ソイツはみかんゼリーを食っていた
死んだ声たちがやってきて、息絶えた世界はさらにその腐敗を進め、連なる言葉は散りゆきて、今日もどこかでめくれる物語がある
保証された安全、一夜の享楽、欲を満たすモノは数あれど、常に頭の片隅、もやもや黒い陰りが居座っていて、誰しもその心の闇を拭うため、今日も液晶画面見つめたりカラオケルームで騒いだり、安くて手軽な娯楽、誰しもが個々の楽しみをかじる、点滅する光の数だけ娯楽のある都会の少し外れたところ、地図でも見つけられない小さな街があり、ここにも電気由来の光がチラホラ、この街の中に、唯一足りないものがある、ここは映画のない街、この街の人々、生きてるうちに一度はなんとか、そんなことを考えて今日もまた映画のない日を迎えて送る、なんとか、その一念で映画館が一軒壊されることなく残されてある、そもそもなぜ映画が無いのだろうか、この街の年長者に訊けど、皆一様に応えるは
「昔、ある田舎育ちの少女が上京して、都会の揺らぎにその身を少し傷つけられる話を知った、映画の予告編だった、その30秒くらいの白昼夢は、遠い過去に見たっきり」
誰も、どうしてか映画を見たことがない、そしてここの街に住むある男ももちろん映画を見たことがなかった、あの手この手、万策練れど尽かすのみ、皆諦め切ることを、なぜか諦められない性格で、少しだけオタク気質な奴だった
決行日は春ともつかぬ夏ともつかぬ、そんな生ぬるい日の深まり明けかけの夜、男にある策あり、映画をこの街に、その一心で頭も身体もフル稼動、そして巡り着いたのはある一軒のさびれた長屋、木に手書きの文字が乗ってある看板の、ほとんどは雨風にやられてほとんどその見た目はガラクタと化してある、でもそのガラクタばかりが、この長屋の存在を外へとアピールしている、その看板がなくしては、誰もたどり着けないだろうこの場所に、男は並々ならぬ情熱を持って決意の徒としてやってきた、もう崩れかけのドアノブに手をかけて、ひねって手前に引くときしむ音とともに建物の闇へと吸い込まれ、閉まるドアのきしむ音、街に流れてる焦燥が、かき消してもう辺りはいつもと変わらぬ景色と戻る
幾千ものモノを数えて人は生きている、答案用紙に埋める数値をあれやこれやで出してみたり、気温湿度風速降水確率、科学の力は数える力、こうして今日も何かと数えて過ごす、数えることが大好きな人間は、数えるモノがないと不安になるのがお決まりで、男、ドアをくぐったその先の、この暗さは何キロルクスでこの静けさは何ヘルツ、街の焦燥、それを避けてるようにあるこの建物の中、一人外からきた男には、普段浴びてる焦燥、ないゆえにその振動が今更になってやけに愛おしく、もう帰ろうかと震える足を、押さえつけるように説き伏せるように、頭の中で繰り返す文句は決意の徒としての高き高き脆いプライドをなんとか折れぬように折れぬように、そうして自分をなんとか保って立っている、誰に頼まれたわけでもないけれど、おのが願いはこの街の万人の願い、そう信じて今この身を暗闇と静寂の中へと放り込んでここに来た、今更引けぬ、尚更震えだす足を、腹をくくって一歩前へと進める
「いらっしゃい」
勇気で恐怖を押し殺した刹那、どこからか声がして、いつの間にやらついたのか裸電球、その光の下でうつむく人影、再び襲い来る恐怖に震えながらも、ただ一つ単純な質問が浮かぶ、脳内で吟味する余裕もなくて、口をついて出た
「アンタは誰だ?」
ぼんやりと浮かぶソイツはゆっくりゆっくり頭を上げて、ちょっとだけくたびれたその顔を、こちらにこれまたゆっくりゆっくりと向けた
「アンタは私に頼りに来たのだろう?もうめっきりあのドアをくぐって来る者はいなくなってしまったもんで、なんだか新鮮な感じだよ」
ソイツはみかんゼリーを食っていた、裸電球の灯りの下で、右手に握られたスプーンの銀色ばかりが目を刺した、みかんゼリー食べる速度はさっきの一連のゆっくりゆっくりした動作の面影は全く無くて、丁寧ながらもかなりの速度、きっと大変な好物なんだろう、そんなことがたやすく見て取れるくらい、初老に見えるソイツの子供っぽい食べっぷりは、なんだかアンバランスで笑いを誘う、そうやって少しばかりソイツの観察をしていると、男は用件思い出していけないいけない、少しはにかんだような笑顔を誰に向けてか作ってみる
