坂東蛍子、戦場の只中で眠る
結城満は夜の道を歩きながら、先程二者に言われた言葉を思い出していた。
「全く、空気を読んでくださいよ」
「我々も勝ち目の無い戦いに時を費やす程馬鹿ではないぞ」
話は少し遡り、時刻は日付が変わろうかという頃合。
ロレーヌは近頃主人である坂東蛍子に付き纏い、今も彼女の枕元に立っている女の幽霊の存在に気を揉んでいた――幽霊などと聞くと面食らってしまう人もいるかもしれない。オカルト話として取り合ってくれない人もいるだろう。そんな人々にこの事実を伝えるのは真に心苦しいのだが、実のところ、たった今語り部として登場したロレーヌ氏は意思を持った兎のぬいぐるみである――。どうやら蛍子に対して敵意を持っているわけではないようだったが、如何せん得体が知れないし、何より四六時中付き纏われては心が休まる隙が無い。ロレーヌ自身も休まらないし、蛍子だって見えていなくとも落ち着かないに違いない(ロレーヌは神妙な面持ちで、隣で寝息を立てている蛍子の弛んだ顔を見た)。ロレーヌとしては是非とも彼女に蛍子の傍から去っていってもらいたかった。もし万が一蛍子に危険が及ぶような事態となったら、ロレーヌは主人のために幽霊と刺し違え、共に神の御許に帰る覚悟を持っていたが、しかし刺し違えるにせよ、交渉するにせよ、この宙に浮く髪の長い女の意図が分からないことには対処のしようが無い。黒兎のぬいぐるみはそのような思索の過程を経て、綿に埋もれた一握りの蛮勇を振り絞り幽霊に話しかけることを決意したのだった。
黒髪の女幽霊(名前はマツと名乗った)は、ロレーヌの大いなる覚悟とは裏腹にとても好意的な態度でロレーヌの接触に応じた。そもそもロレーヌが初対面の女性に好意的に思われないことの方が少ないのである。彼は紳士的な兎であったし、凡そ暴力とは無縁の存在であったし、それに何より愛くるしかった。大抵の女性は愛くるしいものが好きなのだ。
話を聞いてみると、どうやら幽霊は蛍子に恩義を感じており、それに報いようとして蛍子に憑き纏っているらしかった。ロレーヌはマツの吐露を聞いてホっとすると同時に、世の中には不思議な縁があるものだなぁと思った。会話も交わしていない偶然遭遇した霊に懐かれ、守護されるなんて恐らくそうある事例では無いはずだ。まぁ、それを言うならフランスから流れに流れてこの家に居ついた喋るぬいぐるみである私も、他人のことをとやかく言える立場には無いのだが。
雑談に花を咲かせる幽霊とぬいぐるみの関係が決裂したのは、ロレーヌの蛍子への思い入れがきっかけであった。ロレーヌは蛍子と出会ってまだ日の浅いマツに対し、自分が如何な歴史を持ち、幼い蛍子と出会って、彼女を見守るに至ったかを誇らしげに話して聞かせた。彼は自分が坂東蛍子と最も近い所にいる存在で、一番の守り手である自負があったため、蛍子の話となるとそれを相手に主張せずにはいられなかったのだ。しかし幽霊はこのロレーヌの矜持とも言える物語に威勢よく噛み付いてきたのである。幽霊はいつも蛍子と行動を共にし、常に背後から見守っている自分こそ坂東蛍子に最も近い守護者であると主張した。勿論ロレーヌは反駁した。蛍子の幼馴染である結城満を抜いて考えれば、彼は最も古い歴史を持った蛍子の友人であり、主人に愛されてきた確信も主人を愛してきた自信もあったからだ。意思を持ったぬいぐるみにとって、愛する主人を守護し見守る喜びというのは最も重大な意味を持つものであった。だからロレーヌはこと坂東蛍子の事に関してはどうしても譲るわけにはいかなかった。
そしてその強い思いはマツも同じように抱えているものであった。勿論マツはぬいぐるみでは無く、元人間の亡者であるため、その思いの意味合いはロレーヌとは全く異なるものだったが、それでも彼女は幽霊なりののっぴきならない事情を持って、坂東蛍子の守護者として立ち振る舞いたいという思いを強く抱いていた。
