「じゃあ
忍鷹。確かに後は頼んだぜ」
「ああ」
ビーストは次のバックアップを、忍鷹に引き継がせてそう声を掛ける彼に、静かに
首肯する忍鷹。
そうしてビーストはバイクの後ろに彼女のラバリィを乗っけてから、その場を後にするのを忍鷹は見送る。
やがて見えなくなると、忍鷹はビーストから受け取ったヘロインの結晶の入った
袋を、目前の高さまで摘み上げる。
暫く黙考してから、彼は自分のポケットを
弄り、もう一つ別に持っていた
袋を取り出す。
こちらの方が、ビーストが手渡した方より結晶の量が多めに入っていた。忍鷹が個人的にこっそりと、西北部の売人から買い受けていた代物だった。
しかもビーストが渡した三流
雑ざり品のヘロインより、純度の高い一流品である。最高純度のレッドロックより純度は落ちるが、九割は生粋のヘロインという代物だ。
それでも一割はカットされているのだが、三流よりかは文句なしの一品だ。
巷では充分最高級品だった。レッドロック程の物はまず街では手に入らないのだから。
一流品カットヘロインなだけに、俄かにピンク色とも薄茶とも言える色をしている。しかしそんな細かい事は、まず素人は意識もしない。
そう。特に、シャルギエルみたいなアングラ社会にまだ未熟な、素人には。他にもスラム住人とは言え、ドラッグ未経験者のカノン等も然りだろう。
ビーストが手渡した三流カット品は、一応二回分入っていたが、所詮最低カット品なので一気に使い切っても支障はない。
中毒者にまでなれば、丁度良いか少し足りないかくらいの量とも言えるが、敢えてシャルギエル達がペイントの事を思って、量をコントロールしているのだ。
忍鷹は冷めた目で、自分が持って来たヘロインのパケを眺めてから、再びポケットに捻じ込むと、ペイントのいる
住処の中に足を踏み入れた。
泥土で造られた、六人も中に入れば狭くなる程度の広さの場所だった。そこにポツンとベッドだけが置かれてある。その上に、ペイントは座っていた。
もうセンターを出たペイントは、メサドンの効力もすっかり消え失せ、今や再びヘロイン中毒の彼に戻っていた。
虚ろな目。死んだ魚の様な目。ポカンと不様に開けっ放しにされた口。フラフラ、ユラユラと体がゆっくりと揺れている。
ボンヤリと魂の抜け殻の様な様子で、力なくベッドの上に座り込んでいた。
その前に忍鷹は座り込むと、ビーストが手渡した方のパケをそんなペイントの目前に、掲げて見せた。
「いいか。ひとまずこれで二回分だそうだ。これを使い切り、また効果が切れ始めた頃にまたもう一度、持って来る。しかしどれくらい使用するかはお前次第だ。少しでもヘロインと闘う気があるなら使用量を減らし、更に回数を分けて上手く調整するも良し。しかしヘロインに、己自信を
淘汰されるべく一気にこの全てを使い切り、少しでも最高度の天国を味わうのも良し。お前次第だ。俺は、他の連中とは違ってお前の自由に口出しして、見張ったりはしない。お前の人生。お前の思うように生きろ。よって仮に、だ。万が一よく考えもせず欲求に応じるまま、余計な量と純度のヘロインの追い打ちをかけて、それが致死に至ってもそれは自業自得と、俺は受け取る。全人生を犠牲にしてまで中毒になったお前だ。ヘロインの見極め方くらいは造作ないだろう。それくらいの責任は、己で取れ。分かったな」
忍鷹はペイントに威圧気味に説き伏せる。先輩の言葉にペイントは、コクリとゆっくり首肯した。
それを確認して忍鷹は、
注射器と水の入ったペットボトルも一緒に、ヘロインのパケをペイントに手渡した。
受け取ったペイントはヘラリと笑うと、早速注射器に
袋に入っている二回分としている、ヘロインの結晶を全て流し込み水を注ぐとその中で、花火の如く派手に弾け始めて水に溶解していく結晶の様子を、うっとりした目で見詰めていた。
確かに忍鷹は二回分だと口添えしてから、忠告をした。その側からペイントは、いきなりその結晶を全て使い切るべく、パケの中身を空にした。
