カノンとロードに促がされるままに歩いている途中に、何軒もの廃墟の様なコンクリートや煉瓦造りの建物が両脇に立ち並ぶ土道の通りに出た。
酷い物ではトタンやベニヤ板等だけの間に合わせで作られた様な、掘っ建て小屋もちょくちょく目の当たりにさせられた。その中にはチラチラ見える限りでも数人の子供だけがこもっていたり、みすぼらしく痩せ細った老若混合の夫婦とその子供らしき、一見“家族”と思しき存在が確認出来る。
道中幾つもの一斗缶やドラム缶等で火が焚かれていた。この雪降る厳冬を乗り越える為であるのは明らかである。
「……何だここは……?」
シャルギエルは声を潜めて、カノンにそっと訊ねる。
「ここは貧しい人々が寄り集まって生活している、集落みたいな所ね。貧富の格差で最終的に社会から脱落した人々が流れ着くのが、このスラム街。もしくはここや歓楽街は、野良の犬猫の様に普通に大人になりきれない身勝手な親から、赤ん坊がその辺に捨てられる場所でもある。その赤ん坊を似た境遇で成長したストリートチルドレンの子供が見つけて、共感を覚えるから拾って育てる……。歓楽街のストリートチルドレン達も最終的にはこのスラムに居場所を見つける。そして昼間一稼ぎの仕事をねらって街や工場に子供の身で出掛けて行くのが大半でね。ここの住民達もそうさ。ゴミ山なんかは宝の山だ。そこで衣類を拾ったり換金出来そうなゴミを掻き集めて売りに行くのさ。この町にはいくつもの子供同士だけのグループがあってね。そういったグループ内の子供同士で助け合って拾ってきた赤ん坊を育てていくの。時には心ある大人に拾われる恵まれた赤ん坊もいるけど、ストリートチルドレンとして育つ子がほとんどね。でもそれで無事大きく成長出来る赤ん坊はその半分。後は病気が主で死んでしまう……それがこの町よ。モラルも秩序も常識も存在しない。ただ一分一秒でも長くいかに無事生き延びられる子供がいるか……この町はこの世の地獄なのさ」
シャルギエルにとっては余りにも突拍子もない話で正直理解に苦しんだ。
そんな馬鹿げたとても人間とは思えねえ日常が有り得る訳がねぇ、とさえ思った。そこまで腐った世界があったら今頃ニュースになってる筈だ。苦労知らずの彼は迷わずそう考えた。
だが残念ながら、こうゆう過酷な現状こそほとんど報道はなされないのが、世界中全てに於いての共通の現実だったりする。
でもただ一つ確かだと思ったのは、シャルギエルから見るとまるでそれらが犬小屋や鶏小屋の家畜小屋、動物園の猿系哺乳類を収納する
塒といった、超低レベルな“棲み処”にしか思えずにはいられない事だった。
掘っ建て小屋に至っては、寧ろ“家”として成立しているのかどうかさえ理解出来ずにいた。
しかし紛れも無くその中には寒さを凌ぐ為数人で寄り添ったり、幾重もの布を体中に巻き付けている“人”がいる事だけは確かだった。
やがて気が付くと、随分複雑な道筋の先を行った路地奥のどん詰まりに辿り着いた。先程の密集居住地からは随分と離れた、入り組んだ路地裏である。
雪が降っているせいもあってか、周囲に全く自分達以外に人の気配はなかった。
一瞬何故こんな所に連れて来られたのか理解に苦しんだシャルギエルだったが、物音に気付いてそちらを見ると、そのどん詰まりに木造のドアがある事に気付かされる。

ギィと軋み音をたてながらロードが開けたそのドアの奥に、空間があった。先にロードが唸る様に言いながら中に入って行く。
「うぅ寒っ」
そして次にカノンが、キョトンとして突っ立っているシャルギエルに声を掛けて入って行く。
「どうぞ。入んなよ」
促がされるままに恐る恐るシャルギエルはドアの中に足を踏み入れる。
