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神田川
作:嘉納秋


 反体制やバリケート封鎖で何かが変わると信じていた時代。
 それを経験しているからこそ、今を胸を張って生きていると言い切れる自分がいる。


「お帰りなさい、あなた」
 団塊の世代と呼ばれた私達は、結局は何も変える事が出来なかった。
 旧保守派とも言える、米国主導の不平等な安保理に対しても、私達は結果立ち向かっても何も変えられなかった。
 大学闘争という場で戦ったとしても、それは結局ただのテロリズムと何も変わらないという事。


「ただいま、恵子はもう寝たのか?」
「ええ、花嫁修業も大変ですし……」
 何も変えられなかった団塊の世代は、そのまま勤勉な社会人になり、旧保守派の作り上げた虚構とも現実ともつかない自由社会で、この日本という国を豊かにした。


 そういう自負はあったとしても、それが正しかったのかどうか、今では分からなくなってしまった。


「……あなた、無理はなさらないで下さいね」
 妻とは見合い結婚だ。
 彼女に対して私は、どういう意味合いでの愛情を抱いているのだろう?


 二十八の頃、二十四の彼女と結婚し、五年後には愛娘の恵子を授かった。
 二人は大切な家族だ。だからこそ私は、この競争社会で生き残る為に、プライドも何もかも捨てて生きてきた。
 地べたに額を押し付けて土下座をした事も何度もある。


「ああ、大丈夫だよ」
 小さく笑って応じると、妻はいつも少し悲しげに俯いてしまうのだ。


「お風呂になさいますか? それともお食事にされますか?」
 何年も変わらない、いつもの日常としてのやり取り。
 妻はこの家という小さな空間でいつも私を待っている。そしてこの小さな幸せの空間を守り続けてくれた。


「夕飯はなんだい?」
「鯖の煮付けとほうれん草のお浸しとお野菜の煮物、後は豆腐のお味噌汁です」
 妻はいつも、私の事を考えていてくれている。
 元々ヘビースモーカーで、そして酒も結構呑む私の食事は、いつもバランスよく栄養の偏らないようにしてくれているのだ。


「鯖の煮付けか、それは楽しみだ」
 妻は曖昧な笑顔を浮かべて、「では暖めますので、その間にお風呂へどうぞ」と言い、私の鞄を受け取った。





 温かい風呂に浸かりながら私は、呆然と風呂場の天井に視線を向けていた。


 あの頃、あの女性と暮らしていたあの安アパートには、風呂なんてなかった。
 トイレも共同だったし、隣の部屋の夫婦がセックスでもしようものなら、喘ぎ声が筒抜けだった。


 そういえばあの女性は、そういう声を出すのを恥ずかしがっていたな、と思い出して、少しだけ笑った。


『……ここでいいわ』
 あの女性と進む道を違えたあの時、私に見えていたのはたった一本のレールだった。
 反体制派として大学闘争に明け暮れながら、結果何も変えられずに、その旧保守派の作り上げたレールに屈辱的な屈服の上に歩く事を決意した。


 ――違う、決意したのではない。そちらに逃げたのだ――


 桜の花弁が舞うあの川縁の畦道は、今はどうなっているのだろうか?
 かぐや姫の「神田川」を、二人で愛し合った小さな煎餅布団の中で、二人毎日のように口ずさんだ日々。


『私は貴方が大切です。……でも、今みたいな貴方を愛していた訳じゃないの』
 今でも私は、この時の決断が間違っていたとは思っていない。
 確かに私はあの女性の望むように、真っ直ぐ突き進まなかった。結果、旧保守派の望むような虚構の社会の中で、歯車のように働いてきた。


「馬鹿らしい、な……」
 小さく呟いて、私は湯船の中に沈んだ。





「お帰りなさい、お父さん……」
 風呂から上がると、娘の恵子がリビングにいた。
「ああ、ただいま。もう寝たと母さんから聞いたんだが……」
「うん、目が覚めちゃって……」
 恵子が私に似なくて本当に良かったと思う。妻は私には勿体無い綺麗な外見をしているから、特にそう思ってしまうのかもしれない。


「康彦君とは上手くやっているのか?」
「うん、まだ何となく実感が湧かないだけどね、結婚するっていうの……」
 苦笑する恵子を見て少し笑いながら食卓に座ると、妻が絶妙のタイミングで暖かい食事をテーブルに並べてくれた。


「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
 恵子は私と妻を交互に見詰めて、「やっぱり仲がいいよね、お父さんとお母さんって」と笑った。


 食事を取っていると、恵子はただずっと私と妻を見詰めていた。
 私と妻は基本的に、あまり会話らしい会話をしない。新婚の頃はそれなりにあったものの、少しずつそれは減っていき、いつの間にか会話をせずにも相手の考えている事が大体分かるようになってしまった。


「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
 何を言わなくとも、私のコップにビールを注いでくれる。
 昔から麒麟のラガーばかりを飲んでいる私の趣味は変わらず、そして一日二本の瓶ビールという量も何も変わらず。


「お父さんとお母さんって、お見合い結婚だったんだよね?」
 恵子がビールを飲んでいる私に、突然そう尋ねた。
「ああ、そうだよ。それがどうかしたのかい?」
「うーん……私と康彦は恋愛結婚だから、ちょっと分からないんだよね……お見合いして、相手の全てが見えないまま結婚するっていう感覚……」
 妻に視線を向けると、妻は苦笑しながら恵子を見詰めていた。
 私は妻のどこに惹かれたのかと考えると、確かにちょっと考えてしまう。


