「――アルフレッド様、アルフレッド様!」
綺麗な花が咲き誇る王宮の中庭。ゆっくりとしたそよ風が流れる気持ちの良い青空のもとで、先程から凛とした女性の声が忙しなく響いていた。
この声の主は“エリア・エカテリーナ・ルルベル”――王宮騎士の中でもとあるお方の専属護衛を任された若く美しき女騎士である。
そして、彼女が今まさに忙しなく探し回っている人物こそ彼女の悩みの種、もとい、忠誠を剣に誓った主である“アルフレッド・バラモン・ライオネット”――ライオネット王国の第二王子その人だ。
実はエリア、これから隣国アルバーナに向けて出発しなければならないのだ。といっても単身出発するわけではない。もちろん、アルフレッドの護衛としてである。
エリアは庭の隅にひっそりとある花の生け垣に近づくと、はぁとため息ひとつ零して大きく息を吸った。そして、
「アルフレッド様!」
「うわあ!」
突然至近距離からエリアの声が降りかかったからか、生け垣の小さな隙間からアルフレッドが間抜けな悲鳴をあげながら飛び上がった。
「また懲りずに隠れてらしたんですか、アルフレッド様」
「うう、うるさい! 見逃せ、見逃してくれぇぇ」
「駄目です」
服についた葉っぱを振り払いながらそう訴えるアルフレッドに、エリアはぴしゃりと言い放つ。そして、やれやれといった具合に、アルフレッドの艶めく黒髪に乗っていた葉っぱを指で摘んで落とした。ひらひら舞いながら自分の足元に落ち着いたその葉っぱを不服そうに眺めつつ、アルフレッドはわざとらしく、そして盛大にため息を吐いた。
「いつまでこうしているおつもりですか? 貴方はこれからアルバーナの姫君とお会いになるんですから、きちんと正装してください」
「嫌だ、断る! 大体なんで好きでもない女に会わなければならないんだ。俺はあんな王女と結婚なんて、絶対願い下げだ。却下却下」
いまだぶすくれる主に、エリアは半ば呆れつつ腕組みすると容赦なく言う。
「何度言わせるおつもりですか、駄目なものは駄目です」
随分こういった状況に慣れたような口調である。それもそのはず。こんな主相手では、このくらいじゃないと専属護衛など勤まらない。それにエリアはアルフレッドの世話係も任されているのだ。こんなやり取り、もうしょっちゅうなのである。
「お前な、主は俺だぞ俺。そしてお前は俺の護衛。そこんとこ忘れてないか? なんていうか最近」
ごにょごにょ。どうも、アルフレッドはエリアには弱いようである。
「……わかったよ。行けばいいんだろう行けば」
「わかってもらえましたか」
結局、無駄なあがきも虚しくアルフレッドは正装をして隣国アルバーナへと旅立つはめになった。
***
「いいかげん、機嫌をなおされたらどうです」
ガタガタと揺れる馬車の中、エリアの凛と澄んだ声が響く。しかしアルフレッドはそれに応えることもなく、ただじっと移り変わる外の景色を眺めていた。
実はこれ、城を離れてからもう何回となく繰り返されている光景。いいかげん諦めたのだろうか、いままでは少しの間隔おきに呟かれていたエリアの言葉も、ついには聞こえなくなった。ちらりと横目でエリアを伺えば、彼女は静かに反対側の景色に瞳を向けていた。
その綺麗な深緑色の奥深い瞳、長い睫毛、どこか女神のような彫刻像を連想させる端整な顔立ち。極めつけにはゆるやかに風になびく栗色の美しい長い髪。太陽の光を受けて、その髪は時折黄金色に輝くのだ。どこからどう見ても、美人。
――人の気も知らずに……
アルフレッドはエリアから視線を剥がし、そうして再び外に流した。
これから向かうアルバーナは、ここライオネット王国と同じような気候で、そこに暮らす民族もこれといってあまり変わらない。ただ、国の規模が違うというだけ。それはそれは水溜りと湖といったぐらいに。
アルフレッドには、アルバーナに赴くことについて気乗りしない理由がいくつかある。そうでなければ、わざわざあんな葉っぱだらけになってまで、生け垣の中に隠れるなどといった王族らしからぬ行動はとらない。
