1.僕について
僕は毎日 朝早く1時間程かけて 家の近所をウォーキングする
早朝の公園や?道は 犬の散歩やジョギングをする人たちで案外にぎやかだ
僕は毎日 この朝の1時間を楽しみにしている
よほどの雨やひどい天候でない限り 僕は毎日1時間ゆっくり一人で歩く
健康のため というには ゆっくりすぎる歩き方
ゆっくり時間をかけて ゆったりと一人の時間を楽しむ
この時間だけが 僕がゆっくりと「彼」の声を聴ける時間だった
「彼」の声は 耳に優しく心地よく響く やや低音の美しい声だ
はりがあって凛として 凛々しく爽やかで それでいて時折混じる吐息は
たまらなく官能的な色気を感じさせる
「彼」の声を聞くチャンスは街中にも家の中にもいくらでもある
それはテレビでありラジオであり 映画であり CDでもある
彼の声に夢中になっている人は僕だけではないだろう
人々は「彼」の声に魅了され そして「彼」の姿に間違いなく憧れるだろう
「彼」は素晴らしい
「彼」は若く 美しく 精悍だ
僕も 彼に憧れてやまない人々の一人だ
僕が毎朝1時間かけて楽しむのは 耳につけた小さなiPod
そのイヤホンからは僕の両耳に「彼」の甘い歌声が囁きかけ 時に情熱的に響く
僕は 公園の緑を楽しみながら 春には桜を眺めながら 冬には枯れた枝を見上げて
毎朝「彼」の声をゆっくりと聴く
「彼」の声は僕に一日の勇気と活力と元気を与えてくれる
そして僕は知らず笑顔で一日を過ごせる
通勤の電車の中でも 休日に乗り回す車の中でも 寮の部屋でさえ
僕はいくらでも「彼」の声を聴く事ができただろう
しかし 僕は僕以外の人に僕が「彼」の声を聞いていることを知られたくなかった
僕は自分の部屋でテレビを見ているときに 不意に「彼」のドラマが始まったり
「彼」の出演するCMが画面から流れてきたりすると
正直 心の中でとても動転していた
しかし 平静を装い 同室の友人にそれを知られないように振る舞った
僕は「彼」に恋する女学生のようだった
さすがに携帯の待受画面や定期入れの中に「彼」の写真を忍ばせる事はなかったが
僕は毎朝 一人で「彼」の声を聴いていた
2.偶然と奇跡の違い
僕は都内の某国立音楽大学に通う学生だった
専攻はバイオリン 他弦楽器一般
弦楽器の学生はたいがいその伴奏譜を読むためにピアノも学ぶ
僕も子供の頃から ピアノとバイオリンを習わされていた
同級生達が外でサッカーボールを追いかけている時に
僕はそれを羨ましく思いながらも バイオリンを背中にしょって自転車に乗っていた
僕の両親はクラッシック音楽が好きで 家の中にはいつも
クラッシックが流れていた
テレビで歌謡曲番組を見ることもなく 僕も別段それを不満に思う事もなかった
僕は中学でパリの音楽学校へ入学し そして高校時代をイギリスで過ごし
大学受験を機に日本に戻った
「彼」に出会ったのは 大学の卒業も就職も決まった4年の暇な夏休みだった
僕は友人に誘われて とあるテレビドラマのエキストラのバイトをした
それが「彼」との出会いだった
彼は少女漫画が原作である クラッシック音楽を題材にしたドラマの主演俳優だった
僕は彼とその仲間たちの作るオーケストラの一員としてエキストラに採用された
バイオリンが弾ける事 それが条件だった
僕は日本に戻ってからもあまりテレビというモノを見なかった
映画も洋画ばかり見ていたので 正直「彼」という俳優をよく知らなかった
時折 雑誌などでその顔を見かけてはいたものの さして興味もなく
とても整った端正な顔立ちの男性だなぁ というありきたりな感想しか持ち合わせていなかった
それは 彼の「声」を 聞いた事がなかったから・・・・
そして 僕は彼に出会った いや 性格に言えば「彼が話すのを初めて見た」
そして 僕は彼の声の虜になった
偶然と奇跡の違いはよくわからない
僕をこのバイトに誘ってくれたのは イギリスの高校時代に知り合った日本人の友人だった
彼は小林虎人といい「彼」の付き人として役者の卵になったと言っていた
僕はイギリスで虎人の家庭教師をしていた 虎人と出会ったのは「偶然」二人が
日本人だったから そして 住まいと学校がお互いに近く よく顔をあわせていたからだった
虎人が僕にこのバイトを紹介してくれたのも単なる偶然だったろう
でも 僕は彼の声に出会えた事は奇跡だったと思っている
それは 彼の声が そして彼自身が奇跡そのもののように素晴らしかったから
3.学ぶ者 伝える者
「音楽と芝居はある意味とても似ていると思うんです」
そう言って話す彼の物腰は柔らかく 言葉は丁寧で礼儀正しかった
それは相手にかかわらず 僕らのような年下の脇役たちにも変わらなかった
僕は 彼がまとっている雰囲気がとても好きになった
それは近くにいる者を寛がせ 安心させ そして笑顔にした
彼の周りには常に人が集い そして笑顔が耐えなかった
