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竜の都で謳う姫 作者:光太朗

第三章 姫

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3-2

 香りがした。
 イリスはこの香りを知っていた。じんわりと身体に広がっていくような、懐かしい香り。
 ひどく優しい、幸せな、そして涙が出そうになる、香り。
 ぬくもり。
 あたたかさ。
 歌。
 頭を撫でる手。
 しかし、その手を意識した瞬間に、これは夢なのだと理解した。
「起きたのね、イリス。いいのよ、まだ眠っていても」
 母の声。
 聞こえるはずのないそれが、ひどく優しく、耳をくすぐる。
 当然だ、これは夢なのだから。
 だから、聞いていてもいい。
 もう少し、このままでいても、いいはずだ。
「かわいいイリス、かわいそうなイリス」
 意識は夢のなかなのか、それとも眠っているこちら側なのか。とにかくそのどちらかが、かすかな疑問を覚える。
 しかし、小さなことだった。
 幸せなのだ。
 それでいい。
「かわいいイリス、わたしのイリス」
 優しい優しい、母の声。
 イリスはずっと、母と二人だった。
 母は笑っていた。常に笑っていた。
 まるでそれ以外の表情を、どこかに落としてきてしまったみたいに。
「かわいそうなイリス」
 優しい囁きが続く。
 ダメ、とイリスは思った。
 耳を塞いで。
 聞かないで。
 聞かない方が、きっと──
「────────」



