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夏目さんと私 作者:空野みち
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1話:金木犀と白百合

幾度となく流れゆく涙はまるで命の欠片のように、熱く頬を伝った。 
ああ…行ってしまうのだ。私を残して行ってしまうのだ。
離れてゆく背中が雪の彼方に消えてゆく。悲しいくらい背景と溶け合って。
その背中はいつもに増して悲しかった。触れれば切れんばかりに。

出来得ることなら直ぐにでも走ってその背中に触れたい。たとえその鋭さにこの身を傷つけようとも。


※※※

あふれるような金木犀の香が鼻孔を擽る。
この季節はいつもの景色を違う物のようにしてしまう。
いつも通っている帰り道なのに、このまま違う世界に迷い込んでしまいそうだ。

「おや、葵ちゃん?」

後方からの呼びかけに、ふと足を止めた。
振り返ると、蜂蜜色の髪に青灰色の瞳をした綺麗な顔。
全体的に日本人には見えないくせに何故か甚平なぞ着たひょろ長い男が手に紙袋を抱えて歩いて来た。

「あ…夏目さんではないですか。珍しいですね、外で会うなんて」

その男、夏目さんは私の近所の古本屋さんの店主である。
本当にサビレタ…いや趣のある古本屋さんで、私が生まれる前からそこに存在していたらしい。
夏目さんは昔から夏目さんで、私が初めて彼と会ったのは10年も前のことだというのに全く変わらないという謎多き人だ。


「今帰り?」

「はい、今帰りです。夏目さんはまた本ですか」

並んで歩きながら、ちょうど目線の先にある紙袋を指して言った。
夏目さんは無類の本好きで、自分で購入した本を一度だけ読んですぐ自分の店の売り物にしてしまう。
なんでも、一度読んだ内容は憶えておけるらしい。
夏目さんのお店の何百札とある本のほとんどが夏目さん自ら購入した本で、古本というより「夏目コレクションズ」だ。
たまに珍しい本は他人から買い取るようだが。

自分が読む本は新品が好いらしく、しかし読んでしまえばその内容は覚えてられるので売ってしまおうということらしい。
その本の値段は夏目さんの価値基準で決められるが、基本的に安価に売られている。
はたして、この男がどうやって生計を立てているのか謎だ。

「そう。秋はいつもに増して本が読みたくなってね」

「夏目さんは年中読書の秋じゃないですか。 それにしても、むせかえる様な香りですね」

この住宅街の垣根には金木犀が多く使われている。
微かに香るなら良いが、こうもきついとトイレの芳香剤の匂いに思えてならない。

「金木犀…謙遜する少女は彼の言葉が真実であると気づかない。しかし金木犀の香りに二人は陶酔した。そう…これが初恋であるのかと…!」

「なんですか?それ…」

夏目さんは変人だ。いきなり脈絡もなく可笑しなことを言っても驚いてはいけない。
謎多き人、で言いくるめられる範疇を超している。まともに引いたら負けだ。

「謙遜、真実、陶酔、初恋。金木犀の花ことばだよ。俯く三つ編みの少女の頬は赤く、学生服の少年は彼女の愛らしさに立ち尽くす。ほうら、見えてこない?金木犀の木の陰に寄り添う二人が」

夏目さんがうっとりとした表情で熱弁してくる。
とんだ妄想家だ。金木犀の香りだけでこんな妄想が膨らむ人がいるなんて…。
確かに言われると、小梅ちゃんのような女の子と黒学ランの男の子の、いつの時代だ!!て2人が瞼の裏をちらちらするけど。

「花ことばなんて、乙女ですね夏目さん」

「おや、葵ちゃんは興味ないのかい?」

「ええ。あまり必要性を感じないので」

今時どこに、花言葉の話題で盛り上がる女子高生がいるだろうか。乙女過ぎだ。
夏目さんはおや?と片眉を器用に上げる。
そんな表情でも様になるほど格好いい。変人なのを考えなければ…。

「それは是非に学ぶべきだねえ」

「なぜです?」

「男は時として花に思いを委ねるからさ」

「まず、花など送られません」

花に思いを馳せるとかいつの時代のお貴族様だよ。花を贈る時点で十分に気障だが。
私には全くもって関係性のないことだ。

「おや、葵ちゃんほどの愛らしい女性に花の一つも贈れないとは、最近の男児は恥ずかしがり屋さんらしい」

もう、どこから突っ込めばいいのか分からない。いっそスルーしよう。

「そういう夏目さんは女性に花を贈った経験はあるのですか?」

この男なら一度くらいは確実にありそうだが。一応聞いてみる。

「毎年ね。カサブランカを」

ゆるりと愛おしげに青灰色の不思議な眼を細めて微笑んだ夏目さんを見て、少しだけ聞いたことを後悔した。
昔から知っているご近所さんの夏目さん。
綺麗で不思議な彼に花を贈るような特別な女性がいたことを少しも知らなかった。
とうに忘れた初恋の痛みが金木犀の香りと共に、少しだけ胸を燻った。


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