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第二十九項 影踏む虎


 ――こんな時でも、彼女の影がちらついている。

「大河悪い、遅れた」

「……ううん。何処か行ってたの?」

「ん、や、直行したけど」

 嘘、これは嘘。さっき友達経由で永井に悠の居所を訊いたのだ。返事は15分くらい前に出たと言っていた。

 何をしていたのか、と疑ってしまう自分が嫌いだ。まだ彼女でもなんでもないのに。ベルチェさんと何かあったんじゃと疑う自分が嫌いだ。まがりなりにも奥さんなんだから、間違ってはいない。いつだったか、ベルチェさんの話を聞くだけで苛々していたのが、ある日、本人が教室に飛び入り。そして妻宣言。あたしには一生出来ないと思った。いや、学校にまで乗り込んで宣言出来る人が何人居るか。

 ふざけているんじゃない。真面目に言っているのは分かった。それが余計に辛くて、結局逃げ出してしまったんだけど。

「そっか」

「ああ。で、浅賀は? まだ来てないのか?」

「あ、うん」

 幸は永井に盛られたせいで、目を回している。

 悠にそう説明すると、一瞬目を見開き照れ臭そうに人差し指で頬を掻く。

「……んじゃあ、二人で行く?」

 もしかしたら、多分、きっと、この言葉を待っていたのかもしれない。胸が高鳴る。ドクドクと血液が頭に上りカッと頬が熱くなった。昔はこれくらい普通に返事出来ていたのに、いつからだろう。ちょっとした仕草や言葉にドキッとして、変な返事になってしまったのは。これが、人を好きになるって事かと自覚したのは。いつからか、あたしから素直と言う言葉が消えたのは。

 可愛くない。そんなの一番あたしが分かってる。でも仕方ないじゃない。こんなに恥ずかしくて、こんなに嬉しい事――他には知らなかったんだから。

「悠が良いなら良いけど。あ、あたしはどっちでも良いわよ」

 可愛くない。やっぱり、可愛くない。取り繕うように返事して、喜びを隠して。可愛くない。あたしはもっとズバズバ物を言うタイプなのに。何馴れない事してんだか。可愛くない。本当に可愛くない。

「ああ、じゃあ行くか」

 こんなあたしでも、苦笑混じりで行こうと言ってくれる悠の優しさが胸の奥に染み込んだ。

 肩を並べるようにして、ロビーを出る。

 人、一人分。それがあたしと悠の今の距離。うんと小さい頃、多分幼稚園ぐらいの時は肩をぴったりつけて手を繋いでいたと思う。

 ちらっと盗み見た悠の左手は、ずっと大きくなっている。なんだか見ているのがちょっと照れ臭い。どうしようもなく意識してしまう自分が居るのだ。

「ほら、見てみろよ」

「うん?」

 悠は突然その左手を上げて、空を指差す。

 深い深い暗闇に、淡い光を放つ三日月。小さな光の粒が集まり密集して出来る、満点の星空がそこにはあった。日本じゃ絶対に見られない光景。ロビーを出て50メートルと歩いていないのに、あたし逹の歩みは止まっている。

「……ぷっ」

「くくっ」

 二人してその事実に吹き出し、顔を見合わせ再び歩き出す。あたしは、この星空に背中を押されるようちょっとだけ――半人分だけ距離を詰めて。

 夜風が髪を撫で、火照った頬を冷やしてくれる。大丈夫、今なら、もしかしたら素直になれるかも。そんな気がした。

 特に会話は無いけど、あたしは夜空を見上げながら細い道を歩く悠の横顔をずっと見ていた。何も気にせず、ただ横顔を見ていられるのがこんなにも幸せなのか。分からない。恋愛って良く分からないけど、些細な事に幸せを感じたり嬉しくなったり出来るなら、やっぱり良いもんだと思う。好きになって良かったと思う瞬間であり――。

「……負けないから、絶対」

 好きになって良かったと、いつか相思相愛になれた時に思わせるようなヒトになりたいと思う瞬間でもあった。

 そうだ、こんなに星が見えるなら流れ星でも探してみようか。願いごとをして叶うなんて思ってないけど、それが話題になればいい。

「大河」

「あ、な、なに?」

 うわあ、ダサい。めちゃくちゃ動揺してるよあたしっ。

 急に顔を向けた悠に、冷めてきた頬が再燃する。

「昼間買ったシャツ、着てんだな」

「あ、ああ、うん。まあね」

 やっと言って貰えた嬉しさに、思わず顔を背ける。昼間、悠が進めてくれたシャツに袖を通し、驚かせてやろうと思ったのだ。ちょっとだけ胸の辺りがきつかったが、まあまあイケてるとは思う。

「そうか。あー、その、何だ。似合ってんぞ」

「……っ」

 アロハの力は凄まじい。

「ば、バカ。そんな事言わないでいいっ」

 あんまり嬉しい事言うと、あたしまた舞い上がっちゃうから。また変な事口走るから。あんまり誉めたりしないで欲しい。

 でも、ゆっくりと、あたしが動揺しないくらい細かくミキサーにでもかけたような、あたしの心の準備が出来ている上でなら、言っても大丈夫だから。それくらいで、調子乗ってまた感情に振り回されたりしないから。

 ああ、でも……時々なら良いかも。

「悠、顔真っ赤よ。馴れない事しないで良いから」

 ホント、時々だけだよ? あたし、風穴だらけの壁みたいに、簡単にぐらついちゃうからさ。それなら、意地張らないでありがとうって言えると思う。

「ほ、ほっとけ」

 顔を朱に染める悠を見て、笑みが溢れる。きっと負けないくらいあたしも真っ赤なのだろう。

 ヤバいって悠。ホントに、ほんっといに時々でお願いね? 精神力がもたないからさ。

「お、お前だって顔赤いだろうが」

 ――言うな、ばか。




珍しく、ほんとーに珍しくシリアスが続いている結婚奴隷ですが。なんと連載開始から早一年――一年で30話もいかないとかどんだけって話ですね(泣)開始当初は大河大河言われていたのが、最近じゃベルチェベルチェも増え、嬉しい限りです。大河編はかなり長いので、恐らく大河編が終わるまで来て下さっていない方も多いでしょう(笑)
前々から言っている通り、大河編が終われば二人を交えての章になる予定ですので、もうしばらく大河さんにお付き合いくださいませ。


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