彼は誰にでも分け隔てなく優しく そして穏やかだった
仕事にとりかかっている時 即ち 演技という仕事に没頭している時の彼は一変した
それはまるで別人のように 近寄りがたく 崇高な雰囲気さえ感じさせる
集中した 一点に強く力を集中させている他を圧倒する存在感だった
そんな彼のパワーは共演者たちをも引き込んだ
そして 素晴らしいドラマができあがっていった
彼は自分に対してはとても厳しい人だった
しかし 周りの人間のささいやミスや失敗には 決して声を荒らげる事もなく
終始穏やかな笑顔でそれを見守っていた
僕は時折訪れる 彼を間近に その指揮台の上の彼を見つめながら
バイオリンを演奏する というチャンスに
自分は 一生分の幸運を使い果たしているのではないかと不安になり
それ程に心が躍り 胸が苦しくなる程に緊張し それでいて楽しくて仕方がなかった
指揮台の上の彼はたまらなく美しかった
僕はバイオリンを弾いていてよかったと心から思ったりもした
その日 僕は俳優の絡まない オーケストラだけの撮影を終えて
そのままバイオリンのメンバー2〜3人とバイオリンを奏でて遊んでいた
パッヘルベルのカノンを3重奏しようという事になり
僕はメインパートを担当させてもらい スタジオで演奏していた
お互い好き勝手なバリエーションやアレンジを楽しみながら
さしずめ「のだめバージョン」だろうと笑いながら演奏していた
その曲が終わったとき 僕はすぐ背後から聞こえてきた声に背筋が伸びた
「すばらしいねぇっ!すごいなぁ・・・どうやったらそんな音が出るんですか」
白く長いきれいな指の 大きな手で静かに拍手をしながら感激したようにそう言ったのは
彼 結城聡史その人だった
「結城さんっ!いらしてたんですか? これから撮影ですか?」
仲間の一人が声をかけた
「いや 今日はバイオリンのレッスンに来たんだけど・・・先生見かけなかった?」
「ああ・・・そういえばまだ見えてないみたいですねぇ・・・」
ばらばらと集まってきたスタッフたちも顔を見合わせていた
一人のスタッフが連絡をとると 彼にレッスンをする予定だったバイオリニストが
急に体調を崩し 今日は来られなくなったということだった
彼のマネージャーも なかなか時間が作れない中のキャンセルは頭が痛いとぼやいた
すると スタッフの一人が僕に声をかけてきた
「鳴美ちゃんさぁ 今日まだ時間ある?」
「えっ?僕ですか・・はい 大丈夫ですけど・・」
「じゃぁさぁ 今日だけ 結城君のバイオリン こう 構えの型とかがメインなんだけど
ちょっとレッスンしてあげてもらえないかなぁ・・」
「えっっ?ぼ・・ぼ僕がですか??が・・学生ですよ・・僕 いいんですか?」
「なぁにいってんの天下の芸大の学生さんがっ!」
「いやっ・・そういう問題ぢゃぁ・・・」段々小さくなっていく僕の声などてんで無視して
スタッフは結城聡史に僕の背中を押しながら 突き出すようにして僕を紹介した
「この子 バイオリンのエキストラに入ってくれてる子で えぇっと名前が・・・」
「生田です」僕が口をはさむ
「そう 生田鳴美ちゃんね 芸大の4年生 実力派バイオリニストね あピアノも上手だよね」
「いえ・・・そんな」
もごもごと結城聡史を前に口ごもる僕に 彼は笑顔でこういった
「結城聡史です よろしくお願いします」
「あ・・いえ こ・・こちらこそ よろしくお願いします」
こうして その日 僕はあてがわれたスタジオ内の個室で結城聡史のバイオリンレッスンを
急遽する事になった 同行していたマネージャーがピアノのある部屋を用意してくれた
「じゃぁ・・最初に 結城さんバイオリン構えてみて下さい・・・」
今日で3度目ほどのレッスンだという彼は 見事なフォームでバイオリンと弓を構えて見せた
「すごいですね ホントに弾けそうな構えですよ とても綺麗です」
「いや・・ビデオとか先生のを見て モノマネですから・・・」
謙遜する彼は お世辞抜きで素人にはホンモノのバイオリニストに見える程
美しくそこに立っていた
この人は ものすごくカンがよいのかセンスがあるのか それとも俳優というのは皆
こうやってそのスタイルを真似る事にはたけているモノなのか・・・と感心しかけた時
僕は 彼の左顎の下辺りと 肩口の大きくあいたカットソーから覗く 白い首筋と肩口のあたりに
薄い紫色の線のようなアザがあるのを見つけた
それは 恐らく バイオリンを構える際に 顎と肩で支える練習を繰り返してできたものだろう
人生のほとんどをバイオリンと共に過ごしてきた僕のような人間には そのアザの意味する
膨大な練習量とその長大な時間が手に取るように理解できる
この人は 忙しい仕事の合間に どれだけの時間 バイオリンをその美しい顎と肩に挟み
美しい立ち姿を研究したのだろうか・・・・・
僕はある意味での感動を覚えていた
これほどに ストイックに何かを追求する 努力する 自分にハードルを課して挑む
