一章:人間失敗 12
数無さんの部屋を追い出され、一体どうすべきかと悩んでいた丁度その時、タイミングを見計らったかのように青猫さんが102号室から出てきた。あの『古雅峰病院』と馬鹿馬鹿しいまでにデカデカと書き記された、周りに不協和音を奏でまくっている檜製の看板を掲げたあの診察室だ。
数無さんの部屋の隣だし、きっと聞き耳でもたてて、出現機会を見計らってたんだろう。壁、薄そうだし、聞こうと思えば聞こえるはずだ。
根拠なんて、一つもないんだけどね。
「やぁ、もう話は済んだのか?」
けど、そんな風に何も無かったかの如くに振る舞われたからには、突っ込むわけにはいかない。ツッコんだらツッコんだで面白いだろうが、後々を考えると恐怖の逆襲があるだろうしさ。
何せ相手はあの『本邸』の出だ。『本邸』は鬼なんて接頭語じゃ、まったくもって足りないような人を育ててる苗床ようなもんだし。
「はい。次は誰を紹介されるんですか?」
正直、精神的疲労は否めない。有栖ちゃんを紹介されていた時点でお腹一杯手一杯な感があるし、その上、あの数無こころとまで知り合いになったのだ。当然といえば当然。
しかしながら、ここで青猫さんに紹介を断ると後日、自分から会いに行き、意思疎通を図り、親交を深め合うという引っ越した経験無し、近所付き合い皆無だった都会人である俺には非常に面倒なイベントが待機しているわけだ。
今日一日疲れて動けなくなるのは構わないが、そういう積極的に人と関わるのは嫌で嫌で仕方ない。
特例はあるけどね。文子さんとか、文子さんとか、文子さんとか。
あの人、こっちから話しかけないと会話を始めるタイミングが分かりづらいし。
こんなこと考えてると、俺の友人が文子さんしかいないみたいだ。
まぁ、当たらずも遠からず、実際文子さん以外にピンと来る人なんて高山ぐらいしか思い浮かばないし……。
――高瀬だっけ?
「次か?次は……」
またも数無さんの紹介の時のような惨劇が繰り返されるのだろうか?繰り返されるんだろうな。ほぼ確定的に。
だが、どうやら俺の予想というのは、外れるために出来ているようなものらしい。
予定はことごとく裏切られ、予言は的を外す。きっと、そんな想定外の出来事が起きるような星の下に生まれたんだろう。残念な事に。
まったく、そんな星が在って堪るか。
超新星爆発でも起こして消えてしまえ。
俺の体質なんてどうでもいいんだけどね。
話を戻そう。
青猫さんは気まずそうに、いや、喋りたくなさそうで、二の句を告ぐことをしなかった。出来なかった。
明日は雨だろうか?大歓迎だ。ムシムシしそうだけど。
青猫さんが何か言わない限り、俺も動きづらい。勝手に動いて、話を最後まで聞けなんて言われ、暴行された日には――特に何も無いか。
沈黙が一分半ほどつづいた頃、青猫さんはおもむろに白衣の内ポケットに手をいれ、懐中時計を取り出した。
作りは精密巧緻、だが派手すぎず、かといって地味すぎず、じつにハイセンスな一品。きっと七桁は軽く越すような代物だ、ブルジョワめ。
人の事いえないけどさ。
寧ろ、白衣に内ポケットが付いていた新発見の方が、俺としてはビックリだ。
青猫さんは懐中時計を開いて一言。
「おっと、そろそろ回診の時間だ。鍵は渡すから、自分の部屋に行ってくれ。二階の一番奥の部屋だ。よかったな、角部屋だぞ」
わぉ、昨今の精神科医は回診までするのか。
そうじゃない、棒読みしやがりましたよ、この人。人でなしめ。この程度の事で人でなしにされたら堪ったものじゃないだろうけどさ。
「あの、荷物は?」
「その鍵で私の部屋の鍵も開くから、勝手に取っていけ」
マスターキーらしかった。
一住民に託して良いものかは甚だ疑問ではあったが、受け取ったからにはありがたく使わせてもらおう。責任は俺などに預けた青猫さんにあるはずだ。
責任転嫁も良いとこにしといて、荷物を取りにいこう。
有栖ちゃんはまだ寝てくれているだろうか?寝ていなかったら相当面倒な事になりそうだが、荷物を贄にとられているのだ、戦わないわけにはいくまい。そこのところを青猫さんに確認しておいた方が良いか。
「あお――」
既にいなかった。
逃げ足の速い、もとい、次の行動への移り変わりが迅速な人だ。
軽くため息を吐きつつ、103号室へと向かう。
鍵を右手でくるくる回しつつ、近づいていき、金属製の取っ手に手をかけた。バチ、っと静電気がたつ。夏のこの時期に静電気なんて運が悪過ぎる。
そんなことを気にしていても仕方ないので、鍵穴に鍵を挿し、錠を開ける。ちゃんと開いた。
本当にマスターキーだったんだ、とぼやきつつ、戸を開ける。
玄関に入り、靴を片足だけ脱いで、ようやく気づいた。荷物を持って上がるんだったら、先に戸をあけておかなければ、両手がふさがっていて、開けるために一回荷物を下ろさなければならない。
一度下ろせば良いだけの話なのだが、気づいたからにはやらなければ。そうしないと言いようの敗北感を喫した気分になる。
もう一度ため息を吐きつつ、靴を履きなおして外に出た。念のため鍵を閉め、階段へと足を向ける。
熱を持ったアスファルトから込み上げる嫌な熱気と、直射日光が容赦なく体力を削いでいく。
大きい荷物は夕方からやったほうが得策だろうか?
それとも体力の残っている今のうちに、早々に運び込んでしまおうか?
最も効率の良い方法を考えているうちに階段に到着。十秒とかからなかったけどね。
手すりの錆びた、崩壊寸前といって過言ではないオンボロ階段の一段目に足をかけた。ギィ、という音。骨の軋むような旋律が走る。上っても大丈夫なのだろうか?
俺は今、命の危険を今ひしひしと感じている。
まさか青猫さん、この階段を上りたくて逃げたんじゃないだろうな?
……流石にそれは無いか。仮にもここの二番目に古くからいる住人だ。いや、古くからいる住人だからこそ危険を察知して、上らなかったのか?いやいや、いくらなんでも青猫さんはそこまで酷い人じゃない、流石に注意くらいはしてくれるはずだ。いやいやいや、曲がりなりにも『本邸』の出身だ。スパルタっ気、サドっ気はたっぷり内包している可能性は否めない。
結局どっちなんだろ?
ま、結局は上らないとならないから、あっさりと上るけどさ。
崩れるか崩れないか分からない階段の恐怖より、熱射病の恐怖の方がわりと大きい。
と言うわけで、両足を一段目に乗せる。ギィと鳴る。
ジャンプする。ギギィとうめく。
……どうやら大丈夫らしい。
階段の一段目で跳び、停滞しているのは周りから見れば相当変な人に映るだろうから、サクサク上ってしまおう。
熱いしね。 |