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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

この世で最も危険な雫

作者: 小木 々

遊森謡子さん企画の春のファンタジー短編祭(武器っちょ企画)参加作品。


●短編であること

●ジャンル『ファンタジー』

●テーマ『マニアックな武器 or 武器のマニアックな使い方』


詳細は遊森謡子さんの活動報告を参照ください。

https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/126804/blogkey/396763/


 涙は女の武器、と言ったのは誰なのだろう。

 捉え方が違う国もあるようだし、もしかすると日本独自の言い回しなのかもしれない。

 日本にいる間、私にとって涙は間違いなく武器の一つだった。

 いつでも流すことができるというのは、女優として重要な技能だったから。

 収録以外は学校も最低限しか通わず、発声、ダンス、演技などの稽古を繰り返す毎日。

 そう、あの日までずっと、同じことの繰り返しだったのだ。

 自分の意思はそこになく、親の意向に流され続けていただけだったと今ならば間違いなく言える。

 あの日、あの時になってようやく洗脳から覚めたとでも言えばいいのだろうか。

 気付いた時には、もう手遅れだったのだと思う。

 自由意志が全く尊重されていないことへの激しい反抗の結果が、今の私。

 豪奢な窓枠とカーテンで彩られた窓の向こう、黒く佇む鉄格子を見つめる。

 これが牢のそれなら、どれほど救われただろう。


―― 一緒に死んで頂戴 ――


 耳に焼きついた声に、込み上げる吐き気。

 不快なそれを、身じろぐことなく抑え込む。

 僅かに、ドレスの裾を握り締める手に力が入った。

 思い出したくない『あの時』のことを考えるのは、私がまだ人であると確認するため。

 他の事では細波すら立たなくなった心が、私にまだ残っていると確認するため。

 本当はもう、そんな必要すらないはずなのだけれど。

 色んなものを諦めてしまっただけなのに、それをして『儚げ』などと言われるのは。


「涙姫様」


 かけられていた声に気づき、静かに振り返る。

 後ろで控えていた侍女姿の女性が、躊躇いがちに来訪者を告げた。

 彼女だけではない。

 敷かれた絨毯も、座る椅子も、部屋に置かれたありとあらゆるものが。

 入ってきた男の姿すらまるで。


「ご機嫌麗しゅうございます」


 まるで、自分が中世のヨーロッパにでもいるかのような。

 自分が見知った『演じる』微笑みを浮かべる男に嫌悪感を覚える。

 これは、そういう形でなら今も笑えるであろう自分に対するもの。

 小指の先ほどしかない小さな瓶を載せた宝石箱のような入れ物を差し出しながら男は言う。


「本日も涙を賜れますでしょうか」




                    §




「今回の仕事は馬車の護衛な。俺等は馬で随行」


 そう告げると、テーブルの向かいからあっさりと了承の返事が返ってきた。

 目の前の皿に目を向けたままこちらに一瞥もくれない相方に眉をひそめる。

 酒場は一番客の入りの多い頃合で、色んな声が飛び交っていて騒々しい。

 返事があったということは、おそらく喧騒に紛れて聞こえなかったわけではないだろう。

 料理を一心に見つめる様子に、そんなに腹が減るようなことでもあったのかと視線を辿り。

 さりげなく嫌いな野菜を脇に避けている彼女の手元に溜息を吐く。


「ちゃんと食え」


 俺の言葉に彼女はフォークを持つ手を止め、ついと顔を上げた。


「何、問題はない」


 その口から、低く落ち着いた声が流れ出る。

 近くのテーブルの人間が数人、ちらりと彼女へ視線を向けた。


「他の野菜で必要な栄養は摂れている」


 それは容姿を期待させるような、通りのいい声だったからというだけではないだろう。

 このような酒場にいる女から発せられるにしては若干、いやかなり奇異な口調だ。

 騎士、それも貴族出身のそれを連想させるようなものなのだから。

 向けられた視線に含まれる警戒は彼女の姿を確認した瞬間に薄れ、逆に好奇の色に強まる。

 純粋に彼女の容姿にのみ興味が移ったのが見て取れた。

 彼女の姿が騎士や貴族を臭わせるものではなく、傭兵のそれなのだから無理もない。

 普段は目元を隠すように下ろされている前髪を、食事のために上げているのも原因だろう。

 完全に晒された俺と髪や瞳の色が同じ顔は人目を引くには十分な整い方をしている。

 ただ、この綺麗な花は下手に触れれば棘どころか刃物が刺さるわけだが。


「そういう問題じゃないっての。これだから――」


 元貴族様は、と言いかけ、彼女の静かな圧力を伴った視線に言葉を止める。

 その気配が周囲に伝わったのか、彼女へ向けられた好奇の視線のいくつかが逸らされた。

 小心者め、とは言えない。

 俺自身、最初の頃は飲まれていたのだから。

 彼女と目を合わせたまま、そっと自分の皿を手前に引く。

 途端に彼女の圧力が霧散し、若干悲しげな色すら湛えて視線が下ろされた。

 さりげなく差し出された彼女のフォークの上で、選り分けた野菜が行き場をなくしている。

 すっと真顔に戻った彼女が顔を上げる。


「まだ一切口はつけていない」

「そういう問題じゃない」


 自分で食え、と目で促すと、彼女は溜息を吐いた。

 仕方ない、という呟きと共に野菜の載ったフォークが口元に差し出される。


「あーん」

「そういう要求でもねぇよ、馬鹿」


 眉をひそめ、渋々といった感じでフォークを引く彼女を見ながら中断した話を再開する。


「ちょいと早いが、出発は明日。俺たちの役割は本隊の後ろを追随する護衛だ」


 それを聞いて彼女はフォークを持つ手を止め、ついと顔を上げた。

 テーブルの下、俺の足元に置いてある大きく膨れた袋を軽く爪先で突付く。


「やけに買い込んできたと思えば、その準備か」

「募集締め切りが今日だったんだよ。丁度依頼人がいたんで顔合わせも済ませてきた。おい、あまり強く蹴るな。商売道具も混じってんだから」


 魔術の媒体になる品はそのままでは繊細なものもある。

 殆どが保管用の金属筒やガラス瓶で保護されてはいるが、雑な扱いは気分的に嫌なものだ。

 袋の口から零れ落ちた予備の金属筒や小瓶を拾い、テーブルの上に置く。

 俺のその作業を眺めてから、彼女は再び口を開いた。


「話しぶりや荷物の量からすると、私も頭数に入っているようだが」

「入ってるよ。俺がマスターの保証つきだったし、俺の顔合わせだけで済んだ」


 一瞬彼女が懸念交じりの黙考を見せる。

 依頼人との顔合わせもなく通るというのは、余程相手と信頼関係がなければありえない。

 それ以外ではとにかく頭数を揃えたいといったような、何かしらの理由がある。


「いい加減なのか、余裕がないのか、どちらにせよ裏がありそうだが、何の護衛だ」

「貴族」


 それを聞いて彼女の顔に珍しく驚きの色が浮かぶ。

 俺があまり彼らと関わりたがらないから尚更だろう。


「ますます怪しい。輸送商人や商隊ではないのか」


 早急に頭数を揃えたいらしき意図が見える依頼は、商人の護衛ならともかく貴族では珍しい。

 商隊ならば気にするのは獣や野党の類だけでいいが、貴族となると政治的なものが混じる。

 暗殺やクーデターなど、職業軍人や暗殺者とぶつかるような事態に関わりたくないのだ。

 私兵や正規兵を使わず即席部隊を構築しようとするなど、大抵まともな話ではない。

 正直、避けたほうがいい部類の仕事。

 この仕事の経験は浅くとも、彼女も理解しているのだろう。


「あぁ、やっぱりそのあたりの違いも分かるか」

「当然だ。前は護衛される側だったからな」

「信じがたいけどな」


 肩をすくめながら軽く言う彼女に茶化すように同意し、声色を真剣なものに切り替える。


「依頼人なり護衛対象の中にお前の顔見知りがいる可能性もなくはない」


 彼女の都合を理解した上で、あえてこの仕事を請けてきたと思われなければならない。

 知られたら何と言われるか。

 欲求に抗えず、そのあたりを綺麗さっぱり忘れて衝動的に受けてしまった、など。


「どうだろうな。私は茶会や夜会に出たことすら殆どなかったし」


 それに今は化粧もしてないし髪もばっさり切っている、と自分の少年のような髪を撫でる。


「お前本当に元貴族令嬢かよ」

「一般的な見方をすれば、まぁ、違うだろうな」


 呆れたように言ってやると、彼女は言って老獪に喉の奥で笑った。

 実際は本当に笑っているわけではなく、単なる彼女の自嘲する際の癖らしい。

 調子に乗ってからかうと手痛い反撃を受けることになる。

 説得するためには、ここで失敗するわけにはいかない。

 ともあれ、一々堂に入ったその仕草は、年下の彼女を年齢より随分と上に見せる。

 社交会に出ていなかったのは、口調を始めとする男勝りの性格が原因なのか、容姿のせいか。

 少なくとも、親ないし後見人が何かしら懸念した結果ではあるのだろう。

 逃亡生活真っ最中のご令嬢にしては、肝が座っている。

 軽口の応酬で警戒が解けたのか、彼女は並ぶ金属筒と小瓶を手にとって弄り始めた。

 見えてきた勝利に拳を握り締めかけ、抑える。


「てっきり『また』珍品だかガラクタだかに目が眩んで無茶な仕事でも請けたのかと」


 言われて内心冷や汗が流れ、テーブルの下でこっそりと太股で手のひらの汗を拭う。

 この女は恐ろしいことに、人の芝居や嘘を見抜くのに異様に長けている。

 おかげで、一緒に行動するようになってから口先で人を丸め込む技能が上がった気がする。

 彼女相手だと八割方見破られているのであまり実感はないが。


「ガラクタじゃないからな。どれもれっきとした魔術媒体。植物も鉱石も生物の一部も、装飾品工芸品その他諸々全部だ。実際どんな効果があるか知りたいと思うだろ」

「収集癖もほどほどにしてくれ」

「実用品だっての」

「分かった分かった」


 ぱたぱた手を振り、鬱陶しそうに顔を背けながら彼女が話を打ち切る。

 言うに事欠いて、使ってこそ意味のあるものを集めて並べて愉悦に浸る蒐集家扱いとは。

 あのような怠惰な道楽と一緒にされるなど、心外極まりない。

 せめて学者気質と言って欲しかったが、恐らく無駄なのでしぶしぶ話を戻す。


「そういうわけだから、心配なら顔を隠すだけじゃなくあまり喋らないようにしとけよ」


 どの道もはや依頼は降りられない、と暗に言う俺の言葉に、彼女が溜息を吐いた。

 流れは完全に俺に味方している。

 俺が狙っているのは彼女の妥協の一言。

 それが引き出せれば、大手を振ってこの仕事に向かうことが出来るのだ。


「まぁ、仕方ない。それでその貴族、自分の身を多少は守れるのか」


 よし、と言質を取れたことに今度こそテーブルの陰でそっと勝利の拳を握り締める。

 にやけてしまいそうになる顔を必死で堪えた。


「噂どおりなら無理だろうな。お前でも余裕で勝てるんじゃないか? 本人には、だけど」


 彼女の力量を侮ったような俺の言い方に気を悪くする様子はない。

 男勝りなのは口調や性格だけだというのは、本人が一番理解している。

 あまりに堂々としているため、気圧されて騙される人間は少なくないが。

 俺自身、最初に会った時に元騎士だと言われても疑わなかっただろう。

 荒事に慣れた人間すら飲まれてしまうのだから、護身の役には立っていたらしい。

 どちらかというと元令嬢というより女詐欺師だと口を滑らせたら同意された。


「なるほど、武芸も魔術も期待できない文官か。取り巻きが手練、と」

「いや、とあるご令嬢。平たく言えば姫だ」


 さらりと答えて追加で届いた麦酒を一口。

 彼女は俺の言葉にぴたりと動きを止めた後、至極真面目に口を開いた。


「何故そんな仕事を取ってきた」


 明らかにこちらの意図を測りかねているようだったが、その反応は予想していた。

 過去、可能な限り貴族の依頼は避けていたのが、ここにきて突然姫の護衛なのだから。


「貴族にしろ王族にしろ、姫なんて呼ばれる女に関わるとロクなことにならない」

「お前が言うと説得力が迸るな」


 酒のせいで気分が高揚していたんだろうか。

 いや、むしろ仕事内容に対するとある期待で高揚していたのかもしれない。

 少なくとも、彼女を説得できたことに気が緩んでいたのは間違いないだろう。

 諭すように言う彼女の言葉を茶化す俺に、彼女は再度深々と溜息を吐いた。


「どこの姫君だ。まさか本当に王女だなんて言うんじゃないだろうな。もしそれがこの国のアレなら、まだ幼い第三王女はともかく、上二人はともにロクでもない筆頭だぞ」

「おいおい」

「市井ではあまり知られていないだろうが、貴族に聞けば十人のうち半数以上が同意する」

「お前、家の取り潰しから逃亡した云々以前に、不敬罪で処刑されても知らんからな」


 頭を振りながら沈痛に漏らす様子は、実際に見聞きしたか、被害を被った経験でもあるのか。

 俺もそのあたりは僅かばかり知っているので、同意する半数以上の中の一人だが。

 そしてそのまま苦笑しながら口を突いて出た言葉は、もはや飲み込むことなどできなかった。


「ちなみに次点は?」


 言って即座に後悔する。

 俺はおそらく、悪手どころではない手を打った。

 無論、待ったなど効かない。

 暫し黙した彼女が、視線を手元の麦酒に固定したまま重々しく口を開く。


「同率で『涙姫』。王女たちは本人がロクでもないが、涙姫は本人以上に周りがロクでもない。各方面の思惑の渦巻き方が常軌を逸していて、関わりたくない度合いならこちらが上だ」


