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アウエル・バッハ 烏賊墨のリングイネ
作者:悠 奏多
「実はねコナン君。新一と連絡取れなくなっちゃったんだ」

 最近元気がない蘭に、コナンは子供らしく率直に訊いた。その答えに対して嘘だ、と言い返せなかった。だから、
「そうなんだ……。でも、大丈夫だよ。僕がいるからね!」
 と、子供らしい答えを返すことしか出来なかった。
 新一と音信不通になったから、と尤もらしい理由を付ける蘭。最近の彼女は調理中に指を切ったり、半開きのドアに気付かず突っ切ろうとして額をぶつけたりしていた。
 少なくとも、彼女の身に何か異変が起こったのは間違いなかった。考えあぐねた末に直接訊いてみたら、あからさまな嘘を付かれた。だったら。
 尾行して、この目で確かめるしかねぇ。

「二股かけてるのね。浮気相手の男と上手くいってないから、彼女は落ち込んでいる」
 昼休みが終わりに近い頃、コナンは今朝あった出来事を哀にさりげなく話した。即答されたその答えに、彼は言葉を失った。
 灰原哀が、下手な慰めをしないことくらい、とっくに分かっていたことなのに。
「まだそうと、決まったわけじゃ」
「彼女を尾行するんでしょ? いいわ、付いてってあげる」
「いいっての」
 哀は、口角を上げてその反応を無視した。そして、ランドセルを開き、教科書やノートなどをしまい始めた。その態度は、何が何でも付いていく意思表示に見えた。
「いいって言ってんだろ!」
 コナンは哀の左手首を掴んだ。教室中がざわめく。哀は腕を振り、その戒めを解いた。手首から離れたコナンの右手は、数回前後ろに揺れた後だらんと垂れた。
「近いうちに壊れると分かっている、壊れかけの人形を放っておくほど私は冷たくないわよ。それに。私が付いていくって確信してて、そのことを話したんでしょ? 鏡を見てごらんなさいよ、今の貴方、捨てられた仔犬のようなをしているわ」
 ランドセルの中に鏡が入っていたが、コナンは確かめようとはしなかった。代わりに、心の胸の辺りを押さえた。心の奥まで見透かされているような気がして。何も言い返さないまま、コナンは哀の後を付いていった。


 帝丹高校に着いた。蘭を発見してからコナンの様子は、別人のように変わった。犯人を追う刑事のように、目がぎらぎらしている。
 コナンは哀の前に行き、細心の注意を払い尾行し始めた。だが、一分もしないうちにそうする必要はないことに気付いた。今の蘭は、身体の重心がぶれ、まるで取り憑かれたかのように足元がふらついていた。

 着いた先は、四階建ての団地だった。
 その建物は金網に囲まれ、廃墟のように静まり返っていた。どの窓にもカーテンがなく、電気も漏れてこない。全く人の気配がなかった。

 誰も住んでいなかった。
 
 夕焼け空を背景にしてひっそりと佇む真っ黒い建物を、蘭は遠い目で見つめていた。肌寒い風が、蘭の長い髪とプリーツスカートを揺らす。だが蘭は、乱れた髪を直すことはせず、口を半開きにしたまま眺め続けていた。
 とても、声をかけられる状態ではなかった。

 ここは、蘭の両親が別居するまで住んでいた場所だった。彼女にとって、たくさんの思い出が詰まった場所。それは、かつて何度もここに遊びに来て、彼女のことを誰よりもよく知るコナンだからこそ、確信が持てる。

「何してるのよ、こんなところで」

 まさかの一言だった。無関心の塊が、興味を示すなんて。突然背後から話し掛けられた蘭より、コナンの動揺は大きかった。てっきり、帰りましょ、と言うと思っていたのに。
 一瞬背筋を伸ばした後、蘭はゆっくりと後ろを向いた。コナンと哀を見た後、学生鞄を抱き締めて一つ深呼吸をした。
「何だぁ。コナン君と哀ちゃんだったの。二人で一緒に帰って、仲いいじゃない」
 突っ込むとこそこじゃねーだろ! どうしてここにいるのかを突っ込んでくれよ、とコナンは思ったが、それはそれで返答に困る。更に哀は一歩前に進み、
「ここって、毛利探偵事務所とは逆方向よね。この近所に、新しい男が住んでいるの?」
 と、挑発的に訊いた。
 蘭の目的が分かった以上、その質問を否定することは分かっていた。
「もしそうだったら、ちゃんと工藤新一サンに言わなきゃダメよ。もう言ったのなら、ごめんなさいね」
 こいつ、ゼッテー確信犯だ。
 蘭が二股をかけるようなタマじゃないって知ってて、カマをかけている。それは今、自分が納得した表情をしているからだ。それを見て確認した上で、哀は的外れな質問をしている。

