ハードボイルド・仕事編
目の前にそびえ立つ薄汚れた三階建てのビルに向けて、俺は、右手人差し指をビルを指し、ばーんと打った。
俺はニヒルに笑い、小さくつぶやいた。
おっといけねぇ。マグナムはやりすぎたな。はっはっは。
俺は背後を確認して、素早くビルに入った。よし、尾行はいないようだな。
エントランス右手に受付嬢がいた。なるほど表向きはまともな企業のようだ。
俺は彼女に近づいて言った。
「俺だ」
すると彼女は、とびっきりの笑顔を向けて、こう答えたのさ。
「俺だ、では分かりかねます」
「はっはっは。俺としたことが、説明不足だったようだな」
いけねぇいけねぇ。俺と彼女では住む世界が違う。俺は「裏世界」の人間だ。顔パスじゃ通らない。うっかりしていたぜ。
俺は顔を近づけ、彼女の耳元でベッドの上で愛を語るかのように、こっそりと真名を囁いた。俺としては本名の方がコードネームに感じるな。はは。
俺の名を聞いた女は、一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに冷静を装って、とびっきりの笑顔を向けて応える。
「約束のお時間から、二時間ほど遅れておりますが」
「はっはっは。尾行をまくのに思いの外手間取っちまったようだな。――言っておくが、道に迷っていたのではないからな!」
「ご理由は理解いたしました。担当者とアポを取ってみます」
彼女は目の前の電話を取り、内線をかけた。しばしの問答の後、彼女は答えた。
「お待たせしました。お会いするとのことです。ここをまっすぐ行って右にある、会議室でお待ちください」
当然だな。向こうからこの場所を指定して来たのだ。
俺は片手をあげて彼女に礼を言うと、奥に向けてゆっくりと歩みを進めた。
当然、建物のチェックは怠らない。建物の見取り図を頭の中で作るのだ。何が起こるか分からないからな。
特に重要なのは、トイレの場所さ。はっはっは。
「お待たせしました」
女が指定した部屋で待つこと数分。入ってきたのは三十代の男だった。メガネをかけている秀才ずらした男だ。人を待たせておいて悪びれた様子もない。ふてぇ野郎だ。が肝は据わっているようだな。スーツ姿だがガタイは悪くない。綺麗な表仕事だけではない。裏の仕事をしている男の体つきだ。
「小早川と申します。本日はよろしくお願いします」
「あぁ」
「さて、まずは遅刻についてのご理由をお聞かせ願えますでしょうか?」
ふっ。分かっちゃいねぇな。
俺は大きく肩をすくめて見せ、したり顔で言ってやった。
「ヒーロは遅れてやってくるものなのさ」
「……貴方がヒーローですって?」
ふっ。わかっちゃいねぇな。
俺は大きく肩をすくめて見せ、したり顔で言ってやった。
「某映画のあいつだって、表向きの職業は、ただの大学教授だ」
「なるほど。それは一理ありますね」
小早川は感心した表情をしてみせた。きっと俺の丁寧な説明に感嘆して反論を諦めたのだろう。
「そんなことより、仕事の話はいいのか?」
「仕事の内容ですか? 確かに我々と仕事をするのなら当然お伝えしなければなりませんが、我々としては、まずは貴方のことを知りたいのです」
俺は両手を広げて嘆息した。
やれやれ。俺の実力を信じていないってことか。まぁいいさ。時間はたっぷりあるからな。
「ではまず、なぜ数あるパートナーの中から、我々を選ばれた理由をお聞かせ願えるでしょうか」
「近いからだ」
至極単純な理由さ。もっとも本部が別のところにあると気づいて、迷って――いや、尾行に苦労したがな。
「なるほど。では貴方のスキルは? 我々に何を提供していただけますか?」
「汚れ仕事なら何でも引き受ける。このご時世、選り好みはできないからな」
「ありがとうございます。結構です。本日はわざわざご足労頂き有り難うございました」
「おおっと。話はもういいのかい?」
「はい。連絡は後日、貴方の指定する方法で取らせて頂きます」
「ほぉ」
こいつ、思ったより用心深いようだな。どこに盗聴器が仕掛けられているとも限らないからな。
気に入ったぜ。彼となら仕事ができそうだ。
後日、俺の家にあいつからの返事が送られてきた。
ぺらぺらの封筒一枚だった。
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時下、ますますご健勝のことと、お喜び申しあげます。
この度は弊社採用試験にご応募いただきありがとうございます。
厳選なる審査の結果、まことに残念ながら、今回の採用は見送らせていただきます。
今回はご縁がございませんでしたが、変わらぬご愛顧のほど、よろしくお願いします。
スーパーきぬさや 本社人事担当 小早川




