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夏影
作:椎堂 真砂



一章:人間失敗 03


 最悪、という言葉がある。
 俺がこの言葉を覚えたのは、幼稚園の頃だ。幼心に俺は新しい言葉を覚え、理解したと勘違いしているにも関わらず、愚かなことに無邪気にも喜び、ひたすらに使った。
 ただ転んだだけでも最悪だ。
 ただ静電気が発っただけでも最悪だ。
 ただクレヨンが折れただけでも最悪だ。
 そんな感じに、だ。
 その頃俺は、まだ『本邸』と『別邸』のいざこざも理解していないような子供である。
 そんな当時の自分に最悪を正確に理解しろと言うのも酷な話だが、人生の恥な事に変わりない。俺に有るまじき愚かさだ。
 そんな幼き頃の恥ずかしさを暴露したところで、本題。
 俺は、フェリーの到着と共にすぐ下船したのだが、そこは今までの環境とは別世界、異次元と言っても過言ではないほどだ。
 まず、コンビニなんてものはおろか、自動販売機さえ見当たらないこの辺境っぷり。いくらなんでも、此処まで辺境だとは幾らなんでも想定外――でもない、か。
 青猫さんが来るなら覚悟しとけって行ってたし。あの人がそういうなら、間違えなく覚悟無しでは居れないところだろうとは、ちゃんと思ってたさ。
 覚悟なんてちっともしてないけどね。
 むしろ想定外なのはこの暑さだ。
 俺の居た街でこんな温度になれば、異常気象だ、何て叫ばれてただろう。特に高瀬とか、高瀬とか、高瀬とかが騒ぐ。忌々しいね、実に忌々しい。
 そんなあいつとも、この先ずっと顔を合わすことはないんだろうけどさ。
 話が逸れたが、要は暑いのだ。
 夏も終わりだというのに、アスファルト付近で陽炎が立ち込める程に。
 しかしながら、前方数十メートルのところで、幼き子供が元気に戯れているところを見ると当たり前なんだろうね、この気温が。あの子供たちがお頭が少し足りない子供、もしくはこの暑さにやられて感覚の麻痺した子供でない事を前提にしての話なんだけどね。
 近づいて聞けば分かるだろうが、そんな暇は俺にゃ無いんだ。こんなことを考えていると、だんだん鬱になってくるよ、まったく。
 とりあえず、着いた事だけでも、青猫さんにでも報告しておこうと思い、携帯に目をやった。って、圏外かよ……。どこまで田舎なら気が済むんだよ。
 俺は未だに理解していない、理解さえする気の無い、あの言葉が自然と口から漏れた。
「……最悪だ」
 現代社会で使われている、単純な意味の最悪だ。
 今より悪い状態なんて、数え切れないほどある。
 割と適当に喋っている俺だったりする。
 だからこそ、真面目に返答された時には至極驚いた。
 顔に出すほどではないんだけどね。
「この状態が最悪なんて、ずいぶんと生温い人生を送ってるんだな。当然、違うだろう?お前は私以上に、その年齢にして私以上の『最悪』を体験しているだろう?必然、これが現代語の乱れと言う奴か……。嘆かわしい、実に嘆かわしい」
 安っぽいタバコの臭いと共に、無駄までの装飾のかかった返答。
 嫌だね、この手の返答は。嫌いじゃないが、嫌だ。お前は哲学者か。
 ため息をしながら、荷物をアスファルトの上に降ろし、返答の主の方を向く。
 振り向かないでも相手なんて誰か分かったるんだけどね。
 相手が分かっていようとも、振り向くのが礼儀ってものか。
「こんにちは、青猫さん」
「こんばんは、だ。馬鹿者、もう四時だ。四時と言えば、こんばんは、だ」
 挨拶の切り替え時間なんて個人の主観でしょう、と切り替えそうかと思ったが正直な所、それだと水掛け論になりかねない。
 ここは合理性重視としよう。
 こんな暑い中、ずっと話し続けなきゃならないなんて、それだけで気が滅入る。
 参考までに、まだ日は高い。
「こんばんは、青猫さん」
 とりあえず、言い直しておいた。今後の憂いをなくしてしまうためにも、ね。
 この前あったのが、あいつの葬式の時だから……あぁ、二年ぶりか。
 もっとも、あの時はまともな会話なんてしなかったし、出来なかったし、する気も無かったから、まともに面と向かって話すのは青猫さんが『本邸』を追い出された日以来の五年ぶりか。
 五年。
 俺にとっては実に人生の三分の一にも相当する長い時間だが、青猫さんにとっては五分の一か。
 でも、五分の一って結構でかいよな。
 しかしながら、声はおろか口調さえも変わってないし、ボサボサのセミロングの髪を適当に後ろで縛ってるところも、実用性皆無な伊達鳩眼鏡も、普段着と化してしまった白衣も、名前の如く吊目気味な猫目も、全くと言って良いほど変わってない。肌の衰えとかも感じさせないし、スタイルの良さも相変わらずだ。
 この分だと、きっと性格も変わってない。これはある意味確信に近い。
「さて、電話である程度状況は把握しているが、当然、更に詳しく状況を説明してくれるんだろう?」
「はい。……ここで話したほうが良いですか?」
「いや、私の住家に着いてからで構わない。私だって一応女だ。日光の浴びすぎは避けたい」
 それは良かった。
 歩きながら話してしまっても良いのだが、それなりに重い話になる。俺としては何処であろうと内容が変わるわけではないから良いのだが、聞く側にとって須くそうとは言えない。
 むしろ俺みたいなのはマイノリティーだ。
 俺はトランクケースを持って、青猫さんの横を歩き始める。
 トランクケースが日光を浴びすぎて熱くなり、取りこぼしそうになったのが、青猫さんにばれて、少し恥ずかしかった。
 
