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《『倉本藍の営業/日下渚の困窮』シリーズ一覧》

日下渚の困窮(2):舞踏の魔物

作者: 賀茂川家鴨

「行ってきます」

 冬の始まる季節のことです。早朝五時に起床したわたしは、配達用の新聞を受け取るために出かけました。


 わたしは日下渚くさかなぎさといいます。家賃が月一〇〇〇円のアパートに住んでいます。

 わたしの悩みは、とにかくお金がないことです。わたしはかつて、一家離散して行き倒れていたところを、大家の安田さんに救われました。

 安田やすださんは、わたしと妹の真奈花まなかが中学校を卒業するまではお金を工面してくれました。

 けれど、これからは家賃や学費を自分で稼がないといけないのです。本来は高校生以上の新聞配達のアルバイト募集を、わたしから無理を言って、特別に時給九八〇円で採用してもらいました。新聞配達は毎日休まず続けていました。

 ある日突然、わたしは生活保護を打ち切られました。市役所で事情を伺うと、「ほかに血の繋がった親戚の方はいらっしゃいますか」と言うのです。みんなばらばらで、どこにいるかもわかりません。頭の中がこんがらがりました。お役所の方々は、わたしがこれ以上何を言っても取り合ってくれないのです。

 わたしは食事を一日一食にして、主食はもやしにしました。でも、妹の真奈花のために、一週間に一回だけ、レトルトカレーを作ってあげるのです。


 もやし生活をはじめて三ヶ月が経ちました。四月、お隣の倉本藍くらもとあおさんに勉強を教わり、希望の高校に入学することができました。入学費や教材費、交通費、制服代など、諸々は高くつきましたが、安田さんがお金を無利子で貸してくれました。

 高校生になったわたしは、早朝五時から新聞配達のために高低差の激しい坂を上り下りします。けれど、体力のないわたしは、すぐに疲れてしまいます。

 真奈花は土曜日と日曜日に、飲食業のアルバイトをしています。働き疲れた真奈花は、いつも眠そうにしています。平日は勉強に集中するのです。


 それから一年と七ヶ月が経ち、十二月に入ります。

 わたしと真奈花は高校二年生になりました。

 肩辺りまである黒髪を束ねて、左耳の上辺りにしっぽを作ります。

 真奈花はまだ眠っています。わたしの容姿は、真奈花よりも子どもっぽいです。栄養不足が祟ってしまったのかもしれません。それはまだよいのですが、真奈花の髪は金髪ですし、目の色は蒼色です。

 実は、わたしと真奈花とは血が繋がっていません。かつて、わたしの両親が真奈花を養子にしたためです。真奈花は家庭のことをほとんど話してくれませんが、おそらく何か大きな事情があったのでしょう。


 わたしは部屋をこっそりと出て、ドアに鍵をかけました。

 隣室の倉本さんが、二階の手すりに腕を着いていました。

「おはようございます、倉本さん」

 倉本さんはわたしを一瞥すると、満面の笑みを浮かべました。

「おはようございます。渚は、毎日早起きですね」

「倉本さんには勝てません」

「私は不眠症みたいなものですから。今日もお仕事ですか」

 倉本さんは、つやのある黒髪を下ろしていました。

「はい。生活できるだけのお金を稼がないといけません」

 わたしは、アルバイトを終えてからそのまま登校できるように、安物の黒いジャンパーの下には制服を身に着けています。学生用の肩かけ鞄を携え、準備万端です。

 倉本さんの闇色の瞳がわたしに向けられます。

「お金、ですか。紙くずや硬貨には、人間の欲望が渦巻いています。でも、お金は何の栄養にもなりません。君はお金に使われることに満足していないはずです。何故、君は自ら生産活動をして食物を獲得しようとしないのでしょうか」

「わたしには、働くことしかできないからです」

 わたしはとぼとぼと階段を下りて行きます。

「元気がありませんね。辛いことがあるようでしたら、いつでも私に相談して下さい。呼べばどこでも駆けつけますよ」

 わたしはなんだかくすぐったい気持ちになりました。他人から優しくされることに慣れていないからです。

「えへへ。ありがとうございます」

 わたしの疲労が伝わっているのか、最近の真奈花はあまり口をきいてくれません。時折、わたしのためにお肉やお魚を買ってきてくれます。きっと、真奈花を心配している誰かが、お金を工面してくれているのでしょう。