 一気に酔いが醒める。

 瞬間、彼女の表情がすぅっと何かに感づいたように平坦になった。

 はっきり言おう、詰んだ。


「あー……」


 俺の反応に、彼女がゆっくりと顔を上げる。

 いつもより大きく見開いている気がする焦げ茶色の瞳の中に、愛想笑いを浮かべる俺が映る。

 こういうときは、潔く散ったほうがあとを引かないと思うほかない。


「なんだ、その取って付けたような笑顔は」


 全て理解した様子の彼女が、手にしていたガラスの小瓶を麦酒のジョッキに持ち換える。


「いやぁ、今回の護衛対象な。その『涙姫』なんだわ」


 そのあとのことは記憶にない。

 ただ、脳天へのジョッキの一撃と、目に入った麦酒の激痛だけは体が覚えている。



                    §



 涙姫。

 その呼び名だけを聞けば、清楚で可憐な深窓の令嬢を思い浮かべるかもしれない。

 事実、儚げな麗しい姫君で、濡れた様な長く美しい黒髪は彼女の涙のせいだと賞される。


「何故よりによって『アレ』なんだ。馬鹿なのか。いや馬鹿に違いない」


 胡散臭げにこちらの様子を伺う他の傭兵の視線がいたたまれない。

 目元以外、顔を全て隠すという怪しげな彼女のいでたちのせいもあるだろうが。

 後衛の随行は俺と彼女を含めても四人しかいないのがせめてもの救いか。

 麦酒で目玉を洗わされた翌日、俺は馬上でひたすら罵倒に耐えていた。

 潔く散れば後を引かないと思っていたが、今回に関しては当てが外れたらしい。

 今朝、騎士に囲まれた馬車が出発するまで彼女は一言も口を利いてくれなかった。

 距離を空けて追随し、森の街道に入る頃からぽつりぽつりと罵倒が始まって今に至る。

 余程関わるのが嫌だったのだろう。

 王位継承権を持つ王子やその他の人間と違い、涙姫に王位継承権はない。

 しかし、跡目争いの可能性もなく控えめな姫君など何するものぞ、とはいかない。

 その実、魔に魅入られた隣国との戦争を終結に導いた女性という但し書きが付くからだ。

 昨晩、彼女が『各方面の思惑が渦巻く』と言った理由はそれに尽きる。


「面倒ごとに巻き込まれる可能性は考え――」

「その結果依頼を受けたのなら、考えた時間自体が無駄だったとしか言いようがない」


 取り付く島もなく弁明を切り捨てられる。

 問答無用なほどの相手だというのは、俺も本当は分かっているからこそ、言い返せない。

 涙姫は、公には魔に懸命に挑む王国を憂い、狭間を超えてきた異界の姫君とされている。

 実際は一方的に喚び出された、というのが暗黙の了解だが、皆口にはしない。

 それを公言すれば、最悪不敬罪や反逆罪で首が飛ぶ。

 そのうちそれに教会の異端認定も加わるのではなかろうか。

 ともあれ、元々は戦力として強大な力を持った存在を喚び出すつもりだったらしい。

 魔に対抗するための精霊や聖獣といった類のものを。

 単騎で戦況をひっくり返せるような力を持つ存在が人に従わせられるはずもないのだが。

 一方的な契約とは、召喚した側が圧倒的優位にある場合にのみ成り立つ。

 召喚対象が好意的な気まぐれを起こしてくれることを期待した博打だったのかもしれない。

 つまるところ、彼らがそれだけ追い詰められていたということなのだろう。

 果たして、召喚されたのは一人の女だった。

 それが女神や精霊ではなくただの人間だと分かったときの彼らの絶望は知れない。

 しかし予想に反し、その後暫くして彼女の存在は戦況をひっくり返した。

 彼女が強かったわけではない。

 たかが人一人で戦況をひっくり返せるような戦争ならば、とっくに終結している。

 優れた知識や技術をもたらしたわけでもない。

 この世界の原理にすぐさま導入して結果が出せるものならば、とっくに学者が見出している。

 戦う力も、知識も、何も持たない彼女のしたことはただ一つ。

 ただ、涙を流したのだ。

 特別な涙を。

 特定の種族の女の中には、その涙が魔術的な媒体となる者がいる。

 そして彼女は、人の身でありながら類を見ないほど大きな力を持つ涙を流す存在だった。

 詳細は公表されていない。

 知られているのは、その涙が現在の技術など到底及ばない武具に変化するということだけ。

 彼女の涙によって生まれた武具は『英雄』を量産することになり、結果王国を勝利に導いた。

 そしてついた名が、涙姫。

 戦略的な価値を知る者なら喉から手が出るほど欲する、歩く武器庫、生きた魔道具。


「臨時募集だから期間も短いし、そこはいつもどおり護衛の仕事と思えば、ほら」

「それは『使い捨て』というのだ、馬鹿者。そもそも『アレ』の護衛に外部から募集が行われるということ自体おかしいだろう」


 その存在は何をおいても優先され、かつ徹底的に隠蔽されている。

 表に出てくるということ自体、王族以上にありえないと言っても過言ではないのだ。


「それはその、マスターからの指名だったし、断れなくてな」


 あの涙姫の護衛に推薦されれば、それは徴兵に近いだろう、と暗に同意を求める。

 しかし、そんな俺の言葉に、彼女は冷たい視線を返してきた。


「ほう、今朝マスターは『怪しい仕事だったが話を振ってみたら飛びついてきた』と――」

「すんません、好奇心が抑えきれませんでした」


 知人の裏切りを知り、何はともあれ白状する。

 経歴的に言えば俺は彼女の先輩になるはずなのだが、実際はこの有様である。

 せめて全て知られるのが今日であったなら、俺も今日知ったことにだってできたのに。


「好奇心は猫をも殺す、という言葉を心に刻め。いや、私が文字通り体に刻んでやろう」

「いや、そういう特殊な上級者向けの睦言は無理っす」


 彼女の顔の下半分を覆い隠す外套から覗く目が、笑みの形に細められる。


「いっそ、去勢するか。その助平根性と合わせて節操のない珍品収集癖も収まるかもしれない。どうせこの先も使う見込みはないのだし、必要ないだろう?」

「もって何だ。使ったことくらいあるからな。金かかるけど」


 腰の後ろの短剣を抜いて馬を寄せてきた彼女に、股間を庇いながら急いで離れる。


「実質破棄できない仕事を個人的な目先の利益に目が眩んで引き受けた上、私の命をついでのように賭け、あまつさえ『涙姫』? このような無茶に巻き込んでどう報いると?」

「もしもの時はこの身を盾にしてでもお守り致しますので平にご容赦を」


 平身低頭申し出る。

 彼女の懸念や怒りはともかく、肝の据わり方だけは一級品なのがせめてもの救いだ。

 顔を覆い隠す鉢金と布の間から覗く目に不安の色はない。

 以前『鉄の心を持つ女』と評したら殴られたが。

 一応褒め言葉のつもりだった上、詐欺師と評した時は同意されたのに、理不尽極まりない。


「ですので、何卒お怒りをお鎮めください」

「似たようなことは過去もあったが、さすがに今回は程度が過ぎる。論理的なのか衝動的なのか行動原理をはっきりしてくれ」


 視線を前に固定してそれきり口をつぐんだ彼女に、こっそり安堵の息を吐く。

 俺も意識を周囲の警戒に戻す。

 少し離れた前方を進む馬車と、それを囲むように馬に乗って早足で駆ける騎兵たち。

 恐らくその前後の軍用馬車には歩兵と魔術師が乗っているのだろう。


「偽者臭いよな」


 彼女にだけ聞こえるよう、小さく呟く。


「そう思ったのなら何故この仕事を請けた」


 本物でなくとも面倒事が起きるのは目に見えているではないか、と深々と溜息を吐かれる。

 鬱憤を吐き出し終えたのか、彼女の雰囲気が先程までより幾分和らいでいた。

 俺が最初から偽者の可能性を承知していたことに、多少の鎮静効果があったのかもしれない。

 言っていることは全て彼女が正しい。

 涙姫は戦況を左右するほどの存在、戦略的な価値のある人間なのだから。

 その価値の分かる人間にとっては一時的な損害を見込んでも手に入れたいはず。

 しかし、見える範囲でおよそ十あまり、護衛として付き従う騎士の数が少なすぎる。


「もしかしたらあの中に『英雄』が混じって――いやなんでもない」


 言いかけてやめる。

 戦後、下賜された『涙姫の武具』は再度召し上げられ、国で厳重に管理されている。

 魔国の残党狩りを任じられたごく一部を除けば、『英雄』は現状ただの栄誉にすぎない。

 武具の流出の可能性は、反乱や他国へ渡ることを考えると最小限に抑えたいだろう。

 まして本物の『涙姫』が、たとえお忍びでも外出するなど考えるのも馬鹿らしい。


「もし本物だったらと思うと後悔しそうでな。今朝あの隊列を見て九割がた偽者と確信した」


 再び彼女の非難の篭もった視線が飛んでくる。


「昨日も言ったが、本物かどうかにかかわらず、関わったほうが余程後悔する。英雄平原にでも行って、戦死した『英雄』の失われた武具を探すほうがまだ現実的――」


 言いかけて、彼女はふと何かに思い当たったかのように言葉を切った。

 こういうとき、頭の回転が速く、人の演技や嘘を見抜く力に長けた人間は困る。


「もしかして『涙』がどうのというのは建前か」


 俺の無言に、彼女は更に質問を重ねる。


「もしかして以前言っていた『探し人』とは『涙姫』なのか」


 暫し落ちた沈黙は、肯定にしかなっておらず、諦めて口を開く。


「別に探してたわけじゃないし、居場所は王都と決まってるから探すまでもない。更に言えば知り合いですらない。ただ、会ってみたかった、というか――」


 どうしようもない欲求のようなもので、自分でも具体的に何か考えていたわけではない。

 会って話すようなこともなければ、渡すものがあるわけでもない。

 俺の未整理の思考や決まり悪さを察したのか、彼女がからかうように言葉を引き継いだ。


「偶像崇拝か。しかも相手が姫君とは、若いな」


 君にしては珍しい我侭(ほんね)なのだから、今回だけは多めにみよう、と。

 それきり、彼女の馬は俺から少し離れて隊列の規定位置に戻った。

 彼女ではないが、からかうために言っているわけではないのは分かった。

 何かしら裏に篭もるものを察し、それを尊重することにしてくれたのだろう。

 心の中で感謝し、早足で行進を続ける前方の騎兵と軍用馬車に挟まれた高級馬車を見る。

 あそこに乗っているのはほぼ間違いなく偽者だろう。

 しかし、この駆け寄って声をかけたくなる衝動はどう説明すればいいのかわからない。

 何か言うことがあるわけではないのに。

 色恋だの懸想だのという類ではないのははっきりしている。

 偶像崇拝、と言った彼女の言葉が頭を過ぎる。

 宗教的だろうか。

 彼女の言うそれは俗っぽい響きだったが、偶像と信者という関係には違いないかもしれない。

 涙姫にとっての信者というと、涙を下賜した、あるいはされる可能性のあった人間たちか。

 涙姫の武具を手に『英雄』になった奴等と、なれなかった奴等。

 そう、あの頃俺は確かに英雄になりたいと思っていた。



                    §



「おう、交代だ」


 かけられた声に意識を戻す。

 瞼の裏で揺れる曖昧な赤い光は、目を開けるとそのまま焚き火の形をとった。

 声をかけてきた髭面の男に手を上げて応じながら、少し硬くなった筋を軽くほぐす。

 夜番が回ってきたらしい。

 そろそろ起きる時間だとは思っていたが、あちらから交代を告げたのだろう。

 浅い眠りにしろ、それを人に中断させられたときの不快感はいつまで経っても慣れない。

 子供の頃から惰眠を貪る癖があるのは体質的なものなのだろうか。

 周囲を見回し、目を閉じる前と変わっていない風景を確認する。

 街道沿いの森の中、辺りを照らす幾つかの焚き火の光。

 上に行くにつれ焚き火の色から高く闇の中に溶けていく木々は、最終的に藍色の空より黒く。

 その輪郭に切り取られた星空には雲ひとつなく、満月が輝いている。


「お、あんたは寝ててもよかったんだけどな」


 俺を起こした男が、斜め向かいで同じく顔を上げた彼女に向けて嫌らしく笑う。


「魅力的な申し出だが遠慮しておく。獣以上に危険そうだ」

「これでも紳士で通ってるってのに」


 気にした風もなく、伸びをしながら軽く受け流す彼女に、肩をすくめる男。

 数瞬前の下卑た気配は残っていない。

 からかい半分の芝居だったようだが、彼女には通じなかったらしい。

 その女に可愛げを期待するだけ無駄だ、と無言で首を振ってやる。

 俺の言いたいことをなんとなく理解したのか、男が諦めたように手を振った。