理由のひとつというのは、もちろんアルバーナの姫君アルテミスのこと。彼女とは親同士が決めた婚約者という間柄なのである。もちろん嫌いなどではない。むしろ好きだ。仲の良い国王同士で親交が深く、アルテミスとは小さい頃から度々会っていたし、それこそ男兄弟しかいないアルフレッドにとって彼女は妹のような存在だった。しかし、その好きは恋愛感情のものとは程遠いものなのだ。家族愛、言い表すならばこれが一番近い。だが、分からず屋の国王はアルフレッドをアルテミスの婿にしようと必死なのである。まあ、ライオネットのような弱小国がこれから生き残る為には、強国アルバーナとの結びつきは天からの授かりもの。アルテミスは今年で十六歳、そしてアルフレッドも十七歳。父である国王が躍起になるのもわからなくはない。
「……はあ」
つい、やりきれない感情をため息という形で口に出してしまった。すると、それまで外を眺めていたであろうエリアがすかさず振り向いた。
「アルフレッド様……嫌なのはわかりますが、アルテミス様の前でもそのような態度を取るようであれば、私は貴方を容赦なく張り倒しますよ」
「それが主に対する行いかよ」
エリアなら、やりかねない。
「張り倒されたくなかったら、もっと毅然とした態度でいてください。貴方は一国の王子として――」
――うわ、また始まる。エリアの長ったらしいお説教なんて、もう耳ダコができるほど聴かされた。
「だー! わかったわかった。向こうに着いたら立派な王子でいるから、今だけ休ませろ」
アルフレッドは両耳を押さえるポーズをとりながら、そう言ってその場を切り抜けた。
エリアも、そこまでしつこくする訳ではないので、ここはアルフレッドの思う壺になったようだ。
それにしても。と、アルフレッドは思う。今更だとは思うが、エリアは自分に対してなんの警戒心もない。まあ、専属護衛兼世話係の騎士であるエリアが主に警戒するなど可笑しな話だとは思うが、それでも一応は男と女。繋がるすべはある。アルフレッドが迫ろうと思えば、いつでもその機会はあるのだ。現に、外には数名の兵士がいるとはいえ、今もこうして二人きりで馬車という密室にいるのだし。
(ま、そんな馬鹿な真似はしないけど)
あいかわらず警戒心の欠片もなく無防備な横顔で馬車の外の風景を眺めるエリアを見つめながら、アルフレッドはそっと表情を綻ばせた。
アルフレッドがアルテミスとの縁談を嫌がる最大の理由。それは目の前のこの無防備な彼女こそが原因なのである。
小さい頃、それも物心つく前頃からずっと一緒にいるからだろうか。気がつけば、いつのまにかエリアに惚れていたのだ。自分よりも五歳年上のエリア。エリアの親父は王宮騎士団団長ということもあり、さらには国王専属の護衛騎士であったことから、その娘のエリアは友達のいないアルフレッドの良き遊び相手だったのである。アルフレッドに限定されずに、兄パトリシア、そして弟アンソニーに至っても同様だった。実は昔、誰が一番エリアを好きかということで言い争いになったような記憶もある。とにかく、エリアに惚れている以上、アルテミスと結婚なんて考えられない。考えたくもない。
こうしている内にも、馬車はとうとうアルバーナへと入り、その日の夕暮れには王都サザーレアに着いてしまった。
***
「おお、よく来られたなアルフレッド王子よ。歓迎いたすぞ」
煌びやかな黄金の王冠をかぶり、いかにも国王といった感じの丸々としたお腹が印象的なアルバーナの国王ルシアンは、自慢の口ひげを撫でながら笑顔で迎え入れてくれた。笑って目を細めた際に刻まれる深いシワは、国王の風格をよく引き立てている。
「――これ、アルテミスを呼んで参れ」
ルシアンは傍に控えていた臣下にそう告げると、颯爽とアルフレッドの前まで歩み寄りまじまじと顔を観察しだした。
「ほほう、父上に似た精悍な顔つきじゃ。お主とは、確かこれで三度目だったかの」