すると中は天井と四方を煉瓦壁に覆われた六~八坪程の広さのある部屋らしかった。年季の入った煉瓦造りのこの部屋は、天井の四隅の内の一角部分が崩れ、バスケットボール大ぐらいの穴が開いている。
おいおいマジ大丈夫かよ、ここ……。
ついシャルギエルは思わざるを得なかった。
しかしその空間には、ドアの右手に古ぼけたタイル作りの水回り。その隣に備え付けられている木枠を組み合わせただけの棚には、食器らしき物やちょっとした調味料らしいのが並べられている。冷蔵庫はないが、どうやら簡易キッチンの様だ。
そしてその前には黒シミなどで汚れた丸い、かつて太縄を巻き付けていたであろう1,2メートル位の木造の
巻き枠が、横倒しに置かれてある。それを囲む様に空の一斗缶や
錆の目立つパイプ椅子、買い物かご程の木箱が置かれている。どうやらテーブルと椅子の代用らしい。
ドア左手の壁手前側の角には、L字形に二つの手作りベッドもどきが互いに頭を角に向ける形でしつらえてある。板を人が納まるサイズに囲って、その中に大量の藁を敷き詰めてからシーツらしき布で上を覆っている。
そしてペラペラのブランケットだか布切れだかが数枚。寒くなってくるこれからを、これらの布を重ねて寝るのだろうか。先程途中で見せられた、小屋で寒さに震え何重もの布に包まっていた人々同様に。……そもそもこの二人もスラムの住人なので当然なのだが。
しかしベッドの脇に巨大な薄いブランケットを二枚縫い合わせて作ったであろう二つの筒袋があり、その中に大量の羽毛やら綿や藁、布の切れ端等がごちゃ混ぜに突っ込まれている。
「……こいつは動物大量毛刈りか何かのゴミの後か?」
つい思った事を口にしつつ、シャルギエルは顎でその袋をしゃくる。
「失礼ね! これから冬に備えての手作り布団の材料だよ! 食肉する際の鳥の羽毛や不要になったクッションとかが捨てられているのを、街のゴミ捨て場から掻き集めて来たり、後は見ての通り柔らかく揉んだ枯れ草! こんなんでも冬無いよかマシだからね。ごちゃ混ぜに中に詰めて少しでも暖の取れる掛け布団を作ろうとしてるのさ」
そう言うカノンを見ると、水回りの側に置かれた
煤だらけの一斗缶に入っている
木炭に火を付けたマッチを投げ入れている所だった。
つまり拾ってきたゴミを!?
内心耳を疑わずにはいられないシャルギエル。
次にカノンは一斗缶の上に金網を乗せ、少しデコボコにへこんでしまっているヤカンに何とか水道だけは通っている蛇口から水を入れて、更に金網の上にヤカンを置く。コンロとして代用しているらしかった。
それを見たシャルギエルは、ついにカノンの言動への両意見として素直に驚愕の思いを口にした。
「えぇ!? マジでか!? ある意味色んな意味で凄え事すんだな!」
「人の苦労を馬鹿にすんじゃねえ!」
途端、ドカッとロードからシャルギエルは尻を蹴り上げられた。
「いって! 俺がいつ馬鹿にしたよ!? ただ初めての様相にびっくりしてるだけじゃねぇか!」
「それが馬鹿にしてんだよ。こんな暮らし……ここらじゃ当たり前だ」
むしろ彼等はまだマシな方だった。他の者達はこうして生活を営める場所すらなく、夜は路上や乾いた下水道で眠る子供達もいる。
この町で迂闊にそういった私生活にいちいち驚いて見せたりなんかしては、あっと言う間に差別と見なされて、追い剥ぎだのといった酷い目に合わされてしまう。
今にしたってシャルギエルの着ている服装はここらの人間にして見れば立派な代物なのだ。
「これからはそのつもりで気をつけろ」
ロードはいつまでもドアの前に突っ立っているシャルギエルの足元にある、ドアの側に積み重ねている薪を片腕に抱え込みながら言う。そしてジロリと彼を一睨みして、天井の片隅が崩れている方へとそれらを運んで行った。