 ちらりとアパートのほうを見やると、倉本さんがわたしをじっと見つめていました。軽く手を振ってきたので、わたしも手を振り返します。

 倉本さんは不思議な感じがしますが、悪い人ではなさそうです。わたしの直感は当たると、学校で評判なのです。えっへん。


 販売所の上司の方や、パートのおばちゃんとおじちゃんに挨拶をします。

「おはようございます」

「おはよう、日下ちゃん。ほら、これ、持っていくといいよ」

 パートのおばちゃんが、ネットに入ったみかんをくれました。」

 上司の方に目配せすると、にっこりと微笑みかけてくれたので、わたしは喜んでみかんを学生鞄の中に放り込みました。

「ありがとうございます。妹も喜ぶと思います」

 私服で通勤しているおばちゃんは、顔をくしゃくしゃにしました。

「いい子だねえ。最近は若い新聞配達の子が減ってきているらしいよ」

 隣で聴いていたパートのおじちゃんは、難しい顔をしています。

「まったく、最近の若者はたるんどる」

「は、はい、ごめんなさいなのです」

 すると、おじちゃんは、眉尻を下げました。

「いや、日下さんのことじゃあありませんよ」

「ほかの生徒は、みんなコンビニやレストランでアルバイトをしているのです」

「私の時代は新聞配達か百貨店と相場が決まっていなのですけれどもなあ」

 おばちゃんは豪快に笑いました。

「やあねえ、そんな昔の話、日下さんにはわからないわよ。それに、年寄りの早起きなんて、何の自慢にもならないしねえ。若い子のことばかり気にしていても、何も変わりやしないよ」

 おばちゃんは膝をパンと叩いて、新聞配達に向かいました。おじちゃんも右にならえと仕事に戻ります。わたしのことを待っていてくれていたのでしょうか。

 わたしは新聞を学生鞄に差し込み、近所のポストに投函していきました。


 朝六時ころ、わたしはへとへとになっていました。

 仕事に慣れてきただけではなくて、だんだん配達する新聞の数が少なくなってきているような気がします。

 真奈花はもう登校の支度を済ませているでしょうか。

 朝焼けの空の下、わたしは湖の上にかかる桟橋を渡ります。

 頬を白いものが掠めました。雪でしょうか。

 白いものは、次から次へと降って来ました。

 両手を合わせてキャッチし、白いものの正体を確かめます。

 それは、ひやひやとした雪ではありませんでした。白く可憐な花びらだったのです。辺りを見渡しても、白い花はどこにも見当たりません。ですが、やがて、わたしの視界を埋め尽くすほどの白い花びらが降り注いできました。

 足元が花びらで埋め尽くされ、永遠に続く白い大地が現われました。桟橋は形を失い、不気味なほど透明感のある水色の空が広がっています。

 やがて、花びらは水彩絵の具を溶かしたような虹色に染まり、白い大地からは白い花が咲きほこります。

 わたしは怖くなって、来た道を引き返そうとしますが、どこもかしこも一面花畑が広がっていて、帰る道はなさそうです。

 ヴァイオリンの悲しい音色を奏でる白い影の音楽家達に合わせて、白い液体のバレエダンサーが、くるくるとわたしの周りを踊ります。

 バレエダンサーはわたしを見て、クスクスと笑ったり、メソメソと泣いたりしています。

「あなたは、さみしいのですか」

 バレエダンサーは答えません。わたしはジャンパーを脱ぎ捨てます。ここはとても心地よくて、暖かいからです。ブレザーは丁寧に折りたたみ、鞄の中にしまいます。しまいには、学生鞄を花畑の上にそっと置いてしまいました。