「はい。ルシアン様がライオネットを訪問なさった時に、何度かお会いした記憶があります」
とはいえ、それはまだ小さな頃であったから、そこまで鮮明には覚えていない。それにこれまで度々アルテミスと会ったことがあるといっても、それはアルテミスがライオネットに来ていた為、アルフレッドがルシアンと会うのは実に十数年ぶりなのである。
父とは違いどこかやさしそうなこの国王。アルフレッドは内心ほっと安堵した。外面には現さなかったが、実を言うとそれまでかなり緊張していたのだ。それもそのはず。ここで何か問題でも起こせば、一瞬のうちにしてそれは外交問題へと発展しかねない。国王がわりとやわらかい印象であっただけ、随分気持ちの持ちようが違うというもの。
そんな時、後ろの方からふんわりとした可愛らしげな声がした。
「アルフレッド様、いらっしゃい!」
ピンクの豪華なドレスに身を包み現れたのは、ブロンドの髪を結っておめかしされたアルテミスだった。数年ぶりに見る彼女は少し大人びていて、それでいて昔のように無垢な笑顔で駆け寄ってきた。
「少し見ない間に、ずいぶんと美しくなったものだね」
久々の再会に、さすがのアルフレッドも笑顔になる。やはり、アルテミスは可愛いのだ。もちろん、妹のようだ、という意味だが。
「あらそう? アルフレッド様の方こそ、立派になったみたい。前は背もこんなに高くはなかったもの」
身長176cmのアルフレッドに対して155cmほどしかないアルテミスは、見上げるようにして微笑んだ。
時は既に夕刻を過ぎた頃。
アルフレッド、そしてエリアはルシアンに歓迎の晩餐会を開いてもらい、豪華な夕食と会話に花を咲かせながら、与えられた部屋へと赴いた。いくら婚約者といえども、結婚前のアルテミスと同室になどなるはずもなく、アルフレッドは豪華な客間、そしてエリアはすぐ隣の部屋を割り振られた。他にも、城からついてきた兵士達もちゃんと部屋を与えられた。
***
アルフレッドの隣の部屋をあてがわれたエリアは、窓辺の椅子に腰掛けながら、静かに夜空に瞬く星の運河を眺めていた。
――綺麗になられていたわ。
思い返すのは、先刻のアルテミスの姿。久しぶりにお目にかかった彼女は、もう子どものそれではなかった。あれは、あの瞳は、完全に恋する乙女の熱いものだった。アルテミス王女は、アルフレッド様に恋をしているのだ。そう理解するまで、それほど時間はかからなかった。
可憐で美しく、それでいて強国の姫君。これほど、アルフレッド様にとってお似合いかつ好条件の結婚相手など、いるはずもない。
中睦まじく会話を交わす二人を見ていてこの心が揺れたが、アルテミス様に向けられるアルフレッド様の笑顔にこの胸がチクリと痛んだが、それは気の迷い。何かの間違い。
アルフレッド様に主以上の感情を抱くなど、そんなことはあってはならない。そう、いけないのだ。
所詮自分とアルフレッド様の関係は、王子と護衛という主従関係でしかない。それを超えてしまってはいけない。ずっと、そう自分自身に言い聞かせてきた。
「……アルフレッド様」
それでもポツリと、彼の名前をこうして口にしてしまう自分がいる。時々こうして、彼に対する想いがあふれだし、どうしようもなく寂しい気持ちになる時がある。
”好き“というそんな言葉では片付けられない、何かもっと深い感情が、エリアの心を捉えて締めつけていくのだ。
きっとこれは、”愛“なのかもしれない。しかし、決して口にしてはならない想い。
アルフレッド様にはアルテミス様という素晴らしい婚約者がいるから。いや、それ以前に、所詮は身分違いの恋。むくわれるはずなど、決してない。あってはならない。
「私は剣に誓ったの。この命尽き果てるまで、どんな困難が訪れようとも、アルフレッド様を守り抜くと」
そう、誓った。今更その誓いを破るつもりなんてさらさらない。この想い以上の、余計な邪念は邪魔になるだけ、剣が鈍るだけ。アルフレッド様を隣で支えるのは、自分などではない。そのお役目は妻となるアルテミス様で十分なのだから。