「失礼しました、私の名前は……」
「いや、いいよ、名前なんて教えられたって覚えてらんないからな」
男の声をさえぎって、ソイツは言う、男は少し戸惑った風、でも十年来の旧知の仲のように、もうソイツとは心の隔たりを感じなくなった男には、もう恐れや焦燥もなく、ただ男一匹決意の徒としての、使命を抱いてここに居る
「とってきて欲しいモノがある……」
さも深刻そうな顔、男はあたかも大変な事を伝えるかのように、低い声で言った、裸電球の淡い光の下、二人街の喧騒を避けて、こうして企む姿には、幾分似合わぬ外の鳥の声、少し拍子抜けしたもんで、ソイツと二人男は笑う、何がということもないけれど、なんだかさらに深まる悪友二人の間には、も一度響いた鳥の声、あたかも未来の明るさ呼び込むファンファーレ、ソイツはみかんゼリーを食べ終えた、男は満足顔で立ち去った、別れの言葉はなく、ただこの街の中、二人だけがニヤつき顔だった、今しばらく街の忙しげな時の流れは続く、その時間の終焉は刻々と近づいてくる、その時を彩るために、ソイツは裸電球を消して、ドアを開けたら飛び込んできた明かりの中へ、ゆっくりとした歩調で溶けていった
今宵も人々はなけなしの人生の鱗片を、チープな娯楽へ投げ込んで、ふとこんな無為な生活を続けるのだろうか、そんなことがよぎって、寂しくなる人もあるけれど、その寂しさ紛らわすには、やっぱりいつものチープな娯楽、時刻はわからない、昔っからの"時間にも縛られたくない"、そんなキザな自分ルールを律儀に守る、そんな事に興じるのが好きなソイツもまた、暇つぶしで生きてる人々と変わらないのかも、でもこうやって時計なんか見ないで生活していると、太陽や月の光の変化がやけに色とりどりで、今宵の月は真っ黒だ、月無き空を見上げてみると、街灯は星より随分と出しゃばっていて、ギラギラした光の合間に見える星は、暗闇彩るにはもうお役ご免かも、ちょいと気取った有識者様達は、随分と星をひいきにするけれど、ソイツはなんだかこういうちょっと残念な夜景が密かに好きだった
今宵も灯る地上の光、天の上遥か遠く、手は届かないが想いは届く、そんなキザな妄想を、しながら歩いて向かうのは静まり返ったある建物、今じゃ情報の海の上、大量に流されてあるデータに押され、映画なんてチープでもないし娯楽でもなくなった街がある、夜の闇に紛れて、歓楽街の一角に、密かに自身の街の希望を背負って立っていた、ソイツの街の人々は、夢の到来なんて知る由もなく、この夜も映画以外の娯楽で潰す、ただ、かの男だけは、密かにこの夜へ祈りを飛ばしていた
悪はいつの時代も消えることはない、その生命の根源は誰しもが孕んでいて、ふとした時に、その勢いに身を委ねて花開く、誰しもが他人の顔を持っていて、それは善良だったり極悪だったりするのだけど、一人の時にその仮面をちょっとつけてみて、自分の心の根底の欲望にひたすら忠実になってみる、ソイツも今は男に見せた気のいい老いぼれの顔の上、いかにも疲れたよ、なんて顔をつけている、今宵もどこかで悪が咲く、必要悪、そんな言葉もあって、誰しもやっぱり悪の事を嫌いになりきれない、だから今から盗み働くソイツだって、仮面の上にさらに涼しい顔を塗りたくっている、永遠の安寧、過ぎ行く月日、あんまり変わらない日常、人をダメにするものは数あれど、こんな時代じゃ悪もいささかばかし生きにくい、古びた映画館、エコロジーのためか人をもう呼び込む気力も無くなったのか、今なけなしの光を以って、おのが存在をどうにか主張するこの館には、街一つ分の夢が、願いが詰まっている、みかんゼリーを食べ終えた、さあ、あの街にもう一つの光を灯そうか、ソイツの目は、仮面の隙間、真の勇気と情熱で輝いていた