すっかり水の中に浸透しきって、落ち着いたヘロインの溶液の入った注射針を、ペイントは自分の腹に躊躇いもなく突き刺してから、一気にピストンを押し込む。

たちまち至福の表情に
陥るペイント。
彼の体内を、温かい波のような感覚が押し寄せてくる。
瞼が重くなり、うっとりとなる。モルヒネキックと呼ばれる、ラッシュが始まる。
顔色はピンク色に染まり、心からの
嬌声を洩らしだすペイント。込み上げる
多幸感。
今まさにペイントは、この世の最高級の至極最強のあらゆる天国と快楽を、心身全てをフル活用して味わっているのだ。
それはこのヘロインと言うドラッグでしか味わえない、この世のあらゆる全ての至福、快楽を百倍にも高めたくらいの、絶対的な最強の天国なのである。
気持ち良さそうに、体内を巡るヘロインに身も心も委ね、すっかり彼はトランス化している。
それを見届けて
忍鷹は、ゆっくりと立ち上がりその場を後にする。そして腕時計で時間を確認する。
今打ち込んだヘロインの量からして、持続効果は本来なら五、六時間は持つ。しかし中毒ともなれば恐らくは三、四時間くらいか。
そしてもう一度、自分のポケットから一流品の入ったパケを取り出してから、掲げて見る。
やはりあいつは、二回分だと言った量を何の躊躇いもなく一気に全て、打ち込んだな。恐らくあの調子だと今後我々が面倒見たとて、扱いに手こずるのは間違いはないだろう。どんなに体を気遣って量を調整したとて、欲求の方が強い。
俺は警告した。余計な量や純度のブツを使用して、死ぬ事になってもそれは自業自得だ、と。
十五歳だ。まだたったの。その少年が今後一生涯、ヘロイン無しでは生きていけない体に、なってしまったのだ。
なぁ。シャルギエル。本当の親切ってのは、何なのだろうな。何が正しくて何が正解なんていう確実なる答えは、この自然要素界の世界には初めから存在はしない。
あらゆる宇宙万物全ては、
混沌秩序によって形成されているのだから。どうしてやるのが一番“楽”なのか。いざと言う時、その考えが必要になる時が来る。
良かれと思ってしている事が、本人にとっては地獄である事もある。本当に相手を思いやるならば、その苦しみを和らげるのではなく、解放してやる事だ。
いたずらに生き永らえさせて、その苦しみを和らげながら生かされたとて、本人にとっては辛いだけだ。そういう形の正義も、ある……。
忍鷹は、その
袋をグッと手の中で握り締めると、宙を睨み上げながらポケットに押し込んだ。
スモールを住処に帰した後、エリートはチェルシーを連れて今度はカジノ店へと移動していた。
そしてエリートがウエイター姿で店内にいる間、チェルシーは二階の汚れ物などを集めてくる、雑用の仕事をさせられていた。
「チェリー。また一室開いたから、シーツの取替えに行って来い」
「どうしてあんな汚らしい仕事を、私がしなきゃ……」
店のエプロンを身に付けた姿で、チェルシーは不満そうに二階から戻って来たエリートに、文句を言う。
「俺は別に構わんぞ。またうちに戻してやっても」
エリートは冷ややかに微笑する。それは遠回しで、監禁への逆戻りを意味していた。
漸く久々に外へ出る事が出来たのだ。またむざむざ引き篭もるのは、ごめんだった。
「分かったわよ! やりゃあいいんでしょ! やりゃあ!!」
チェルシーはふくれっ面でそっぽ向くと、荒々しい足取りで二階へと上がって行った。
「エリート。今回の女は随分鼻っ柱が強ぇみてぇだな」
瞠目しながら訊ねるオーナーの言葉に、エリートはクスッと微笑んだ。
「ええ。それがまたこの僕を楽しませてくれるものですから、専用の召使いにしてるんです。だから、手出しは無用ですよ」
「ふ、ガキの頃の、
Rに似てるか? お前の立場を無視して反抗的なところは」
このオーナーは、立場こそエリートより低いものの、幼い頃からのRとエリートを知り、尚且つ面倒見のあるアングラ住人だった。
