二章:心 46
翌朝、俺は窓から入る薄い朝日が顔に当たり、漸く朝だと気付いた。
時刻にして、おおよそ五時半。
立ち上がって伸びをして眠気を払ってから、窓を開けて空気を入れ換える。
夏の終わりを感じさせる爽やかな空気が俺の部屋に押し寄せてきた。
気分は良好、とはいかない。
飽くまでも普通。
俺の気分というやつは空気で変化するほど複雑には出来ていないらしい。
体を軽く動かすと体がバキバキ音を立てたが気にせず、台所まで行って水を飲む。
不味い。
本当に不味い水だ。
不味さで目が覚めるほどに。
空にしたコップを流しにおいて部屋の隅へ向かう。
そこで服を着替える。
持ってきた服が多くないので、もう何度着たか分からないTシャツとストレートパンツ。
もともと新しいものでもなかったし、最近は小さい綻びも目立つようになってきたので、着古しているのは一目瞭然だ。
服には頓着しない方だけど、そろそろ買い換えた方が良いか。今度買いに行こう。
「さてと、行くか」
誰に宛ててでもなく、俺は部屋の外に出た。
別に買い物に行くわけじゃない。
俺の仕事場に、だ。
狭い廊下を横歩きして、軋む階段を慎重に降りてすぐの場所。
時間にしてわずか30秒。
通勤においてこれほど好条件な場所はないだろう。
通勤時間ゼロな人はおいといての話だけどさ。
特に遠慮などなくドアを開く。
「おはようございます、数無さん」
返事はない。
いつもの事だ。
いや、時々俺が仕事を忘れるから正確に毎日を知っているわけじゃないけどね。
靴を脱いで廊下を進み部屋に入る。
ほんの少し雑然とはしているが、どちらかと言えば整理されている方だろう。ただ整理しているのは専ら俺で、部屋の主である数無さんは散らかすのが役割。
その所為で人間らしくはあるが女らしい香りのしない部屋。
そんな部屋の真ん中に敷かれた一組の布団に一人の女性。
彼女のために部屋を誂えたかのようにマッチしている。
「数無さん」
俺はいつもと同じように呼び掛けた。
ほんの一月前に始めたばかりだがすっかり体に習慣として身についていた。
時々忘れるのはご愛嬌ということで。
「数無さん」
やはり返ってこない言葉。
当たり前だ。
この人が呼び掛けたくらいで目を覚ますなら、俺が起こす必要など皆無だ。
「数無さん、朝ですよ」
だから俺は話しかける。
だからこそ俺は話しかけ続ける。
「起きないんだったら、朝ごはん作りませんよ」
変わる必要なんてない。
変わる意味なんてない。
変わる余地なんてない。
「ご飯もったいないないですし」
昨日の夜からずっとその場所で、寝返り一つ打った形跡もなく眠っている。
別に料理を作って待つ必要はない。
起きてから作っても十分間に合う。
俺にそんな手の込んだ料理は作れるはずないしさ。
待たせている間の小言くらい甘んじて聞いておこう。
それも仕事の内。
給料分働くぐらいの義務感は持っている。
でもそうなると困った。
雇主は睡眠中。
洗濯物もない。
部屋も綺麗。
その他諸々のやることは思い至らない。
完全に手持ちぶさただった。
これでは職務怠慢で文句を言われても返す言葉がない。
「ん?……早いな」
無理矢理にでも仕事をするために部屋で一暴れして、片付けでもすればストレスも解消できて一石二鳥だ、などという考えに至った辺りで背後から声をかけられた。
見るまでもなく、青猫さんだ。
「おはようございます」
「あぁ、おはよう。うん、確かに今の時間ならおはようは妥当だ」
わざわざ白衣に忍ばせた懐中時計を確認してまでそんなことを言った。
青猫さんらしいと言えばらしい。
小さいことを一々確認することも、そして俺がここにいることを確認しないのも。
「で、貴様が何故此処に居る?この、不法侵入者」
しっかりと確認をとろうとされてしまった。
慈悲も容赦もあったものじゃない。
「別に不法侵入じゃありませんよ。仕事です。アルバイトです」
「アルバイト、だと?ドイツ語由来の『学業または本職の傍らでする賃仕事』というアレか」
「はい、そのアルバイトです。その説明台詞は間違いなく不要だと思いますけど」
「アルバイトなどする必要も接触する機会もないからな。そんなことしなくても金は有り余っているし、アルバイトを使うようなチープな店に行かないからな」
青猫さんは今、一言で学生の大半を敵に回した。
言っておく。
俺はあくまで無関係だ。
それを察したように青猫さんは、
「私以上に金銭を持つ貴様同様にな」
と嫌らしい笑みと言葉を付け加えた。
他人まで捲き込むその悪辣さには感服ですよ、ほんと。
どうでも良いけどね、そんなことさ。
青猫さんも実際、癖で聞いたようなもので興味無さげではあった。
「が、私はこころからお前を雇った、などという報告は受けていない。故に不法侵入者だ」
しかし、興味がなくてもしっかりと追求するのが青猫さんのクオリティ。
「別に数無さんが起こったことを逐一青猫さんに報告するとは限らないじゃないですか」
「いや、私が報告を受けていない以上、それは存在無いことだ」
法と書いて青猫と読む。
酷い暴論だ。
が、青猫さんが言うとしっくり来るのだから不思議なものだ。
冗句に聞こえない。
いつものことだけどね。
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