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持ち込み禁止

作者:宵野遑
 夕刻。やるべき仕事を片付け、今日は久々に早く帰れると思った矢先、肩を叩かれた。振り向くと、上司が握りこぶしをくいっと持ち上げた。
「今夜、一杯どうだい?」
 こうなると、下役の僕は二つ返事で了承せざるを得ない。僕が勤める会社は封建的な風習が根強く残っていて、その圧力に屈しない者は容易く除け者扱いされてしまうのだ。「観たい映画があるのでまた今度」なんて口が裂けても言えない。
 それから僕は二時間も上司の仕事を手伝い、居酒屋では益体もない愚痴を延々と聞かされ続けた。上司に言わせれば、「上の者の飲みに付き合うのは常識」だそうだ。馬鹿げている。そんなのはただの理不尽だ。
 ようやく居酒屋を出たとき、苛立ちは我慢の限界寸前だった。僕はなんとかこらえて千鳥足の上司を見送り、まだ人通りの多い駅前の歓楽街をさまよった。このまま帰る気にはなれない。どこかで飲み直そう。
 あてもなく角を曲がり、裏通りを奥へ進む。
 と、一つの看板が目に留まった。
 ――常識持ち込み禁止――
 はて、一体どういうことだろう。飲食物持ち込み禁止というのはよく見るが、これは意味が分からない。しかし、直観的な魅力を感じる。好奇心が半分、上司から押しつけられた常識への反感が半分といったところか。この店にしよう。
 店構えは一見してごく普通の居酒屋だ。黒塗りの扉を引くと、ざわめきが溢れ出てきた。繁盛しているらしい。
「いらっしゃいませ」
 すぐに青年が駆け寄ってきた。エプロンには「居酒屋リバティ」とプリントされている。リバティ――たしか自由という意味だ。
「当店ではモラルやマナーを含む常識の持ち込みを禁止しています。ご了承ください」
「はあ」
 僕は曖昧に答え、それから青年に案内されたカウンター席で注文を済ませた。
 慣れないしきたりに一抹の不安を覚え、店内の様子を窺う。意外にもスーツ姿のサラリーマンが多い。きょろきょろしつつ、運ばれてきたビールに口を付けると、隣の席の女がおもむろに身を寄せてきた。四十路に見えるが、香水の匂いが不釣り合いなほど若々しい。
「あなた、この店初めてのようね」
「はい。思ったより、まともな感じですね」
「そうね」女は流し目で他の客たちを見た。「普段しっかりしてる人ほど常識やマナーの束縛を感じてるのよ。常識持ち込み禁止のルールがあって初めて自由になれるってわけ」
「なるほど」
「で、あなた年収はいくら?」
「え?」僕はぽかんとして女を見つめた。この女は初対面でなんてことを訊くんだ……。
「教えちまえよ」女の隣席からスーツ姿の中年男が口を挟んだ。「減るもんじゃない」
「あら、この店のルールをもう忘れたの?」女が続けて挑発的な声色で言う。
 そうだ、ここでは常識に縛られてはいけないのだった……。
 僕は素直に年収を打ち明けた。
「え! あなたそんなに貰ってるの?」女が僕にしなだれかかり、上気した頬を寄せてくる。「まだ若いのにねえ。ふふ。どうかしら、こんな店は出てどこか休める所にでも――」
「ちょっと待て!」中年男が女の言葉を遮った。「おい店員、ウイスキーのロックをくれ。一番の上物だ。会計はこの兄ちゃんで頼む」
「は? どうして僕が払うんですか?」
「だって兄ちゃん高給取りなんだろ。いいじゃねえか一杯くらい」
「あなたには――」
 常識が無いんですかと言いかけて飲みこんだ。中年男が僕を見て下卑た笑いを浮かべる。
 なんて客だ。いや、なんて店だ。ここで飲もうと思ったのが間違いだった。もう出よう。
 僕は手近にいた店員に会計を頼んだ。
 手渡された伝票を見て、目を剥く。
「なんだこの席料は。他の店でたらふく飲めるほどの金額じゃないか」
「そうですね」店員はにこりと笑った。
「そうですねだって? ぼったくりだろ! 非常識だ!」
「初めに確認したじゃないですか。常識やマナーは持ち込み禁止だって」
「なるほど。この店では常識が通用しないと言いたいんだな。よく分かった」
 そっちがその気なら。僕はくるりと身を翻して出口へ向かう。背後で店員が声を荒げた。
「ちょっとお客さん、お金払ってよ!」
「それは常識だろう」


 ――了

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