その崩れた天井の真下には、ドラム缶が置いてあった。きっとここまで来るまでに通りで見てきたのと同様に、その中で火を焚いて暖をとるのだろう。
ドラム缶に薪を放り込み火を付けようとしているロードを見ながら、少し己の軽率さに傲慢な筈のシャルギエルが珍しく反省を覚える。
余りにも格差の激しい、自分の豪華な環境とこのスラムでの彼にとっては有り得ない様な貧困っぷりに、流石の彼も同情せざるを得なかったらしい。
「そうかよ……つか、悪いけど俺にとっちゃあここの何もかもが珍しすぎて、理解出来ねえ事だらけだ。それでも下手に質問や疑問も口に出来ねえのか?」
少し
拗ね気味に、ボソボソと遠慮がちに訊ねてみる。
するとシャルギエルとロードのやりとりを度外視して、アルミ作りらしきカップ等を取り出し水回りで何やらちょこちょこ動いていたカノンは、その手を休めずにこちらへ背を向けたままサラリと言った。
「ふん……仕方ないよロード。逆にあたいらがこの町で先に出会った相手なだけでも、こいつも寧ろ運が良かった方さ。世間知らずな馬鹿を相手にしているつもりで、あたいらだけでも質問ぐらい許して色々このスラムの事を教えてやんな」
「こ、こいつ? バカ!?」
流石に同情を覚えて二人を気遣ったシャルギエルでも、年下のカノンのクールな言葉に我に返って、眉間に皺を寄せながら彼女の後ろ姿を凝視する。
そんな彼を他所にカノンに言われたロードは、生意気な態度でシャルギエルの前へと歩み寄ると、澄ました顔して親指を自分の胸に当てながら気取って言った。
「姉ちゃんが言うなら仕方ねえな……じゃ、これから分かんねぇ事はオイラ達二人に聞けよ」
自分の前にいる小生意気な男児からそっぽ向きながら、うるさそうに耳の穴を指でかっぽじってシャルギエルは少し不愉快そうに一言吐き捨てる。
「チ……分かったよ、チビガキが」
「新入りの分際でチビガキって言うな!」
すかさずロードは自分より年上で長身の彼の尻をもう一蹴りお見舞いした。
「てんめえ、あんま調子こいて俺のケツを馬にするが如くにポコポコ蹴り入れてんじゃねぇぞコラ! 新入りでも年はこっちが上だこのクソガキが!」
シャルギエルはロードにヘッドロックを掛けると、脳天に拳をグリグリ押し付けた。
「うわてててて!! わっ! 分かった! ごめんなさい! もうしねえから!!」
腕の中でジタバタもがくロードを解放すると、ちょっぴり涙目になったロードが渋々と頭に手を当てながら、ムゥッと口を尖らせて彼を見上げる。そんなロードにニッと笑って見せると、シャルギエルは彼の頭をゴシゴシと強引に撫で回してやった。そして改めて部屋中を見回す。
「まぁでも……ベッド、だよな? が、あって……って事は、ここにお前ら兄弟は住んでんだな?」
「うんそうよ。何よ今更」
あっけらかんと答えるカノン。
……やっぱりどうしても、これがこいつ等の家なのか……。
疑心から確信へと変えると、ドアの向かい側の壁に窓らしい造りがあるのに改めて気付く。ガラスではなく、両開きの木の戸口が取り付けられている。
近付いて戸口に手を当てる。押し開きになってる様だ。恐る恐る押し開いて見ると、いっぱいに開けた両ドア枠からほんの数センチだけ離れた程度の間近の距離に、コンクリートの壁が立ち塞がっていた。
路地というより建物同士か壁の隙間といった感じで、その壁を見上げると約三階建てぐらいの高さはあった。
それがただの壁なのか何かの建物なのかまでは気にせずに、今度は下を見ると右奥がこの部屋に合わせた長さでどん詰まりになっている。そこにはネズミをくわえた猫が、目を細めて彼を見上げていた。