 あの女性よりも美人なのは確かだ。家柄もいいし、私が結婚できたのが不思議な相手だ。
 妻が私の視線に気付き、「何か?」と怪訝そうな顔をした。
 「いや、なんでもない」と応えて、視線を逸らす。


 視線の端に入った妻の表情は、どこか悲しげだった。


「それは考えても仕方がないのよ」
 恵子の言葉に、妻はそう言い切ってしまった。
「どうして?」
「お父さんにも私にも、そのお見合い結婚を拒絶する権利がなかったの。だからもう、好きになるしかなかったのよ」
 その妻の言葉に恵子は、露骨に顔を顰めた。
 俯いて唇を噛む。


「私はお父さんとお母さんの愛情の中から生まれたんじゃないの?」
 妻に視線を向けると、妻は優しげに笑っていた。
「……確かに私にもお父さんにも、この結婚を拒絶する権利はなかった。でもね、私はお父さんが大切よ。それは嘘じゃないのよ」
 俯いている恵子の顔を覗き込んで、妻は「あなたは私とお父さんの大切な娘よ」と呟いた。


 その時の妻の笑顔は、何故か別れを切り出したあの女性にそっくりだった。


「本当に?」
「本当よ、ねえ? お父さん」
 妻の優しい目が、私の心を見透かしているように見詰めた。


「……ああ、本当だよ」
 意識して優しく発した言葉に、恵子は嬉しそうに頷いた。





「どうなさったんですか? 突然「散歩に行こう」だなんて……」
 妻と散歩をするなんて本当に何年ぶりだろう。
 最近は旅行らしい旅行もしていなかったような気がする。


 訝しげな妻に、「まあ、たまにはいいじゃないか」と笑い掛ける。
 桜の並木道があるこの川辺の畦道も、随分と変わったものだ。


 夜の桜の花は綺麗だ。
 不思議と散る様が美しいと感じてしまうのは、私が擦れた人間だからだろうか?


「……あそこにアパートがあったんだ」
 私が指差した先には、大きなマンションが建っていた。
「そうなんですか?」
「ああ、君はこの街の出身じゃないからね、知らなくて当然だろうけど……」
 妻は私の言葉を聞きながら、私が何を言いたいのかを推し量っているようだ。


「風呂もないし、トイレは共同便所だったし……四畳一間に二人で生活するというのは、結構狭かったなあ……」
「……同棲時代ですものね、あなたが大学生だった頃は……」
 妻は小さく呟いて、視線を逸らした。
 畦道に舞い散る桜の花弁は、不思議な温かさに満ちている。





『お帰りなさい』
 大学闘争真っ只中で、いつもやれ「バリケード封鎖」だの「日米安保理反対」だの「世界平和の為に」だの、考えてみれば大した思想もないのに旧保守派と戦っていた私があの安アパートに帰ってくると、あの女性はそんな事には触れず、ただ優しくそう出迎えてくれた。


 四畳一間の小さな安アパートの部屋は、狭いがいつも暖かさに満ちていたと思った。


 若かったあの頃、何も怖くなかった。
 いや、あの女性の優しさが、とても苦しくて怖かった。


 それはあの女性を失いたくないという、ある意味での純粋な愛情で、そして――





「……そのアパートで同棲していた頃に、戻りたいのですか?」
 そのあまりにも悲しげな妻の言葉に、私は驚いて妻を見詰めた。


 妻は瞳に涙を溜めて、震えていた。


『お帰りなさい』
 あの頃、一緒に過ごしていたあの女性と、目の前にいる妻とを比べるのはとても愚かだ。


 「神田川」を口ずさんでいたあの頃は、私にとって青春時代だっただろう。
 だが、今、目の前にいる妻は、あの女性よりも私を良く知り、そして共に苦楽を歩んできた女性だ。


「……若かっただけだ。……あの頃に戻りたいと思っていても、それはただの懐古主義に他ならないよ」
「……あなたが愛していたその女性は、今はどうしているのでしょうか……?」
 私は意識して、妻の手を握り締めた。


 この柔らかくて温かい手は、何度挫けそうな私の心を支えてくれただろう。
 プライドを踏み躙られ、何度も擦り付けた額を、何も言わずにいつも優しく触れてくれた。


 若かったあの頃、私は何も怖くなかった。
 あの女性の無償の優しさが、ただそれを失うことが怖かった。


 瞳を伏せて、あの女性の優しい笑顔を思い浮かべる。
「……今は、君を含めて大切な全てを失うことが、怖いのだよ」


 瞳の裏のあの女性は優しく笑っている。





「私はね、君を誰よりも愛しているよ……」
「私も、あなたが誰よりも大切です……」
 見詰め合いながら、つないだ手を強く握り締め合う。


 若かったあの頃、私は何も怖くなかった。
 ただあなたの優しさが、怖かった。


 でもだからこそ私は今、こうしてもっと大切なものを愛している。


 川辺の桜並木。
 畦道を歩きながら私と妻は、「神田川」を口ずさみながら歩いた。


 大切なモノは、この掌の中にあるのだから。


「恋愛」にカテゴリーするのかどうか迷いますが、ただ個人的には恋愛です。













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