし、技術革新により数年前にそれは解決しました。お相手が強いイメージを持っていれば、それを頼りに行くことが出来るようになったんですな。お母さんが、あなたの事をまるで近くにいるように強くイメージしていれば、行けるんですよ。でもね、あなたが会いたくないというならそれまでですよ。別の場所に行きたいというならそれでしょうがない。どうしますか?」
 春子はすかさず、「行きます」と言った。
「いや、ありがたい。我々としても一石二鳥のようなものです。お母さんとの約束を果たし、お嬢さんの要望にも応えられる」
 運転手はそう言うと、アクセルを踏み込んだ。

       七

 春子の実家が見えてきた。高校二年生の頃、七月五日である。地方都市の片田舎で、田園風景が広がっている。懐かしさが込み上げてくる。二階建ての家の瓦屋根が、強い日差しを浴びて光っている。広い庭には、母親が植えた花々が咲き誇っていた。その奥に、縁側が見えた。一人の女性が座って何か裁縫をしているのが見える。春子の母親であった。
「ああやって、あなたの帰りを待っているんですよ」
「行っていいの?」春子は居ても立っても居られずに尋ねる。
「ええ、タクシーを降りて行ってあげなさい。ただし、過去を変えてはいけない。もし、その危険がある場合は、アトラクションを中止しますからね」
「私にはどうすればいいか分からない」
「大丈夫。ちゃんとここから見ていますから。心の向くままで結構です。難しいですがな」
「分かった」春子はタクシーのドアに手を掛けた。母親はまだ春子に気が付いていない。春子はタクシーを降りて、庭を歩き出す。姿格好は、大人のままで、雨に濡れた髪などまだ乾き切っていない。果たしてこれで母親は自分に気が付くのだろうかと不安に思いながらも、歩みを進める。
 庭の中腹まで来たところで、母親が顔を上げて春子の方を見た。見慣れない訪問者が誰なのか、見定めているようである。春子の心が動く。思いがけず早足になった。突然、涙がボロボロと流れ出す。春子はスーツの袖でそれを一度拭うと、走り出した。
「お母さん!」と叫んだ。母親が立ち上がる。
「お母さん!」ともう一度叫ぶ。母親は裁縫を投げ出すと、縁側から裸足で下りようとした。そして、
「春ちゃん!」と叫んだ。
 春子は庭に敷き詰められた砂利に足を取られ、両腕と両膝を地面に付いてしまった。乾いた砂利に、涙が落ちて黒い点をつくる。
「春ちゃん!」と母親が叫ぶ声が、すぐ近くで聞こえた。春子は涙で前が見えないまま、起き上がり走り出そうとした。
「お母さん!」と叫んだ。
 その瞬間、春子の視界は真っ暗になった。
 春子はタクシーの中に居た。
「申し訳ありませんが、これ以上は禁止事項になっておりましてな」運転手が、涙を目に溜めて言う。春子は、まだ泣いている。
「うん。いいの、ありがとう」
「ほら、お嬢さん、見て御覧なさい」運転手はそう言うと、前方に浮かぶ映像を指差した。そこには、母親が、泣きながら庭に座り込む姿が見えた。
「お母さんには、伝わったようです。これで、安心して天国に行けますよ」
「ありがとう」春子は頷いた。
「さあ、これで終了です。どうでしたかな? 有意義だったでしょう。誰にもこの事は言わないでおいてください」運転手はそう言うと、エンジンを掛ける。
「お嬢さんには、まだ未来がある。これからもっと頑張って、お母さんのためにもね。生きて行かねばならない」
「分かってる」春子は鼻をすすりながら応えた。タクシーが白い光に包まれる。
「そうそう」と、運転手が思い出したように言った。「先ほど、お嬢さんが少しお母様に触れたことで、もしかしたら、ほんの少し、未来が変わってしまった可能性があります」
「ごめんなさい。私、自分を抑え切れなくて」
「いえいえ。こちらこそ申し訳なかったですな。でもね、故意ではなかったですからな、変わったとしても、それほど影響のない範囲に留まると思われます。お嬢さんに何か危害が加わることもないでしょう。ですから、安心して戻ってください」
「分かった」
 スピードが上がった。次第に辺りの光景に淡い色彩が加わり始める。
「お嬢さんと会えてよかった。それではごきげんよう」
 運転手は深々と頭を下げると、バックミラー越しに春子に向かってウインクをして見せた。
「こちらこそ……」と、春子が言いかけたその瞬間、タクシーが強烈な光に包まれた。

       八

 気が付くと、春子は地下鉄へと下る階段に、涙を流しながら立っていた。すれ違う通行人が、不思議そうな表情で通り過ぎて行く。春子はゆっくりと辺りを見回したが、タクシーも、運転手も見当たらなかった。
 夢でも見ていたのかと、空を見上げた。そこには、夏の日の夕焼けが、綺麗に紅く広がっていた。携帯電話を取り出して、メールを見た。『もうすぐ到着』という彼氏からのメールが入っている。
 春子の手の平には、小さな砂利が二つ、三つと付いていた。
「お母さん、ありがとう」と呟き、春子はダイニグバーへと歩き出した。

                                    (了)

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