そんな彼の姿勢をかいま見た気がして 強く心を打たれた
僕は彼に近寄りそのバイオリンを取り上げた
「ちょっと・・・結城さんの肩当ての高さが 身体に合ってないかもしれませんね・・・
少し調整しましょう・・・・」
僕は彼の肩と顎に正しい位置で バイオリンの重量最小限にホールドされるように
肩当ての高さを調整して 彼の肩にもどした
「どうですか?」
「あ・・すごいなぁ・・なんだか ぐっと楽になりましたよ♪」
うれしそうに微笑む彼の笑顔が眩しかった
「そうですか よかった 後 プロが見てもうなるようなコツをお教えしますよ(笑)」
僕は 彼の左肩から肘にかけての筋肉の動きを説明した
バイオリニストが無意識にやっている身体の動き それを彼に伝授した
「こう・・・肩から肘まではちょっと内側にねじり込むような筋肉のしぼりかたで・・・
反対に 手首はそらさないで・・・そう 指が弦を上から押さえられるように・・・そうです」
彼は 僕の指導に素直に従い あっという間に 玄人が見ても本当にバイオリンを弾ける人のように
見える程の立ち姿を習得した
「綺麗です 完璧です」僕も笑顔になる
そこには まさに 天才と言われながらもストイックな努力を惜しまない
主人公 千秋真一その人がいた
「ホントに何か弾けたら楽しいでしょうね」
彼はそんなことを言った
「ちょっと弾いてみますか?調弦しますからバイオリン貸して下さい」
僕は彼からバイオリンを受け取ると弦を調整して音程を整えた
彼はピアノのラの鍵盤を叩いてちょっと誇らしげに言った
「この音が基準になるんですよねっ!」
子供が新しく仕入れた知識を自慢気に話すようで 彼は無邪気な少年のように見えた
つい今し方まで彼の肩と顎に挟まれていたバイオリンはほのかに暖かく
僕は調弦をしながらそのぬくもりを感じ 小さく肌が粟立つのを感じた
バイオリンは身体の一部 僕はずっとそう思って育ってきたから・・・・・
彼のぬくもりを貯えたバイオリンは彼そのもののように 僕の心を揺さぶった
平常を装いながら 僕は弦をはじく自分の手が小さく震えるのを見つめていた
僕は彼に マーホフの像 という曲を教えた
「これは 開放弦で 左指は使わないで弾けます(笑) 僕が伴奏部を弾きますから
結城さんは ソ・レ・ラ・ミ を2度ずつ繰り返して下さい
じゃぁ ダウンボーから弓を大きく使ってください はいっ」
僕と結城聡史は2挺のバイオリンで演奏した 美しい音色が響いた
弾き終わって彼は頬を紅潮させながら言った
「楽しいですねぇっ!!」
僕までうれしくなった この日 彼は完璧な立ち姿とキラキラ星変奏曲をマスターして帰っていった
4.再会
その後 僕は彼と直接口をきくチャンスもなく ドラマの撮影は無事に終了した
彼がバイオリンを弾くシーンはドラマの中では本当に少しのものであったが
その出来映えは本当に素晴らしかった
彼は本物のバイオリニストに劣らぬ立ち姿と演奏姿を披露していた
僕はできあがったフィルムを見てとても感激した
彼は音楽の神様に愛されたミューズに見えた
ピアノを弾くシーンも素晴らしかったが 僕は彼には弦楽器の方が似合うと思った
ピアノの美しい音色が ひとつひとつの音の「粒」が重なり合って出来上がってゆくのに対して
バイオリンのそれは 一本ずつの音の糸が徐々に折り合わされて混じり合って
そして一枚の美しい布を象ってゆくような広がりのある音色だと思う
弦楽器は独特の音色をかもし出す
その特徴として その体内に空気を抱え込んだ空洞のボディにはられた
太さの違う4本の弦を 弓でこすりながら震わせる事によって
振動する弦があの素晴らしい音色となる
そしてボディ内部の空洞から底辺までその振動と音は伝わり
楽器全体から音が解き放たれる
弦は直接触れられたモノ以外の弦も 共鳴といって 空気の振動によって
静かに自発的な微少な振動を始め それがあのバイオリン独特の深みのある
楽譜にない目に見えない音までも奏でる最大の魅力となっている
バイオリンの音数はじつは以外に少ない
ピアノでいう 低い方のソの音より低い音は出せない
しかしその代わりに シャープだろうがフラットだろうが その微妙な中間色の音色を
ほぼ無限大に奏であげる事が可能なのだ
ピアノの音の粒たちが 鍵盤を叩いた側から演奏家を離れて会場全体へと散ってゆくのに対して
バイオリンは奏でられた音色たちが楽器全体からのぼり立ち 一旦演奏家の周りに
ゆったりとまとわりついてゆく そして その美しい音の束は 重なり合って
広がるように客席へと波がうねるように伝わってゆく
まさに バイオリンは演奏者の心の震えを音に変える奇跡の楽器なのだ
彼はその音楽にたずさわる者の ゴールのない正解を求め続ける生き様を
見事に演じていた ドラマは高視聴率を納め 彼の人気を不動のモノとした
僕が演奏したバイオリンの音色が彼の映像に重なって流れた時
