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1話 香織という名の患者

 白い冷ややかな壁に囲まれて、鉄製のベッドが一つ置かれていた。その上に、目鼻立ちの整った、それでいて、いくらか蒼白な顔色をした若い女性が、本を手にしてその身を横たえていた。


 コツコツとドアをノックする音がした。静かにドアが開くと、白衣に身を包んだ高井正夫が入って来た。午後の回診だった。


「具合はどうですか」


 高井は、ベッドのかたわらに置かれた椅子に腰掛けると、女性の脈をとりながら、おだやかな口調で語りかけた。


「特に変わりありません」


 女性は微笑んだ。顔色の蒼白さに映えるつややかな黒髪が、何かもの悲しさを漂わせていた。


 女性は、手にしていた本をかたわらに置いた。


「その本、何の本?」


 高井は物珍しそうに、それを見つめた。


「宇宙からのメッセージなんです」


「ふ-ん。神様からのメッセージみたいなものかな」


「そう」


 女性は百瀬香織ももせかおりといった。21才だった。彼女は2年前(1988年)、東京にある関東大学病院で、太ももにできた軟部肉腫の手術を受けた。ところが不幸にも、1年たたずしてそれは肺に転移した。


 3カ月にわたる抗がん剤治療もむなしく、脱毛と貧血の副作用だけが、香織の身体をむしばんだ。


 やがて肺の転移巣は、激しい咳となって、いやおうなしに香織を攻め立てた。その咳に耐えかねて香織は、埼玉にある、大学の関連病院に入院してきたのだ。


 関東大学病院から高井は、ベッド数400床のこの地域中核病院に派遣されていた。高井は香織の手術に立ち会ったわけではないが、手術を担当した外科の医局に属していたため、彼女のことはよく知っていたのだ。


「先生は神様信じてるでしょ」


 香織は、本を手にすると矢継ぎ早に聞いて来た。


「そのつもりだけどね。でも香織さんにはかなわないなあ」


 高井は頭をかいて苦笑した。香織も首をすくめて微笑みかえした。


 高井はクリスチャンだった。学生時代から教会に通い、洗礼も受けていた。香織はそれを知っていたのだ。香織は、宗教は信じていなかったが、彼女にとってはいわば神ともいえる、宇宙との交信を心の中でしているように見えた。


「胸の写真、どうでしたか」


 しばらくして、何かいいたげに黙っている高井を見つめて、香織は尋ねた。昨日、香織は胸部のレントゲン写真を撮っていたのだ。


「少し大きくなったかなあ」


 高井は素直にそう答えた。


「そうですか・・・」


 香織は顔色一つ変えなかった。


 香織は自分の病気についてすべてを知って受け入れていた。彼女の口から、「腫瘍は大きくなったの」というような質問を恐れずにしてくるのだ。


(この人には何も隠さずに話そう)


 高井はそう心に決めていた。これまで、検査をする度にその写真を見せては、ありのままを告げてきた。


「咳の具合はどう」


 高井は話題を変えた。腫瘍についてそれ以上追求されたくなかったからだ。


「大分おさまってきました」                       


「そう、それはよかったね。咳さえ落ち着けば、家に帰れるよ」


「退院できるんですか!」


「もちろんだよ」


 高井は香織の余命がそれほど長くないと考え、なるべく早く退院させたいと思っていた。今回の入院も、咳という症状を止めることが目的だった。激しく咳き込むと、夜も眠れず、心身ともに疲弊する。転移巣は、肺全体に広がり、根本的な治療はすでに不可能だった。


「うれしい。もう少しの辛抱ね」


 香織はそれまで横たえていた身を起こすと、窓の外をながめた。3月の早春の風に、木々の梢が揺れていた。香織は、それをじっと見つめていた。


(なぜあんなに平静でいられるのだろう)


 病室を出るとき、高井はそう思った。


 リンデロンというステロイド剤に、咳止めのリン酸コデインを強めに処方した。ステロイド剤は、疲弊した身体を、一時的にしろ元気にしてくれる妙薬なのだ。


 それが奏功して、香織の咳はだいぶ軽くなった。そして、まもなく香織は退院して行った。


 退院後も香織は、2週に1度、高井の外来に元気な様子で通っていた。内服するステロイド剤のために、すこしふっくらとした顔付きにはなったが、肺に転移があるようにはとうてい見えなかった。




 それから2カ月がたった。


「先生、最近頭が痛むんです」


 苦痛の面持で香織が外来にやってきた。懸命に笑顔を作ろうとしている姿が痛々しかった。


「風邪でもひいたんじゃない」


 高井はわざと軽く受け流した。頭痛と聞いた瞬間、高井は脳転移を疑っていた。肺癌が脳にとぶことはよくある。いよいよその時が来たかと思うと、高井自身がつらかったのだ。


「風邪のようではなさそう・・・」


 香織は声を落とした。痛みに疲弊したその表情は、かつて見せた笑顔とはほど遠く、やつれ切っていた。


「まあ、鎮痛剤をあげるから、飲んでみてよ」


 高井はつっけんどんにいった。これまであんなに元気に通っていた香織の笑顔を思うと、脳に転移したとは思いたくなかった。高井にしろ香織にしろ、もし脳転移があると分かれば、深い絶望の淵に立たされることになる。高井はそれが怖かったのだ。


