一章:人間失敗 10
この世には信じたくなくてする否定と、信じれなくてする否定、自分の論を貫くための否定、相手の論を淘汰するための否定、感情による否定、理性による否定、自己否定に存在否定――実に多くの、無限と言って誇大じゃない、膨大といって過剰じゃない、実に多くの否定の仕方が存在する。中にはキャラ作りのためとか言う、テクニカルな理由もある。
しかしながら、否定したい理由が存在する故に否定するのではなく、否定するまでに何の過程もなく、強いて言うなら言うなら否定した結果否定した、なんて言葉遊びにもならないような、そんな純然たる否定が可能な人間が、果たしてこの世にいるだろうか?
目的が過程に、過程が目的に近似していく事ならしばしば聞くような話だが、端から目的イコール過程なんて器用な事は可能だろうか?
あくまで自論であり、他人にまで押し付ける気も、別の意見を押し付けられる気も無いのだが、俺が思うに答えは、『NO』である。
人間、別概念を矢印で繋ぐならまだしも、等号で繋げるほど、器用には出来ていないだろうし、世界の仕組みだってそう甘くはないだろう。
長い前説で言いたかった事はたった一つ、簡単なことだ。要は『人間否定しようと思えばなんだって否定は可能だが、意識的にしろ無意識的にしろ否定は何かしらの意味と理由を内包する』。と、まぁ、こんな事が言いたいわけだ。
これでもかなり哲学的な言い回しな感じがするな。もっと砕けた言い方をすれば……必要ないか。それぐらい理解してほしい。
分からないなら忘れてしまえ。
さて、本題に入るが――俺としては元々本題だったんだが、話の核心を述べるのだから一般的に言う本題はここからだ。
俺はとりあえず現在の状況を否定したい。その理由はなんだろう?
信じたくないから?
今更。俺はラショナリストだ。信じたくないからっていちいち否定してやる程の暇は持ち合わせてないのさ。
信じられないから?
冗談。俺はリアリストだ。現実を素直に受け止めるぐらいの精神的柔和さは持ち合わせているつもりだぜ。
これといって、ピンと来る、パズルにピースがはまるようなしっくりくるような理由はない。
だから俺はきっと、本気で否定したい訳ではなく、もっと別のところからくる、別の事象を表す何か……さしずめ、また変な知り合いを作ってしまった、と後悔と失望にまみれたコールタールみたいにドロドロした感情が理由。
何を今更、的な野次が何処からともなく聞こえてきそうだ。
本人を前にして変な人はあまりにも酷いから、口出しては言わないでおこう。こんなことを考えている事態、人間としてどうかと思うしね。俺が人間性に富んでいるとはいえないけどさ。
俺の目の前に居る、数無こころ。
年齢若干十六歳にして気鋭の天才小説家としてその名前を轟かせた現代の偉人。その彼女は、俺の前で可愛らしくも尻餅をついていた。
さほど痛くはなかったのか、あまり辛そうな顔はしていないが、それは倒れた本人か医者が決める事である。尻餅をつかせた原因たるこの俺は、急いで立ち上がり、どもり気味に労りと謝罪の言葉をかけつつ手を差し出した。
「あぁ、これぐらい問題ないさっ!」
妙なまでのハイテンションで俺の手をがっちり掴んで、にかっと明朗快活の象徴のような笑顔を俺に向けてきた。
いつまでも手を握ったまま、その笑顔を拝んでいるわけにもいかず、足を踏んばり力をいれて手を引いた。腰にまで力を入れる必要は無く、数無さんは軽々と立ち上がる。どうやら運動神経は良いほうのようだ。
それを差し引きしても数無さんは成人女性にしては随分と軽い気がする。着痩せどころか着太りしてはいるんじゃないかと思わせるほどに。
本人の前じゃ決して言わないけどね。
数無さんを立ち上がらせてから早々に手を放し、俺は数無さんとの距離が近いことに気づいて若干距離をとる。その所為で、でひっくり返ったお茶が濡らした紙の上に右足を乗せてしまった。靴下ごしに伝わる嫌な感触。