僕はたまらなく興奮した たとえ それがニセモノのテレビという虚像と知っていても・・・
バイオリンの音色をまとった彼は 羽衣をまとって竪琴を奏でる天女のように美しかった
僕と彼の人生は もう二度と交わる事はないと この時は思っていた
しかし それは意外なカタチでやってきた
僕は一人のスタッフから電話で呼び出され 某テレビ局へやってきていた
そこに結城聡史 その人も同席していた
ドラマの撮影から1年半程が過ぎようとしていた
僕はその頃 大学を卒業し とある音楽関係の会社に就職していた
時々スタジオ録音の助っ人でバイオリンを弾く そんな生活をしていた
そんな僕にある日一本の電話が入った
それは あるテレビ局制作のドラマへの出演依頼であった
「あの・・・僕は芝居とか・・全くできませんし・・何かの間違いでは?」
そういう僕に電話の向こうから明るい声がした
「鳴美ちゃんでしょぉ〜っ?覚えてないかなぁ〜前のドラマで仕事してた佐藤だけど」
それはあの日 僕に結城聡史のバイオリンレッスンという時間をくれたドラマのスタッフだった
「ああっ!!佐藤さんっ!!お久しぶりですっ!!でもなんで僕なんですか?」
「まぁ いいから一度来てよ じゃ 頼むねぇ〜っ」
「あっ・・ちょっ・・ちょっと・・」
電話は一方的に切られていた
僕は仕方なく 指定された日にテレビ局を訪れた
「鳴美ちゃん!こっちこっち!!」
キョロキョロとテレビ局の入り口で辺りを見回していた僕に佐藤は手をふりながら近寄ってきた
「こんにちは・・・」
「よく来てくれたね じゃ 早速 監督とか見えてるから こっちね」
「えっ?監督って?まだ僕何も聞いてないんですけど・・??」
「ああ 大丈夫だいじょうぶ!監督も鳴美ちゃんの事よく知ってるみたいだし」
「ええぇ〜っ?僕 テレビとかの関係者に知り合いとかいませんけど・・・」
「うぅーん 成美ちゃんの事 Vで見て気に入ったからっていってたけど 前のドラマのさぁ・・」
「はぁ・・・」
そんな会話をしながら案内されたのは 大きな楕円形のテーブルを囲む会議室だった
そしてそこで僕は意外な それでいてとてもよく見知った顔を見つけて大いに驚いた
ニコニコと 僕を迎えてくれたその人は 結城聡史 彼だった
5.奏でるもの 奏でられるもの
あれよあれよという間に話が進み 僕は自分だけ取り残されていくのを感じながらも
どうにもできないままに 結城聡史主演のテレビへの出演が決まってしまった
「あの・・・どうして・・・僕なんでしょうか・・・?」
「ああ・・前のドラマの時ね 君いい顔してたし 背格好が結城君とよく似てるからね」
「背格好・・ですか・・」
「そう 今回は君に結城君の演奏シーンの替えやってもらうし」
「替え・・?」
「ああ・そう替え玉っていうか 後ろ姿とか演奏の顎下シーンとかさ」
「はぁ・・・」
ドラマは 結城聡史演ずる美貌のバイオリニストがその技術よりも容姿だけで
世間に騒がれ 実力を評価されない事に思い悩みながらも成長してゆくというドラマ
その主役の彼を支え続けるピアニストは不治の病に冒されながらも彼との演奏を選び
病魔に命を脅かされながらもピアノを弾き続ける
そんなピアニストを僕 生田鳴美がやるという
(・・・・ありえないから・・・・・)
バイオリニストのゴーストなら喜んでやる しかもあの結城聡史の替え玉なら光栄な事この上ない
しかし ピアニストを「演じる」なんて事 僕にできるワケがない
ただただ 固まり意義を申し立てる事もできずに 僕はそこに座っていた
「だいじょうぶですよ!生田さん!」
「うんっ!大丈夫だよ 鳴美クン」
虎人と彼は呑気な笑顔で僕の背中を叩く
「・・・・大丈夫なワケないじゃないですかっ!・・・・・」
「そんなに固くならないでっ!僕だって最初は戸惑いましたけど やってみると面白いですよ♪」
「・・・虎人・・・お前に言われると妙にムカツク・・・・」
「ひどいなぁ・・・生田さん・・・」恨めし気に僕を睨む虎人を僕も睨み返す
「まぁまぁ二人ともケンカしないでさ(笑)」一人笑顔なのが結城聡史
「そう言われても・・・・」
僕の不安も疑問も何ひとつ聞き入れられる事なく 撮影は開始された
「大丈夫 鳴美クンはピアノに集中してくれてたら それらしく撮るから」
監督はそう言ったが 僕には普通通りにピアノを弾く事すらこの状況では無理だった
「・・・す・・すみません・・・」
余りにも無表情になってしまう僕の撮影はなかなか進まなかった
ちょっとだけ困ったように監督が僕の耳元に囁いた
「鳴美クン 前のドラマの時 オケ撮ってた時 何考えてバイオリン弾いてた?
あの時の顔が欲しいんだけど・・・思い出せるかなぁ・・・そろそろ結城君も入るから
合わせたいんだけど・・・イメージだけでも掴んでくれると助かるなぁ・・・」
(・・・・前の・・・オケの・・時???)