「じゃ、あとは任せたぜ」


 そう言い残して焚き火の向かいの木に寄りかかって目を閉じる。

 もう一人の男は既に眠っていた。

 同業者にしては危機感がないというか、警戒が薄い。

 確かに騎士と魔術師、軍用馬車がいるところに仕掛けてくる盗賊もそうはいないだろうが。

 この森でこれだけの人数での野営ならば襲ってくる獣もまずいないため、殆ど火の番に近い。

 事実、森の街道に入ってから野犬一匹見かけていない。

 細い枝を軽く折って焚き火の中に放り込む。

 じわじわと熱で曲がった枝は、やがてぱちりと爆ぜて全体が炎を上げた。

 顔を上げると目に入る、軍用馬車と貴族用の馬車。

 間に挟まれた天幕には、きっと涙姫がいるのだろう。

 護衛が始まって以降、未だに顔すら見ていない。

 そう易々と面通りが許される相手ではないけども。

 とりあえず会えば変わる、始まると思っていた。

 何が始まるのか、誰が変わるのかということなど何も考えないまま。

 会ったからといって俺は英雄になれるわけじゃない、そんな当然のことすら。

 戻した視線の端に動く物が過ぎり、森の奥を凝視する。

 脇に置いた長剣を手に取った俺を見て、彼女が無言で弓に手を伸ばし俺の視線を辿る。


「ここで――」

「私も行こう」


 まるで台詞を予想していたかのように遮られた。

 それに答えず腰を上げると、彼女も無言で後に続く。

 視線の先、木々の間を縫って奥に進んでいく女らしき影。

 腰の皮帯から沈黙羊の瞳が入った小瓶を出し、それを媒体に抜いた短剣へ魔術を付与する。

 保存溶液に浸かっているはずの羊の眼球が、あっという間に干からびた。

 生体の媒体は使用前も使用後も不気味極まりないものが多い。

 その分効果の高いものも多いのだが。

 とりあえず荷物の傍に瓶を放り投げ、木々の奥に消えた影を追う。

 自分と彼女を囲うように広がった消音と存在隠蔽の効果を持つ障壁は一切の音を漏らさない。

 あっという間に侍女服と頭から被った外套をひるがえしながら駆ける影を視界に捉える。

 こちらの音が聞こえないとはいえ、背後の気配に気づかない程に急いでいるのだろう。

 走る歩幅ならば十数歩、木立がなければ目と鼻の先と言っても差し支えない。

 やがて進む先で、突然横から延びた白銀が女の体を木立の影に攫った。

 次の瞬間、男がそこから飛び出し、腰の長剣を抜いてこちらへ向ける。

 数歩勢い余って前進しながら反射的に長剣を抜刀し、僅かの間を空けて対峙する。

 走る歩幅にしてほんの数歩、熟練した使い手ならばもはや間合いの中。

 少し遅れ、斜め後ろにいる彼女は間合いから外れているであろうことに、密かに息を吐く。

 彼女が弓を引き絞る音は、隠密障壁のせいであちらには聞こえていないだろう。

 抜いた長剣はそのままに、短剣を封魔の鞘に収めて障壁の効果を抑える。

 牽制するように飛んでくる、低く威圧的な声。


「武器を捨てろ」

「それはこちらの台詞だ」


 男が纏うのは、他の野営中のはずの騎士同様、その鎧と長剣に月の光を反射させた白銀。

 俺の長剣に付与魔術の気配を認めたのか、その四肢に力が篭もる。

 おそらく隣で矢をつがえている彼女のせいもあるだろう。

 月明かりで夜目が利きやすいとはいえ、夜の森で弓に狙われるのは死刑宣告に等しい。

 いくら射手の射る瞬間や狙いが丸分かりでも、至近距離、まして背後に人を庇っている。

 その弓が付与魔術で強化されているともなれば尚更だ。

 人外の腕前を持ってでもいない限り、もはや魔術での対抗以外にほぼ手はない。

 一瞬で至近距離から射掛けられる矢を処理できる術を発動させられる手段があれば、だが。

 騎士の背後の女は影に隠れて姿がほぼ見えないが、魔術師ではないようで息を潜めている。

 装備や装飾品に魔術が付与されているならば俺が感知できるが、その様子もない。

 男が静かに覚悟を決めた気配を感じ取ったのか、女が名を呼ぶ。

 それを振り返ることなく、男は静かに息を吐いた。


「大丈夫です、命に代えてもお守りいたします」


 片や騎士と守られる女、対してこちらは同じく男女の取り合わせとはいえ傭兵二人組。

 はたから見ればどうやったところでこちらが悪役だろう。

 しかし、目の前の騎士がそれを分かった上であえてそう演じている可能性もある。

 こういった稼業における腹芸に、それこそ貴賎はない。

 後ろの女の信用を得るため、こちらに対するはったりのため等、理由を幾つか思い浮かべ。

 剣と視線を騎士へ向けたまま、彼女に尋ねる。


「演技だと思うか?」

「何だと――」

「いや、本気だ」


 剣呑な騎士の反応を無視してふっと気を抜いた彼女が弓を下ろす。


「野暮だったらしい」


 舌打ちして剣を鞘に戻した俺に、騎士が剣をこちらに向けたまま当惑した様子を見せる。


「まぁ、そうだろうとは思ったけどな。さすがに騎士なんて立場で仕事より逢引を優先させる奴は初めて見るが」


 彼女と俺の間に何度も行き交うその視線が、次第に理解の色を帯びる。

 浮かぶ怒りは逢引の現場を見られた恥辱に対するそれと騎士の侮辱に対するそれのどちらか。


「何も見なかったことにしとく。邪魔したな」


 踵を返そうとして、剣を下ろさず一歩踏み出してきた騎士に動きを止める。


「そういうわけにはいかない」

「大人しく剣を引け。勤めを放棄して逢引を優先した騎士の擁護なんざ誰もしない。それとも、その女を守ると言いながら自分の誇りを優先するわけか?」

「逢引ではないし、勤めを放棄してもいない。この方をお守りするのが私の誇りだ」


 その言葉で、男が背後に庇っている女の正体の予想がついた。

 斜め後ろから溜息が聞こえる。

 彼女はもう諦めたのだろうか、面倒ごとに巻き込まれかけていることを。


「俺は『見なかったことにする』と言ったはずだ。その希望どおりだと思うんだがな」

「抜き身の短剣を持って女性を追い回していた傭兵の言葉など信用できない」


 至極ご尤も。

 隠密障壁を付与して展開するためだったと言っても、自分ならば納得などしない。


「忍ぶ立場だからかしらんが、随分と視野が狭くなってるな。夜番中に森の中に駆けて行く影を見れば、後を追うに決まってる。それが仕事だ。まがりなりにも護衛騎士なら、雇った傭兵の人数や顔くらい覚えておけ」


 俺はともかく、こいつは顔を隠してても割と目立つだろう、と背後の彼女を指差す。

 しかし男はそちらを一瞥することもなく、短く吐いた。


「選べ」


 率直な―― 一番面倒臭い ――回答であり、質問。

 つまりは、この場で敵対するか、共犯として監視下に入るかということ。

 どちらにせよ、捨て置くつもりはないという融通の利かない極論は、この手の人間の典型だ。

 それが正反対に属する悪党の選択肢と似通うのは、皮肉ではなく当然の事実なのだろう。

 奴等の違いは皮一枚、とは言うが、まさしくそのとおりなわけで。

 正直、この状態から前者の対応を選んでも返り討ちにできる自信はある。

 しかしそれは恐らく最悪の選択肢、いや、選ぶわけにはいかないのだから選択肢ですらない。


「待って」


 か細い声が上がり、男の斜め後ろの木陰から女が姿を表す。

 仕立てはよくとも、あくまで目立たない傍仕えの濃紺の侍女服。

 白いフリルで飾られた襟元や袖口よりも顔のほうが白く目立つのは、顔色のせいか。

 外套を脱いだ彼女の髪は、月の光を受けて艶やかに光の輪を作り出すほど真っ黒だった。

 ああ、やっぱりな、と心のどこかで諦めに似た納得をしてしまう。

 数瞬前にも増して厳しい声を上げた男は、その剣を真っ直ぐに俺に突きつける。


「涙姫様の御前だ。控えろ」

「構いません。ここは王宮ではありませんし、矛盾しますから」

「ですが――」

「多少の誤解はありますが、お二人はこちらの事情を察し武器を収めてくださいました。その誤解を解くのならばともかく、今も刃を向ける不義を働いているのは誰ですか」

「はっ、申し訳ありません」


 小さいながらもはっきりとした口調に、男は俺から視線を逸らすことなく剣を収める。

 何かあればすぐに抜くつもりなのだろうが、もはや俺の意識の大半は『涙姫』しかなかった。

 追う最中にその正体の可能性も考えていたし、何より俺の予想では偽者のはずの姫。

 俺たちの間にあった数歩分の境界線を進み出て、俺の前で深々と頭を下げる。


「申し訳ありません。私が鈍いばかりに、ご迷惑をおかけしました」


 あまりに無防備なその行動に、我に返った騎士が慌てて涙姫の隣に控える。

 同様に、後ろから進み出た彼女が俺の横に並んだ。


「先程の矛盾する、とは」


 二の句が告げず立ち尽くす俺に代わって彼女が口を開く。

 涙姫に僅かに漂う安堵した空気。

 彼女にただの傭兵とは違う雰囲気を感じ取ったのか、それとも同じ女性という性別のためか。


「明らかに何かあることを見咎められて今更ですが、申し上げることができません。ただ、色気のあるお話ではないということだけ」

「つまり、そちらに付けばお聞かせいただけるということで宜しいか」

「おい――」

「気になるんだろう。顔に書いてある」


 驚いて振り返った俺に、本当に好奇心旺盛だな、と彼女は皮肉混じりの苦笑を浮かべる。

 多分好奇心とは少し違う、とは言えない。

 涙姫に向き直る。


「その前に、涙姫であるという証を見せて欲しい」

「貴様、言わせておけば――」


 不躾な俺の言葉に剣を抜こうとした騎士の手を押し留め、涙姫が首を横に振る。


「私の身分と価値は、これで保証されているようなものですから」

「いえ、決してそのようなことは」


 騎士が狼狽える。


「もし私が『涙姫』でなくとも、貴方は私に尽くしてくれましたか」

「それは勿論です。縁を持つことがあったのならば間違いなく」


 躊躇いなく答えた騎士に、涙姫はそっと微笑んだ。

 それは儚げといえばその通りだったが、悲しげでもあり。

 どこにもその言葉を保証できるものがなく、素直に騎士の言葉を受け取れないためか。

 それとも、そう言わせてしまうことが分かっていて質問してしまったためか。

 謝罪の言葉ではなく、辛うじて小さくありがとうと呟き、こちらに向き直る。


「涙は国に管理されています。貴方にお見せできるのはこれだけです」


 勝手に涙を流すことは許されていないということか。

 それとも、偽者だから涙を流せないということか。

 涙姫が胸元から引き出した銀の鎖に繋がれた小瓶の首飾りに、隣で彼女が息を飲む。

 俺が使う付与魔術の媒体を入れる封印の小瓶とよく似た、恐らくは『涙姫の涙』の小瓶。


「魔術を使われる方であれば、これが本物だと分かっていただけるのですが」


 少し困ったように涙姫が言う。


「大丈夫だ、俺は付与魔術を使う。……手にとってみても?」

「触れる程度であれば」


 頷いた涙姫が首飾りを外すことなく、小瓶を持ち上げてこちらに掲げる。

 俺が持っている封魔の小瓶と比べて遥かに強力なものであろうそれ。

 警戒する騎士を横目に手を伸ばすと、触れた場所から瞬間的に膨大な力を感じ取れた。

 焼けた鉄に触れたような衝撃を錯覚し、思わず手を引く。


「いかがでしょうか」


 思わず触れた指を見下ろし、火傷一つないことを確認する。


「間違いないと、思う。これほどの力を持つ涙は他に見たことがない。本物だ」


 少なくともこの『涙』は。

 先の大戦で数多くの『英雄』を生み出した雫がここにある。

 自分の手を見つめる俺を騎士が鼻で笑う。


「当然だ。涙姫様を騙ることは王族に対するそれ同様、理由の如何を問わず死罪だ」


 いつもなら適当に受け流せるはずの挑発的な態度に、何故か気分がささくれ立つ。


「国が徹底して認めないというのは、逆を言えば国が認めれば存在できるということにすぎん。そもそもお前は本当に『涙姫』というものを理解しているのか」

「何だと」


 涙姫の静止も聞かず、今度こそ騎士が色めきたった。

 余程高い忠誠を―― あるいは信仰を ――涙姫に対して誓っているのだろう。

 それは盲目的であり、同時に、信念として羨ましくもある。


「本物ならば戦略的な意味と価値すら持つ生きた魔道具だ。実質的に王宮で監禁状態だろうことは容易に想像できる。それほどの存在が、たったあれだけの護衛で外をうろつくというのは普通に考えればおかしいと思うだろう」


