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夏影
作:椎堂 真砂



一章:人間失敗 05


 騙されても、謀られても、
 殴られても、叩かれても、
 蹴られても、踏まれても、
 斬られても、射たれても、
 刺されても、突かれても、
 厭まれても、否まれても、
 殺されても、滅されても、
 害されても、毒されても、
 嘘に嘘を重ねられ、
 傷に傷を重ねられ、
 苦に苦を重ねられ、
 病に病を重ねられ、
 罪に罪を重ねられ、
 害に害を重ねられ、
 毒に毒を重ねられ、
 死に死を重ねられ、
 それでもまだ、それでも尚、限りなく自然に、笑ってられる人間がこの世にいるのだろうか?
 信じているとか、信じていないとかの前提条件を抜きにして、甘受し、許容出来る生命が存在するのだろうか?
 そう思っていたら此処に居た。此処に在った。歪められることなく、純粋なままで。永遠に少女のような感情であり続ける生き物が。
 ……勿論、俺のことじゃないけどね。

   *   *   *

 青猫さんは白衣のポケットに手を入れなおし、短くなってしまっている煙草をそのままに、家の中に入っていった。
 ポケットに手を先に入れてしまった成為か、靴が脱ぎにくそうであったのは御愛敬、ということにしておこう。そのあとに誤魔化そうと、何度も気だるそうに溜め息をしていたのも含めてね。
 そんな青猫さんに対し、笑うべきか、笑わざるべきか決めかねていると、流石二十代といった感のある据わった目で睨まれた。
 笑うのは自分の部屋を手に入れてからにとっておこう。忘れてると思うが。
 忘れてなくても、きっとしないだろうけどね。
 俺は青猫さんの様に手こずる事なく、靴を脱いだ。そういえば、随分と長い間履きっぱなしだった気がする。それに結構歩いたからか、足の裏に汗をかいているようだ。臭いがつかないと良いのだが。
 そんな生活感たっぷりの悩みは置いといて、取り敢えず差し迫った――訳でもないのだが、目の前に横たわった、もとい、可愛らしく鎮座した問題を片付けてしまおう。
 もう彼女を見てしまったのだ。今更、逃走するなんて選択肢は選べない。
 逃げたい気持ちは山々なんだけどね。
 けど正直なところ、面倒事は嫌いなんだけどなぁー……。その為にこうして南の島に隱遁したんだし。
 やっぱり結果的に言ってしまえば、逃げたことになるんだろうね。そんなつもりはないんだけど、それは第三者が決めることだ。
 話が逸れた。
 無駄なことまで考えるのは悪い癖だ。いつまでも、不自然に靴を脱いで玄関に立ったままでいる訳にはいかない。
 そろそろ青猫さんが痺れをきらす頃だし、さっさと前に進もう。
 三歩。
 たった三歩だ。
 それだけ前に進んだだけで、俺は有栖ありすと出会った。邂逅した。何の感慨も驚きもないが、とにかく対峙した事実がある。
 やっぱり近くで見てもその顔に満面の笑みを浮かべ、凄く楽しそうだ。でも狂ったようにしか、俺にはどうしても見えないね。
 そう思うのはもしかしたら、俺の心が荒んでいるだけかもしれないんだけどさ。
 有栖ありすは漸く俺の存在に気付いたように、笑うのを止め、仰首した。ただ、ジッと俺を見つめ、口と目を曲げているのみ。
 こうしていると、普通の何処でもいる純真な小学生一年生なんだけどな。
 見つめ会うこと三秒。
 俺の方から話しかけるかどうか迷っていると、彼女の小さな口が首をかしげながら、開いた。
「きゃはは!ダレ?だれダレ?誰だれダレなのカナ!?」
「…………」
 正直、俺は面食らった。
 自分が先程まで《狂ってる》だの、《おぞましい》だの形容していた少女が、フランクかつフレンドリー、脳内麻薬全開なハイテンションで話しかけてきたのだ。
 何気に高瀬を思い出させるような口調だし。
 変なところに因果とは繋がるものだ。
 そりゃ俺だって、異常なら異常っぽく奇抜なアクションでもつけてくれたなら、想定内の出来事として処理するつもりだったさ。
 しかしながら、とった行動が俺から見ると、あまりにも地味に映った。