そんなオーナーの言葉に苦笑しながら、エリートは静かに答えた。
「そうとも、限りませんよ。寧ろどちらかと言うと、もっと……身近です」
そう言いながら二階へ続く階段を見詰めるエリートの横顔を、オーナーはだた無言でグラスを拭きながら、視線だけで見詰めて微笑を浮かべるのだった。
恰も自立していく子を見届ける父親の、それのように。しかしエリートは、そんなオーナーの心境になど、一切の関心は無かったが。
二階に上がったチェルシーは、空き室になった個室に足を踏み入れると、嫌そうな顔でシーツを掴む。その時だった。
突然背後から、威圧的な女の声がした。
「あんたかい? エリートさんの囲いをやってんのは」
それはここで身を売って働いている、一人の
売春婦だった。ピンクのランジェリー姿に両腕を組んだ姿勢で、ドア枠に凭れ掛かっている。
「カコイ? 何ですかそれは?」
チェルシーは屈折させていた上半身を正すと、不思議そうに訊ね返す。
「フン。
恍けちゃって。この腐れ女。そうやって澄まして気取った女を演じても、本当はあんたもうちらと同じ、好きモンなんだろ?」
「好きモン?」
更に女の言葉にキョトンとして、真っ直ぐにこの
売春婦の目を見詰めた。その女の目はギラギラと威圧的で、
恫喝なる態度を崩そうとはしない。
「どこまで恍ける気だい。そうしてカワイ子ぶってりゃ、エリートさんに気に入られると思ってんのかい? ハスラートップに取り入ろうだなんて、とんだ計算高い女だね」
つまりこの女はチェルシーを
僻んで、彼女を苛めに来たのだ。
「あなた、一体突然何なの? 失礼だわ」
そんな事も気付かずに、チェルシーは女のがさつで無礼な態度に、気分を悪くする。
「ハッ! 気取った喋り方しちゃってさ! どうせあんたもヤリまくってるケツ軽だろう? あながちあんたみたいな澄ました女ほど、父親と近親相姦してたりするんじゃなぁい? クスクスクス」
途端、見る見るうちにチェルシーの顔が青褪めてゆく。エリートによって
暫く忘れられていた、彼女のトラウマの扉が開いたのだ。
体が小刻みに震え出す。その反応に気付いて、更に女は声を高らかに嬉々としてからかう。
「何だい!? まさか本当かい!? イヤだよ! 冗談で言ったら当たっちまったよ! こいつはとんだ、食わせ者だね! それでエリートさんに纏わり付いてんのかい!? 気持ち悪い女だよ!! アッハッハッハ!!」
「やめて……やめて……!!」
チェルシーの中の、レイプ
されかけた恐怖と、毒を飲んで目の前で死亡した母親の映像が、蘇る。そして
下卑た笑みを浮かべる、義父の顔。
チェルシーは耳を塞ぐ。しかし女は余計に面白がって、やめようとはしない。
「え? 何をだい? 父親とセックスしたって言うのをかい!? 何今更カワイ子ぶってんだい!! 男とあらば例え父親でも見境なしかい!! おぞましい! 最低な女だね!!」
「違う……そうじゃない……向こうからいきなり襲い掛かってきたから……!!」
「だから仕方なく股開いたってのかい!? ア〜ン! パパ凄〜いって? キャハハハ!!」
女は至極愉快にはしゃぎながら、腹を抱えて通路の方へとよろけ出る。チェルシーの目の色が豹変した事にも、気付かずに。ギラリと煌めくその目の光は、憎悪と殺意を宿していた。
一方階段の壁に身を凭れて、事の騒ぎにいち早く気付いたエリートが冷静に、様子を伺っていた。
チェルシーはポケットに手を入れるや、毒を含んだ怒声を荒げた。
「だから殺してやったのさ!! 自分を守る為にね!! こうやって、こうやって!! 殺してやった! 殺してやった!! 最低な男を、殺してやったのよ!!」
まさに人が変わったチェルシーは、自我を失った状態で通路にいる女に立ち向かうと、拳を何度も振り下ろした。女は呻き声と共に、その場に倒れ込む。
それにより標的を目前から見失ったチェルシーは、フーフーと怒れる