人は恐れてはなさそうだが、どうやらそこがこの猫の縄張り兼寝床らしい。分厚い板が壁に立て掛けられて出来た隙間が雪避けになっている。
その様子を少し見詰めると、シャルギエルは一言訊ねながら静かに窓ドアを閉める。
「両親は?」
「そんなのいないわ」
カノンのぶっきら棒な返事に、目を大きくして振り向きながら聞き返す。
「え? いつから? 死んだのか?」
するといつからそこにいたのか、目の前でカノンがつぶらな瞳で彼を真っ直ぐ見上げていた。
「生まれた時からよ。ホラ。いつまでも落ち着き無く立ってないで、とりあえず座りなよ」
彼女はシャルギエルの腕を引くと、ドンと押して椅子代わりにある一斗缶に座らせた。が、勢い余ってそのまま彼は缶ごと派手な音を立てて倒れこんでしまった。それを見てロードが面白がって大笑いする。
「扱いが粗暴だな! 女ならもう少し優しくしろよ!」
「おやそいつは悪かったね。ここで女らしくしてたらたちまち
性欲の的になっちまうから、多少はがさつに勝ち気でなきゃ長生き出来ないんでね。この町で女が生き抜くのは楽じゃないのさ」
冷静に落ち着いた口調で腕組みして、無様に地べたで転がっている彼を見下ろしながら微笑を見せるカノン。
気取った彼女を軽く睨みつけて、ムスッとしながら一緒に倒れ込んだ空の一斗缶を立て直すと、シャルギエルは座り心地悪そうに腰を据える。
「って言うよりね、ここに来る途中で話したように、私達も捨て子……ストリートチルドレンなのよ。身勝手で最低な大人に産み捨てられたの」
カノンはそう言うと、肩に掛かる自分の赤い巻き毛をパッと後へ手で払った。
「だからこうして一緒にいるロードとも血の繋がりもない元他人同士。けど今は私にとって心から大切な家族、弟なのよ」
そしてヤカンのお湯が沸いたのに気付くと、ヤカンを取りに行く。それから水回りの空いたスペースに並べて置いてある、三つのカップにお湯を注ぎながら尚話を続ける。
「この辺の捨て子はね、初めは当然名前なんて付いてないの。この子なんてね、何でも人伝に聞かされて知ったらしいけど、産まれてすぐに道に捨てられていたんですって。だから最初にこの子を見つけて、拾った当時のストリートチルドレンの子供が付けた名前が“ロード”よ。道で拾ったから“ロード”。単純でしょ?」
だからこの辺の子供は大概拾われた場所や性格に沿った名前を、適当に付けられているだけなので、捨て子の“名前”などただの呼ぶ為だけの便宜。深い意味や願いを込められた名前の子供なんかは捨て子の中にはいやしない。
勿論初めは親に育てられてた子はきちんとした意味ある名前をもらえる。しかしやがて家庭内暴力による虐待だの親が死んだりして家族を失ったりだので、ストリートチルドレンに堕ちる子も大半だった。
だから基本的にストリートチルドレンと言っても、初めから親に故意で捨てられた“捨て子”と、親は別にいたり失ったりして“堕落児”になるのとで二種類だった。
部屋中にコーヒーの香ばしい香りが広がる。
彼女はまだこちらに背を向けたままカップを相手にカチャカチャしていたが、ある程度手元が落ち着いたらしくクルリとこちらに向き直って洗い場にもたれかかった。
金属のカップに作ったコーヒーを意識してか、少し冷ます為にもう暫く置いておくつもりだろう。
「だから単語が呼び名の奴は“捨て子”だったと思ってほぼ間違いないね。中でも酷いのは、捨てられた場所や状況が最悪な子さ。下水道や廃車置場、そして墓地で見つかった赤ん坊はそのまま“ヘドロ”“スクラップ”“セメタリー”と呼ばれる様になった子もいるし、一番地獄なのは重度の