 言いながら、自分の言葉に内心笑いが出る。

 涙姫に関係する仕事と聞いて飛びついた自分を自分で否定しているのだから。


「国は、全力で涙姫様を保護している」


 視線を俺から僅かに逸らし、苦々しく吐き出した騎士に薄く笑いが出るのが自分で分かる。

 あぁ、そうか。

 自分の中にあったこの騎士に対する羨望のような、嫉妬のようなものを理解した。


「都合のいい言い回しだな。刑法どころか商法ですら、種族を問わず『力持つ涙』を流す女の軟禁や監禁は禁じてるのに、国が守ってないんじゃ示しがつかないよな」


 この涙姫が本物であるかなど関係なく、俺は多分この男が羨ましいんだろう。

 それが何故なのかは自分でも分からない。


「その通りだ。そして、それが本題だ」


 瞬間、騎士の視線と声に含まれていた怒りの色が変わった。

 純粋に俺に向けられていたものが、俺を通した別のものに対するそれに。

 彼らの―― 涙姫の ――やろうとしていたことに思い当たり、言葉を失う。

 騎士は俺たちが完全に察したことに気づいたのか、肯定するように頷く。


「貴女の、望みは」


 隣から上がった彼女の声も、珍しく驚きに満ちていた。

 月明かりに照らされた涙姫の焦げ茶色の瞳が儚げに揺れる。


「はい。私は、涙姫であることを棄てたいのです」




                    §



 まだ低い位置にある朝日は、清冽な朝の空気がなければ夕暮れ時の気だるさを覚える。

 特に、ろくなことがなかった夜番明けともなれば、その度合いは筆舌尽くし難い。


「火ぃ消すぞ」

「ああ」


 髭面の男が焚き火に砂を蹴りかけるのを見ながら欠伸を一つ。

 俺の顔にも、いつもの数割り増しで無精髭が伸びている気がする。

 あの草原のような髭なら気にする必要すらないだろうが、俺のそれは空き地のまばらな雑草。

 密度が低すぎて様にならない。

 傍で彼女が荷物を馬に括りつけている。

 物入りな付与魔術のお陰で面倒な俺の荷物に比べ、量も扱いも楽そうで羨ましい限りだ。

 少し落ち着きをなくして足踏みしている自分の馬の首を叩いて宥める。

 皆が野営の後始末をする中、重々しく息を吐いて周りを見回すと、丁度馬車が目に入った。

 僅かに開いた窓のカーテンから、こちらの様子を覗いている女と目が合う。

 完全な騎馬装備に身を包んだ騎士にそれを諌められ、すぐさまカーテンが引かれる。

 振り返った騎士と騎兵兜ごしに目が合ったように思えたのは、気のせいではないのだろう。

 おそらくあの騎士は昨夜の男で間違いない。

 監視されているような心地で非常に気分が重いが、数日の我慢。

 それ以外に昨夜から何か変わったことなどない。

 単に、数日以内に涙姫の逃亡を手伝う予定が加わっただけ。

 それを

「だけ」

と言っていいのかどうかはともかく。

 護衛の数が『涙姫』の価値からすると少なすぎる理由については教えてくれなかった。

 あの女が本物の『涙姫』なのか確証は未だにないが、少なくとも『涙』を持つのは事実だ。

 何かしらの罠であり、俺たちをそれに利用しようとしている可能性は捨てきれない。

 ただ、状況的に彼らの計画が実行しやすい環境にあるという事実が把握できるのみ。

 だからこそ、結局俺たちの立場は昨日までと何も変わっていないのだ。

 昨夜の彼等は、手筈どおりに動くための予行演習のようなものだったらしい。

 涙姫は、あれでも隠密行動をしているつもりだったという。

 余計なことは言わず、隠蔽障壁を付与した短剣を封魔の鞘ごと渡しておいた。

 素人に抜き身の刃物を持って森の中を動き回らせるのは危険だが、他に手もない。

 騎士も少々難しい顔をしたのみで、特に何も言ってはこなかった。

 再び欠伸が出る。


「居眠りして馬から落ちたら指を指して笑ってやろう」


 馬具の点検をしながら、普段と全く変わらない様子の彼女が話しかけてくる。

 羨ましいことに、俺よりも宵っ張りや徹夜に強い。


「ま、一回落ちれば目が覚めるだろ」

「馬の背中の揺れは睡魔に味方する。間違いなく夢の世界にポックリいけるだろうさ」

「ポックリは勘弁しろ」


 聞こえた出発の合図に、(あぶみ)に足をかけて馬の背に登る。


「馬が落ち着きないな」


 同じく騎乗した彼女が、首を振る馬を撫でながら訝しげに呟いた。

 獣か人か、馬を警戒させる何かがそう遠くない所にいるのかもしれない。

 ただでさえ『涙姫』の隊列なのだから、普段の護衛の仕事以上に襲撃の可能性はあるのだ。

 編成を整えて進みだした一行に距離を空けて追随しながら、髭の傭兵二人組に声をかける。


「少し馬の様子がおかしい。警戒したほうがいいかもしれん」

「変なもんでも食わせたんじゃねぇのか」

「あんたの小便がかかった草食っちまったのかもな」

「それなら栄養たっぷりだ。精が付いて落ち着かなくなったんだろ」


 わはは、と豪快に笑った男たちだったが、馬がやけに何かを警戒しているのは同じらしい。

 やはり森の街道に入って二日目でこれほど怯える様子は気になったのだろう。

 行進が始まって以降、髭面たちも周囲の警戒を強めているのが目に見えてわかる。

 結局何事もなく昼を過ぎ、休憩を挟んだ後に行進を再開して暫く。

 風に乗って腐臭が漂い始め、蝿の姿がまばらに出始めた頃、前方の隊列が止まった。

 暫く待っても動きがないため、状況の確認のために後衛四騎揃って馬車の隊列に近づく。


「どうしたんだ」


 声をかけた馬車列最後尾の騎士が振り返る。


「死体が道の真ん中に転がっていたようだが、様子がおかしい」


 言いながら落ち着きのない馬を宥める。

 ほぼ全ての馬が怯え、落ち着きをなくしている状況に嫌な予感はどんどん大きくなっていた。

 他の三人を残して馬を降り、馬車隊の前方に向かう。

 集まっている騎士二人と前衛についていた傭兵数人の傍に転がる、死体らしき人影。

 強くなった腐臭と飛び交う蝿に顔をしかめながら近づくと、片方の騎士が振り向いた。


「お前か」


 兜の面当ての下から覗く昨夜の騎士の顔。

 最低でも涙姫の側付きの騎士と予想していたが、やはりそれなりに上の人間だったのだろう。

 もう一人が依頼を受けるときに顔を合わせた騎士隊長ということは、副隊長あたりか。

 変色し、腐臭を撒き散らす鎧を纏った上半身だけの死体に目を向けながら話しかける。


「どこかの騎士か」

「おそらくな。死んだ後に獣に運ばれたに違いない」


 騎士隊長が、死体から茂みに伸びる引きずられた血の跡を指差す。

 獣や盗賊に追われたり引きずりこまれ、茂みの奥や森の中で死ぬというのはよくある話だ。

 しかし、街道や脇の木立に、この周辺で戦闘のあったような痕跡は見受けられない。

 蝿こそいるが目に見える蛆はまだ湧いておらず、腐敗状態を見る限り、死後一日か二日。

 間違いなく、近い過去にこの森の奥で何かがあった。


「所属は分からないのか」

「紋が念入りに削られている。騎士崩れの盗賊かとも思ったが、死に様が異常すぎる」


 このあたりの獣に食われている最中に千切れるほど、背骨や筋の構造はやわじゃない。

 体が上下泣き別れるなど、重量のある馬車にでも轢かれなければありえないだろう。

 あとは余程の怪力や業物の刃物で切られたか、叩き折られたか、千切られたか。

 怯える馬たちを振り返り、一番考えたくない可能性を否定する。


「俺が相方と一緒にこの奥を見てくる。全員騎乗したまま待機して、何かあったらすぐに全力でここを離れてくれ。俺が合図した場合や、戻らない場合も同じだ」

「合図は何を」

「これを鳴らす。それほど奥まで行くつもりはないから、多分聞こえるはずだ」


 腰の袋から金属製の呼び笛を出し、軽く吹いてみせる。


「分かった。では任せる」


 報告の手間の削減と証人役に騎士を一人連れて行きたいという提案は却下された。

 何があるか分からない状況で涙姫の護衛を減らしたくないらしい。

 身元が怪しいとはいえ、騎士が異常な死に方をしている手前、警戒するのは当然だろう。

 お前ならばどうなってもいい、という使い捨て宣告に、他の傭兵たちから肩を叩かれた。

 副隊長の目に、俺が本当に信用できるかどうか見極めようという意思が見える。

 それが誰に対するどういう信用なのか、正確なところは俺たちの間にしかない。

 ごねても仕方のないことなので早々に承知し、隊列の最後尾に戻る。

 状況を掻い摘んで説明すると、彼女はやれやれとばかりに馬を下りて準備を始めた。


「お前等二人だけでか」


 髭の男が馬上で周囲を落ち着きなく見回しながら、不満げに聞いてくる。

 点数稼ぎとでも思われたのかもしれない。


「護衛の人数がこれ以上減るのは避けたいんだとよ」


 魔術媒体の入った金属筒や小瓶の連装革帯などを次々に身につけながら答える。


「捨て駒臭いが、ただの偵察だ。次はあんたらに任せるよ」


 そう言い残し、背中に髭の男たちの視線を感じながら森の奥へと足を向ける。

 後に続いた彼女が小さく呟く。


「あの二人、様子がおかしい」

「ああ。何かあるな」


 遮音と存在隠蔽を付与した長剣で茂みや蔦を切り裂きながら、風と濃くなる死臭を辿る。

 街道を離れるにしたがって高くなる木々と、低くなる茂み。

 切り開く必要すらなく、踏み分ける程度で進める下生えになる頃には明らかな痕跡があった。

 あちこちに残る、既に何かが通ったらしき跡。


「気づいてるか」

「葉擦れの音しか聞こえないことならば」


 彼女の回答を無言で肯定する。

 獣や鳥の声どころか、虫の鳴き声一つ聞こえない。

 森の中で全てが息を潜めていた。

 感じられない生き物の気配の代わりに漂う死臭と、怖気の立つ空気。

 嫌というほど覚えがある。


「これは、最悪かもしれない」


 耳に届く葉擦れの音に混じり始める虫の羽音。

 数匹の蝿が視界を過ぎり始めた頃、辺りは清涼な森の中とは思えない腐臭で満ちていた。

 この先に多分あるであろう光景と、記憶の中にある光景が重なる。

 いつものことだが、他の生物が去ってもなお留まる蝿に、不快感よりも驚きが先立つ。


「覚悟はいいか」

「疾うの昔に」


 ここまで来て聞くことではないのかもしれない。

 彼女を連れてくるべきではなかったのではないかという無意識の表れなのだろうか。

 視線の先に、日の光の降り注ぐ広場のように開けた場所が見える。

 強引に拓かれたようなその場所。


「酷いな」


 木立を抜け、目に入ったのは抉れた地面と折れた木々だった。

 そして、ところどころ焼け焦げたそれらの中に散乱する、夥しい数の遺体。

 激しい戦闘があったのだろう、辺りに漂う死臭に木や肉の焦げた臭いも混じる。

 潰れ、千切れ、砕け、撒き散らされた人だった物があちこちに転がり、垂れ下がっている。

 木々の隙間が広くなったお陰で風通しは多少よくとも、立ち込める臭いが目に沁みる。

 視界を過ぎり耳元を過ぎる無数の蝿の羽音は、不快感を増すだけで換気の役にすら立たない。

 そこは、地獄の様相を呈していた。

 外套を引き上げて口元を覆い、視線だけを彼女へ向ける。


「おい、大丈夫か」


 激しい衝突のあった戦場では当たり前の光景だが、普通の人死にの現場とはものが違う。

 人であったことすら否定されたような死に様は、半端に人の形を保っている分おぞましい。

 慣れてしまっている人間は、もはや何かが壊れているのかもしれない。


「大丈夫だ。臭いはそのうち慣れる」


 彼女の外套から覗く目元には何の変化も感じられない。

 貴族や王族の裏事情に詳しいのでなければ、元令嬢とは到底思えないほどの落ち着きぶり。

 伊達に逃亡者だったわけではないだろうし、過去の仕事で命のやり取りも経験してはいる。

 冷静であってくれるのは有難いのだが、やはり彼女もどこか壊れてしまっているのだろう。

 腹を破られた馬の近くに転がる、騎士であったらしき物体を見ながら彼女が疑問を口にする。


「どこの兵士だろう」


 似たような塊があちこちに転がっている。

 装具に徽章は見当たらず、身に付けているものから少なくともこの領地の兵士ではない。


「分からん。だが編成と装備が本格的過ぎる」


 元がどういう規模だったのかかは分からないが、少なくとも撤退しているはずだ。

 腐臭を放つ馬の数と原型を留めていない野営陣地を見る限り、全滅という線もありうる。

 何かの討伐部隊だったのか、見る限りでは最低でも涙姫の護衛部隊のおよそ三倍。

 魔術師まで含めた騎士を主力とする編成としては一般的だ。

 少し大きな盗賊団の掃討作戦ならばこの規模の兵が送り込まれてもおかしくはない。

 しかし、そういった計画は街でも聞いていないし、何より所属を隠している事実がある。

 真っ当な計画ではなかったと考えるのが妥当だ。


「身元を隠しているということは、やはり涙姫の襲撃が目的か」

「いや、それが目的だとすれば少なすぎるんじゃねーかな」


 涙姫は戦略的な価値がある存在。

 手に入れようとするならこの程度の規模で向かってくるというのは考えにくい。

 当然ながら相応の護衛がついていると考えるはず。

 本物と思っていれば。


「もしかして、偽者だと知ってたってことか?」


 こちらの護衛の規模を把握していたのなら妥当な構成だ。


「もしそうなら、襲撃する理由は? 涙姫が偽者である以上、何かしらの罠であると考えておかしくないはず」


 彼女の問いかけに答えたのは、俺ではなかった。


「こりゃ、どういうこった」


 下生えを掻き分ける音とともに現れたのは、俺たちと後衛を組んでいた髭の二人組。

 手に持った長剣を落とすのではないかというほど驚き、目の前の光景に言葉を失っていた。

 その反応に、このような部隊が駐留していたことやその正体に対する疑問は感じられない。

 遮音と存在隠蔽の効果のせいで、視界の端に映っているはずの俺たちに気づいていない。

 目配せすると、彼女が視線だけで同意を示す。

 どうやら同じことを考えたらしい。

 長剣に付与した魔術の効果を消し、新たに炎の力を付与しなおす。


「なるほど。これはあんたらのお仲間か」


 その声で俺たちの存在にはっと気づいた彼らの反応は、そのまま肯定を表していた。

 自らの失敗を悟ったのか、髭の二人は舌打ちすると手に持つ長剣を握り直す。


「依頼主だ。元、になっちまったみたいだがな」


 ふんと鼻を鳴らすと、片方の男が辺りに散らばるそれらを顎で差し示す。


「その様子からすると、これは全滅してるわけか」

「さぁな」


 後ろのもう一人の男が手にした長剣を持つ手に力を込める様子が見える。


「依頼人の情報を秘匿しようとする姿勢は傭兵として見上げたもんだが、そんなこと言ってられる状況じゃないことくらいは理解できるよな」


 親指で背後の光景を指しながら、予め装備に付与している魔術を最大限活性化させる。

 ちりちりと肌を撫で始める焼け付いた空気。

 斜め後ろで彼女の弓が付与魔術を活性化する気配を感じる。

 笛は吹いていないが、これで本隊の魔術師たちがこちらで何かあったと感知するだろう。

 こいつらではなく、ここが壊滅した理由が致命的に不味い。

 できれば早く街道に戻り、本隊と合流したい。

 有無を言わさない俺たちの気配に、二人組が僅かに後ずさる。