 このままずっと遠くまで歩いていけば、きっと、こことは違う楽しい世界が待っているような気がします。

 わたしはふらふらとバレエダンサーの後に着いて歩きます。

「おやおや?」

 視界の隅から飛び出した倉本さんが、バレエダンサーに蹴りを入れます。

 白い可憐な液体は、鋭い悲鳴を上げて、泡になって消えてしまいました。

「おい、渚、しっかりしろ! アタシを置いていくな!」

 わたしは真奈花に肩を揺さぶられました。

「……お姉ちゃんが真奈花を置いていくわけがないのです」

 身体から力が抜けて、真奈花に寄りかかります。

 わたしは一体、どうしてしまったのでしょう。

「おい、てめえ! 渚になんてことしやがる!」

 怒りをあらわにした真奈花は、目玉をぎょろりと動かしました。

 真奈花のモデルガンからは、まるで本物の銃のような銃声が発せられました。

 倉本さんが討ち損ねたバレエダンサーを、光の弾が次々と撃ち抜いて行きます。

 わたしは真奈花を強く抱きしめました。

 バレエダンサーは次から次へと地面から沸いて出てきました。

 倉本さんは大きく二メートルほど飛び上がり、四方からのバレエダンサーの蹴りをかわします。着地の勢いで、ヴァイオリニストや打楽器の演奏者を蹴散らしました。しかし、演奏は鳴り止みません。

「真奈花、どこかに〈舞踏の魔物〉の本体がいるはずです」

「真奈花に近寄るな!」

 頭の中に、真奈花の叫び声と銃声の両方が響きます。

「落ち着いて下さい、真奈花。このままではキリがありません」

 倉本さんは空中で前転しながら指揮者を粉砕します。

 でも、演奏が止まることはありません。

「ハズレですか……」

 わたしはバレエダンサーを見渡しました。どれもこれも押さない少女の形ばかりです。恥ずかしいのか、恐れているのか、みんな哀しい声を上げています。

 はるか昔、西洋の貧しいバレエダンサーは、夜の相手として富豪達に売られることもしばしばあったそうです。

 彼女達を操っているとすれば、パトロンです。舞台のどこかでパトロンが見張っていて、子ども達をおもちゃのように扱っているのです。わたしの記憶が正しければ、名画の中で描かれるバレエダンサーのパトロンは、暗く不吉な姿で登場することがありました。

 わたしはパトロンを探します。すると、演奏者達の端のほうに、くすんだ灰色の人影が佇んでいるのを見つけました。けれど、わたしの想像と異なり。灰色の人影は、暗く沈鬱な様子にあるような気がしました。

「真奈花、あれを狙ってみてほしいのです」

 わたしは灰色の人影を指差しました。

「アイツか、こんちくしょう!」

 真奈花は、踊り狂うバレエダンサーを素手で殴り飛ばします。

 灰色の人影に向けてモデルガンを構え、一発の閃光を放ちました。

 灰色の人影が消えると同時に、バレエダンサーや演奏家達も丸められた紙くずのようにグニャリと歪みました。演奏がゆっくりと消えていき、わたし達は見慣れた桟橋に立っていました。

「真奈花、怪我はないのですか」

「もちろん。そっちこそ、平気? 今日は学校休む?」

「学校はちゃんと行くのです……」

 わたしはぽろぽろと涙をこぼしました。

 真奈花のふくよかな胸元はわたしの涙に濡らされていきます。

「やれやれ。どっちがお姉ちゃんなのか、わからなくなっちゃうよ」

 真奈花の優しい声と、暖かな掌が、わたしの頭を撫でました。

 視界の隅では、倉本さんが湖を眺めていました。



「いやあ、なかなかに楽しめました」

「アタシは疲れた。まさか渚が捕まっているとは思わなかったし」

 昼休み、わたしは真奈花と倉本さんと一緒にお弁当を食べています。

 といっても、いつものもやし炒めです。

 倉本さんはトマトハムサンドを頬張っています。

「結局、あれは何だったのですか」

「渚は人間が次々と行方不明になっているニュースをご存知ですか」

「いいえ、知らないのです」

 家にはテレビがありません。たまに余った新聞を恵んでもらう程度です。

「ほら、ウチの生徒が風邪で休んでいるよね。あの魔物が原因らしいよ」

「風邪で休んでいる方、いましたか?」

「え、それはほら、ダンス部の……あれ?」

 わたしと真奈花は顔を見合わせます。

 倉本さんはニヤリと怪しく笑いました。

「行方不明になった人物の痕跡は、白い花びらの中に包まれて消えていきます。やがて、ニュースで取りあげられた事実や、学校にいた事実など、連れ去られた人間への記憶が抹消されていくことになります。果ては、実の親でさえ忘れてしまうことになるでしょう」