「違うよ」
「大丈夫。誰にも喋らないから安心して。こう見えて、口は堅いから」
「ここはね。昔、住んでた場所なんだ……」
「へぇ」
 哀のそっけない態度に、コナンは彼女の耳元で『言い過ぎだぞ』と早口で囁いた。そしてコナンにも、
「へぇ」
 と、さっき蘭に言ったのと同じ言葉、同じ口調で返した。
「思い出の場所がなくなったくらいで、こんなに寂しくなっちゃうのは……、どうしてなのかな」
 震える呼吸を噛み締め、蘭は手の甲で目を擦る。その様に、コナンは、
「大丈夫だ。俺がいっからよ」
 と、一言声をかけたかった。でも、言えなかった。小さい手足、低い身長。世間では江戸川コナンで通っているこの小さな身体で、それを言う資格はない。今の蘭には、新一以外の人間が何を言っても心に留まらない。
「古い建物だし、取り壊されることくらい分かって……たのにね」
 思い出の場所がなくなっても。大切な人が側にいてくれたら、心に出来た溝を埋めることが出来る。それが出来ない蘭は、思い出の場所がなくなるまでここに通うしかなかった。

「くっだらないわね」

 目の前にいる蘭と哀が、大きく揺らいだような気がした。
 く、空気読めよ空気! この、陰惨とした空気が読めねぇほど馬鹿じゃねぇだろ。元太じゃあるめぇし。
 この状況で、堂々と、くだらないと言える哀に、尊敬さえ覚えてきた。と、同時に、付いてきて貰った自分自身を責めた。
 やはり、蘭は肩で呼吸をしながら潤んだ目で訴えている。どうしてよ、そんな言葉が聞こえてきそうだ。
「思い出に浸れる場所がある貴女が、悲劇のヒロイン気取りでいるからよ。茶番、茶番、飛んだ茶番劇だわ! 私なんか……」
 哀は、言いかけて二人に背中を向けた。それ以上は何も言えないようだった。彼女の小さい肩が、わずかに震えている。
 遠くの方で、烏の鳴き声が聞こえた。いつの間にか、太陽が地平線の向こうに飛び込んでいた。西空低くに這う橙は、現れたばかりの闇によって太陽と同じように押し込まれていく。

「ご飯、作りにきてよね」

 数歩進んだ哀が立ち止まり、そう呟いた。哀が作った気まずい沈黙は、哀自身が破った。その低い声に弾かれ、蘭は彼女の小さな背中を見つめた。
「阿笠博士の家によ。もちろん、江戸川君と一緒にね」
「灰原、オメー……」
「土曜日か日曜日がいいわね。ついでにあの子達も。週に一度くらい賑やかな日があれば、嫌でも思い出すでしょ」
 ただでさえ掴みどころのない哀が、どう言う意図でそう言ったのかは分からない。
 でも。思い出の場所すらない哀が、蘭のような気持ちにすらなれない虚しさが伝わってくる。事情を知っているからこそ、一見飛んでもない発言をした哀を、コナンは責められない。

「ありがと、哀ちゃん」

 蘭のその一言で、コナンの中で蠢いていたものがすうっと消えた。それと同時に、一日でも早く解決しなければ、と東の空を向いて誓った。



 思い出の場所がなくなっても、貴方さえいてくれたらいい。
 今回のテーマは『スイーツ系』でしたが、私には向いてないと思いました。
 精神年齢の差を見せ付けた作品でもありました。哀って大人だと思う。欠陥が多い蘭の方が、ヒロインには向いてますけどね。
 来月下旬から、いよいよクリスマス週間に入ります。どんなお祭りがあるのか楽しみだったり。ソチ五輪まで、あと五年! バンクーバー? どうでもいいですねぇ。現地に言ってクーリック、プルシェンコ、ホルキナ、ヤグディンが見たい。地元開催だし、絶対彼らは来る。
 予告:今、小五郎と英理の話が書きかけで、佐藤と高木の話も構想中です。


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