「それとも、転がってる連中に何か義理立てしなきゃならない理由でも――」


 あるのか、と言葉を続けようとした瞬間、本隊がいた方向から光の柱が立ち昇った。

 昼間だというのに眩く輝くそれに一瞬送れて轟く爆発音。

 腹の底にまで震わせる鈍響が激しく地面を揺らす。

 目の前の男たちの顔には、動揺しか浮かんでいない。


「お前たちじゃないんだな?」


 俺の問いかけに髭面の男が逡巡の後頷く。


「あぁ、知らねぇ。計画じゃもっと先で襲撃する予定だった。別に本隊や遊撃部隊がいるなんて聞いてないし、さっきあんたが言ったとおり、これは壊滅どころか皆殺しだ」


 再度響く轟音。

 これ以上ここにいても仕方ない。


「俺たちは戻る」


 駆け出した俺の背中に髭面の男の声が飛んでくる。


「俺等はここで降りるぜ。立場的にも状況的にもこれ以上は付き合えねぇ」


 それに応えることなく走る。

 あの二人が本当にただの傭兵だったのかなど、今はどうでもいい。

 恐らく今、本隊は壊滅していた連中と同じ襲撃を受けている。

 三倍の数の集団が為す術もなかったのだ。

 結果など見えている。

 それが何を意味するのかも。

 少し遅れて斜め後ろを走る彼女に思わず愚痴がこぼれた。


「あの姫さん、偽者の振りした本物だったってのか」

「私に聞くな」


 いつもと変わらない調子の彼女の反応に少しだけ頭が冷える。

 彼女はその性格や口調はともかく、実力的にはようやく一人前という程度に過ぎない。

 俺が付与魔術で装備を強化し中堅傭兵程度に底上げしているが、今回は分が悪い。

 先程の光景を生み出したのと同じ事態が発生しているなら尚更だ。

 街道からこちらに向かうときとは逆に、下生えが茂みになり、蔦が行く手を阻み始める。

 走ることもままならず、時折轟く爆音の中、ようやく怒号と悲鳴が遠く聞こえ始めた。

 漂う濃密な怖気立つ魔力の気配。

 覚えのあるその空気に、平常に戻りかけていた心が体ごと粟立つ。

 しかし、中心地にはまだ遠い。


「待て、右だ」


 何かを見つけたのか、そう言って唐突に彼女が方向を変えた。

 数歩行き過ぎたあと、慌てて後を追う。

 その進行先、木々の向こうに見え隠れする騎士の鎧らしき銀色とドレスの白。

 すぐさま理解する。

 前に進みながら器用に弓を引き絞り始めた彼女の脇を抜け、茂みを無視して全力で走る。

 次第に近づいてくる、大人数人でも抱え切れそうにない大木。

 その根元に、木を背にして長剣を構える副隊長と、背中に庇われた姫の姿があった。

 赤黒く染まり倒れ伏す数人の騎士。

 二人の正面で、大型の肉食獣が俺の接近に気づいて振り返る。

 全身に恐怖ではない震えが走るのを感じる。

 いくら大型犬をふたまわり大きくした程度の体躯でも、こんな森の中に獅子はいない。

 あまつさえ、獅子は決して人間の女の顔などしていないし、人の口は耳まで裂けてもいない。

 俺に気を逸らしたそのこめかみに副隊長の剣が突き入れられ、獣の口から女の絶叫が轟く。

 涎と血で赤く染まっている歯は、肉食獣のそれ。

 致命傷には至らずとも脳を損傷したのか、まるで誰かと組み合うように転げ回り始める。


「下がれ」


 俺の声に副隊長が姫を庇いながら木の陰に移動し、俺はそのまま二人のいた位置に飛び込む。

 彼女が放った人の体を容易に貫く矢が、次々に獣の体に突き立つ。

 付与魔術で威力を増しているはずの(やじり)は、やがて押し出されるように抜け落ち。

 傷が塞がっていく様子を見て、俺は殆ど反射的に獣の顔へ剣を突き込んだ。

 眼窩から後頭部へ突き抜け、付与された魔術により焼かれる周辺の組織。

 左右から俺に向けて振るわれかけた太い前足と爪が、びくりと震えて動きを止める。

 剣の刺さった場所から立ち上る煙は、到底香ばしいとは言いがたい。

 すぐさま倒れている騎士の長剣を拾い、付与魔術をかけながら周囲を警戒する。

 俺の足元で四足をぴんと伸ばしたまま激しく痙攣し、次第に動きが緩やかになっていく獣。

 断末魔すらない。

 女の顔が飛び出さんばかりに目を剥き、耳まで裂けた口から舌を突き出して虚空を見つめる。


「追ってきたのはおそらくそいつだけ――おい、どうした」


 木の陰から出てきた副隊長が俺の顔を見て怪訝に眉をひそめた。

 片手で顔を隠しながら、少し離れたところで弓を構えている彼女にもう一方の手を挙げる。

 自分がどんな顔をしていたのか、自分でもなんとなく分かる。

 間違いなく、戸惑わせるだけのものだっただろう。

 表情を落ち着かせ、顔を隠していた手を下ろす。


「昨日姫さんに渡した短剣はあるか」

「ここにある」

「すぐに抜け」


 見つかってからでは意味がない。

 茂みの奥の彼女を障壁の範囲内に急がせる。

 副隊長が腰に下げていた短剣を抜くと、隠蔽障壁が広がった。

 大木の陰にいる姫もその範囲に収まっていることを確認する。

 既に遠くから響く爆音は散発的になっている。

 あちらはもう、間に合わない。


「あとどれくらいいる」


 獣の顔に足をかけ、深く突き立ったままの長剣をずるりと引き抜く。

 ぼろぼろと刀身から剥がれ落ち、地面に散る炭化した組織。

 刀身に残った炭を短剣で落とす俺を見て、副隊長は気を取り直したように先を続けた。


「見た限りではこれと同じものが三体。向こうで抑えてくれているはずだ」


 足止めをしているらしい護衛部隊は果たしてどういう結果が待っているか。

 今も木々の間に漂う腐臭の発生源は、俺たちの隊列のおおよそ三倍が全滅していた。

 おそらくその四体以外にもまだいる。


「頼みが――」

「涙姫を逃がすのを手伝え、だろ」


 遮った俺の言葉に副隊長が口ごもる。

 傭兵や冒険者ならば、この状況は一方的に契約を破棄して逃亡してもおかしくない。

 ついさっき別れた髭面の男とその相棒らしい男の選択のほうが普通なのだから。


「そうだ」


 倒れ伏す騎士たちの骸を見やり、悔しそうに漏らす。


「それは昨日も聞いた。こいつらを全部始末できたらな」


 暗に逃げられない、と溜息混じりに答えたが、副隊長は十分だとばかりに頷いた。

 息絶えた魔獣を静かに見下ろしていた彼女を振り返る。


「そういや、こういうのとはまだ遭ったことがなかったっけか」

「ああ。私の知っている獣はここまでおぞましくない」


 彼女の視線を追って死体を見下ろす。


「これが『英雄』を率いて王国が戦った魔獣。人間辞めちまったお隣の国の連中だ」

「そうか、これが」


 前線の兵士や戦場となった国境地帯以外では魔獣の姿を見たことがある人間は少ない。

 空から襲撃を受けた村や街、終戦後に残党に襲われ運よく生き残った者くらいだろう。

 遭遇はほぼ死と等しい。


「人間、なのか」

「元、な」


 視線を向けた木の陰で、破れ、あちこちが赤黒く染まったドレスの裾が揺れる。

 木の陰から現れた涙姫は血と泥で汚れきり、恐怖のためか足元が震えているのが分かる。

 少量ながら、額から流れた血の跡は痛々しい。

 それでも気丈に振舞おうとしているのは、まだ『涙姫』を演じようとしているのだろう。

 胸元に、小瓶の首飾りがない。


「持ってた『涙』はどうした」


 涙姫が口を開くより早く、副隊長が吐き捨てる。


「襲撃直後に隊長が強引に奪い取り、逃亡しようとしたところを魔獣に食い千切られた」


 もしかして騎士隊長は、あの全滅していた連中と内通していたのだろうか。


「それじゃあ、あの光の柱はやっぱり」

「放出された『涙』の力だ。大方、涙を瓶ごと噛み砕きでもしたんだろう。その魔獣は隊長ごと消し飛んだ」


 その後、余波で場が混乱を極めている間に横転した馬車から姫を救出しここまで来たという。

 無駄の多い単純な魔力の放出だけでもあの威力、さすがとしか言いようがない。

 だからこそ、武具化できずに消滅したことが悔やまれる。

 騎士隊長が裏切り者だとしても、涙姫の武具を持つ人間は魔獣相手に重大な意味があった。

 話を聞いて確信する。


「あんたが騎士たちに『涙』を与えれば、この程度どうってことないんじゃないのか」


 目を見据えて言い放った俺の言葉に、涙姫はびくりと肩を震わせる。

 副隊長が反射的に俺の胸倉を掴み上げた。

 彼も分かっているのだ、俺たちが涙姫が偽者だと気づいていることに。

 国による『涙』と『武具』の一元管理の原則と、『涙姫』の喪失回避のどちらが優先か。

 考えるまでもない。

 緊急手段としてすら涙の下賜を選択しないのはつまり、そういうこと。


「この状況はあんたらのせいじゃない。生き残るためなら、その選択肢は選んで当然だ」

「もういい、今はそんなことを言っている場合じゃない」


 横から彼女に厳しい声で諌められる。

 胸倉を掴まれたまま、悲しげな表情を浮かべた彼女に顔を向ける。

 今こんな追及をしても何の意味もないことは分かっていた。


「俺は、涙姫に会いたかった」


 拳が振り上げられるのが視界の端に映る。


「やめて、お願いだから。やめてください」


 副隊長の腕に縋りついた涙姫に、俺の胸倉から手が離される。

 彼を―― あるいは俺を ――庇うように俺の正面に立った涙姫が力なく口を開く。


「私は涙が流せません」

「国に任ぜられた『影』ということだな」

「そうです。本物の涙姫様には、一部の側仕え以外、大神官以上の神職か王族しか」


 副隊長が俯いて歯を噛み締める。


「そうか。分かった」


 ここに、俺の望んだ涙姫は居ない。

 そしてそれは、彼らに魔獣に対抗する手段がもうないということ。

 あるいは、護衛の人数がもっと多ければ可能性はあったかもしれないが。


「すまん、もう大丈夫だ」


 平手で一発、自分の頬を叩き、いつの間にか小さく俺の袖を引いていた彼女に謝る。

 頼りなさげなその手が普段の彼女らしくなく、軽く握ってからそっと解く。


「有力な手が一つ消えちまったが、どのみちやることは一つだ」


 爆音が聞こえなくなった。

 はっと顔を上げた副隊長と涙姫の頭越しに正面から目を合わせる。

 頷いた彼が表明するように静かに言う。


「姫様を逃がすための時間稼ぎを、手伝って欲しい」


 依願の言葉と真剣な表情。

 微かに嫉妬を覚える。


「あんたにとっちゃ仕える姫であることに変わりないんだな」

「そうだ」


 迷いなく答える口調と目に、騎士としての矜持とは少し違う色が浮かぶ。


「どのみち他に生き残る方法はない。しっかり働けよ」

「それはこちらの台詞だ。そちらの女、この木の根元に身を隠せる洞がある。姫を任せたい」


 俺の言葉を鼻で笑い、副隊長は隠蔽障壁の付加された短剣を差し出した。

 彼女は頷きながらそれを受け取った後、確認するように俺を見る。


「ま、昨日『この身を盾にしてでもお守りします』って言っちまったし」


 肩をすくめながら追認すると、彼女は皮肉げに笑った。


「期待せずに待とう。姫ではないのが生憎だが」

「髪さえ伸ばせば、その姫さんの代わりに『影』になれるさ。口さえ開かなければな」

「一応、褒め言葉として受け取っておこう」


 心の底から嫌そうに顔をしかめると、彼女は姫を促した。

 頷く姫の前に副隊長がひざまづき、その手を取って忠誠の意を示す。


「姫、どうぞご無事で」

「武運を、祈ります」



「はっ」


 姫の目から雫がこぼれる。

 涙姫ではない以上、その涙には何の力もない。

 しかし、それを見た副隊長を奮起させるには十分な力を持つものだったのだろう。

 姫の『涙』を受けた彼女だけの『英雄』になったとも言える。

 羨ましくそれを見つめる。

 立ち上がった彼は姫に一礼し、気迫を漂わせて俺を振り返った。


「行くぞ」


 期待して俺も彼女へ視線を向けたが、返ってきたのはいつもどおりの冷静な視線。

 潔く諦めて一人気を引き締める。


「姫さんの頭の傷とドレスの血痕だけはなんとかしておけ。あの障壁は血の臭いまで消せん」

「分かった。剥いておく」


 隣で姫がぎょっとして目を剥く。


「畜生。絶対戻ってきて拝んでやる」

「やはり君は涙よりこちらのほうが発奮材料になるようだな」


 彼女はにやりと笑い、ではまたあとで会おう、と姫を連れて踵を返した。

 副隊長の呆れた視線。

 要するに、形はどうあれ男は単純ということなんだろう。


「ま、お姫様たちの期待に応えましょうかね」


 彼女たちが大木の根元にその身を滑り込ませるのを見届けたあと、街道へ向けて踏み出す。

 走り、目指すのは街道を挟んで反対側の森深く。


「襲撃の直前、転がっていた死体を覚えているか」

「ああ。あれも魔獣に襲われた口か」

「たぶんな。俺たちの三倍の規模の軍事編成部隊が全滅していた」

「今からその原因とやりあおうという時に、貴重な情報提供痛み入る」


 副隊長が溜息を吐く。

 横に振られる首が、士気に関わるだろうこの阿呆が、と暗に語っていた。


「それで、所属を隠していた理由は何か分かったか。まさか魔獣討伐部隊というわけではないだろう。そうだとしたら少なすぎる」

「後衛の傭兵二人がそいつらと通じていたらしい。話を聞く限り、お前のところの隊長も同じ気がする」


 その表情が険しくなる。


「姫様が狙いか」

「正確には『涙』だろうな。本物の涙姫と思っていたら、そんな編成では来ない」

「正体が知られていたのなら、隊長の反逆や今回の編成は計画的な裏切りと考えて間違いなさそうだな」


 吐き捨てるように言う。


「ま、そういうわけで、脅威は一つ勝手に消えてくれてた。あとはあの化け物たちをどうにかすればおしまいってことだ」


 俺の言葉ににやりと笑い、剣を確かめるように持ち直す。


「なるほどな。まったくもって貴重な情報だ」

「可能な限り引き離すぞ」

「分かった、指示を任せる。あれの相手は、どうやら貴様のほうが慣れているらしい」


 すんなりと主導権を譲ってきたことに驚く。

 身分だ規律だと面倒臭い男かと思っていたが、どうやら思い違いだったらしい。

 今までを振り返る限り、あの姫に関してのみということか。


「心配するな。英雄平原の最前線に比べりゃ、まだ生きて帰れる可能性は高い」

「それも微妙だな」


 副隊長が複雑な表情を浮かべる。


「まぁ希望が持てるというのは気休めと分かっていても心強い。貴様、傭兵などやっているより指揮官として仕官したほうがいいのではないか」

「人の上に立つような柄じゃない。それに、気休めじゃないさ。事実だ」


 驚愕の表情を浮かべ、俺の顔をまじまじと見てくる。


「もしかして、英雄兵団の生き残りなのか」


 腰の革帯から赤い宝石の欠片の入った金属筒を抜き、剣に力を付与しなおす。


「格好悪くてあんまり好きじゃないんだけどな、その呼び名」

「英霊たちが泣くぞ」

「いや、あいつらなら間違いなく同意する」


 笑いながら革帯から同じ金属筒を抜き、副隊長の剣にも魔術を付与する。

 もはや街道からは怒号や悲鳴すら聞こえてこない。

 ただ木が燃え爆ぜる音と、血と焦げた臭いが漂ってくるだけ。


「奴らは圧倒的な速さで傷を癒す。長期戦は不利だ。人間辞めちまって大きな力を得てるが、逆に元人間だったせいで同じ人間を舐めてかかる。相打ち覚悟で隙を突け。急所を探すより首と頭、単純でいいだろ」