こんなことを考えていると、そして一人でいると、なぜか心細くなってきた。
エリアはスッと立ち上がり、扉の方へと歩いていった。ここでこうしているより、廊下で見張っておこう。そう考えたのだ。ここには賊なんてこないだろうが、念のためだ。完全に安全だとは、言い切れないのだから。
そっと部屋から抜け出し、エリアは廊下の、アルフレッドの寝室の前の壁に寄り添うようにして立った。環境が変わったこともあり、眠気はまったくといっていいほどない。
首を左右に向けて廊下を見てみたが、静まり返っていて、なんの可笑しな様子もなかった。廊下の紅絨毯には金の刺繍が事細かに施されており、壁には等間隔で王家の紋章が刻まれている。二頭のライオンが蛇の巻きついた剣を囲む、なんとも迫力あるものであろう。
「……ふう」
エリアは小さく息を吐くと、それっきり微動だにせず壁の前に立っていた。
***
――この壁一枚隔てた先には、エリアがいる。
アルフレッドは一度ベッドに入ったものの、やはり寝付けずにむくっと起き上がると、ベッドに腰掛けたまま壁を眺めていた。
エリアはもう眠っただろうか。いや、きっと彼女のことだから星でも眺めているんだろう。
「さびしいですアルフレッド様。私と一緒に…………なーんて展開だとどんなに嬉しいことか」
なんて、ありえない妄想を膨らませてはひとり悲しくうなだれてみる。彼女にかぎってそれはない。
でも、もし仮に「一緒に眠ってもいいですか……?」なんて可愛いこと、エリアのうるんだ瞳で言われてみろ、嬉しいじゃないか! 嬉しいじゃないかぁぁ!
などと、エリアにバレれば冷ややかな睨みをされそうなほどにしょうもない事を考えていた時だった。
「いやあ、貴方は実に美しいですね」
という声が微かに扉の外から聞こえてきた。
それは確かに男の声で。すぐ後から微かに女の声もしたような気がする。まさか、と胸中によぎるのは嫌な予感。アルフレッドはそれが気になって扉まで歩み寄り、そっと聞き耳をたてた。すると、
「……何の真似かしら」
予感的中。扉の外、つまり廊下には、男に声をかけられているエリアがいるのだ。しかも、エリアの低い声色からして怒っている。何かをされているということは否めない。
「……許せん」
アルフレッドはそう零し、扉を開けて廊下に姿を現した。
突然の王子の登場に驚いたのか、エリアに声をかけていた兵士は顔をひきつらせ、握っていたエリアの手首をさっと放した。
「見回り兵の分際でこんな夜分に、それも俺の寝室の前で堂々ナンパとは……どういうことか説明してもらおうか」
アルフレッドが少し怒気を含んだ、しかしずいぶんと落ち着き払った声でそう言うと、アルバーナの兵士はたじろいで視線を泳がせている。
――なんて解りやすい反応だ。
アルフレッドが指を鳴らしながらもう一歩兵士に詰め寄ろうとした時、エリアの制止が入った。
「お止めくださいアルフレッド様」
「……エリア」
「ここで騒ぎを起こせばご就寝中の陛下やアルテミス様にまでご迷惑がかかります。私は何もされていませんから、だから落ち着いてください」
そんな事を言われても、これが黙っていられるはずがない。せめて一発殴らせろ。という物騒なアルフレッドの考えを読み取ったのか、エリアは軽くアルフレッドを睨んだ。彼女の場合実に静かな睨みだが、それが逆に怖かったりする。
――怒ってる。
肌でそう感じたアルフレッドは、しぶしぶ引き下がった。
結局、エリアをナンパしていた見回り兵はそそくさとこの場を退場し、シンと静まり返った廊下にはアルフレッドとエリアのみが残された。
「で、エリア。お前は何で廊下にいたんだ?」
こんな夜中に、とアルフレッド。すると、エリアは当然だとばかりに答えた。
「私はアルフレッド様の護衛なのですから、見張っておくのは当たり前です」
「ここは安全だからそんな必要ないさ。お前も長旅で疲れてるだろう。だったら早く休め」