   *   *   *
 
 結局のところ、事情は歩いてる途中に話してしまった。と言うよりは、聞き出されてしまった。
 存外、青猫さんは聞き上手の言わせ上手で、いつのまにか全貌を話させられてしまったのだ。
 今後、ポロッと不味いことを言わされないように気をつけよう。
 ほとんどの事情を青猫さんは理解していたからこそこんな風に上手く聞き出されたんだろうけどね。
 自分で筋道立てて説明すると言う無駄な手間が省けて、結果的にはよかったんだけどさ。
 青猫さんの住処――今日から俺の住家にもなる訳だが、そこに着くまでに島の南にある港から北に向かって十分ほどの距離がある。
 この円に近い形をした島は一周するのに三十分程度かかるらしいから、大体島の反対側に位置するところまで来たことになる。
 と言うわけで、現在十分後。ちょうど青猫さんのさんの住家に着いたところだ。
「ホントに、此処ですか?」
「ああ、毎日寝起きしてるんだ。間違えるものか」
 目の前にそびえ立っているのは、木造二階建てのアパート。築数十年程度。
 俺の住んでいた『別邸』に比べたら、諸々の事項で雲泥の差だ。年季が十五倍ぐらいの差があるように見える。
 もちろん新しいのは、俺の住んでいた『別邸』の方。
 大きさ自体は大して変わらないが、こっちはアパート、一人当たりはずいぶん手狭になるだろう。
 白亜の城に住んでいるとは思って居なかったが、幾らなんでも小さすぎないか?青猫さん、医者だろう。しかも開業の。
 今でこそ孤島の医者だが、大学病院の元医者の上、『本邸』から追い出される際、馬鹿にならない手切れ金をもらったはずだ。それこそ、一生を三回遊んで過ごせるほどの大金を。
 どう考えても目の前の、言ってしまえばボロアパートはありえないんじゃないか。幽霊が出そうだ。
 幽霊なんて、信じてないけどね。
 文句を言ってもしかたない。現実は現実として受け止めよう。
 生活すれば、吃驚する位のオプションが付いているのかもしれないし。
 そんなことも含めて、住んでいる内に話してもらって、慣れていこう。












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