 わたしの直感も、倉本さんと同じ結論を出しています。

 ですが、こうもはっきりと断定されると、気になることがあります。

「倉本さんは、どうしてそこまでわかるのですか」

 倉本さんは、「良くぞ聞いてくれました!」と、机の上に腰かけます。

 真奈花は、テーブルに置かれた倉本さんの残りのサンドイッチをかっさらいました。倉本さんは急に慌てます。

「あ、ちょ、真奈花……それ、私のです」

「ねえ、これ、渚にあげてもいい?」

 真奈花は悪戯っぽい笑みを浮かべました。

 倉本さんは落ち着きを取り戻し、黒髪を手の甲で軽く払います。

「当然です。真奈花がそうしたいのなら、ご自由に」

 何だか話をそらされてしまいました。

 真奈花はにこにこして、私にサンドイッチを差し出します。

「だってさ。ほら、食べなよ」

「ふぇ、いいのですか」

 わたしが倉本さんを見やると。満面の笑顔でうなずきました。

「ありがとうございます。いただきます」

 サンドイッチは、少ししょっぱくて、みずみずしい味がしました。



 わたしはあなたのことをちゃんと覚えています。

 入学したばかりのわたしに、はじめて声をかけてくれたのが先輩です。

 先輩は、ふわふわした栗色の長髪をポニーテールにしている子です。

 わたしと一緒に新聞配達のアルバイトをしていました。

 先輩はダンス部と吹奏楽部を兼部しています。

 コンクールが近づくと、先輩はアルバイトをしばらく休みました。

 わたしは激しい運動が苦手ですけれど、先輩の踊りや演奏はいつも観にいきました。わたしだけのために、くるくるとワルツを踊ったり、ブラームスのハンガリー舞曲を通しで演奏したりしてくれました。

 先輩が片思いの相手に彼氏に告白して、失恋したとき、先輩はわたしに泣きついてきましたよね。もうだめだ、なんて、めったに言うものではないのです。

 わたしは先輩のことを誇りに思っているのです。

 でも、先輩は、突然、「部活を辞めた」と言い出しました。

 あんなにも熱心な部活だったのに、どうしてでしょう。

 先輩は、引き止めるわたしを睨みつけて、どこかへ消えてしまいました。

 先輩は寂しかったのだと思います。思い返すと、わたしに助けを求める兆候が、いくつか心当たりがありました。わたしを食事に誘っては、先輩を振った彼がどんなに素晴らしいかを披露するのです。まるで、自分のことのように語っていました。けれど、わたしは元彼の自慢話が、だんだん嫌になってしまいました。

 わたしの気持ちが態度に出てしまったのでしょうか。先輩はわたしから距離を置くようになりました。

 最期に先輩とお話したとき、先輩の家庭で問題が起きていることを、さりげなく教えてくれました。

 

 先輩は学校の外壁に背中をもたれてうずくまり、泣いていました。

「先輩、本当に部活を辞めてしまうのですか」

 先輩は首をもたげて、わたしを鋭く睨みます。

 先輩はもう、うまく笑うことすらできなくなっていました。

「放っといてよ。自分のことくらい、自分で決める。渚と同じ、うちもお金がなくなっちゃった。あいつにも振られちゃたし、どうすればいいのかわからない」

「わたしは先輩の踊りや演奏を、また観たいのです」

「……ごめん。先に帰るよ。いままでありがとう」

 先輩は立ち上がると、わたしに小さな背を向けて、姿を消しました。


 先輩は部活を辞めると、学校を休むようになってしまいました。

 悩みを聴いてあげられないわたしのせいです。

 ごめんなさい。


 先輩の踊りは優雅で、演奏は切ないものでした。先輩は、みんなの記憶から消えてしまっても、愛する彼のことを想い続けて舞い踊るのです。

 舞台の幕が下ろされても、わたしは、あなたのことを忘れません。(了)

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