夜中に――母のすすり泣きで目が覚めた。
押し潰してくる空気に、動かせたのは目だけ。
「かあちゃん……?」
鼻面にあったのは、むっちりとした両腿。
そして、パジャマの裾を、引き千切れんばかりに掴む爪。
最初から私を見据えていたとわかる目を見上げた。野太い母の声が返る。
「お前の父ちゃんは、浮気しているんだよ」
なんだったのだろう。
十にもならない娘を涙で起こし、“自分の夫”ではなく、“お前の父”と制限してから重罪を突きつけてきた母。
両親の愛の元に生まれた――それが子の喜ぶべき存在理由だとすれば、私の価値はその瞬間に溶け崩れた。
だが、母との間にある細い糸は切れない。
切りたくても、切れやしない。
「かあちゃん……かわいそう」
そう言って欲しそうだったから、そう言った。案の定、母はさらに薪をくべた。
「ろくでもない女に金だけ取られているってことが、わからないんだよっ!」
延々と始まった父の悪行暴き。
耳に栓が出来るなら、すぐにでもそうした。
だが私は無力だった。
無抵抗だった。
母の怒りを吸い取ってやるしか明日は無いと、その時は思った。
「かあちゃん…………かわいそう」
母はひとつ鼻息をつくと、涙と鼻水でヌラヌラになった顔からほんの少し殺気を引っ込めた。
やっと私は息が出来た。
だが、何も反応しないで待った。
次の母の動きを。
「……あたしは何にも悪くないのに」
「かあちゃんのせいじゃないよ」
「ちゃーんと家のこともするし、殴られても黙っているのに、まったく結婚なんて、つまんないよ」
“独身”の娘に、結婚は墓場だと教え込む母。
深い眠りから強制執行で揺り起こされた私の脳は、必死に逃げ場を探し、苦労して言葉を選び上げた。
「…………かあちゃんのごはん、おいしいよ」
途端に大声を上げてまた泣きに入った母。目覚めた時のすすり泣きではなく、まさに号泣。
私は慌てて母の膝に手を置いた。
「まさるが起きちゃうよ。かあちゃん、しー」
ものすごい力で引き上げられ、胸が潰れるほど抱き締められた。
私を慈しんでのことではない。ただ、女の寂しさを埋め合わせるためにサバ折りされていると、肌で感じた。
「……クッ。ウググ」
気が遠くなりかけた。こんな夜が永遠に続くのなら、それでもいいと思った。
「お前が出来たせいで、結婚したんだっ! あたしはそんな気はなかったのに!」
そう聞かされたせいで、そうされるのが私の務めと幼心に思ったのかも知れない。
だが、火のついたように泣き出した声に、救われてしまった。
ベビーベッドに立っていった母。背中しか見えなくても、泣きひく四ヶ月の子の顔に無理やり乳房を宛がっているのがわかった。
急に、無音になった。
……まさる!?
小さな鼻を確認しにいった。
大粒の涙を溜めた弟は、母の乳首に吸いついていた。
思わず息を漏らした私は、ギッと睨まれた。
「お前もいつか結婚したり、子どもを産んだりするかも知れないけど、相手だけはよく選びなよっ!」
怖くて、あとずさりをした。あとはよく覚えていない。
あれから二十五年――
当時の記憶はスライドフィルムのように、今でも断片的に夢に出てくる。
ずっといがみ合ってきた両親。
母は、もう十三回忌を終えた父を時折思い出しては、私に語る。
「色々あったけど、いい人だったよ」
人間も、結婚も、自分のことも不信になった私の想いは、どこへぶつけようもない。
母になるということは、子の幸せに負う責任が発生するということ。
あの夜の記憶が今の私をまだ支配し続ける以上、母の子育ては失敗だったと言うべきだろう。
二十歳を過ぎれば、自己責任。そんなことはわかっている。
幸せを選びたいなら、トラウマなど消せばいい。消せるものなら――
生き方が臆病過ぎるのか、どうやら私は、“ろくでもない”男の目にばかり留まるようだ。
自分から相手を選べないし、殴られても言い返せない辺りは、母の遺伝子をたっぷりと引き継いでいる。
いつか避妊に失敗してしまったら、その“父”と結婚する道を選ぶこともあるのだろうか。
ややもすれば、折角授かった大切な子を夜中に起こし、泣きつき、宥めてもらいたくて、あのシーンを再現してしまったりするのだろうか。嫉妬に我を忘れて――
否。どす黒い連鎖は断ち切る。
結婚しないことが、私のささやかな抵抗。
母になる自信などない。
(創作)
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