「大丈夫だよ。その薬、飲んでみなさい。それでだめだったら調べよう」


 香織は腑に落ちない面持ちで、1週間分の薬をもらうと帰って行った。


(自分は今まで病名は告げるべきだと確信し、できるだけそうして来た。しかし、今の自分はいったいどうしたんだ。患者の病状を知ることさえ恐れている)


 高井は香織の後ろ姿を見送りながら、ふとそう思った。


 はたして鎮痛剤は効かなかった。香織は脳のCT検査を受けることになった。高井が恐れていたことが的中した。脳に転移が見付かったのだ。


「香織さん、脳に変な影がみつかっちゃった」


 高井は、どう話そうかと考えあぐねていた。肺に転移し、さらにそれに追い打ちをかけるように、脳にも転移するとは、21歳といううら若い女性にとって、余りに過酷な出来事だった。


「もう一度入院しよう」


 高井は入院を勧めた。香織はさして動揺することなく高井の勧めに従った。むしろ高井のほうが落胆していたほどだ。


 入院すると毎日、脳圧を下げる薬が注射された。腫瘍の圧迫によって生ずる頭痛は、脳圧を下げることにより、一時的に軽快するのだ。


 香織は、前回の入院の時に手にした本を、また読んでいた。それが彼女の心の支えだった。


 1週間ほどすると、香織の頭痛はしだいにおさまってきた。苦痛による疲れで目元がくすんでいたのが、次第にすっきりしていくのが分かった。


「香織さん、大分よくなってきたね」


 回診に訪れた高井は、満面に笑みを浮かべた。


「はい、先生のお陰です」


 香織に笑顔が戻ってきたのを見ると、高井は安堵感に満たされた。医者は、患者への思い入れが強くなればなるほど、同情というより恋愛感情にも似た思いをいだくようになるのだ。


「ところで」


 高井はひと呼吸して真顔になると、香織の目を見つめた。香織はその真剣なまなざしに、ベッドの上で姿勢を正した。


「脳の治療はどうしようかな」


「治療できるんですか!」


 予想外の言葉に驚いた香織は、思わず声を上げた。


「僕は放射線がいいと思うんだけど」


「それでよくなるの」


「少なくとも進行を押えることは出来ると思うよ」


 脳に転移した場合、放射線照射が、最後の治療手段となることが多い。しかし香織には、肺にも転移がある。それはすでに手の施しようがない。


 高井の心は、ここまで病気が進行しているのにいまさらという思いと、こんなにまだ若いのだから徹底的にやるべきだという思いが交錯していた。


「私、受けてみます」


 香織はきっぱりといった。自分の病状をすべて知って受け入れている香織は、決して悲観的になったりもせず、生きられるだけ生きようとしていた。それは生まれもった前向きな性格と、彼女独自の信仰心によるものだった。


「じゃあ、放射線科の先生に頼んでみるからね」


 香織はそれから放射線科に通って、週5回の放射線治療を受けた。




 4週にわたって放射線治療を受けた香織は、かなり頭痛がやわらいでいた。その代わり、副作用で白血球が減っていた。もともと肺に転移したときから、体力が落ちていて、軽い貧血も見られたのだ。生来の色白の顔立ちに貧血が加わり、いっそう顔色は蒼白に見えた。


 まもなく、母親の志津江が、病状の説明を聞きに来た。


 志津江は、娘の病気を少しでも良くしようと、この2年あまり香織といっしょに闘病してきた。彼女は、慈愛に満ちたつつましい人柄だった。二人はまるで仲の良い姉妹のように、はたからは見えた。


 志津江は、世の中の母親が皆そうであるように、代われるものなら代わってやりたいと思っていた。そのためには何でもやろうと心に決めていた。


 高井は志津江に、脳の腫瘍は縮小したが、肺の転移はそのままなので、頭痛は良くなっても、生命の予後はあまり変わらないだろうと説明した。


 志津江は、疲れ気味の表情で、うなずきながら聞いていた。志津江はこの2年間、いろいろな書物を読みあさり、病気や治療法について豊富な知識をもっていた。


 しばらくして、


「先生、お願いがあるのですが・・・」


 志津江が、遠慮がちに口を開いた。


「なんですか?」


「私の夫は製薬会社に勤めているのですが、今、治験中の薬があるのです」


 運命とは不思議なもので、志津江の夫は日本の大手製薬会社に勤務していた。会社では、がんの治療薬を開発している最中だった。香織はその途上で発病したのだ。


「抗がん剤ですか?」


 高井は、興味をそそられ身を乗り出した。


「免疫を高める薬だと夫はいっています」


 白血球が減っている香織には、それはうってつけの薬だと高井は思った。


「それは、手に入るんですか?」


「少しだけなら手に入るそうです」


「やってみましょう。白血球を増やす薬が治験中であることは、僕も医学情報で知っています。治験中の薬ですから、何があっても了解してくださいね」


 志津江は、もちろんですというようにうなずいた。


 薬の治験には、動物を対象とした基礎的な治験と、それにより一定の効果と副作用が判明した薬に限って、人間に対して行われるものとがある。この薬の場合は、すでに人間に対して行われていて、一定の効果が認められていた。


