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夏影
作:椎堂 真砂



一章:人間失敗 08


 ここらで一度、気持ちを落ち着けて状況整理を、いや、まだ整理するほど情報がある訳じゃないか。
《大きい本棚に十数冊しか本が入っていないような感じ、こんな感覚は嫌いだな。》
 確か文子さんが昔、そんなことを言ってた。状況も……今みたいに俺と文子さんが二人きり。
 いろいろと文子さんを思い出す要素を含んだ人だ、数無さんは。性格は全然違うけど。
 今でもはっきり思い出せるのが何というか恥ずかしい。
 あの頃かなり無駄に捻くれてた未熟な自分と、文子さんの言葉が耳の奥の方に引っ掛かって残っている自分と、今こうして思い出している自分が、堪らなく恥ずかしい。
 しかし、一度思い始めると止まらないのが俺の悪い癖。
 止め処なく溢れる思い出。
 あれは俺が中学三年生で、文子さんが自称も他称も俺の家庭教師。俺がまだ『僕』で、文子さんはまだ『名探偵』ではない。
 もう二年ほど前の話になるのか。
 どうでも良いんだけどね。

   *   *   *

 カリカリカリカリと、ひたすらシャープペンシルの擦過音が成り響く。惑う事なく、事務的に数学の証明問題を解く。
 そういえば、シャープペンシルってアメリカではメカニカルペンシルっていうんだよな、とどうでも良いことを思いだしながら、手先だけで答えを紡ぐ。
 簡単に解ける命題なんていつもこんな具合、片手間で十分だ。
 かといって、それを他人、特に家庭教師に悟られるとまた面倒な事を言われるから、あくまでもポーカーフェイスを貫き通すけどさ。
 中学三年生、夏休み。一般的中学三年生諸君、否、誤解を生まないために訂正。高校生になるべく高校受験を控える日本における社会的に普通と見なされる中学三年生は部活の夏の大会に向けて練習に勤しむ、若しくはすでに引退を表明し勉強に精を注ぐ、または義務教育最後の自由な時間を目一杯楽しむ時期。
 まぁ、日本人にとっては最低高校まで、可能ならば大学までが義務教育と化しているのはそこら辺に置いておいて、僕は前述の三つ、どれにも当てはまらないことをしていた。
 僕が一般中学生、一般市民かと問われれば甚だ疑問は残るけどさ。
 僕が今しているのは、いわゆる数3に当たる分野を用いた証明問題。受験勉強とはまったく違う先に行き過ぎた予習。公式さえ理解してしまえば出来ない問題じゃない。
 しかしながら、もっと根本というか核心をつくと僕って文系の大学学科目指してるから、一生数3に触れる機会はないはずなんだけど。
 無駄なことこの上ない。
 あまり聞かないことではあるが不意に理系転向したくなるかもしれないし、備え有れば憂い無し、転ばぬ先の杖、と言ったところか。
 それにしても、『別邸』の人間にまで英才教育施そうとするなんて、『本邸』の人間も暇な奴等だ。強要されなくとも個人としても、僕は自主的に似たような事をするんだろうけどね。
 と、そんなことを考えているうちに証明終了か。
 はて、そういえばどんな問題だったのだろうか、などと壮絶なまでのずれた疑問を浮かべつつ、僕は後ろのベッドに腰かけた人に視線を向けた。
 どうでも良い話なのだが、ここは僕の部屋だ。とてつもなくブルジョワな発言なんだが、この部屋を含む一軒家は全て僕のものである。故に寝室と勉強部屋を別にすることは可能なのだが、何分それは生活動線が長くなり面倒なのだ。
 だから残る部屋はほとんど空き部屋。いっそのことアパートにしてしまった方が良いのではないかと思うぐらい伽藍としている。
 さて、僕の視線のが向いた先、ベッドの上には『本邸』ではなく自分で見つけてきた家庭教師である、如月文子が座っている。
 座っているだけならまだ良いのだが、僕のベッドの枕元に置いてあった小説を無断で読んでおり、激しく職務怠慢だ。いつものことながら、少しばかり勤務態度を改めてもらいたい。