僕は監督が僕のどんな表情を見ていたのか記憶を探ってゆくうちに
顔が熱くかぁ〜っと火照ってきた
(ま・・・まさか・・結城さんの指揮の時の僕か・・・・)
「おはようございまーす」
その時 彼の美声が聞こえた 僕は赤くなった顔をみられたくなくて少し俯いた
「じゃぁ リハ行きましょうか」
スタッフが一斉にテキパキと動き出し 僕もピアノの前に座らされた
「鳴美クン よろしくっ」 結城聡史のウィンクが降ってきた
僕は思わず視線をそらして そのウィンクをよけた
そんなモノの直撃を受けたら 僕はとてもじゃないけどピアノなんか弾けなくなる
いや それどころか この先 まともに生きていける自信もない
病気を隠して 友人である天才バイオリニストを支え続けるピアニスト
彼の気持ちは一体 どんなものだったのだろうか・・・・
僕には演技とか芝居とか そんなものは判らない
でも もしも本当に若き天才バイオリニストが僕の近くで悩んでいたら
僕は彼にどんな気持ちを抱いて どんな言葉をかけ どうやって支えるのだろうか
音楽の世界での事しか 僕には考えられなかった
どうしたものかと・・・ふとピアノの鍵盤から目を上げた先に 結城聡史の白い顔があった
小さくて綺麗な卵形で 黒い柔らかそうな前髪がふわりと額にかかる
白い顔の大半を占めているのは 目尻ほど長くなる睫に縁取られた
大きな黒い瞳 その優しい瞳と視線があった
彼のふっくらと厚めの唇は その両端をほのかにつり上げて
イタズラっぽい少年のような微笑みを浮かべていた
(楽しくやろうよ) そう言っているようだった
不思議な事に 僕はその微笑みを見た時 鳴らないハズの彼のバイオリンが
優しい旋律を奏でたような気がした
そして その旋律に誘われるように 僕はピアノを弾いた
それは 自分でも驚くような経験だった
僕は生まれて初めて 我を忘れてピアノを弾いた
聞こえないバイオリンのメロディーを追ってゆく僕のピアノが奏でた曲は
エルガーの「愛の挨拶」だった
6.人間という楽器
「生田君の名前 鳴美って男の名前にしては珍しいよねぇ」
彼は休憩時間になっても その緊張からピアノから離れられずにいた僕にそう話しかけてくれた
「ああ・・両親が音楽好きで 美しく鳴る楽器のような人に育つようにって
それに直前まで女の子だって医者から言われてたみたいで もう他の名前を
考えるのも面倒で 鳴美にしたって言ってました(笑)」
「へぇ〜っ そうなんだ いい話だね」
彼はグランドピアノに軽くもたれるように立ち 椅子に腰掛けた僕を見下ろしていた
「ねぇ 鳴美クン 何かピアノ弾いてみてよ」彼に言われて 僕はベートーベンの「悲愴」をひいた
彼は笑いながら喜んで「のだめバージョンだねぇ」と言った
次に僕がベト7を弾いてみせると 腹を抱えて笑い「すごいやぁ」と言った
しばらく笑った後で ふと真顔に戻って彼は言った
「何か・・・鳴美クンの好きな曲・・・聞かせてよ」
そう言った彼の瞳はほんのりと細められ 長い睫の陰が一層濃く
少し揺れる視線が僕に注がれ 僕はその視線に射貫かれていると感じた
僕の中を突き抜けてゆく 彼の視線と彼の声 僕は自分の思考回路に薄く霧がかかるのを感じた
その霧の中に たまらなく美しい人がたたずんでいる
目を閉じて 両手を高く差し伸べて 聞こえてくる音楽に身を任せている美しい人
その人は長い睫の大きな瞳をとじて バラ色の唇にほんのりと微笑みを浮かべて
「ここは・・・何処? あの・・・音楽は・・・」 そう心で呟いている
僕はたまらず ピアノに指を躍らせた
「あ・・・その曲 知ってるよ・・聞いたことがある・・綺麗な曲だよね 好きだよ・・何だっけ?」
彼は僕に尋ねた
僕は鍵盤から視線をあげず いや 彼の顔を見る事ができず顔を伏せたまま答えた
「サ・・サティの・・ジュ・デ・ブゥ」(・・・そう ジュ・デ・ブあなたが欲しい・・・・)
「サティか・・おしゃれな感じだよね」
彼に僕の心の声は届かない そうか・・・この思いが あのピアニストなのか?