それでも引き下がらないエリアに、アルフレッドははぁとため息を零した。
そのわざとらしいため息に気分を損ねたのか、エリアも眉間をピクピクと痙攣させる。
主であるアルフレッドに対してエリアがこのような態度を取れるのも、きっと幼馴染という切っても切れぬ間柄があるからだろう。
「アルフレッド様……」
そう呟いたエリアはアルフレッドの肩にそっと触れ、そしてくるりと回してアルフレッドの体を部屋へと向けた。
エリアの声がいつになく切ないような気がして、アルフレッドの心臓がトクンと高鳴る。これはもしかして。一瞬淡い期待を抱いたアルフレッドだったが、この期待はすぐに打ち壊された。
「もうお休みください」
振り返る間もなく部屋へと押し込まれて、パタンと扉が閉められた。
***
アルフレッドを部屋の中へと追い返した後、エリアはそっと壁にもたれた。クスリと小さく笑い、そして主の消えていった扉を見つめる。
――嬉しかった。
アルフレッド様があの兵士に腹を立ててくれるなんて。それは別に自分に声をかけてきた兵士に対する嫉妬だとか、そんな理由で怒ったのではないことぐらいわかる。でも、それでもなぜか凄く嬉しいのだ。
それに、アルフレッド様の顔を見れて、耳に心地の良い声を聴けて、心が安心した。寂しかった気持ちも心細い不安も、彼によってあっという間にどこかへ消え去ってしまったのだ。
それほど、自分の中で彼の存在というのは大きなものらしい。
――出来ればこのまま、時間が止まってしまえばいいのに……
不謹慎だとは思いつつも、ついそんなことを考えてしまう。そうすれば、アルフレッド様がアルテミス様と結婚することも、二人を思ってこれ以上胸が苦しくなることもないのに。
「こんな気持ち……護衛として失格ね」
自嘲気味に、小さく呟き瞳を閉じる。
部屋の中から物音は聞こえない。もう、彼は眠ってしまったのだろうか。
自分から彼を中に押し込んだというのに、それなのに。
どこかに……もう一度この扉が開いてくれるのを期待している自分がいる。
だけど、開かないことを願っている自分もいる……
***
(エリアのやつ〜)
普通、自分の主を部屋に無理やり押し込むやつがあるか?
そんなことを内心考えつつ、アルフレッドは再びベッドの端に腰掛けていた。
眠れない。眠れるはずもない。
自分が目を放した隙にまた違う男がエリアを誘惑したらと思うと、とてもじゃないが眠る気になんかなれやしない。
エリアもエリアだ。何をのこのことあんな兵士にナンパなんかされているんだ。だいたい、エリアは自分の美貌をよくわかっていないのだ。あれだけ綺麗なら、手に入れようと寄ってくる男達はごまんといる。そういえば、確か数日前にもどこぞの貴族の息子から求婚を迫られたと聞いた。当人はもちろん丁重にお断りしたらしいが、このままではこっちの気が休まる暇なんてない。
エリアはいいかげん結婚していてもおかしくない年齢なのだし、きっといつかは他の男の腕の中で幸せそうに微笑むのだ。たぶん、そう遠くない未来に。
――そんなことあってたまるかよ。
あの華奢な体を抱きしめていいのは自分だけだ。髪からふわりと漂う甘い香りを堪能するのは、あのエメラルドのような深緑の瞳を独占していいのは自分だけだ。
――他の男に渡してたまるものか。
「エリアは俺のものだ」
それは、それまで抑えてきたものが一気に解放された瞬間だった。
アルフレッドはズンズンと扉に歩み寄り、そして金のドアノブに手を掛けるとそのまま勢い良く開け、廊下にいたエリアの手首を掴んで引き寄せた。手首を掴まれた瞬間、彼女は驚きのあまり声も出せずにただ瞳を見開くだけだったが、かまわずそのまま部屋の中へと引き込んだ。
バタンと扉が閉まり、室内を静寂が支配した。
その静まり返った部屋の中で、ただ、エリアの緊迫した息づかいだけが響いている。
先に静寂を破ったのは、部屋に連れ込まれたエリアだった。
「何の……おつもりですか」