雌豹のように息を荒げ、狂気に血走らせた視線を
彷徨わせながら、ゆっくりと我に返っていった。
エリートは、彼女が隠し持っている内面の狂人格を目の当たりにして、思いがけない愉快な発見に、喜びを覚えた。
どうやら母親を殺されたのをきっかけに、チェルシーは身を守る為にその時受けたショックを、狂人へと変換するのに目覚めていたようだった。
こいつは面白いお宝を拾ったものだと、エリートは彼女のその変貌振りに歓喜する。
そしてチェルシーが自我を取り戻し気が付いた時には、自分の足元で女が血塗れになって倒れていた。驚愕して後退るチェルシー。
しかしよく見ると、自分の手には血で染まったナイフがしっかりと握られている。エリートに、護身用にと渡されていたナイフだった。
記憶は無いものの、それだけで状況を悟るには充分だった。そうやって義父も、気が付いたら自分に覆い被さる形で死んでいた。自分の手にある、ピストルによって。
チェルシーは恐怖のあまり、ナイフを振り落としてから自分の口を塞ぐ。しかし女はまだ、生きていた。
「クソ……よくも、この女……私を刺しやがった! 人殺し! 人殺しだ! 誰か来てぇ!!」
女は渾身の力で床を這ってチェルシーの足を掴むと、叫んだ。
「だって! だってあなたが嫌な事を思い出させたりなんかするから! だから怖くなって……あ、あたし……どうしよう! ごめんなさい、こんなはずじゃあ……」
チェルシーは真っ青な顔に震えるその手で、足元の女に恐る恐ると手を差し延べようとする。するとゆっくりと、エリートが歩み寄って来た。ハッとするチェルシー。
「ち、違うの! わ、私……怖くてそれで……気が付いたらこんな事になってて……!! は、早くこの人を病院へ……!!」
チェルシーはガクガクと震え、涙を零しながら混乱し脅えながら、エリートからも距離を取ろうと壁へと背を付ける。しかし片足はしっかりと、女に掴まれていた。
「エリートさん……! この女が私を……! とんでもない女よこいつ……!!」
女は苦痛に顔を歪ませながらも、必死で彼に訴える。するとエリートは、満面の笑顔を湛えて、温厚な声で優しく言った。
「うん。ちゃあんと見てたよ。しっかり全て。ずーっと最初からね。君が挑発したから彼女に刺されたんでしょう? そんなの、自業自得じゃない。自分から喧嘩売ったからには、これくらいは覚悟して腹括ってから相手しなきゃ、この世界では長生き出来ない事くらい、分かんなかったかなぁ? 仮にもここで働く、メス豚風情が」
そうして途端にスゥッと目を
据わらせると、チェルシーの足首を掴む女の手をじっくりと
蹂躙した。
呻き声を上げて、女はチェルシーの足から手を離す。
「ごめんなさい、こんなつもりじゃ……早くこの人を病院に」
チェルシーが言い終わらない内に、エリートの変化に気付いた他の従業員が大急ぎで、チェルシーを連れて一階へと下りる。
直後、派手な物音と共に不気味な鈍い音と、女の呻き声が響いた。数秒後、静まり返ると、返り血を浴びたエリートがゆっくりと下りてきた。
「とんだメス豚がいたものだな。余計な体力を使わせやがって……」
エリートは冷酷非情に、吐き捨てる。
「す、済みませんエリートさん! 教育が行き届きませんで……!!」
頭を下げる男の従業員を、エリートは無慈悲に
一瞥だけすると、言葉を続けた。
「フン。早いとこ、片付けておけ。臭いニオイが染み付く前にな」
それを聞いて、大急ぎで男の従業員二人が二階へと駆け上がって行く。
一方チェルシーは、女性従業員の腕の中で、手を真っ赤な血に染めたまま震えていた。
エリートはそんな彼女を無表情のまま静かに見遣ると、手を伸ばして女従業員からチェルシーを受け取って、シャワールームへと連れて行った。
「とりあえず、その血を洗い流せ」
「どうしよう、あたし! また人を……! ああ、今度こそ私は人殺しよ……!!」