 僕の親が雇っているわけではなく、給料も僕が払っているし、契約も僕がした。僕と如月の関係は雇用者と被雇用者、だから僕が上と言うつもりはないが、自覚を持って弁えるぐらいはしてほしいものだ。
 そんな小言を言う前に、如月は目があっただけで栞を挟むことなく本を閉じてベッドの上におき、こちらに近づいてくる。
 モデルのように見せるための綺麗な歩き方ではなく、自然に歩いた結果として自然な美しさが出ている歩き方。最初見たときは天性の美しさってすごいと関心したが、後々性格を見てその感覚はすり減っていったが、どうでも良い話か。
「さ、見せて」
 滑らかで柔らかなな動きで僕の回答用紙をとると、さっと目を通していく。たったそれだけの動作なのに艷かしさと麗しさを感じさせるとは、やはり生まれとは不平等と思ってしまうね。
 別に羨ましいとは思わないし、寧ろ僕の境遇は一般視点からみれば憧れられる立場だ。
「ん、全部あってる」
「ありがと」
 年上だからと言ってわざわざ敬語を使用したりはしない。敬える存在なら僕はちゃんと敬語を使うし、非を感じれば頭だって喜んでではないが下げたりもする。
 が、如月は僕にとって尊敬できるような人間とはどうしても思えない。
 僕が常に敬語を使っている相手は今は『本邸』を抜け出し自由な身となった古雅峰青猫さんぐらいのものなんだけどさ。
 さてはて、今日やるべき勉強はすでに終わったのだが、終了予定時刻より若干、いや、三十分と言う随分と長い時間が余ってしまった。間違えることなくスムーズに問題を解いた結果か。
 別に僕が賢い訳ではなく、如月の教え方が的確で巧い教え方の賜物であり、僕の力なんて本当に微かなんだけど。
 その点、僕は評価している。人間としてではなく、家庭教師としてね。
 家庭教師である以上は僕の生活を回すためのギアでしかなく、決して僕は同列に見たり、虐げたり、尊んだりはせず、あくまでも別次元の存在としてしか見ない。
 それはさておき、この余った空白の三十分をどう過ごそうか。大体どうなるかは決まっているのだが、雇い主としては職場放棄な気がして許容はあまりしたくない。
 僕って存外流されやすいと、この人に会ってひしひしと感じた。
「君ってさ」
 文子さんは僕の回答用紙を机におくと、凹凸のない声で感情を示さず話しかけてきた。
 まだ僕は一言も今日の授業が終わりとは告げてないのだが。あ、常識的に考えれば家庭教師が決めるのか、こういう事って。
 自分で言うことじゃないけど、どうも抜けてるな、僕って。
 そんな僕の内にある思考なんて何処吹く風、自分の話したいことを口にする如月。なんという一方的なコミュニケーションだろう。
 別にそんな些事は気にしないけどね。
「なんで一人でこんなとこ住んでるの?」
「…………さぁ?」
 何度目の質問だろう。
 何回目の回答だろう。
 別に聞くことは規制していないし、聞かれても嫌な思いはしないからどうでも良いんだけど、応答をするとなると話は別。
 説明するのは多大な労力が必要であり、そして何より嫌なのが説明をさせておき、同情で謝られる事だ。同情されるのは構わないけど、謝られるのは正直なところ鬱陶しいんだよね。対応とか面倒だし。
 如月について考えればそんな事は無さそうだが、前者の労力を使う気は起きない。
「悪いとは思ったけど」
 僕の意思なんて汲むことなく、会話の流れをひん曲げて発言を続ける。
「ちょっと……調べた」
 ……凄いな。
 調べたことに対してじゃなく、僕が出し惜しみした労力以上のものを自主的に浪費した事に対しての話だ。別に僕の存在を知ってしまえばある程度調べることは一般人でさえ容易なことだし。
 そう考えると、特に凄くも無いか。
 そんなことより意外だったのが、調べた事に対して悪びれた様子を見せたことだ。この人が感情らしい感情を見せるのは極稀なこと。なんというか無感情な人を装っている人の感情を見るのって複雑だ。
 しかもそれが、どちらかと言えば負の感情だと尚のこと。
 あくまで個人的な意見だけどね。












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