銀幕に背を向けて、ぬるいメロドラマの囁き合いをBGMに、もうこうして暗闇とにらめっこするのは何年になるだろう、警備員、寄る年波と共に、この映画館を訪れる者は減ってった、映画に背を向けて、ただひたすら映画の為に尽くしてきた、エンドロールには載らないが、誰にも知られずひっそりと、こうして観る人の為の一日一日を守っている、誰に労われることもない、誰に褒められることもない、でも警備員はこうして佇む自分が好きだった、映画は現実よりも奇なり、当たり前のことだろうけど日々想う、夢を追うことに疲れ、周りの大人に従って、安定求めて味の無い人間になった、誰しもそんなもんだろう、気づけば少年の日のこと、いよいよ燃え上がるスクリーンの愛の言葉と息遣いをBGMに、懐かしい景色の追憶へ、目をつむる、夢の名残がいまだまぶたの裏に居座ってある、ふぅ、遠く淡い日々の記憶もいつか私はこの日々へと散らしてしまうのかな、ちょっとだけ涙が出た、らしくないな、そんな自分ツッコミへの反応は、自虐の涙が少しだけ
「よォ、ベッドシーンで感涙とはいい趣味してるじゃないの」
目を開く、ソイツはみかんゼリーを食っていた、口元には微笑みを、その目に光るのは、自分の情けなさへの涙とは違う輝きが、その目には情熱が、自分のまぶたの裏に少しだけ残してある色が、今スクリーンの中の二人は一つに、情熱は言葉となりその口に宿り、昂りは色となりてその目に宿る
「何しに来たんだ」
「ちょいと、約束事を果たさにゃならんもんでね、映画を一ついただきに来た」
「私は警備員だ」
「約束は守るもんだろう、破るなんて選択肢はない」
ソイツはイタズラっぽく笑う、スプーンは進む
「正式な手続きをとって購入し、しかるべき映画館へ搬入したまえ」
「メロドラマの中の二人には、障壁無くして情熱は無く、焦燥と欲情の狭間で燃えるのが味だろうに」
ソイツはイタズラっぽく笑う、スプーンは進む
「何が言いたい」
「一人の人は一本の映画なんだ、最近のは面白くないのばっかりだ」
ソイツはイタズラっぽく笑う、スプーンは最後のひとすくい
「君は、イマドキ珍しい面白い部類かね?」
ソイツは優しく笑う、スプーンをポッケへしまう
「誰しもがハッピーエンドを求めてる、でもハッピーエンドにしたいが為にバッドな事を恐れて何もできないビビりばかりの世の中だ」
「……」
ソイツは続ける
「ハッピーエンドにはちょいとしたコツがある」
「……教えてくれ」
「エンドロールまでフィルムを回し続けることさ、ハッピーもバッドも、フィルムの中に全てがある、映写機を回すことからオリちまった人間は、とかく他人を見るばかりの観客になっちまう」
ソイツはにぃっと笑う、今スクリーンの中の二人には、情熱の完全燃焼の後の緩やかな時間が流れている、今スクリーン背にする二人には、情熱の火種が赤々と灼熱を帯び始めた、一命の夢、一刹那の愛、情熱を掻き立てるモノは数あれど、かくも燃え尽きぬ灼熱は、過去を焦がし、未来を温め、今この時を照らす、電飾も消された深夜の映画館から、夜闇へと二人分の情熱が飛び出していったのを見た者は無かった
いつの日にかの夢をお忘れなきように
その輝きはクライマックスへの伏線やもしれません
いつの日にかへ手向ける希望を失くしませんように
その温もりはトゥルーエンドへの足がかりやもしれません
心の躍動は私の世界を揺らす、情熱の陽射しは暗闇の想像へ生命を与え、飛ばす祈りは巡り巡りて縁起は呼びかけに応えるだろう
ソイツは夢を運んできた、かくして街には映画がもたらされた、街の夢への足掻きだった映画館、もう旧式の映写機に、夢はセットされ、映写機は回転、照明は落とされ、人々の情熱は集い、夢を依頼した男、夢と共に街に来た警備員、ソイツはみかんゼリーを食っていた、スクリーンに夢が広がる、誰しもが眼を見張る、ソイツは一人優しく笑う、スクリーンに釘付けとなった人々、ソイツの笑顔を見た者は無かった
「誰しもが疲れ切った日々を生きている、そんな街の泣き言が、聴こえるんだ」
スクリーンの中、誰へと宛てたのか、一人呟く主人公、空はセピア色に光って主人公の少女は逆光の中へ、光のような雲は風に流されて行った
ソイツはみかんゼリーを食っていた、ソイツのその後を知る者は誰もいない、でも誰しもにハッピーエンドは近づいて来ている、そしてソイツの記憶が、ある人にとっては伏線なのかも、気付きは後からやってくる、何気なく受け流している日常の中、必ずやメッセージはある、それを見つけると、映写機を回し続けられるだろう
今日もどこかでめくれる物語がある