そう混乱して泣き崩れかけるチェルシーを抱き支えると、エリートは容赦なく彼女の胸倉を掴み、眼前に引き寄せてから威圧した。
「貴様は自分を守る為に行動した。何の問題もない。あの女はお前の心にある恐怖を、
煽ったせいで死んだ。自業自得だ。ここはそういう世界だ。あの女は敗者で、お前は勝者になった。ただそれだけの事だ。お前は正しい事をしたんだよ」
「正しい……こ、と……!?」
チェルシーは脅えながら、涙で顔を濡らしている。
「そうだ。分かったら泣くな。俺は涙を零す女は嫌いだ。弱者に見えて、虫唾が走る。お前は勝者なんだよ。お前は利口だ。しかも最高のな。そういう奴がこの世界では生き残り、のし上がって行ける」
エリートは胸倉を掴んだチェルシーを突いてから、再び乱暴に引き寄せる。そんな手荒い彼の扱いに、
漸くチェルシーは少しずつ冷静を取り戻し始めた。
「怖い……。怖かった。怖かったのよ。だからカッとなって、そして気が付いたら……!!」
「お前は何だ」
「え?」
「お前は俺の奴隷じゃなかったのか。俺が貴様の命を貰い受けた」
「……ぇぇ……。その約束よ」
力なくも呟くと、思い出したようにチェルシーは苦々しい顔をして、エリートを見詰めた。
「だったらお前の側には常に、俺がいると言う事だ」
「あ……」
エリートの冷静な言葉に、チェルシーは漸く、心の中の
曇天が晴れた気がした。それは自分が決して一人ではない事を、彼が教えてくれたのだ。
だがしかし、同時に辛い気持ちをも彼女の中に、呼び起こした。そんな事も露知らず、エリートは言葉を続けた。
「分かったな。召使い」
「……ええ」
チェルシーはすっかり落ち着き払った目で、エリートの碧眼をしっかりと見詰めた。
「さすがは俺が拾っただけの事はある。大した女だ」
エリートは呟くと、冷酷な微笑を美しく湛えた。
「さて、いかがだったかな。アングラワールドでの一日は。思いの他、お前の隠れた才能が開花されたんじゃないのか」
自宅に帰り、エリートはソファーに身を投げると愉快そうに言った。
しかしチェルシーは違った。腰が抜けたように、その場にへたり込んだ。
「私には無理よ……。とても冷静ではいられない」
「みたいだな。だから人一人、殺した」
「やめて!!」
面白がってそう言うエリートの言葉を、大声でチェルシーは遮る。そんな彼女に、エリートは更に容赦なく追い打ちをかける。
「あんなのは、まだまだ序の口だ。せいぜいアングラの、ほんの入り口程度にお前は手をつけたに過ぎん。お前が思い考えている以上に、今日取ったお前の行動は、充分にまともな行為だぞチェリー」
そうしてエリートは足を組むと、片手の親指で人差し指の爪先を
弄くる。チェルシーは俯いたまま、力なく答える。
「でもやっぱり、私はもう普通の世界には戻れない人殺しなのよ……」
エリートは相変わらず爪先を弄くりながら、自分の足元にへたり込んでいるチェルシーを見遣ると、冷ややかに言った。
「戻りたいのか? 表社会に。別に構わんがな。お前の精神が持つのなら」
するとその言葉を待っていたかのように、チェルシーは半ば投げやりに
自嘲しながら、床に両手を付いたままエリートへと顔を向けた。
「だから殺して。やっぱり私は生きておくべきではなかったんだわ。お願い……殺して」
「まだ言うか」
エリートは呆れながら、溜息雑じりで投げやる。
「殺して。あなたに殺されるなら本望だわ……。ほんの束の間でも、あなたは私を楽しませてくれた。幸せだと、思ったわ。生きているのも悪くないって、思えるようになってきた。そういう気持ちになってから、相手を殺すのがあなたの喜びなんでしょう……? だからもう、充分じゃない? そろそろ私を殺してくれても。ね? でなきゃ私はこのままだと……あなたに甘んじてしまうから」
チェルシーはここまで言うと、悲しげに微笑んで見せる。エリートは思わず眉宇を寄せると、手の動きを止めてから、言葉の意味を聞き返した。
「甘んじるだと?」