僕は彼に鳴らされる自分の心の音を聞いた
それは あなたが欲しい と叫んでいた
7.セッション
作中 結城聡史演ずる天才バイオリニストはクラッシックの枠を嫌い 単身他ジャンルへの
進出を図る しかし ジャズにしても ポップスにしても 彼のバイオリンはその音色の艶を失う
第一線から徐々に滑り落ちてゆく天才を支え いつでもその後ろで伴奏をするピアニスト
彼は バイオリニストに自分の音が一番輝く曲を弾けと言い残してこの世を去る
ピアニストを偲んで涙ながらに奏でたバイオリニストの「ツィゴイネルワイゼン」が
その葬儀場につめかけた関係者の心を震わせる
涙を流し その紅色の唇をかみしめながら 乱れた前髪を直そうともせず
一心不乱にバイオリンを弾くバイオリニスト
まるで 自分を置いていった親を思う 捨てられた子供の泣き声のように
叶わなかった恋に嘆くささやきのように そして 愛する者を失った悲しみに満ちて
それは人々の心を強く打った
彼は自分の演奏が昇華された事を知る
それは技術でも技巧でもない 正直な人間の素直な心の音楽そのものであった
そうして バイオリニストは年老いて寿命を全うするまで
その人生をバイオリンに捧げ 若きバイオリニストの育成に尽力した という物語
老年期を演ずる俳優にその役を譲り 結城聡史もクランクアップを迎えた
彼のバイオリン演奏のシーンは素晴らしかった
撮影の現場で 鳴らないハズの彼の楽器からはしかしはっきりと
その悲しき叫びであるツィゴイネルワイゼンのメロディーが響いていた
僕には 確かに聞こえていた 彼の涙が頬に伝わったとき 僕は彼が美しいと思った
僕は 演奏家として そして彼という俳優の一ファンとして 感動に膝が震えた
作中の彼の演奏シーンの音録りは僕がバイオリンの演奏をした
作曲者のサラサーテは自身が天才バイオリニストと称された人物であり
この「ツィゴイネルワイゼン」はバイオリン曲の中でも最難曲と言われるものだ
僕は渾身の力をもって この演奏に望んだ
かつて これほどに心をこめて演奏したことがあっただろうかと
自分に問うてみたところで 所詮コンクールや試験のために必死に弾いたにすぎず
今 自分は一人の人間がその心の叫びをバイオリンに託す という
本当の意味での音楽と向き合うチャンスを得たのだろうとさえ思った
結城聡史との共演は 僕にとっても大きな転機となった
僕はバイオリンを見なおした あまりにも小さな頃から身近にありすぎたこの楽器
それが今 僕に言葉にならない言葉を伝えるものとして近しくあった
僕はバイオリンを奏でる事で 彼に愛を告白したのだと思う
彼の返事は求めていなかった
ただただ 僕は 彼という楽器が愛おしかった
彼が奏でる彼の「声」は至上の音楽だったから
僕は 彼と過ごしたこの短い撮影期間中 幾度となく彼の心の旋律と
そして 彼の声という音楽と 自分のバイオリンが 時にピアノが
たまらなく刺激的なセッションを繰り返したと思っている
それは僕にとって 大きな収穫だった
僕は自分でもはっきりと判る程に その音楽 そしてバイオリンの音色に
大きな成長を見せていた
僕のバイオリンは 今までより少しだけ色気のある音を奏でるようになった
8.一度だけ
撮影を無事に終えた打ち上げにと 虎人は僕を洒落たバーへ誘った
店では 一足先にやってきていた彼が居た
白に見える洒落たシャツは凝った地模様が施された淡いブルー
彼の細くてしなやかに長い脚を包むのは細身の濃いグレーのパンツ
さりげなく首元に光るシルバーのネックレスと長い指にはめられたややごついリング
男がこれだけのモノを身につけて 嫌味にならず しかもお洒落に見えるのは
彼のセンスの良さと やはりその恵まれた美貌とスタイルの良さならではなのだろう
背格好は似通っている僕だったが とても自分がもっさりとした平凡な男に思えてならなかった
「お疲れ様っ!」彼の笑顔は薄暗い店の中でもそこだけ明るく見える程眩しかった
「お疲れ様でした いろいろありがとうございました 不慣れな僕がご迷惑おかけして・・・」
頭を下げる僕に 彼は笑顔で答えた
「迷惑なんて全然っ!それより 本当にいい勉強をさせてもらいました
こちらこそ ありがとう」 そう言って差し出された彼の右手は大きくて
僕のおずおずと差し出した手を力強く握ってさらにその左手を包み込むように添えて
両手で僕の手をとり ニコニコと僕の顔を正面から見つめてくれた
僕たちは 店の隅にあるボックス席におさまり 静かに酒を飲んだ
「虎人さぁ・・・未成年だよなぁ・・・いいのかよ・・」
そういう僕に虎人は ウーロン茶です と口を尖らせて答えた
そして ウーロン茶でお腹が一杯になるのはごめんなので
僕は先に帰らせてもらいます と言い残すと
彼と僕を残し 一人さっさと店を出て行ってしまった
僕は正直彼と二人っきりで話す事もなく
というよりも その緊張のあまり ろくに口もきけず
ただただ 二人 静かに酒を飲んでいた
しばらくすると 店の中にあったグランドピアノでの生演奏が始まった
美しいロングドレスの女性が 華やかなジャズを演奏し始めた
クラシック畑で育ってきた僕の身体にはないリズムが心地よい
期待するタイミングを見事に外して 聴くモノを惹きつけるジャズの旋律とリズムに