「……青猫さんの親戚――」
「たはは!猫ちゃんの知り合いカー!ありすデース!」
 やっとのことで絞りだした声だったのだが、いかにも楽しそうに挙手しながら言葉を重ねられてしまった。やるせなさが込み上げてくる。
 子供相手に会話を成立させようなんて、思ってはいないが、俺としては普通に、否、常識の範囲内で挨拶されたのは意外だった。
 それより、もっと意外なことがある。
「猫ちゃん、なんて呼ばれてるんですね」
 年甲斐も無く、と心の中で付属させておいた。
 俺が青猫さんに目配せをすると、青猫さんはほんの少しだけ紅潮し、視線を逸らし、目を泳がせていた。
 ――かっ、可愛い……年甲斐もなく。
 あんまり、年甲斐も無くとか思い続けない方がいいか。迂濶にも口を滑らせてしまったら、俺は部屋を失いかねないしね。それだけは避けたい。
 有栖ありす――自己紹介もされたし、ありすちゃんとでも呼ばせてもらおう。いや、馴れ馴れしすぎか?この年齢の子にさん付けするのも変だしな。
 やっぱり有栖ちゃんがいいか。呼ぶ分には変わらないし、有栖ちゃんにしておこう。
 その有栖ちゃんと挨拶を一応交わしたし、他にすることがない。
 有栖ちゃんに変な刺激を与えて、《快楽》と認識され、反復を望まれたら逃げようがなくなる。
 しかも、彼女には飽きると言う感情がない。
 俺、割とピンチ。
 俺は指針を求めるように青猫さんを見る。
 一応、助けてくれとアイコンタクトを送ってみたのだが、返ってきたのいつの間にか新しく変えた煙草の紫煙だった。顔面に直接吹き付けるのいかがなものだろうか。
 それともこれは青猫さんのこの状況を俺自身で打破しろ、というメッセージなのか。
 まったく無茶な。
 考えている間、有栖ちゃんは俺を見つめていた。
 睨んでいたと表現するほうが近いほど、ひたすら凝視する。
 俺の父親譲りの黒くて、つり目気味な普通のなんの異常さも持ち合わせていない眼を。
 当然ながら、どちらにも何か考えがあるわけではない。
 たまたま俺の場合、視線の先に有栖ちゃんが居ただけだ。
 俺の方は特別な感情もこもってない、いつも通りの、大抵の人に向ける対処方。
 だけど、有栖ちゃんからしてみても同じことが果たして言えるのだろうか。
 こんな幼子が高校生に睨まれれば、本能的に力の差を感じとり恐怖するのは当然のことだ。
 俺がこうして何もしていないだけでも、有栖ちゃんは《快楽》をその心に宿しているのかもしれない。
 《恐怖》が《快楽》。
 真偽のほどは有栖ちゃん自身のみにぞ知る。
 俺はさらに有栖ちゃんを見る。
 実験。
 検証。
 本当に有栖ちゃんが誰に対しても、どんな状況でも、快楽を感じるのかの立証。
 恐怖以外の感情を見せたなら、『異常』たる証明になる筈だ。
 俺の独断と偏見による推測なんだけどね。
 もう一つ言えば、証明する意味なんて皆無だ。医者が保証してるし。
 どんな感情も見逃さないように、自信はあまりないが観察眼を全力で稼働させる。無駄なことなんだけど、本当に異常かどうかで今後の対応の仕方も変えなければならない。
「…………」
「…………」
 ――あれ、無反応?悉く有栖ちゃんは、俺の予想外の行動ばかりとってる気がするぞ。もしかして狙ってやってるのか?そうだとしたら、末恐ろしい子供だ。
 そこでようやく青猫さんが助け船、というか横やりを入れた。
 微妙に含み笑いを含んでいるのが、気にくわないが、話が進むならそれで良いか。
「恋でもしたか?そんなにジッと見つめて。私には危ない人にしか見えんな。そういう事件が最近多いし、此処に予備軍がいるなら私が眼を光らせなければ」
 なんてこと言いやがりますか、この人は。仮にも久しぶりに会った甥に言うことじゃないと思うぞ。いや、青猫さんのことだ。ちゃんと考えて、場を和ませようとしてという可能性も十分に考えられる。その間違った気遣いで、俺の心が混沌としたのは確かなことなんだけどね。












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