 あれほど鮮明な夢だったのに、目を覚ました瞬間に、そのほとんどが蒸発してしまったかのようだった。
 イリスはベッドの上で寝転んだまま、身じろぎせずに、天井を見上げる。
 淡いピンク色の、飾り気のない天井。いつもの天井、のように思われる。
 しかし、違和感があった。
 同じのような、同じでないような。
 香りも、違うような気がした。
 身体を起こして、部屋を見回す。やはりどこかがおかしいと、毛布から抜け出し、並べてあるブーツに足を入れた。
 いつもそうするように、ベッド脇のドレッサーに自らを映す。寝ぼけた目をしていた。ふわふわの銀色の髪には寝癖ひとつついていなかったが、引き出しから愛用のブラシを取り出して丁寧に梳き、少しだけ覚醒する。見慣れた部屋着だ。クローゼットを開けてみると、中身も記憶のとおりだった。無難なワンピースを選んで、とりあえず着替える。
 首をかしげながら、部屋のなかを歩き回ってみた。頭の中が、どうもはっきりしない。天井と、壁と、香り。違和感はそのあたりだが、確証はない。
 ウェルナーはいるだろうかと、ふと思いついた。ウェルナーが家主なのだから、なにかがおかしい気がすると、彼に相談をすれば良いのではないだろうか。
 とても自然な流れだ。なんという名案。
 そうと決まれば、まずは顔を洗わなければいけない。イリスはいそいそとドアを開けようとする。
「あれ?」
 しかし、動きを止めた。止まらざるを得なかった。
 明らかに、ドアのデザインが記憶にあるものと異なっていた。しかも開かない。鍵がかけられているようだ。
 白く塗られたドアは年代物で、質素な部屋に似合わない高級感を醸し出している。ドアだけをどこからか持って来て、取り替えたのだろうか。それとも……もしかして。
 イリスは、眉をひそめた。
 まったく記憶にないドアというわけでは、ない。
「入るぞ」
 タイミングをはかったようにドアがノックされた。
 ウェルナーの声だ。イリスはすぐに返事をしようとして、慌ててドレッサーまで戻って顔を確認した。寝起きの上、まだ洗ってもいないが、だいじょうぶ、許容範囲だ。
「イリス」
「あ、はい! どうぞ!」
 一呼吸分間が空いて、ドアが開けられた。
 あれ、そういえば、鍵は。頭の片隅で思うと同時に、もっと大きな疑問が脳を支配する。
 昨日はウェルナーとデートだったはずだ。ウェルナーの顔を見た瞬間に、事実だけが思い出された。
 しかし内容は、途中までしか覚えていない。
 思い出そうとすればするほど、混乱した。
 おかしい。
 覚えていないことが、思い当たらないことまでたくさんあるのではないかという、不安。
「ウェルさん……あの」
 おはようございますというのが先だろうか。混乱したイリスの脳は、上手に質問を導き出してくれない。
「おはよう、あいにくの空で。……どうか、したか? いや」
 すでに鎧を着込み、大剣を背負ったウェルナーが、いつもと同じトーンで挨拶を口にする。しかしそのまま、珍しく、口ごもってしまった。
 ウェルナーは表情を取り繕うような人間ではないはずだ。少なくともイリスの感覚ではそうだ。しかしいまのウェルナーは、どういう表情でいるべきかを決めかねているように見えた。
「あの……この部屋って」
 イリスは、当然に浮かんだ疑問を、まず口にする。数々の疑問のなかでも無難なものを選んだつもりだったが、ウェルナーはそれこそを恐れていたかのように、複雑な顔をした。
「それは、そうだろうな」
 要領を得ない返答。ウェルナーの眉間に深く皺が刻まれた。その見慣れた表情に、イリスはいくらかほっとする。
「ですよね! いつの間にドアを取り替えたんですか? びっくりしちゃいました、急にカッコイイのに変わってて」
 すごく高そうですよね。イリスは半ば無理矢理笑い話にしようとする。
「いや……どこか、痛いところや、おかしなところはないか?」
 ウェルナーからの返しは、ずいぶんと見当違いなものだった。一瞬なにを聞かれたのかわからず、イリスは目を丸くする。ドアの話はどこへ行ってしまったのか。
「もちろん、元気ですよ。いっぱい寝ちゃいましたし」
「そうか」
 どうしてそんなこと聞くんですか。いつもなら考えずに出る言葉が出てこなかった。ウェルナーの返事も最小限だ。いや、これは以前からこうだっただろうか。あたりまえだったことが、だんだんわからなくなってくる。
 確かな異常事態に、聞きたいことが尻込みしていた。おかしい。おかしいことが多すぎる。
「それは、よかった」
 しかし、続いた言葉に、イリスの乙女心が跳ねた。ウェルナーはひどく優しい目で、小さくではあったが、確かに微笑んでいた。なにがなんだかわからないが、どうやら心配されていたのはまちがいないようだ。
 それは、よかった。
 その言葉だけで、もうなにもかもが「よかった」に染まる。
「ウェル。いいかな?」
 不意に、第三者の声がした。ウェルナーの陰になっていてまったく気がつかなかったが、この部屋への客はもう一人いたようだった。
「ああ、すまん。紹介しよう、イリス」
 ウェルナーが場所を空ける形で促す。そこに笑顔で立っていたのは、物語の挿し絵で見るような美青年だった。
 金髪碧眼。周囲の空気が瑞々しい気がする。彩度が上がったような錯覚。見た目だけではなく、甘くない、清涼感のある、どこか尖った香りが漂ってきた。彼が動くことで生まれた香りなのは間違いない。
 身分が高そうでお洒落な人。イリスはそんな感想を持つ。
「アレックス・L・トキオータ。この国の王だ」
 さらりとウェルナーに紹介され、イリスの思考が停止した。