「簡単に言ってくれる。単純すぎて貴様の価値が暴落した」

「そうでもないさ」


 茂みを強引に切り払い、街道に飛び出す。

 横転し炎を上げる大破した馬車と、塗料をぶちまけたように地面に広がる血。

 人間だったであろうそれを奪い合うように、貪り食う二匹の人面の獣。

 その向こう、少し先の街道が両脇の木々ごと消し飛んでいるのは『涙』の力の暴走跡か。


「一匹は仕留めてくれたらしいな」


 全身に剣や槍を突き立てられ、焼け焦げた獅子らしき獣が燃える馬車の隣で燻っている。

 感慨深く言いながら、副隊長はこちらに気づいてゆらりと振り向いた二匹に剣を構えた。


「そっちは任せる」

「何?」


 背中合わせに反対側へ剣を向けた俺に、彼は訝しげな声を上げ、肩越しの光景に言葉を失う。

 俺の向ける剣の先、一回りほど大きな人面の獅子が二匹、同じようにこちらを威嚇していた。

 他の人面獅子と違い、その尾は獅子のものではなく、蠍のそれ。

 女の顔をもつ獅子と男の顔を持つ獅子が、もたげた尾の毒針で俺を狙う。


「大丈夫なのか」

「お互いにな。ちょいと目を瞑れ。最後の手助けだ」


 次の瞬間、四匹が駆け出し、俺はつけていた指輪の一つに付与した術の全ての力を解放する。

 視界を光が塗り潰し、瞼を焼く。

 収まった光の中飛び出す。

 後ろで響く獣の断末魔。

 俺の目の前に迫る女面獅子と男面獅子は苦しげに目を細めて俺を睨みつけてきた。

 闇雲に振るわれる爪と尻尾を避け、剣で弾く。

 せめて尻尾さえなければ、と小さく舌打ちする。

 硬い外骨格は炎の力を付与した程度の剣では歯が立たない。

 視力を取り戻したらしい二匹から間合いをとる。

 その程度の間合いはこいつらにとっては一飛びのものでしかないだろうが。

 元来た側とは街道を挟んで反対の森に飛び込むと、二匹は躊躇うことなく追ってきた。

 蔦や茂みで進みにくい進行方向を革帯から外した碧玉で風の魔術を剣に付与し、切り裂く。

 ほぼそれらだけを気にすればいい俺と違って、狙い通り二匹は木々が邪魔らしい。

 まっすぐに俺に向かってこれず苛ついた二匹に散発的に剣から風の刃を飛ばし挑発してやる。

 茂みが減り、下生えだけになって走りやすくなってくると、奴らの速度も上がり始める。

 木々が大きくなる反面、間隔が空き、倒木なども増えて奴らに有利になり始めた。

 二匹の表情に、こちらを馬鹿にしたような笑みが浮かぶ。

 まともに切りかかったところで尻尾で弾かれるだろう。

 茂みや蔦を簡単に切り飛ばす風の刃など、毛皮に僅かに傷を入れているだけ。

 それもすぐに癒えている。

 炎の力を付与した武器で焼き切る以外に手はない。

 強力な魔術ならば、回復が追いつくより早く焼き尽くすなり潰すなりできるのだが。

 生憎媒体を使用した付与魔術しか仕えない上に、それすら中々使う隙がない。

 剣の刃を軽く掌に這わせて傷を入れた後、追いついてきた男面獅子の目に目掛け投げつける。

 驚いた表情を浮かべて尻尾で払い落とそうとしたその毒針が、側の倒木に深く突き刺さった。

 それを抜くことができず、走る勢いそのままに突っ込んで、自分の力で後ろに引き倒される。

 奴らの元人であったために抱える欠点。

 すなわち、獣の体を持て余すことと、人の思考や感情に囚われること。


「ざまぁみろ」


 怒りの咆哮を上げ、木から毒針を強引に抜くそいつを尻目に、腰のもう一本の短剣を抜く。

 涙姫に渡した普段使う短剣とは違ってまず使うことのない最後の一本。

 そろそろ付き合いが長くなってきた彼女にすら教えていない、俺の本当のとっておき。

 抜き放った刀身はこびりついた血で覆われ、光すら反射せず赤黒い。

 簡素な鞘や柄や鍔のそれは手入れすらされておらず、到底使える代物には見えない。

 掌の傷から流れる血を刀身に塗りつけ、刀身を握ってもう一度『抜き放つ』。

 そこに、正面に回りこんだ女面のもう一匹が飛び掛ってきた。

 こちらの反撃など意に介している様子は微塵もなく。

 その美しい女の顔に浮かんでいるのは、獲物を嬲る愉悦。

 伏せるように避けながら、頭上すれすれを飛び越えていく体躯に短剣を振り下ろす。

 水を切りつけたような心許ない手応え。

 背後で上がった絶叫と木との激突音を無視して、向かってくるもう一つの影に向け駆け出す。

 世界がゆっくりと間延びしているように見える。

 まるで向かい風の中を突き進むような抵抗感。

 短剣を『抜いた』瞬間から強化された力と感覚でそれを捻じ伏せて駆ける。

 俺の背後の光景と向かってくる俺の姿を見て驚いたのか、男面獅子が急制動をかけた。

 伸びてきた尾に叩きつけるように薙いだ短剣をそのまま獣の顔に向けて振り抜き。

 刀身を口で受け止めようと開いた獣の上顎が、そのまま頭蓋の上半分と一緒に斬り飛ぶ。

 青年の顔の上半分と一緒に間を空けず地に落ちる蠍の尾。

 残った体は、全身の筋肉を硬直させたあと倒れ、痙攣を繰り返す。

 振り返ると、女面獅子が地面に倒れたまま藻掻いていた。

 癒え始めない傷口に、驚愕と焦り、苦悶が次々浮かんでは消え。

 顔の下半分から喉、腹までを割かれ、血と臓物を撒き散らしながら俺を睨む。

 不自然に動かない蠍の尻尾から、こちらを誘う罠と見て間違いない。

 少なくとも、もう動ける状態ではなさそうなので、正面に見据えたまま周囲を警戒する。

 この剣を抜いた瞬間から殺気を隠すことすらしなくなったもう一体の存在を感じる。

 ゆっくりと様子を伺うように遠巻きに正面へ回り込む気配。

 あからさますぎたせいか、あえて残した背面の隙に飛びつくつもりはないらしい。

 今、右手に持つ短剣には、元々こびりついていた血の痕跡すらない。

 何の抵抗もなく獣の体を切り裂いた刀身は、精緻な紋様が濡れたように輝いている。

 痺れる感覚に、左腕を見る。

 紫色に変色しかけている傷口。

 どちらかとすれ違ったときに、毒針が掠っていたらしい。

 どんな毒かも分からない代物の解毒薬など持っているはずもない。

 それだけでも十分な致死量なのか、女面獅子の顔に嘲るような歪んだ笑いが浮かんだ。

 次第に戻りつつある左手の感覚を確かめながらそれを平然と見つめる。

 塞がる傷と、薄れていく傷口の紫。

 女面獅子の表情が次第に驚愕から憤怒、そして憎悪へ変化し、瞳から光が薄れていく。


「忌々しい臭いがすると思ってきてみれば、涙姫の武具か」


 血溜まりに沈む女面獅子の後ろから、声と呼ぶには不気味な低音が響く。

 木々の奥から現れた老面獅子が、ゆっくりと塞がっていく俺の左腕の傷を見ながら唸った。

 獅子というにはあまりの巨体から発せられる威圧感は、新兵程度なら失禁するに違いない。

 視線を短剣に移すと同時に、傍の木に先端のない尾を叩きつける。


「我が尾を切り落とした、英雄を名乗る忌々しい毒虫め」


 折れ倒れる木を背後に、狒々(ひひ)のように醜く歪んだ老人の顔に更に深い皺が寄った。

 俺の胴ほどの太さのそれは、毒針を失った程度で安心できる代物ではないらしい。

 さすがに戦時中でもそれなりの軍勢の大将格だっただろう魔獣がいるのは予想外だ。


「俺は英雄じゃないし、お前なんぞ知らん」

「虫の個体識別など無意味」

「人を虫呼ばわりする割に、律儀に受け答えはするんだな。構ってほしいなら素直にそう言えよ。人間辞めてまで仕込んだ一世一代の芸なんだ、言えば見世物小屋の働き口くらい紹介してやるのに。雇い主が廃業して路頭に迷ってんだろ?」


 こいつらの所属していた隣国はもうない。

 魔に魅入られていた忌まわしい土地として、浄化の名の下に何もかも焼き払われた。

 畑や家や城どころか、主要な森や草原、そこに住む住民や生き物ごと全て。

 虐殺と言えばそのとおりなんだろう。

 どちらかが滅びるまで、という表現が現実に起きただけ。


「下等生物に神の意思など理解できまい。我らはこの身の穢れを払い世界の浄化者となった」

「なるほど。上位の何かになれたつもりなわけだ。で、お前の国が滅びたのは神の意思じゃないと。自分たちの都合の悪いことには適用されないんだな。狂信的と言えばまだ聞こえもいいが、単におつむの出来が残念なだけというのは哀れですらあるよな」


 俺の言葉に老面獅子は鼻で笑う。


「哀れであるのはおのれ等よ。害虫であることの自覚もなく、いずれ世界を滅ぼす」


 全ての争いは単なる主義主張の衝突。

 それが絶対的な平行線を辿る互いの存在否定ならば、行き着く先は虐殺か共倒れしかない。


「歳食ってから変化すると目も物覚えも悪いままなのかねぇ。駆除されたのはお前のご同類だろうに。どれだけ言い繕ったところで、お前らは自分が人や世間に馴染めなかったことをそいつらのせいにし続けた成れの果てじゃねぇか」


 もっと単純に言えば、生きたいかどうか、自分の日常を守りたいかどうか。

 そのために皆戦ったと考えれば、本当は互いを尊敬し、尊重することもできたのだろうか。


「自分たちの楽園が出来たのならその中で満足してりゃいいのに、わざわざ回りに糞を投げつけて仕返ししてやろうなんて真似するから改めて排除されるんだろ。自分が馴染めなかった人間の脚を引っ張って引きずり落としたいだけのくせに大層な言葉で塗り固めるんじゃねぇよ、負け犬が」

「我等を見下すか、毒虫風情が」

「見下す、ねぇ。そりゃ自分から低い場所に降りて見上げながら吠えてりゃ、他人が上にいるように見えるだろうさ。鼻つまみ者扱いされることに文句言う前に、自分から肥溜めに飛び込んで糞に塗れてることに気付けよ」