すると改めてチェルシーはその場に座り込んだまま、エリートの方へと向き直り半ば威圧的に、真顔でキッパリと断言し切った。
「愛してしまうと言う事よ」
「……あ、い……!?」
エリートは驚愕の余り、目を見開く。
スラムの人間になって、初めて言われた言葉だった。それ以前に、こんな自分を愛してくれる存在が、現れた事も。
誰も本気で心から、自分を愛してくれる者が現れる訳はないと、思っていた。なぜならエリート本人も、何者をも愛さないと思っていたからだ。
女など
媚びを売るしか能の無い、無力で卑しい惨めな存在でしかないと、見下し続けてきた。女など、ゴミにも等しい単なる
道具でしかない程度くらいにしか、思わなかった。
なのにこの女は、はっきりと何の躊躇いもなく口にした。それはまるで、宣戦布告を思わせる力強さで、自分の事を愛してしまうと。
そこには一切の、恥らいや甘えや媚び
諂った表情は欠片も無い。覚悟と度胸を込めた、女の誇り高さを示す顔だった。
エリートの心の中で、初めて味わう未知なる何かが弾け、
拡がった。
チェルシーはゆっくりと立ち上がって、エリートの目前に立つとフワッと笑って囁いた。
「だから殺して。深入りしてしまう前に。それからだったら別れが辛くなるから。まだ気持ちが浅い、今の内に私を殺して。愛しい男に殺されるならこの命、失っても怖くない。幸せの中で死んで逝けるわ……」
そして呆然としているエリートの両手を取ると、チェルシーは自分の首元に当てた。
「さぁ。殺して。私の首を、絞めるのよ。エリート」
そう囁くチェルシーの笑顔は、この世のものとは思えないくらいに美しく、見えた。
「……初めて俺の名を呼んだな。チェリー」
そう呟くとエリートは、その首に当てた手に徐々に力を加えていきながら、ゆっくりと立ち上がった。苦悶の表情を浮かべ始めるチェルシー。そして彼女の目から、一筋の涙が零れた。
エリートは一定の力を入れたまま、それ以上の手の動きを止めて、囁いた。
「阿呆か。お前は。幸せの中で死んで逝ける、だと……? それじゃあ意味がないんだよ。後悔と未練の中で、まだ死にたくないと言う気持ちを持ってからでなければ、殺す楽しみ甲斐がないと言っているだろう。喜び勇む奴を殺すのは好かん。貴様もマゾか? まさか」
「い……いえ……愛、よ……バカね……」
チェルシーは苦悶の中で、苦笑しながら必死で答える。
「……愛か。それは一体、何だ」
「とても……甘美なる……もの、よ……」
「ほぉう。ならば味わってやろう。その甘美なる愛とやらが、どういうものなのか……」
エリートはチェルシーの首の力を緩めると、チェルシーの口唇に自分の口唇を当てた。かと思うと、何の予告もなしにそのまま彼女の口唇を噛み切った。
チェルシーの口唇から、血が
滲み出る。
途端、チェルシーの眼つきが怒りに染まると、エリートの頭を掴み引き寄せてから、同じくチェルシーもエリートの口唇を噛み切った。エリートの口唇からも、血が滲み出る。
「なめた真似を……」
「あなたが先にするからよ。エル」
エリートの行為が、気の強いチェルシーの心を更に、また違った火を点けたようだった。それを知ってか知らずか、エリートは呟く。
「今、どんな気持ちだ。チェリー……」
「……欲しいわ。物凄く。エル、貴方の事を。こんなにも貴方の事が、愛しくて
堪らない……。頭にくるくらい、ムカつくくらい、貴方を愛してしまった。それが妙に悔しくて腹ただしいわエル。好きになったらマズイかしら。この奴隷如きの、私が」
チェルシーは睨み付けて言いながら、エリートのサラサラの金髪を掻き上げ、乱す。そんな彼女の仕草に身を任せながら、エリートは熱を帯びた声で静かに囁く。
「それを決めるのは、この俺だチェリー……。もっとこの俺を求めろ。俺の女として」
「エル……愛してる」
そう言うやチェルシーは、そのまま自らエリートの口唇に口唇を重ねた。お互いから滲み出る血液が雑じり合い、唾液の中に浸透する。