 王。存在していることはもちろん知っていたが、イリスにとってはそれこそ物語のなかの存在だ。
「お、王様、ですか? どうして? どうしてこの家に?」
「初めまして、イリス。私のことはアレクと気軽に呼んでくれ。私は王である以前に、ウェルやニーノの幼馴染みだ。そう思ってくれた方が助かる」
 アレックスがにこやかに右手を差し出し、イリスは恐る恐るその手を握る。ごきげんようと、どもりながらもなんとか返した。頭がついていかない。
 綺麗な男の人というのは、イリスが知らないだけで、実はたくさんいるのかもしれない。無意識に考えてから、あれ、と思う。目の前にいる男性以外に、綺麗な男の人になど会っただろうか。
「ウェルの家ならば、行く理由はいくらでもあるんだがね。残念ながらここは彼の家じゃない。ここはトキオータの都、オータリアの城だ。部屋は気に入ってくれたかな?」
「え?」
 イリスは今度こそ言葉を失った。
 このきらびやかな王がなにをいっているのか、わからなかった。
 ウェルナーの家に王が訪れたのではなく、ここがそもそも城なのだという。
 ではやはり、違和感を抱いたのはまちがいではなかったのだ。
 しかし、使い慣れた家具、踏み慣れた絨毯、配置はもちろん、クローゼットの中身もイリスの部屋と同じだった。明らかに違うといえば、イリスと王、ウェルナーの間にあるドアだが、ドアを取り替えたのではなく、部屋が違うのだという。
 つまり、部屋ごと移動したのだ。
 あの部屋のなにもかもを、この部屋へと。
「ど、どうして、そんなことを?」
「君が過ごしやすい方が良いだろうと思ってね。かえって落ち着かないというのならば、別の部屋を用意しよう。好みの家具や好きな色をいってくれ。私にいいにくければ、ウェルにいえばいい。遠慮することはない」
 まったく意味がわからなかった。そこまでする理由も、してもらう理由もわからない。部屋がというより、イリス自身が引っ越したということなのだろうか。承諾した覚えはないが、昨日のうちに、勝手に。
 困惑しきって、ウェルナーを見る。ウェルナーは眉間の皺をさらに深くしていたが、場所を完全にアレックスに明け渡し、どうやら口を開く気はないようだ。
「あの、もちろん充分なんですけど……わたしは、ウェルさんのあの家に、戻りたいです」
 部屋の中身の問題ではなかった。森に囲まれたあの家。ニーノの店やレーゼ亭や、図書館や──キトラの町そのものが、イリスの暮らしていく場所であるはずだった。
「イリス、悪いがそれは難しい」
 穏やかな物いいだったが、アレックスははっきりと首を振る。
「だが、できることならなんでもする。その用意があるということを、知っておいてくれ。君の知っている何人かは、城や城下に来ている。会うこともできるだろう。ほかになにか、要望は?」
 当然のように問われ、イリスはいいえと答えるしかない。アレックスは微笑んで、もう一度イリスの手を握った。
「小さなことでも、なにかあれば、なんでもいって欲しい。私にでも、ウェルにでもね。ウェル、彼女を頼んだよ。それでは、私はこれで」
 アレックスは正式な形で一礼をし、イリスの前から去っていった。そのうしろ姿を、イリスはぼんやりと見送る。一体なんだったのだろう。
 なにかの冗談だろうか。イリスはウェルナーを見上げたが、黙ったままなので、踵を返して窓に向かった。カーテンを開け放ち、外を見下ろす。
 見えたのは、見慣れた森ではなかった。
 この部屋は、キトラの家よりもずっと高い位置にあるようだった。林の向こう、赤茶色の屋根がずっと遠くまで続いている。人の影は豆粒みたいで、現実味がない。遠くの空には逆さの岩山──竜の住処が見える。
「俺の部屋は隣だ。まったく同じというわけにはいかないが……食事は一緒にとろう。勝手がわからないだろうと、アレクがメイドを手配したらしい。俺に聞きにくいことは、そっちにいうといい」
「あの」
 イリスは振り返った。もしかしたら聞いてはいけないことかもしれない。聞いても意味がないのかもしれない。それでも、聞かずにはいられなかった。
「どうして、あの家に戻れないんですか」
 ウェルナーは嘘をつかないだろう。そこにあるのは確信と期待だ。まばたきもせずに見つめると、ウェルナーは唇を噛んだ。
「狙われているからだ。キトラにいたのでは、守れないと判断した」
 それは、イリスの欲しい答えとは違うような気がした。しかしそれをどう表現すればいいのかわからず、イリスは黙る。
 狙われているといわれても、その意味も事情も、そして守られる理由も、見当も付かないのに。
「なぜですか」
 困らせるだろうということは、わかっていた。ウェルナーがイリスの隣にいるのは、それが仕事だからだ。そんなことはわかっていた。王と名乗る人物が現れたからには、彼こそが雇い主なのだろう。
 つまりイリスは、国に守られているということになる。
 困らせてもいい、喧嘩だってしてやる、引き下がるものか。それだけのつもりで問いを投げつける。
「ウェルさん、わたしは、なんなんですか」
「俺も」
 しかし、怒りは跳ね返されず、静かに吸収されてしまった。
 それはイリスにではなく、ウェルナーにとっての負荷となってしまったことが、ありありと見て取れた。
 ウェルナーは、ひどく悔しそうな顔をしていた。
「すまない。俺も、知らない」
 嘘ではないのだろう。
 まるで蚊帳の外なのは、イリスだけではないようだ。
 イリスはあらゆる感情を、ため息といっしょに飲み込んだ。




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