麻薬中毒者の母親が産み落とした自分の赤ん坊に、道端で火を付けたそうなの。その時周りにいた人が慌ててこの子の火を消して助かった。そして同じくその母親も狂って自分で油をかぶり火だるまになったらしいけど、みんな赤ん坊を守るのに必死でヤク中狂いの母親には目もくれなかった。だからみんなが気付いた時には当然すっかり焼死してたんだって。助けられた赤ん坊は全身五割の火傷の跡が残って酷い容姿になってしまった。それでもこの町の心ある人達数人で代わる代わるその子の面倒を見てきたけど、去年の秋その子は我が身の醜さを呪って首を吊って自殺してしまった。“ブランド”(烙印)の呼び名を付けられた女の子で……私と同じ年のストリートチルドレン仲間だった……」
ここまで話したカノンは少し俯くと軽く唇を噛んだ。シャルギエルは彼女の表情に目を見張る。だがカノンは吹っ切る様に顔を上げると、再びクルリとこちらに背を見せて洗い場の方に向き直った。
信じがたい話の数々に思わず疑わずにはいられなかったが、今自分が目にしているのは明らかにカノンとロードが住むこの家が、例えマシな方とは言っても貧しすぎる事だ。天井は崩れてるし、まるで廃墟か物置小屋だ。
半信半疑の彼の気持ちを知る由も無く、カノンは「ほら」と漸くコーヒーを差し出した。持ち手は付いているが、その金属系のカップを直接手に触れても大丈夫なぐらい、丁度良い温度になっている。
「サンクス」
彼女からカップを受け取って、コーヒーの香りに誘われる様に一口、口にする。そしてすぐに眉間に軽く皺を寄せて呟いた。
「う……薄……っ」
それに対してすかさずロードのツッコミの声が掛かる。
「それがここらじゃたりめぇだ。いい加減事態を把握しろよな。学校行ってんだろう。予測・推測も出来ねぇのか箱入りお坊ちゃんは。このクソ寒い中白湯しか飲まされねえよかマシだろ。味があるだけ文句言うな」
……無学の十歳の男児に至極当然な文句を言われ、確かにもうそろそろ慣れるべきの恥を覚えるべき頃合だ。
だがドラム缶に薪をくべて火の勢いを作るロードの様子を見て、やはり内心驚異を抱かずにはいられない。暖炉無しに直接部屋の中にドラム缶で火を焚くその光景が信じられなかったが、丁度崩れた天井の下に設置してあるのもあって一酸化炭素中毒の恐れはなさそうだ。
ドラム缶の焚き火はシャルギエルにとって、天井に穴が開いていても部屋内は十分暖房効果抜群に思えるぐらいだった。しかし薄着姿のカノンにとってはまだ暖かさが足りないらしくて、ブルリと震えてベッドから布を取り上げて羽織る姿に気付く。
「あっつ……!」
シャルギエルは着ていたロングダウンコートを、少し顔を
熱らせながら脱ぐや否や立ち上がり、カノンの肩に少し強引に掛けてやる。
「そんだけ火ィ焚きゃ俺の上等な服装にとっちゃあ暑いぐらいでのぼせちまいそうだ。代わりにお前着てろ」
それからコートの上から、首元に掛けていたシルバー色のファーマフラーをカノンに羽織ったコートから抜き取ると、ロードに投げやる。
「お前はそれでも巻いてろ」
そして再び今まで座っていたガタつく一斗缶に、注意深く倒れないか確認しながら座り直すと、何事もなかったかの様に薄いコーヒーを一口含む。
「うわ! これフワフワで凄く気持ちいいよ姉ちゃん! しかも何かいい香りするし」
無邪気に大喜びしてシャルギエルから受け取ったファーマフラーに、ロードは嬉しそうに顔を擦り付ける。
「そうかい」
自分の肩に掛けられたコートに腕を通しながら、久し振りに十歳の子供らしく心から純粋にはしゃいで見せるロードの様子に優しく微笑むカノン。