「香織さんにやってあげられるのは、今はそれしかないでしょう」


 高井は、まだ手だてが残されていることが嬉しかった。


 3日後に、志津江は大きめの茶封筒の中に入れて、薬を持ってきた。それは注射薬で、10アンプル入っていた。アンプルには、治験薬のため、番号だけが印字されていた。1週間に1回注射するようにと、指示書には書いてあった。


 高井はそれを受け取ると、祈るような気持ちで指示書どおりに注射した。


 特別な副作用もなく、1カ月が過ぎた。香織の白血球は、薬が効いてか正常近くまで回復していた。こころもち香織の表情に、明るさがもどっていた。


「香織さんの白血球、正常になりましたよ」


 高井は病院を訪れた志津江にそれを告げた。志津江は高井の言葉を聞くと、目を輝かせて喜んだ。


「ほんとうに良かったです。ほんとうに良かったです」


 志津江は目をうるませて何度も何度もそうつぶやくと、香織の部屋にとんで行った。




 8月に入った。まばゆいばかりの夏の日差しが、窓ガラスを照らしていた。


「香織さん」


 高井は心なしか元気のない声で香織に語りかけた。


「先生、元気無いみたい・・・」


 不吉な気配を感じて、香織はわざと笑ってみせた。


「ぼく、大学へ帰ることになったんだ」


「帰るって・・・帰るって、関東大学に?」


「そう。医局から大学に戻れといってきたんだ」


「もう、ここには来ないんだ」


 香織は窓の外を見やって、寂しそうにつぶやいた。


「たぶんね。大学は少し遠いからね」


「いいんだ。ここまで香織は元気になったんだから。いいんだ」


 子供っぽい口調で香織はいった。


(私をおいていかないで!)


 ほんとうは、胸が引き裂かれるような寂しさに、香織はそう叫びたかった。


 二人は黙っていた。


「先生」


 香織は目をうるませ高井を見つめた。


「なんだい」


「ホスピスがあったらいいのにね」


 香織は読書が好きだった。よく生と死についての本を読んでいた。それにはホスピスについて書かれていたのだ。


「ホスピス?」


 高井は、前にイギリスを視察旅行したとき、ホスピスを見学したことがあった。しかし、専門外のことなので、日々の診療に追われる中、いつしかそれは記憶の外に追いやられていた。


「ホスピスって知っているでしょう」


「知っているよ。がんの末期の・・・」


 高井はことばに詰まった。


「そう。末期のがんの人の行くところ」


「ホスピスがどうしていいんだい」


「だって香織のように治らない患者には、時間は大切なの」


 香織はベッドの横に置かれた本の中から、ホスピスについて書かれた本を取り出して、高井に見せた。


「ホスピスでは患者の時間を大切にしてくれるの」


「ふ-ん」


 高井は本を手にすると、ぱらぱらとページをめくった。


「先生は香織の時間を大切にしてくれた」


「そうかなあ」


「検査するときも、その目的や結果をちゃんと説明してくれた」


「余り意味のない検査は気が引けたからね」


「いつも一人の人間として相手してくれた」


 高井は照れくさそうに頭をかいた。


 がんの末期ともなると、患者は医療スタッフにうとまれ、病棟の隅に追いやられた。それを、ゴミ箱に捨てられたと、形容されていたのだ。


「大学に帰っても、香織のこと忘れないでね」


 高井は黙ってうなずいた。目頭の熱くなるのをおぼえて、視線をそらした。自然と涙があふれた。


 香織を見つめると彼女の両肩に手をやり、


「いいかい、いいかい。一生懸命生きるんだよ。いつまでも生きるんだよ。神様にお願いするんだよ」


 高井は彼女を抱きしめた。


 香織は何度も小さくうなずいた。二人とも声を上げて泣いていた。


「これ、香織からのプレゼント」


 涙をぬぐうと、香織は小さな紙包を取り出し、はにかむように高井に渡した。高井が紙包を開くと、一冊の本が入っていた。


「ターミナル・ケア」


 高井は声を出してそのタイトルを読んだ。


「そう」


 香織は恥ずかしそうに高井の顔を上目使いに見つめて、微笑んだ。前から、渡そうと用意しておいたのだ。


 それは、『デレク・ドイル編ターミナル・ケア イギリスのホスピス・ムーブメントに学ぶ』という本だった。






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