僕は酒の力も手伝ってか 緊張がほぐれ くつろいでゆくのを感じていた
「鳴美クンは これからどうして行きたいの?」
彼の問いかけが 一瞬 何を意味するのか計りかね
僕は咄嗟に 僕の恋心を知っての質問かと勝手に狼狽えた
しかしそれが 僕の人生についての質問だと気づき
一旦喉まででかかった言葉を飲み込んで ゆっくりと言い直した
「今度の経験で・・・僕 やっぱり音楽で食っていけたら と思いました
だから 今の仕事で金貯めながら いつか自分のバイオリンでやっていきたいなって
今は まぁ・・・生まれて初めて 音楽で生きていこうって思ってます(笑)」
彼は大きく頷くと言った「是非 鳴美クンのバイオリンコンサートに行きたいよ」
熱意を込めて 誠意のある口調だった この人の性格なのだろう
人の目をまっすぐに見つめて 素直なまっすぐな言葉で気持ちを伝えてくれる
彼の優しさに触れると心がほんわかと暖かくなる
そして たいがいの人は 彼に憧れる もしくは恋をするんだ
彼は僕のそんな気持ちには全く気づく風情もなく
店のグランドピアノを指さして イタズラな笑顔で僕に言った
「ねぇ 鳴美クンのピアノも好きなんだけど 何か弾いてくれない?」
「えっ?ここで・・ですか? 僕 こういう店で似合うような洒落た曲弾けませんよ・・・」
「あれがいいよ 前に聴かせてくれた えっと・・サティ」
「サティ・・・ですか」
ロングドレスの女性は僕に笑顔でピアノの椅子を勧めてくれた
僕はひっそりと それでいて結構な人数の客が酒を楽しんでいるバーで
ピアノを弾いた サティの ジムノペティ を弾いた
弾き終わると 客から大きな拍手をもらった
彼も笑顔で拍手をしてくれた
しかし 彼は席から立って僕の傍らに立つと 小声で僕の耳元に囁いた
「その曲じゃなくて・・・ジュ・デ・ブゥ・・だっけ?あれがいい・・・」
僕はその声に耳から身体中の血液が熱くもの凄い勢いで心臓に集まるような
軽い目眩に似た震えを覚えた
僕は彼の顔が見られなかった
鍵盤を見つめたまま 僕は ピアノを弾いた
ジュ・デ・ブゥ 貴方が欲しい という題名のその曲を
9.ピアノが歌うもの
曲を弾き終えると 再び店の客達から暖かい拍手が送られた
僕はこんなに身近に客席を感じて演奏した事はなかった
客達の満足そうな表情と送られる拍手が心地よかった
ふと視線をあげると そこに彼の美しい顔があった
大きな黒い瞳をさらに大きく見開いてこぼれそうな笑顔の彼がいた
「そう その曲が・・・聴きたかったんだ」
嬉しそうに彼が言った
「・・・よかった・・・です」
僕はそう言うのが精一杯だった
彼の顔が眩しくて 喉がはりついたように声がくぐもり 胸が苦しかった
これ以上 彼の側にはいられない これ以上彼の顔を見られない
僕は椅子から立ち上がると 席にあった上着とバッグを掴んで店を出た
支払いも何もせずに店を飛び出してきた事に気がついたのは
店から随分と離れた所まで歩いてきてしまってからだった
それ程に 僕は気が動転し 慌てていた
ピアノを・・・ジュ・デ・ブゥを弾きながら 僕は彼を思い浮かべていた
あの 淡いクリーム色の霧の中に 草原だろうか 朝霧の中に
美しく両手を広げ 瞳を伏せて立つ 彼の姿を・・・・・・
それは 恋いこがれて病まない 憧れの人の姿だった
僕は彼に恋している 彼が・・・貴方が欲しいと 僕のピアノは歌っていた
それは切ない告白だった 僕は彼が欲しいとピアノで歌った
伝わるハズのない 告白だった
はぁっはぁっはぁっ・・・・ 荒い息づかいが僕の背後に迫ってきた
「えっ?」振り向いた僕の目の前に 息を切らして駈けてきたらしい彼がいた
「た・・・結城さんっ・・ぼ・・僕 すみません お支払いもしないで飛び出して・・・」
「いやっ・・そんな事はいいんだ よかった 追いついた」
彼はちょっと喘ぎながらそう言った
「・・・え・・・・」
彼の言葉の意味を計りかね 首をかしげた瞬間 僕の唇に柔らかい感触が触れた
彼のバラ色のふっくらとしたその唇が 僕の唇に優しく重なった
僕の膝は力を失い 身体を支えていられなくなり がくりと座り込みそうになった
僕は力強く 抱き留められ支えられるのを感じた
強く抱きしめられて 口づけは甘く深くなり 彼の舌が口に忍び込んできた
受けとめる僕の舌をやさしくついばむように吸う彼のキスは
僕の頭の芯をじんわりと麻痺させていった
彼は僕の肩を抱いたまま タクシーを拾うと小声で行き先を告げた
後部座席で先に押し込むように乗せた僕の左手をそっとシートの上で握っていた
僕はその左手に心臓があるかのように 彼にその鼓動が激しく鳴るのを気づかれてしまいそうで
終始 無言で俯いていた 彼も何も話さなかった
僕らを乗せたタクシーは 都内を離れ 洒落たマンションの前に止まった
彼について降りた僕の手をひき 彼は鍵をポケットから取り出すと
マンションに慣れた仕草で入っていった
そこは彼の自宅だった
広いワンルームに必要な家具が趣味よく配置され 彼の大切なコレクションも並んでいた
僕はすっかり拾われてきた捨て犬のように どうしてよいか判らず ただ呆然と
踏み込んだ玄関先に立ちつくしていた
彼は足元を照らす 間接照明のフロアライトだけスイッチをいれた
室内が淡いオレンジ色に照らされた