マツが生まれたのは文明開化に沸き立つ明治の世であった。自分の家族も奉公先も、今となっては殆ど思い出せないマツであったが、自身の人生がそれなりに恵まれたものであったことは今でも朧気に記憶の片隅の暖かな温度から感じることが出来た。しかし、そんなマツにも、この世の中に霊魂として留まっている以上は何かしらの未練が此岸にあったはずなのである。幽霊とは未練やしがらみをこの世に感じているがために輪廻の輪から弾かれた者達のことを指す。彼らは通常、その未練を解消することで世界との繋がりを断ち切り、成仏の途に就くことが出来るのだ。しかしマツはこの世界で百年以上の長い時を経てしまったばかりに、自分自身の未練というものをいつしかすっかり見失ってしまっていた。未練を忘れた幽霊というのは本当に惨めなもので、この世を意味も無く徘徊する廃人や狂人と大差ない存在に成り下がってしまう。現にマツも、ここ十年程は特に展望も無いままに本のあるところを往復し、読書によって何とか思考というものを繋ぎとめているような有様であった。
そんなマツが手に入れた百年ぶりの拠り所こそが、坂東蛍子だったのである。始めの内はささやかな親切の恩返しという名目で、まさに幽霊的な行動倫理に則って少女に付き纏ったマツだったが、次第に蛍子を介して生まれていった自己と他者との相対化や目的意識の萌芽というプロセスを経たことで、マツは自分というものを朝日が昇るようにジワジワと取り戻していった。いつしかマツにとって蛍子という人間は、一期一会の関係の生者から、自己意識を保持するためのかけがえの無い存在へとその立場を高めていったのである。畢竟するに、未練という存在理由を失ったマツの手に入れた新たな未練こそが坂東蛍子だったのだ。マツは自分に救済の道を開いた蛍子に対して深い慈愛の感情を抱いていた。それは孤独な幽霊が久しぶりに感じた「人を愛する」という人間らしい感情であった。この感情を嘘にしないためにも、マツは誰よりも強く蛍子を思う守り手であることを自負していたかったのだ。だからマツは突然目の前に立ちはだかった兎のぬいぐるみの主張に素直に頷くわけにはいかなかった。
結城満が二階の窓を開け、蛍子の部屋を訪れたのはそんな折であった。満はいつものように、絶交関係にある親友が明日の時間割通りの教科書をちゃんと鞄の中に収めているか確認する腹積もりで坂東邸へとやってきた(彼女の在り方について語ると拙筆ではそれはもう途方も無く長くなり、羊が生まれようが、毛皮になろうが、ハウスダストになろうが語り終わらないであろうことは想像に難くないのでこの場は思い切って省略するが、要するにとても面倒見の良い少女なのである)。蛍子が寝入っていることを確認するために窓の外から顔を覗かせ、暗い室内を窺った結城満は、部屋の中でロレーヌとマツが丁々発止と口論している光景を目にし、子供心を胸に抱えながら窓を開いたのだった。
「何々、何やってんの?」
満の姿を目撃したロレーヌとマツは、暫く互いの顔を見つめていた後、振り上げていた拳をゆっくりと下ろして満の方を見た。満はポカンとしていた。
結城満は夜の道を歩きながら、先程二者に言われた言葉を思い出していた。
「全く、空気を読んでくださいよ」
「我々も勝ち目の無い戦いに時を費やす程馬鹿ではないぞ」
どういうこと?と満は二者に聞き返した。
「満さん、本当はね、守るという行為は生きている者同士でしか成し得ないんです」
「え?」
「要するに、お前は蛍子の何なんだという話だよ」
満は夜が好きだった。蛍子と会えるからだ。しかし、今夜ばかりは心穏やかではいられない。
【結城満・ロレーヌ前回登場回】
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【松前回登場回】
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