 恐らくは無理だろう。

 お互い、疾うの昔に後戻りのできない段階にまで進んでしまったのだ。


「それとも、犬呼ばわりが気に障ったか。それなら謝っとくよ、すまんね。お前は獅子のつもりだったんだもんな」


 自然と出た言葉と口調は、自分でも驚くほど穏やかで嫌らしく。


「強さに憧れるよなぁ。人より強く、揺るがず、畏怖すらされる自分に。その強さで『何にでもなれる』自分に。そうすれば自分のほうが上等な存在だと思えるもんなぁ」


 魔に魅入られ、人外の力を得たことで。

 涙に惹かれ、人外の力を得たことで。

 力づくで相手を否定できる手段は、決定的に人を弱くしてしまう。

 結局、自分自身が強くなったわけではないことに気づき、力に意味を求めてしまう。

 歪んでいく老面獅子の表情にある種の愉悦すら感じながら、冷たく吐き捨てる。


「お前が底辺にいるのは上っ面の強さが原因だとでも思ったか。自尊心ばっかり肥大させた挙句、借り物の強さでいきがってるだけじゃ世話ないんだよ。雑魚が」


 老面獅子がまるで背後から何かの爆発を受けたように勢いよくこちらに向けて飛び出す。

 涙姫の武器で驚異的に身体能力が強化されていようとも、所詮基盤は人間の体。

 大将格の魔獣相手には『英雄』すら二人がかり以上だったのだから分が悪いどころではない。

 彼女に言った身を盾にしてでも守る、という言葉が限りなく現実味を帯びる。

 腕から抜いた投げ矢に、火鼠の牙の力を過剰に付与し、放つ。

 老面獅子の前の地面に突き刺さったそれは盛大に炎と土砂を吹き上げ、周囲に撒き散らした。

 普段なら何かを盾にしていなければただの自爆だが、今の俺なら耐えられなくもない。

 ほぼ真下から爆発を受けた老面獅子が、俺の頭上を越えていく。

 獅子の咆哮を背後に聞きながら、木々の間を抜けるように木立の中へ飛び込んだ。

 予想していたとはいえ、無傷らしいことに気が滅入るが、かといって手を休めもできない。

 通りすがりざまに短剣を振るい、一抱えほどはある木々を次々に切り倒しながら駆ける。

 毛皮に焦げ跡ひとつない老面獅子に向け次々に倒れていく木々。

 倒れ掛かり、重なり合い、複雑に道を塞ぎ、視界を遮るそれら。

 この程度であの巨体の動きを遮れるかは怪しいが、多少隙を作れればそれでいい。

 逆に自分がそこに嵌らなければ、という条件は付くけれども。

 木々が倒れ、折れる音に下生えを踏み散らし倒木を飛び越え駆ける音が混じる。

 しなやかな肉食獣の走駆は地面を殆ど震わせることがない。

 頭上に膨れ上がった重圧感に、前へ飛びながら上空へ投げ矢を放ち、木の陰に転がり込む。

 殆ど真上から落ちるように飛び掛ってきた老面獅子の腹に当たり爆裂するそれ。

 木の後ろで爆風をやり過ごし、視界を遮った炎と爆風に煽られた獅子の着地点に駆ける。

 着地する瞬間を狙って斬りつけ、すぐに離脱する。

 それを繰り返すこと数回。


「鬱陶しい虫め」


 それほど深くはないが、細かい傷を繰り返しつけられることに獅子が苛立った声を上げる。

 傷が癒え始めないことがその苛立ちを増しているようだった。

 魔に魅入られた存在にのみ現れる呪いのようなその効果。

 治癒というより再生に近い特性を持つ魔獣が尻尾を失ったのはそれが理由に違いない。

 一方で体格差を考えれば、こちらはかすりでもすれば致命的な状況に転がり落ちる。

 木や岩を尻尾で砕いて飛ばし、逃げ道を誘導されたところに襲い掛かる爪。

 最も危険な一撃だけを確実に避け、半端な傷は異常なまでに高まった治癒能力に任せる。

 痛みが軽減されているのが今は救いだ。

 大戦で『英雄』と呼ばれた連中は首を落とされない限り剣を振るい続けた。

 腕を落とされても、心臓を貫かれても。

 英雄が畏怖されたのは、人の形をした魔獣と同じだったからに過ぎない。

 血を失い、精彩を欠き始めた老面獅子の前脚を斬り飛ばした瞬間、横からの衝撃。

 宙を舞いながら、視界の端に下から振り上げるように振られた尻尾が目に入る。

 まるで水面を跳ねる石のように地面の上を低く数回跳ねた体が、木にぶつかって止まった。

 頭に受けていれば爆ぜていただろう。

 腕と肋骨の数本が折れ、内臓が傷ついたのか、込み上げた血が口から流れ出る。

 それでも痛みは殆どない。

 獅子が笑う。


「群れなければ何もできぬ害虫如きが、たった一匹で我に挑んできたことだけは褒めてやろう」


 揺れる世界の中、前脚を片方失った老面獅子がひょこひょこと近づいてくる。


「自分には仲間も友達もいませんって泣き言なら酒場のマスター相手にタレる程度にしといたほうが自分が惨めにならなくて済むぞ」


 木に背を預けるようにして、掠れた声で挑発しながらずるずると立ち上がりながら嘲笑う。

 傷の癒える速度は人外のそれになっているが、一瞬ではない。


「そもそもの話、人の輪に入れないのを人のせいにしてきたクズの成れの果てが『群れなければ』なんて台詞吐いたところで嫉妬にしか聞こえんぜ」


 水平に体を一回転させ横薙ぎに叩きつけられた尻尾を、倒れるように伏せて辛うじて避ける。

 頭上で幹を爆砕させ、倒れてくる樹。

 横に転がったところに、爪が振り下ろされる。

 更に転がり避けながら空を切るように剣を振るい。

 掠った爪が両太腿の肉を半分ほど抉り取っていった。

 引っかかった爪に飛ばされ、またも宙を飛ぶ。

 高く舞い上がった俺の体は枝を折り、蔦を千切り、唐突に開けた空の下、地に落ちた。

 視界の端に、壊れ燃え上がる馬車が見える。

 副隊長が半分ほどの長さになった左腕に布を巻く動きを止めてこちらを振り向く。

 倒れている二頭の人面獅子を見る限り、しっかりと自分の仕事をやってのけたのだろう。

 短剣を手放さなかった自分を褒める。

 立ち上がるどころか、もはや起き上がることも難しいが、腕は動く。

 撒き散らされた自分の血で赤黒くぬめる茂みが揺れ、老面獅子がゆらりと姿を現した。

 斬り裂かれた喉から流れる大量の血が、俺の血の上から更に茂みを染めていく。


「毒虫――」


 吐きだされかけた言葉は、ひゅうひゅうと裂けた喉から息が抜け言葉にならない。

 次の瞬間、俺の背後から矢が飛び出し、その目に突き立った。

 副隊長のほうへ投げようとした短剣を老面獅子へ向け投げる。

 眉間に柄まで埋まったそれに、獣が絶叫を上げ、俺を睨み付けた。

 口から血を吐き、血走った目は憎悪に歪んで俺しか見ていない。

 もう放っておいても死ぬはずだ。

 それまで俺の命がある可能性は低いだろうが。


「これを! 早く!」


 背後の茂みから、悲鳴のような叫びとともに小さな光る物が飛んできた。

 倒れたままの俺の手前で地に落ち、ころころと見覚えのあるものが手元まで転がってくる。

 自分の使う封魔の小瓶と全く同じそれを拾い上げた瞬間、感じ取れる膨大な力。

 呪を紡ぐ。

 よろよろと傍まで近づいてきた老面獅子が俺を噛み砕こうと顎を開き。

 その牙が体に食い込む瞬間、俺の手は奴の額に刺さった短剣の柄に触れた。



                    §




「もしかして心配してくれてたか?」

「仲間を案ずるのは当然だと思うが」


 そっと傍に膝をついて屈み込んだ彼女が、俺の顔を覗き込む。

 顔を隠していた外套は置いてきたのか落としたのか、綺麗な顔が真っ直ぐに俺へ向けられる。

 目が充血しているのに自分で気づいていないのだろうか。

 黒い前髪と、その隙間から覗く焦げ茶色の瞳は、逆にその赤を目立たせる。

 副隊長は俺が蠍尾の獅子二匹に加え、この老面獅子まで倒したことに言葉をなくしていた。

 彼女から『涙姫』を一人置いて来たと聞いて飛んでいったのだが、後の追及が怖い。


「起き上がれるか」

「待て、もうちょっとこのまま休憩させろ」

「化け物の首に見つめられながら休憩できるとは、相当に神経が太いな」


 俺の横に、老面獅子が虚ろな視線をこちらに向けたまま転がる。

 痙攣していた顎はもはやその力も失って瞼だけが微かに震えていた。

 首から先、後頭部より後ろは体ごと綺麗に吹き飛び跡形もない。

 辛うじて脚が三本、冗談のように地面に転がっているだけ。


「勝利の余韻に浸ってると言え」


 老面獅子の額に刺さったままの短剣を握り締めたままなのは、そう見えなくもないだろう。

 実際は体が癒えるのをじっと待っているだけだが。

 痛みの緩和や治癒速度を上げる付与魔術もあるのは確かなので、彼女も特に何も言わない。

 自分の血だか奴の血だか分からないほど、俺の体は全身塗料を塗したように赤く。

 そうでなければ、到底そんな治癒の間に合うようなものではないことに気づいたことだろう。

 殆ど癒えたところで起き上がり、老面獅子の額に刺さる剣を呪を紡ぎながら引き抜く。


「そんな錆だらけの短剣でよく勝てたものだ。またいつもの秘蔵の一品か」

「もっと褒めろ。付与魔術師様万歳と称えるがいい」

「いつそれが本職になった。ただの珍品収集家だろう」

「いやそれこそ実益兼ねたただの趣味だろ。商売にしたつもりはねーよ」


 短剣を鞘に戻し、彼女に肩を貸してもらいながら立ち上がって息を吐く。


「あの涙、どこから出した。まさかあの姫が本物だったわけか」


 副隊長の後を追って茂みを踏み分け森に踏み入りながら尋ねる。

 まさか、と彼女は首を横に振った。


「私が逃亡生活をしている理由、それがあれなのだよ」


 飄々と肩をすくめながらとんでもないことを言ってくれた。


「お前の実家、下賜された『涙』の接収を拒否したのか」

「まぁそんなところだ」


 今までどんな罪状で取り潰され、追われていたのかは知らなかった。

 まさか涙姫関連とは。

 どうりで今回の仕事を特に嫌がったはずだ。