彼は振り向くと 再び僕を正面から抱きしめた
僕はすっかり思考というモノを失っていた
自分の置かれた状況を理解する事すらできなかった
ただ 彼の広い胸と 背中にまわされたしなやかな筋肉質の両腕の
暖かい感触だけが これが夢ではなく 現実なのだと僕に訴えていた
僕はおずおずと 両腕を彼の背中に回した
そうすると 彼はより深く 強く僕を抱きしめた
自分の胸に密着した 彼の厚い胸板が 僕と同じリズムで鼓動を刻んでいるのが判る
彼もまた 戸惑ったように 呼吸を浅くさせる激しい鼓動と闘っていた
僕らはしばらくそのまま動けず ただ抱きしめあって立ちすくんでいた
10.彼を奏でる
「・・・ごめん・・・驚かせたよね・・・」
しばらくして 僕の額に自分の額を押しつけるようにして 僕の目を覗き込みながら彼が言った
彼の大きな瞳が間近にあった それは僕の心を探るように時おり美しく揺れた
「・・・・・・・・・・」
何も答えられずにいる僕に 続けて彼が言った
「さっき・・・いや 前の時も・・・鳴美クンのピアノは・・・ジュ・デ・ブゥを僕に囁いてくれてた?」
「・・・え・・・・」
「僕の・・・僕の思い上がりだったかな・・・あれは僕にジュ・デ・ブゥと歌ってくれたんじゃ
なかったかな・・・僕の希望的観測・・だった?」
彼の瞳に僕の顔が映っていた それはマヌケな顔 驚いてこの世の終わりを見つめているような
そんな僕の顔だった 僕は頭が真っ白になった (この人は・・・僕のピアノの声を聴いていた・・・)
「僕は・・僕は あなたが・・・欲しい・・・」
僕は彼を抱きしめた 彼は抵抗しなかった 僕は彼を抱き上げるとベッドへ運んだ
僕は夢中で彼に口づけた
彼は僕がシャツのボタンを外す時 僕の顔をじっと見つめていた
その視線が僕の理性を遠くへ追いやった
彼の白く美しい胸元があらわになり 華奢に見える割りにはしっかりとした
胸筋に覆われた鍛えられた逞しい肉体がそこにあった
彼の肌は白く きめ細かく張りつめて その胸に美しい飾りのような
桜色の二つの突起が艶めかしかった
「僕の・・・何を欲しいと思ってくれたの?」
彼の声は僕の身体中に震えをおこさせる そして鳥肌が立つほどに官能的だ
「・・・・・ぜんぶ・・・・」
僕の答えに彼は笑った 美しい紅い唇の両端をちょっとつり上げて
イタズラそうな それでいて妖艶な笑顔だった
僕は彼の首筋に噛み付くように口づけた
彼の口から小さなため息に似た声がもれた それはバイオリンの響きに似ていた
空気を小さく揺らす 聞くものの心も揺らす 繊細な旋律
僕は彼を奏でる事に夢中になった
彼は 極上の楽器だった
彼という楽器は 僕の唇に 僕の指先の動きに そして僕の吐息にあわせて
素晴らしい音色を響かせた ほんのりとピンク色に火照ったように色づいてゆく彼の肢体は
バイオリンのそれに似て 妖艶な曲線を描き
どこか熟れすぎた果実が醸す濃厚な甘い香りに似た
目眩を誘うような 素晴らしい味がした
僕は彼の口からその官能的な声が響くように 夢中で彼の身体に唇を這わせた
少しでも長く 彼のその声を聴いていたかった
彼の喘ぎ声も その声が溢れてくるぽってりとした柔らかい唇も
その美しい顔に密やかに刻まれる眉間の皺も
時折細くけだるく開かれる潤んだ瞳も
何もかもが美しかった
そして お互いの身体を一つに繋ぎ 深く深く混じり合ったとき
彼が果てる瞬間に奏でた旋律は 僕の身体を大きく震わせ その魂に深く刻まれた
11.憧れの君へ
僕は翌朝 すやすやと穏やかな寝息をたてている彼の美しい寝顔に口づけると
彼を起こさずに 部屋を出た
早朝の街はほんのりと朝靄に包まれていた
僕は大きな通りまで歩くとタクシーを拾った
タクシーの中では珍しく クラシック音楽が鳴っていた
僕は目を閉じて家までの道のりを 聞こえてくるクラシックに耳を傾けて過ごした
僕は 毎朝のウォーキングを続けている
彼の歌うCDを聴きながら 早朝の爽やかな空気を楽しむ
あれからほどなくして 僕も自分のバイオリン演奏のCDを出せる事になった
クラシック界の貴公子とか言われて 随分とミーハーな宣伝での売り込みとなったが
それでもいいかと思っていた
僕は自分がバイオリンを弾ける事が嬉しかった
そして 何と言われようと どんなカタチにせよ 僕のバイオリンを
多くの人に聴いてもらえるチャンスを得た事がうれしかった
僕は発売されたCDを彼にも贈った
僕のCDのタイトルは「憧れの君へ」だった
録音をしたスタジオでも 業界の評論でも 僕のバイオリンは「たまらなく色っぽい」と評された
それは 男女という枠を越えて 動物も植物も 楽器という無機質な物質さえもがまとう
不思議な色気なのだという
誰かに自分を見て欲しい 誰かに自分を認めて欲しい
そして 誰かを欲しいと思う気持ち
そんなエゴにも似た思いは バイオリンの旋律に託された時
昇華され純粋な「憧れ」の気持ちを歌う旋律になる
彼は僕のバイオリンが奏でる音楽から どんな声を聞き取ってくれるだろうか
僕はこれからも彼への想いをこめてバイオリンを弾き続ける
僕はバイオリンで彼への愛をうたう
これからもずっと ずっと
The end
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