いきなりのことに動揺しているのか、その表情は固い。
ジリッ。アルフレッドが黙ったまま一歩近づくと、ジリッ、エリアも後ろへ下がっていく。
自分の真剣な表情を見て、これは冗談ではないと確信したのであろう。エリアは額から汗をひと伝いさせながらさらに後退していく。
やがてエリアの背中が壁にあたり、彼女がそれ以上後ろへ下がることはできなくなってしまった。
エリアを壁際まで追い込んだアルフレッドはなおも黙ったまま、とうとう両手で壁とエリアを挟むようにしてその歩みを止めた。
顔と顔が近い。エリアの肩が、呼吸が大きく揺れている。
「エリア……」
アルフレッドがそうささやき、片方の手でエリアの頬に触れると、エリアは逃げようとはせずにただ拒絶の言葉を口にする。嫌なら抵抗のひとつでもすればいいものを。彼女のことだ。きっと、ここで嫌がって逃げ出したりしたら、主である自分が酷く傷付くことを知っているのだろう。
「……いけません……アルフ」
しかし、紡ぎだされた言葉は途中で途切れ、代わりにアルフレッドの唇がエリアの唇を塞いだ。
キスをされたエリアは大きく瞳を見開き、肩をビクつかせ、そして戸惑ったようにアルフレッドの胸板を押した。
「……っ……」
その様子にアルフレッドはそっと唇を放した。すると、解放されたエリアの瞳にはうっすらと涙が溜まっており、それは彼女がまばたきした瞬間にポロリと頬を流れ落ちた。
はあ、はあ、と肩で息をするエリア。その戸惑いを浮かべた顔は紅潮しており、涙で濡れた瞳が、熱を帯びた唇が、アルフレッドの壊れかけの理性をかき乱していく。
「俺は……」
そう言葉を言いかけたが、エリアのか細い指がアルフレッドの唇を押さえ、それ以上の言葉を無理やりださせまいとした。
「お願いです……お止めください」
今にも崩れて砂のようになってしまいそうな声が、涙をこらえ震えるエリアの唇から繊細な糸のように紡ぎだされる。
「あなた様には……アルテミス様という大切な婚約者がいらっしゃいます。私では……駄目なのです」
だからどうか、お止めください。そうエリアは言った。
今はただ、嫌がる素振りもみせずに、真剣な眼差しで自分をまっすぐに見据えていた。その深緑の綺麗な瞳から、一粒、また一粒と透き通った雫がこぼれ落ちる。
「アルテミスは関係ない! 俺の心の中にいるのは、エリア……お前ただ一人なんだ」
その瞬間、エリアの瞳が大きく揺らいだ。
そうか、そうだったのか。
自分も彼女も、その立場に縛られ、互いの胸に秘めたる想いをひた隠し続けてきたのだ。
――身分という、厚い壁に縛られて。
「俺は――」
もういい、想いを全部ぶちまけろ。
「――お前を愛してる!」
***
――彼の言葉に、胸を焼くようなこの言葉に、もはや私は抗うことなどできそうもない。
王子と関係を持ってしまえば、恐らくもう王宮にはいられないだろう。もしかしたら、重罪として死刑になるやもしれない。それでも。
もうどうでもいい、どうなってもいい。
――ああ、神様今だけは、どうか私に彼との時間をお与えください。どんな天罰もこの身にあまんじて受けます。だからどうか今だけは、誰にも邪魔されず、身分という枷にも縛られず、彼に本心を伝えることをお許しください――……
「アルフレッド様……私も、あなたを愛しています」
言葉の代わりに返ってきたのは、互いを確かめ合うかのような熱く深く濃厚な口付け。
明日の未来が暗闇に閉ざされようともかまわない。
――どうか今夜だけは、愛する人との幸せなひと時をお与えください。
それは月が神々しい輝きを放つ夜だった。
夜空に浮かぶ月だけが、そっと見守るかのように、重なり合う二人を明るく照らしだす。
互いの胸に秘められていた愛しき想いは通じた。だが、これから彼らのたどる未来への旅路は決して明るく平坦なものではないだろう。それでも、この先どんな運命が彼らを待っていようとも、きっと彼らの愛は永遠のモノだと信じよう。――――信じ続けよう。
END
|