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殿下と僕で現場近くに向かう。
歩くごとに人が多くなり、犯行現場の家屋の周囲ではざわめき、噂しあう群衆と、彼らを現場に近づけまいとする神官戦士団の制止の声が錯綜していた。
あれはヴォールトの神官戦士団だろう。
秩序を司る雷神ヴォールトの神官は、不正や汚職に手を染めればその加護を失うから、治安維持においての信頼性がとても高いのだ。
道では、どこでも誰もが件の義賊、《空ゆくもの》の噂をしている。
これまでの行いや、今回の犯行の概略は、漏れ聞こえてくるそれらだけでも、十分に理解できた。
――《空ゆくもの》は単独で行動する義賊だ。
基本的に狙うのは、明確に法に触れた商売を行う大手の商家や、都市部に紛れ込んで邪悪を行う悪神の信徒。
今回狙われたのも、《日時計通り》の、悪質な取り立てで知られていた高利貸しの邸宅だ。
深夜から未明にかけて侵入。用心棒を無音で行動不能に追い込み、家中の人々をあっさりと縛り上げ、証文を焼き、悪事の証拠を壁に釘付けにして晒し、自らのサインを残し――
街の治安を守る、ヴォールト神官戦士団が事態を感知してやってきたところで、悠々と逃走したそうだ。
もちろん秩序を司る雷神ヴォールトの神官戦士たちが、その逃走をあっさりと見送るわけがない。
訓練を受けた、腕利きの捕手たちが駆けて追ったのだけれど、取り逃したそうだ。
その理由が、また、すごい。
「あの屋根に跳び上がって逃げたらしい」
などと人々が噂しあっているのは、通りにある三階建ての建物だ。
前世で言えば、ちょうど電柱くらいの高さがある。
いくらこの世界の人間は、鍛えれば前世よりも高い身体能力を発揮できると言っても、それでもありえないレベルの高さだ。
噂話が事実だとすれば、平然とあそこまで跳べる人間を、普通の捕手が拿捕することは困難だろう。
「…………」
「君ならば真似られるか?」
難しい顔をしていると、殿下が小声で問いかけてきた。
「難しいですね。……跳び上がるだけなら、やってできないことはないのですが」
「それができるだけでも相当なのだが、では何が問題なのだ?」
「僕がやると、ものが壊れます」
《ことば》の力も加えて全力で跳べば、いけないことはないけれど、そのままの勢いで瓦を砕くなり、屋根を踏み破るなりしてしまうだろう。
落下の勢いを殺す《ことば》を添える余裕がある高さだとも思えない。
あるいは、落下の勢いを殺す《しるし》を併用――? けど軽業中に二重投射なんて、暴発の危険が高すぎる。
色々考えるけれど……
「少なくとも、まず魔法使いではありません」
そう結論せざるをえない。
「なるほど。まぁ土台、盗賊のたぐいと相性の良い術でもないしな」
嘘をつくと鈍ってしまうのだ。
偽りと密接に関わる盗賊と、《ことば》による魔法の相性はよくない。
ついでに言えばここは都市部ということで、妖精使いとの相性もよくないだろう。
「しかし――となると、何者だ」
「可能性としては、一つ」
「ほう」
などと話していると、横を捜査関係者らしい神官戦士が通りかかった。
金色の髪を一本に括った、生真面目そうな女性だ。二十歳前後――同年代だろうか。
銀色の胸甲。ベルトに聖別された長剣や、捕物用の警棒、ロープを吊るしている。
女性の神官戦士さんというのは珍しいなぁ……などと思って目を向けると。
「……?」
視線に気づいたのか、彼女はこちらを見て――そして隣りにいるエセル殿下を見て、目を剥いた。
「……あ」
「……しまったな」
女神官戦士さんは、わなわなと震え……
「ちょ、ちょっとそこの二人! こちらへっ!」
と叫んだ。