男物のコートのせいで小柄な彼女にはまるでブカブカで、袖は余り足元もスッポリ隠れて裾が地についてしまっている。
しかし彼女は腕まくりをして、上半身部分にだけ付いているファスナーを閉め、その長すぎる裾を両手で持ち上げて満足そうな表情で肩を竦めた。
口にこそ出さないが、カノンもまたロードと同感でその着心地の良さ、そのコート一枚で十分すぎる温もり。そしてやはりほんのりと上品な香りが鼻孔を擽るのか、肩に鼻を近付けて十三歳の少女らしく愛らしい表情を浮かべる。
そしてロードと顔を見合わせると、嬉しそうにお互い囁く様に笑い合う。その無垢な少女の笑顔を見詰めながらシャルギエルは、膝に肘を付いた状態で頬杖付いて呟く様に言った。
「お前、さ。苦労してる割にはその、いい……笑顔、見せんだな」
その言葉に我に返ったカノンは、大人びた目つきに戻ってそのまま流し目を彼に向けると意地悪げに言った。
「何さ。早速口説いてんのかい?」
「バッ! バカ言ってんじゃねえ! 誰がお前みてえな子供、女として見るかよ!」
カッと赤面する顔を隠す様にそう強がりを言いつつ、彼女からそっぽ向く。
「子供か……十三年間苦労してきたけどまだ子供のままなんて……。もうすっかり大人にでもなった位の気持ちだよ」
カノンは溜め息混じりで言うと、まるで人生に疲れた様に肩をガックリ落として俯く。
暫く沈黙の中にパチパチと火の弾ける音が響く。
無言になった彼女を気遣い、そっぽ向いてドラム缶の火を見詰めていたシャルギエルは、再度カノンの方を向くとゆっくり口を開いた。
「さっきお前……自分は捨て子で、捨て子はその場の便宜だけでその時に合った単語を名付けられるって言ったよな。だがお前の名前には美しい響きの意味がちゃんと含まれてるじゃねぇか。正直俺がお前の名を聞いた時率直に思い出したのは、“パッヘルベルのカノン”だ。お前の名を口にする度、俺の脳裏でついその曲が無意識に流れてくる」
彼の言葉が終わると同時に、はと気付くとカノンは驚愕の表情から次第にキラキラと輝く様な満面な笑顔を見せると共に、ポロポロと幾つもの大粒の涙を零し始めた。
「え!? なっ! 何だよ!? 頼むから笑いながら泣くな! 超怖えっっ!!」
シャルギエルが驚いて立ち上がった途端、カノンが彼に飛びついてきた。
「え!? わっ! な……っっ!!」
カノンを思わず抱きとめたまま、足元の一斗缶を蹴飛ばして尻餅をつくや否や、自分に寄り掛かる彼女を支えきれずにそのまま煉瓦敷きの地面に共に倒れ込んだ。
「いつつつ……っってぇーー……おいコラ。一体何のつもりだいきなり……」
「私の名前の意味を今まで出会った人間の中で言い当ててくれた人はあんたが初めてよシャルギエル!! ええそうよ! だから私はこの自分の名前が大好きなの……!! 自慢の名前よ!!」
心から喜び純粋にはしゃぎながら言うと、無邪気にカノンは彼を抱き締めた。
「そ、そうかよ……。そいつは何よりだぜ……」
そう呟きつつ、シャルギエルは自分の上にいる彼女の赤い巻き毛の頭に、そっと片手を置いた。
こいつはまだ十三のガキじゃねえか。子供相手に俺は……どうかしている……。
密かに思いながらも、結局たった二歳年下なだけ。シャルギエルが大袈裟に年齢差別を意識しすぎているだけで、根底では年代の身近さは感じていた。
だからこそカノンを一人の“女性(女子)”と異性視して意識せざるを得ないのだろう。
シャルギエルは彼女の髪を撫でる手をそのまま肩に回すと、自分の上に重なる様にいる少女を片手でギュッと抱き締め、小さく口の中で呟いた。
「……カノン……」
自分の胸の鼓動と、その呟きのどちらが彼女の耳に聞こえているか等、もうこの際考えずに……。