「しかし、武具に換えず媒体にするとは思わなかった」


 実は既に一本持っています、とは言えない。


「いや、俺にとってどんな種族の涙にしろ、使い道って言えばあれしか知らないわけで」


 実は武具化の方法も知ってます、とも勿論言えない。

 何故か武具化できる『涙』は一人につき一つだけであるため、俺にはもうできないのだが。

 涙姫の涙を媒体にした魔術が使われた記録は、大戦中に数度の事例しかない。

 制御できる術者がいなかったため断念されたのだ。

 まして、付与魔術の媒体に使った例など一切ないだろう。

 そんな真似をするくらいなら、誰かが武具化して使えばいいのだから。


「言われてみればそうか」

「改めて考えてみれば、かなり贅沢なことしてるよな、俺」


 制御できずに吹き飛ぶ可能性がありました、とは口が裂けても言えない。

 付与魔術ならば、制御に失敗しても吹き飛ぶのは術者と付与対象程度で済んだろうが。

 制御できたのは付与魔術であったことと、対象が涙姫の武具だったのも一因かもしれない。

 ともあれ『俺がそれを知っている』ことは彼女は知らないだろうし、知る必要もないだろう。


「実はあれで最後ではない、と言ったらどうする」

「怖いこと言うなよ。もし本当ならそこらへんに撒くか埋めて来い」


 彼女が意味ありげに笑う。

 こういう人をからかうときの顔は本気だか演技だか分からなくて困る。


「それで、どうだろう。念願の涙を使ってみた感想は。もうこりごりといった風情だが」

「別に念願じゃなかったが、まぁなんというか、強い、な」

「何だその歯に物が挟まったような言い草は」


 怪訝に眉をひそめた彼女に苦笑を返し、その体の大半が消し飛んだ魔獣の残骸を振り返る。

 茂みの向こうに隠れてもう見えないそれは、本来ならそれで隠れるような体躯ではなかった。

 まだ力の残滓がそこにあるように思えて、自分の手を見下ろす。


「媒体を使うとき、込められた感情や思念が流れ込むんだよ」


 付与魔術を使う人間は媒体の『声』に精神をすり減らされる人間が多い。

 そのため感情や思念が殆ど篭もらない無生物の媒体しか使わない者もいる。

 涙はその中でも比較的強い『声』を放つ媒体なのだが。


「でも、あの涙はあれほどの力を持っているのに、何も感じられなかった」

「そうか」


 あまりにも軽い物言いに力が抜ける。


「自分から聞いたくせに反応薄くないか、おい」


 非難の篭もった言葉にも、彼女は気にした様子はない。


「泣いているからといって涙を流しているとは限らないように、涙を流しているからといって泣いているとも限らない。無感情に涙が流せるか、心が壊れていたとしてもおかしくない。欠伸一つでも出るようなものなのだし」

「欠伸で出た涙にゃ何の力もねーよ」


 一呼吸置き、ふっと息を吐く。


「ま、涙とか本当はどうでもよかったんだ」

「そういえば目的は涙姫なのだったな」


 彼女が俺の顔を見つめる。


「ちくしょう、今回も外れか。会ってみたいのに」

「今回もだと。いったい何度同じ失敗を繰り返してる。そこまでして会いたいのか」


 驚いた声を上げる彼女に笑いかける。

 苦笑にしかなっていないだろうけども。


「会ってどうしたいんだろうな、俺」


 俺の返事に、彼女は心底呆れたような顔で頭を振る。


「私に聞かれても知るわけがない。英雄になりたかったとでも言うのか?」


 涙姫は間違いなく俺のことなど知りもしないだろう。


「そうだな。俺は、英雄になりたかった」


 与えられた武具で魔獣や敵兵士をただひたすらに殺す兵器になった人間の一人のことなど。

 それが、守るということの一面だというのは分かっている。

 分かっているが。


「化け物や人間を殺すのだけは上手くなったんだがなぁ」


 空を見上げると、自然と言葉がこぼれた。


「俺は、謝りたかったのかもしれない」


 英雄になれなかったことを。

 彼女の涙を使って、『英雄』と呼ばれるただの殺戮兵器になってしまったことを。

 凄まじく独り善がりな想いなのは間違いない。

 俺がなりたかった英雄というのは、多分。


「姫!」


 叫ぶ声に顔を向ける。

 見ると、慌てたように走っていく副隊長の小さな背中が見えた。

 その背中の向こう、度々躓きながら木々の間を縫う白い影。

 短く切られたドレスの下、露な白い太股には下生えや枝で擦れて幾筋もの赤い線が走る。

 駆け寄る副隊長の胸に飛び込んだのか、白い腕がその背中に回され。


「もう嫌です。偽の姫として仕えられるのも、貴方の身を危険に晒すのも」


 無くなってしまった彼の片腕に気づいた彼女の悲痛な涙声が響く。


「私は貴方の敬愛する涙姫ではありません。紛い物です。でも、それでもどうか私だけの『英雄』に――」


 俺たちの姿は見えていようがいまいが、もはや意識の外なのだろう。

 居心地の悪さを覚えて、誤魔化すように小声で二人の様子を揶揄する。


「あれで奮起しなかったら騎士云々以前に男失格だよな」

「そうか、君がなりたかったのは正確には『英雄』ではなく『白馬の王子様』か」

「やめてくれ、恥ずかしさで死ねそうだ」

「否定しないのだな」


 仏頂面になった俺に、彼女が珍しく心の底から楽しそうな笑顔を浮かべる。


「時折駄目な方向に人間味溢れすぎるが、君は私にとっての英雄をしてくれていると思っているさ。それで妥協しておけ」


 からかわれているのか慰められているのかよく分からない言葉に、つられて笑いが出る。


「お前が『姫』で俺が『英雄』か? お互い柄じゃないだろ」


 それとも俺たちもああするか、と抱きあう二人を指差すと彼女は苦笑した。


「違いない」


 こちらに背を向けたままの副隊長の顔は見えない。

 彼らがこの後どうするのかは、姫を抱きしめているらしき彼の腕が語っている。

 二人がどうなるかまでは俺たちの関与するところではない。


「面白いほど男は演技を見抜けないな」


 偽姫の頼る当ては現状あの騎士だけなのだ、と彼女が二人を見つめる。

 あまりに夢のない打算と計算に声を上げかけた俺の口を、素早く彼女の手が塞いだ。

 口元にもう一方の手の指を一本立てて沿え、静粛を促す仕草に頷く。

 俺の口から手を放しながら、彼女は再び二人へと視線を向けた。


「女の演技は、本人ですら演じていることに気づいてないこともある。演じているうちに演技ではなくなることもある」


 それに加えて吊り橋効果がどうのと小難しい話をし始めた彼女の肩を叩いて遮る。


「女を語るにゃ、まだ年季が足りないんじゃないか?」


 俺の軽口に彼女は肩をすくめた。


「演劇や歌劇には一家言あってね」

「女の演技で同じ女は誤魔化せないわけか」


 言って笑う。

 偽者の涙姫は副隊長の腕の中で一体どんな表情をしているのだろう。

 涙を流しているのだろうか。

 だとすれば、彼女が本物の涙姫であるかどうかなど、もはや関係などなく。

 それは彼にとってこの世で最も危険な雫である気がする。


「女って怖いよな」


 邪魔をしないよう、二人を置いて街道のある方角へ振り返り、来た道を戻り始める。


「なんだ、まだ分かってなかったのか」


 やれやれ、と彼女が溜息を吐きながら俺の後に続く気配。

 少しだけからかってみたくなり、足を止めて彼女の顔を見つめる。

 つられて足を止め、視線を返してくる彼女。


「どうした」

「演劇や歌劇に一家言あるんだろ? あれを見習って、わざとでもいいから少しくらい可愛げ出してみない?」


 肩越しに後ろを指差す。


「演じてみせろと? まぁ、できなくはないが」


 淡々と応える彼女からは羞恥も怒気も見て取れない。

 その時点で既に可愛げのない反応に思わず溜息が漏れ、頭を振る。

 抱きあう二人と俺を見比べる彼女の横を、手を振りながら通り過ぎた。


「冗談だ、本気にするな。最初から演技と知ってるとむしろ萎える」


 女らしく振舞う彼女の姿に興味はあるが、あとが怖い。

 好奇心は猫をも殺す、だったか。

 彼女が時折口にする、聞きなれないがすんなりと納得してしまう言い回しの一つを思い出す。

 数歩進んだところで、後ろから声が響いた。


「ちゃんと泣けるようになったらね」

「え?」


 優しくも悲しげな、女らしく柔らかいそれに耳を疑う。

 勢いよく振り返った俺の横を、忍び笑いをするようにニヒルな笑い声が通り抜けていく。

 一瞬見た気がする儚い微笑みは、願望が見せた幻覚だったのか。


「本当に、面白いほど男は演技を見抜けないな」


 呆然と背中を目で追う俺をそのままに、すたすたと歩いていくその声は何故か楽しげで。


「一つ覚えておくといい」


 そう前置いた聞き慣れない言い回しは、やはり俺の頭に強く残った。


「涙は女の武器なのだよ」





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[一言] こんばんは、遊森と申します。 この度は武器っちょ企画にご参加いただき、ありがとうございました! まずは参加作品最長の文字数に驚いてしまったのですが、拝読させていただきまして、戦闘シーンの緻密…
[一言] 面白かったです 呪文でなく一々媒体が必要な魔術とかいかにも面倒臭そうで素敵 全く科学的でないアイテムが出てくるかと考えると夢が広がります 素直になれないヒロインも可愛いけど、一番気に入ったの…
[良い点]  行動によって描写される、鮮やかなキャラクター造形。  必要最小限の情報で示された世界像と設定の面白さ。スピード感と迫力にあふれた、手に汗握る戦闘シーン。 [気になる点]  脱字かと思われ…
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