一章:人間失敗 15
流石に靴を履く猶予くらいは与えてもらい、余計な事はせず外へ。
相変わらずの茹だるような暑さと粘つく空気、そして時々吹く香りの良い潮風。常夏の島、まさにそんな気候。実際にこの島は常夏であり、住人にとっては当たり前なんだろうけどさ。
さて、とっとと部屋に帰り、荷解きを済ませてしまおう。そう思って階段へ向かって歩き、Uターン。
何故かって?
何気なく上を見上げると、俺の部屋の前辺りに、この炎天下の中、真っ黒い影みたいな服を着込んだ少女が足を抱え込むようにして小さくなり、まるで何かを待ち伏せているかのように階段の方をじっと見つめているのが、鉄柵の隙間から見えたからではない。
そんなことがある分けない。
俺は何も見ていない。
そう、荷解きは夜に回して、明るいうちに島を見てまわっておこうと思い至っただけだ。
夜に出歩いて帰り道を見失えば厄介だしね。有事の際には島の地理が分かっていないと危険だ。
うん、決まりだ。日没までは島内散策しようじゃないか。
理論武装を完了し、鉄柵からのぞいても見えないように塀ギリギリまで近寄ると横歩きに移動を開始。
別に何かから隠れているわけではないのだが、なんとなくそういう気分なだけだ。102号室『古雅峰病院』を通り過ぎ、慎重に103号室前までもう少し。
後、半分くらいいけば問題なく、アパート圏内から安全脱出できる。何が問題で、何に対して安全なのかと聞かれれば、特に何も、としか答えられないけどさ。
ジンワリと額に滲む汗、これは冷や汗ではなく、間違えなく熱さが起因の純粋な汗だ。汗に純粋も何も無いと思うけどね。
それ以前に冷や汗をかく理由も無いけどさ。
ようやく103号室に到達。長い道のりだった。残り半分は気をつけていかなければ……。
そう、なんに対してでもなく、覚悟と決心を決めた瞬間、
「きゃはははははははははははははははははっ!!」
という笑い声。
言うまでも無く、不思議感情保持者、有栖ありすちゃん。三日間で耳にこびりついて離れないほどに、聞くようになった彼女の異常な笑いぶり。犬や赤子のように真夜中にまで唐突に鳴きだすことは無いけど、昼間に前触れも無く大音量の笑い声が聞こえてくれば、少なからず人とは驚くものだ。
……驚く?不味い気がする。非常に不味い気がする。何がとは特定しないが、不味い事極まりない。驚いた人間のとる行為、それはいとも簡単で、単純な事である。
「あ」
驚いた人間がとる行為、それは『驚いた原因を視認すること』だ。
このアパートの二階廊下の鉄柵は頭一個分程度なら難なく外側へ顔をのぞかせることが可能である。つまり、廊下に座っていたとしよう、そうすれば体をほんの少し外側に倒すだけであら不思議、階下が楽に見下ろせるのだ。
さらに廊下の一番奥なら、一階全域は余裕を持って見渡せる。
その、もしもを実行していた人が若干一名いた。
そして不思議な事に俺は顔をがひょこっと現れたその場所を警戒していたから、ばっちりと目があってしまった。まったくもって偶然とは恐ろしいものだ。
しばらく硬直。
話を始めるタイミングを完全に逃してしまったらしい。さてはてどうしたものか。
どうする必要も無いんだけどね。
このまま一日が過ぎるのは困るけどさ。
目線があった相手であるミマサカマサカは、漆を塗ったように黒い瞳でじっと俺を見ていたが、どうやら飽きたらしく、顔を引っ込めて立ち上がると、自分の部屋へと引っ込んでいった。
それを顔だけで追い、入室したのを見送ると俺は103号室の前から少しして、アパートの外壁に背中を預けた。
これからどうしようか。やはり理由もつけてしまったことだし、ここは潔く島を散策しよう。
あの理由だってまるっきりの嘘ではないし。本当とはいえないけどね。
一度壁に力をかけて、その反動でアパートから背を離す。
空は快晴、気温湿度共に高め、絶好の散策日和とはいえないが、問題はないだろう。
俺はとりあえず、海岸沿いに歩こうかと思い、東に方向を定めて歩き出した。
それにしても、何でミマサカマサカから逃げたのかって?そんなのはとてつもなく簡単な理由が二つ。
まず、話すたびにミマサカマサカは不機嫌になるってことが一つ。
これはアッチの気まぐれだから知ったこではない。そんなところまでカバーしてやるほど、俺は他人に優しくないのだ。
自分には甘いし、優しいけどね。
そしてもう一つは正反対に俺個人の問題。
とある誰かさんを思い出す。特にあの無口さとさらさらとした黒い髪、そして何より雰囲気と歩き方が似すぎていて、面影が否が応にも連想させられる。
たったそれだけのちっぽけな理由なんだけどね。
俺にとっては重要なんだけどさ。
俺はやっぱりどこかで、家で前の生活を気に入っていたんだと、このとき初めて痛感した。多分だけど。自分の事が分かるようだったら、今こんなところにいないだろうしね。 一旦東に向かって歩き、海岸線に出ると、南から北へと吹きぬける香りの強い潮風を背に受けながら、海岸沿いをゆったりとしたペースで歩く。
ほとんど歩く力は追い風任せ。
小さな離島だし、風向きはなかなか変わらないだろうから、歩いているうちに憎たらしい向かい風へと変貌を遂げるんだろうけどさ。
そうすれば、歩く力は倍以上掛かるが、自分で一旦決めた以上はやる。
面倒なんだけどね。俺は割りと頑固なのだ。
歩いている海岸沿いの道は、二メートルくらいの高さがある防波堤を右側に、緩やかなカーブを描いて伸びている。その所為で水平線は視界に入ってこなかった。
前後見渡す限り、防波堤の上に上がるような階段も見当たらなかったので、よじ登るわけにもいかず、仕方無しに階段を求めてコンクリートの壁沿いに歩くことで妥協。
都会であれば絶好の落書き、もとい前衛的アートの表現、若者達の自己主張の場として活用されてしまうであろう無地のコンクリート面ではあるが、流石は離れ小島、利用するのはコケぐらいのものだった。
俺はこの前から、そんな島の住民なんだけどね。
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