「貴方の味がするわエル。最高に甘美なる味が」
チェルシーは口唇を離すと、湿らせた声で言った。
「チェリー……!」
堪らずエリートは、我を忘れてチェルシーの口唇を
貪った。
こんなに心から、冷静さを失うほど一人の女を欲しいと強く思ったのは、生まれて初めてだった。これまでのような、ただの性欲の
捌け口としてではない。この女だけの一人の男として、心から純粋に彼女を欲し、抱きたいと思った。
エリートは、引き裂くようにしてチェルシーの衣服を剥ぎ取る。
そんな荒々しいエリートの欲求に、チェルシーも同じように必死で応えながら、力一杯エリートのシャツをボタンごと引き剥がした。
ボタンが飛び散るのもお構い無しに、チェルシーは彼の上着を脱がせながら無我夢中で、エリートと舌を絡め合う。
二人の息遣いは部屋中に響き渡るほど、荒々しく熱を帯びていた。
そしてエリートはそのままソファーへ彼女を押し倒すや、その豊満な胸の乳房を口に含み、女の部分に指を滑らせ刺激した。
その与えられた快楽に、チェルシーは体を仰け反らせて嬌声を上げる。
「んああ! エル……! いいわエル。お願い早く、私を犯してエル。我慢出来ない。今すぐ貴方が欲しいのよエル。あっ、ああ! はぁ……!!」
「こんなに気がおかしくなりそうなほど、女を求めたのはチェリー、お前が初めてだ」
エリートは最早、荒げる息遣いで興奮気味に言うと、彼女のじっとりと濡れた恥部に、賺さず自分の固くなったモノを挿入した。
チェルシーは歓喜の声を上げると、エリートの熱を中で感じながら、彼をきつく強く抱き締めた。
エリートが腰を突き動かす度に、彼女のGスポットは敏感に刺激され、与えられる快楽にチェルシーはエリートと共に溺れていった。
その性行為はまるで、獣が織り成す野生なる行いに似ていた……。
そして翌日の昼過ぎ。
スラムに戻ったシャルギエルに、衝撃的な話が届けられた。
「ペイントが死んだ。原因はヘロインの致死にまで及ぶ、過剰摂取だ」
そう彼に落ち着き払った声で伝えた、――――――忍鷹の態度は、冷静なものだった。
シャルギエルは愕然として、その場に立ち尽くしている。同じくカノンとローディスも、ショックを受けているようだった。
そんなこのまだ未熟なギャングウォリアートップに、幹部でありバックアップとして彼を支える立場である忍鷹は、厳しさを含んだ声で静かに語った。
「いいかシャルギエル。あいつの人生はエリートの手に渡った時点で、とうに終わっていたんだ。お前には分からんかも知れんがな。時にはもっと、冷静に状況を見極める目も必要だぞ。感情任せでは、お互い傷付き合うだけだ。トップを務めるからには、それをくれぐれも肝に銘じて置く事だ。……生かしてやるだけが、正義じゃない。時には、“見捨てる”と言う優しさと強さもある事を、腹に収めておくがいい」
力なく肩を落とすシャルギエルに、忍鷹はあくまでも冷静ながらも、威信を込めて言い放った。そうして忍鷹は踵を返すと、黙って俯いたままの彼の元から離れる。
やがてバイクのエンジン音が響いたかと思うと、その音はそのまま無情にも遠ざかって行った。
忍鷹が言わんとする意味を理解したシャルギエルは、己の中に芽生えた複雑な感情が腹立たしく思えた。
俺は弱い。こんなにも脆く、簡単に感情に任せてしまう。
銀紫。お前のその、冷静な強さが羨ましく、思う。だが今この時だけでいい。口に出さずにはいられない。これを最後に俺は、感情任せの行動を改めるから。だから最後にこれだけは、言わせてくれ……。
シャルギエルは怒りの余り、全身がブルブルと激しく震えていた。そして、
腹腔に力を込めると、怒りの感情を声に変えて放った。
「クソ……エリートの奴、絶対に許さねぇ!! 絶対に、許さねぇぞエリートオォッッ!!!」
そうして壁を拳で殴りつけた。
その彼の拳からは、真っ赤な血が滴り落ちた……。