エセル殿下が一瞬、逃げようとするけれど僕が止める。
――殿下、殿下。犯罪現場で神官戦士に呼び止められて逃げようとしたら、騒ぎが余計大きくなります。
◆
「どうして野次馬に紛れて、賊の犯行現場など見物していらっしゃるのですか……」
「ハハハ、そう言うな。市井の様子を確かめるのも、為政者の務めだ」
「それはそうですが……」
僕たちは今、犯行現場となった邸宅の中に引っ張りこまれていた。
そりゃあ、うん。
王族と気づいた以上、野次馬の中に放置しておくわけにもいかない。
邸宅の中に入る時、ちらりと、義賊が残したというサインが見えた。
真白な紙に描かれ、細身のナイフで固定されたそれは、崩した《ことば》だった。
文面は《神は遍く》。そして文末には、渦と瞳――《台風の目》の図案。
なんというか相応の気配、とも言えるものが残っている。
……どうやら考えていた可能性は、当たりらしい。
「殿下! もう少し、御身の安全をお考え下さい」
そんなことを考えていると、しかめっ面をした神官戦士さんが殿下を睨んだ。
僕たちを邸宅に引っ張りこんだ神官戦士さんは、名をセシリアさんと言うらしい。
どこぞの伯爵家のご令嬢で、幼い日にヴォールトの声を聞いて以来、神殿に入り、今は神官戦士の小隊を束ねているのだという。
……それは殿下を発見したら、慌てるに決まっている。
「ハハハ。今回は聖騎士殿がいたからなぁ……」
「…………」
殿下が苦笑いで弁解し、セシリアさんはキッと鋭い視線でこちらを見た。
「騎士殿もお止め下さい」
「スミマセン……」
確かに流石に、野次馬の中に混じるのはやりすぎだったかもしれない。
「後ほど捜査が一段落し次第、隊のものを数名付けて、お屋敷までお送りします」
「ご迷惑をおかけします」
「いえ、職務ですので。……それに、友人がご迷惑をおかけしたことですし」
「……迷惑?」
話が分からなくて首をかしげると、
「サンフォード男爵家の嫡子、サミュエルです」
「あっ」
あの決闘のレイピア使いさんか!
「お知り合いだったのですか!」
「その、遺憾ながら、あやつとは幼なじみでして……」
セシリアさんは苦い顔だった。
「奴はとかく酒癖が悪く、酒を飲むとや否や、いつもいつも喧嘩や決闘騒ぎを起こしまして。――聖騎士殿に絡んで決闘をしたと聞いた時は、肝を冷やしました」
大怪我も負わせず、あしらって下さりありがとうございますと、深く頭を下げられた。
そういう話になっている、のか。
……けれど、あの時、彼は明らかに酔っ払ってはいなかった。
あの人、本当は何を考えていたのだろう――などと、思わず考えこんでしまうと、セシリアさんは僕の沈黙をどう解釈したのか。
慌てた様子で、
「け、けれど、悪いやつではないのですっ! 平素は家の仕事もそれなりにきちんとしておりますし、救貧活動なども熱心に……」
あれこれと彼の美点を並べ始める彼女。
そこに王弟殿下が、ニヤリと笑って一言。
「なるほど、惚れているのか」
「ちちち違いますっ! 私は単に、幼なじみとして……!」
……ああ、なんか、凄く微笑ましい。
都に来て久しぶりに、気を楽にして聞ける会話な気がする。
まぁ、それはともかくキャアキャアと否定するセシリアさんと、からかう殿下のやりとりに、時機を見計らって言葉を差し挟む。
「大丈夫、分かっていますよ」
きょとんとする彼女に、僕は言葉を続ける。
「あの剣を身につけるのに必要なのは、弛まぬ鍛錬です。……粗暴なだけの方が身につけられるものだとは、思いません」
笑ってそう言うと、セシリアさんも表情を緩めた。
「ですから、とてもお似合いだと思いますよ?」
緩んだ表情が再び硬直した上に紅潮した。
……面白いなぁ、この人。
◆
そんなこんなで、殿下との散策はあえなく終わりを迎えることとなった。
