第14話 待ち合わせ
「戸塚さん。 今から点滴に伺いますので、トイレを済ましてお待ちくださいね」
ミサは、ナースコールでそう伝えると抗ガン剤の準備に取り掛かった。最近では医療従事者の抗ガン剤による暴露が問題視されており、抗ガン剤は、薬局で無菌調整して病棟にあげられる。そして、医師と看護師双方で容量を確認し、医師がルートをつける。ナースは横で、吐き気止めの点滴や、抗がん剤投与前に行うステロイド剤の点滴を用意する。これが一連の流れである。 そして、ルートを接続する医師は、シートを敷いた作業台の上で、ガウン、マスク、ゴーグル着用で行うのが原則。抗がん剤が体に付着しないように、細心の注意を払って行われる、その光景は、まるでインチキな研究室のようで、不恰好なゴーグルとマスク、使い捨ての紙のガウンに身を包んだ医師は、怪しい研究者といった感じだ。
戸塚良美の担当である仲原とミサは、作業台の前にいた。ボトルに書いてある薬品名と注射箋を読み合わせていく。仲原は、淡々と作業をこなしていった。
「ルート!」
横でステロイドの点滴を詰めているミサに仲原が言った。
「え?」
「違う。ルート!」
仲原はいつも、言葉が短い。それに加えて怒ったような口調。ミサは慌てながらも頭をフル回転にさせ、仲原の言っている意味を考える。
「あっ……! すみません」
ミサはルートの種類を間違えて準備してしまったのだ。おどおどしながら、新しいルートを取り出し「これで、いいですか?」と仲原に見せた。仲原は、何も言わずミサの持っているルートを奪い、ボトルに接続した。
それにしても、仲原の仕事は無駄がなく、ミサは驚いていた。ただ、一方で無愛想な仲原の態度。それを苦手だと感じていた。
「部屋!」
「え?」
「部屋!」
「あ、411号室です」
(もう! 長年連れ添った夫婦じゃないんだから……)
ミサは411号室に足早に向かう仲原の後ろを追っかけた。
411号室に入ると、不安そうにこちらを見る良美の姿があった。自分より若い医師や看護師が今から大事な点滴をするのだ、無理もない。医師や看護師は2人ともマスクと手袋を着用し、無機質な印象を受けた。
「戸塚さん、今から点滴を入れます。右利きですか?」
ミサはいつものように聞いた。
「はい、そうですが」
「じゃぁ、左に点滴を入れますので、こちらを頭にして」
ミサがそう言ったところで、仲原は「いい! 右で」と言った。
「でも…」
右利きなのに、右腕に点滴を入れられれば、生活しにくい。なのに、何であえて右に入れるんだろう?とミサは首をかしげた。
反対に良美は仲原の言葉に安堵の表情を見せた。この人は、自分の病状をわかってくれている。病人にとって、安心させてくれる医師の存在は、この上もなく心強い。
あっという間に点滴を入れた仲原は、良美に一礼をして出て行った。
「あの、気分が悪くなったら、いつでも呼んでくださいね」
ミサがそう言うと、良美は軽く頷いた。
「はい。あの……さっきの先生、名前なんていうの?」
「仲原先生です」
「若いわりに、できるわね」
良美はミサにそう言うと、静かに目を閉じた。
ミサがナースステーションに戻ると、仲原が待ち受けていた。
ミサと正面に向かい、鋭い目で見つめながら「なんで左?」とぶっきらぼうに問いかけた。
相変わらず、仲原の言葉は短い。
「な、なんでって……」
困っているミサの前に、仲原は良美のカルテをバサッと置いた。
「……」
開かれたページの既往歴欄には「左乳ガン 乳房切除術」と書いてあった。
「あ」
ミサはやっと気がついた様子で、しまった、と言う表情を浮かべた。
普通、乳がん手術後のリンパ浮腫を予防するため、点滴は手術を受けていない健側に入れるのが常識である。
「カルテくらい、読め!」
「はい……」
研修医に叱られたのは初めてだ。ミサはすっかり、うなだれてしまった。
夕方が近づき、ミサは段々と憂鬱になっていった。
今日は、仲原の歓迎会があるのだ。仲原が苦手だという事に加えて、ここの所、相次ぐ入院や急変で疲れきっていたミサは、あまり気が進まない。いろいろ欠席の口実を考えたが、小心者のミサが嘘を言える訳が無い。
魔法使いがいて、今一番かなえて欲しい事は?と聞かれたら、ミサは真っ先にこう言うだろう。
「あったかい布団の中で、ゆっくり眠りたい」
昨日は準夜勤で、夜中の2時に家に着いたというのに、また、今朝は日勤。4時間も眠れたらいい方だ。労働基準法にはひっかからないのか、ミサは不思議に思った。
「お疲れ様でしたー!」
「お先に」
時間はあっという間に過ぎ、ミサは暗い面持ちで帰り道をとぼとぼ歩いていた。今まで真っ暗だった帰り道が、ほんのり明るく、日が長くなったのを感じさせた。
「ま、いっか。加藤さんも来るんだから」
ミサは、独り言を言うと路地を曲がった。
どどどどどど
不意に、後ろから誰かが走って来る気配がした。こんな狭い道で、やだ、怖い。ミサは後ろも振り向かず早足で歩いた。家はもうすぐ。通りに出れば、車も通ってるだろうし。
「おい、待て」
「ひゃっ」
仲原の声だった。
(また、貫一に驚かされた)
白いTシャツの上に羽織った、チェックのシャツ。ジーンズにスニーカー。大学生の様ないでたちだった。上を向いた眉毛、はっきりとした二重の目、鼻筋の通った端整な顔立ち。ミサは不覚にも、格好いい、と思ってしまった。
「富久屋ってどこ?」
仲原は単刀直入に聞いてきた。この人の言葉は、主語と述語しかないらしい。ミサは、まださっきの驚きから冷めていない様子で、息を切らしながら答えた。
「あの、病院の裏門から出て、えと、えーっと」
段々、仲原の眉間に縦皺がよりだし、ミサは焦った。
「わ、私も歓迎会に行くので、案内します」
「何時?」
(しまった…。余計な事言っちゃった)
結局6時半に、ミサのアパートの前の電信柱で、待ち合わせることにした。
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