だが、このまま退けば濡れた足で被害をさらに拡大しそうだったので、無言のまま俺は濡れていない片足で片足立ちになり、濡れた靴下を脱ぐ。幸い、素足までは濡れて無いようで今度は慎重に足の置き場を考えてから足を下ろした。
片足だけ靴下を履いているというのは、ファッション的にも、肌触り的にも、実用性を考慮するにも、あまりよろしくない状態。
ついでだからもう片方も脱ぐことにした。
俺は靴下を脱ぎ終わり、数無さんは腰に痛みという違和感がなくなったのか、平気な顔をしている。どうやら一段楽した様子。
何も話していないのに豪くどたばたしたな。
そんな些事は気にしても仕方ないけどね。
「それよかさ、どうしたのさ?いきなり素っ頓狂な声をあげて」
「あ、いえ……何でもないです」
幾ら相手が細かい事を気にしない相手であろうと、流石に出会って間もないのにいきなり彼の有名な『多重人格な小説家』である数無こころさんか、などと訊けるはずも無い。
俺は最低限の常識とマナーは兼ね備えているつもりだ。たとえ苦手な人に対しても、それは惜しみなく行使される。
「そか、じゃあ麦茶淹れ直してくるわ。客なのに使って悪いけど、これで床拭いといて」
キッチンに戻る途中、数無さんは下に落ちていた白い布を俺の方に投げ、そのまま受け取ったのを確認もせず、去っていった。
布なだけに飛んでくるスピードも当然遅いため、俺は容易に掴むことに成功。
手で握るとほんのり湿っていたその布の正体は、どうやら無地のTシャツらしい。もっとも、いろんな染みやら汚れやらで一種前衛的な模様を作り、既に無地ではなくなっていたが。
このTシャツがしっとり濡れている原因はどうやら、汗。別に臭ったわけではないのだが、自然と漂ってきた香りがそんな感じだ。
この無地のTシャツ(過去)が湿っているという事は……着てたのか!?
濡れ具合からしてついさっきまで!?
この天然前衛芸術プリント済みTシャツを!?
大仰に驚いてみた。実際、そこまで驚いていない。
きっと俺が来る直前までこのTシャツを着ていて、青猫さんが来たから着替えたんだろうな、とか、眠かったのに着替えるなんて意外と律儀だな、とかどうでも良い推測をしながら、言われたとおり床を拭く。
とは言っても、床は畳張りなのでほとんど水分は残っておらず、使い物にならなくなった水浸しの紙を処理するだけとなった。勝手ながら、ゴミ箱に捨ててしまったが、どちらにしろ読めなかったから仕方あるまい。
かろうじて読めた部分はさりげなく暗記はしているが、読めた部分をつなげると、どうやら小説の元ネタなどの根本的なものではなく、ふっと思いついたような冗句的やり取りを書き殴ったもののようだった。
それだけでも小説家だと思わせる腕のよさが見え隠れしている。俺には到底無理な、軽妙なやりとりが目に浮かぶような文章だ。俺は一介の素人であくまで感想でしかないんだけどさ。
まだ小説家としての確証を取った訳ではないしね。
「もどったぞー」
楽々とした口調で数無さん帰還。少しばかりテンションダウンしたようにも見えるが、俺としてはこのぐらいが心地良い。
「悪いね、そういえばさっきので飲みもん切らしてさっ、未成年は飲んじゃいけないモノならあるんだけど、君、未成年でしょ?」
「一応まだ高校生、ですね」
意外、と考えては失礼だが、それでもあえて思う。意外だ。この手の人はそんなことを気にしないどころか、寧ろ進めてくるような既成概念があったのだが……。
数無さんはモラリティーあふれる人であった。それが普通なんだろうけど。
「だよな。その顔でハタチ超えてたら娶っちゃうよっ」
「俺が妻の方なんですね」
「む、淡白だね。あたしがせっかく恥ずかしいのをこらえて、和気藹々となる冗談を言ってあげたのに。泣いちゃうよ?」
そんなことで泣けるなら、いっそ泣いてしまえ。そのほうが和気藹々となる。
実際の所、本気で泣かれたら引くけどさ。
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