鍛えられた、いかにも生真面目そうな神官戦士たち数人に送られて、邸宅に帰ることになる。
ヴォールト神官というのは皆、ずいぶん真面目で実直そうな言動をしている。
雷神さまはそういう人を好むらしい。
そしてそういう人たちだけあって、皆とてもよく鍛え込まれている。
ヴォールトが武神としての属性を持つのに加え、その加護を得る人が、怠けない、真面目な気質の人ばかりとなると――
雷神ヴォールトと炎神ブレイズの神殿が、特に屈強な神官戦士を輩出することが多いというのも、頷ける話だ。
彼らが生真面目に辞去の言葉を述べて去っていくのを、見送る。
お忙しいところに迷惑をかけてしまって、本当に申し訳ない。
いずれ改めて謝りにいこう。
――そして、それはそれとして。
「それで、現場を見て、どうだね?」
「大筋、当たりだと思いますが……だとすると、逆に問題かもしれません」
「どういうことだね」
僕は多分、傍から見ても分かるくらいのしかめっ面をしていたと思う。
「――だってアレ、風神の使徒ですよ」
一足で三階建ての建物に跳び上がり、羽のように着地。
この世界広しといえども、信徒にそういう加護を与え、かつ盗みを許容する神は少ない。
加えて言えばあのサイン――僕を含めて見る人が見れば、おそらくは分かるだろう。
「ワールか。……それも、ただの信徒ではないと?」
「その程度であれば、ヴォールト神官戦士団がすでに縄をかけています」
風神ワール。ガスがいい加減な誓いを立てて守護神にしていた、風と自由の神だ。
一般的に司るとされるのは、旅と商業、自由と交流、そんなところだけれど――同時に激しい運の偏りや、血の流れない混乱を愛でる質があるため、博徒や盗賊の神でもある。
ついでに言えば小人族の祖であるとも言われ、中性的な童子の姿で描かれるけれど――
小人族は自分の出自に興味が無いし、いちいち伝承に残さなかった。
気まぐれな風神も自分の過去の行いに対して興味がなく、伺いを立てても「どうだっけ?」程度の答えしか返らない。
かくして小人族の出自は今も厳密には不明である、というのは有名な話だ。
「明らかにあれは、風神から直に何らかの託宣――あるいは神勅を受けて、強力な加護を得ているたぐいです」
「つまり、君と同格か?」
「おそらくは」
……風神ワールは善神と悪神の境目にあって、どちらかというと善神寄りくらいの、気まぐれな神だ。
他の善神に悪戯を仕掛けて困らせたり、追い掛け回されたり、懲らしめられたりする類の、喜劇的な逸話には事欠かない。
思いつきで大騒動を起こして何かを台無しにすることもたびたびだし、血と涙さえ流れなければどんな悪趣味なことにも手を叩いて喜ぶフシがある。
とんでもない変人に祝祷術を与えて、大混乱が起こるのを喜ぶような神さまは、大神の中でもこの神さまくらいだ。
けれど――
「風神ワールは、遍く在りし、神々の先駆けです」
それでもなお、風神ワールは偉大なる大神に数えられる、主神ヴォールトの親しき友だ。
風とともに駆け、あらゆる場所の影に潜む悪を察知し、その細剣で最初の一撃を加える神々の一番槍。
悪神の邪なる企てを察知することにかけては、武勇名高き雷神や炎神すら及ばない。
無残な理不尽に、誰かが血を、涙をこぼすとき、風神は常に神々の先頭を駆ける。
――讃歌において《はやき耳》、《はやき足》といえば、それは常に風神ワールの尊称なのだ。
「それが、動いているということは……その、相応の格の」
「…………」
こちらの言いたいことを、悟ってくれたのだろう。
殿下も難しい顔をして、口元に手を当てた。
「悪神の眷属が、この《涙滴の都》に策を巡らせている――か」
漏れた言葉は、やけに不吉な印象を伴っていた。