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第2章 自覚
第9話 四年ぶりの会話
 「何で、此処に居るのか」という清矢郎の問いにあさぎは答えられなかった。だが二人は今、久方ぶりに見詰め合っている。長い時間避け合ってていたのに、こんなにも簡単に視線は重ねられるものかとあさぎは驚いていた。
 今、赤い金魚はとても可愛らしく見えた。――清矢郎が自分を見ていてくれるからだ。それが、嬉しいだからだ。それに気付いた瞬間、今度は恐ろしくなってくる。
 ――どうしてそんな風に思うのか。
 困ってしまったあさぎは眼を逸らした。此処に居る理由――清矢郎を見たかったから、などと言えるわけもない。まるでただの告白みたいではないか。
 だから咄嗟に別の言葉を口走った。こちらの言葉も恥ずかしかったが、彼の問いには答えたくなかったから。それが彼今一番、彼に言いたいことであったから。

「無視、しないで」

「え?」
 清矢郎から低い声で意外そうに尋ね返されれば、自分の言った言葉の意味に気付かされる。だが何もせずに此処から逃げ出し、また今までのように苛々し続けたくないと決めたのだ。このチャンスに何かしないと、苦しいままだ。清矢郎から話しかけてくれることなど、もうないのかもしれないのだから。
 口にしてしまえばもう引き返せない。あさぎは俯いたまま、少し大きな声で言い直した。
「私のこと、無視しないで!」
「……」
 清矢郎が息を飲んだ音が聞こえる。しかしあさぎだって四年間苦しかったのだ。彼だけがあの出来事を忘れて、幸せになるなんて許さない――。
 そうだ、これは恨みによるものだ。今の自分がどれほど醜い顔をしているかなど気にもしないで、あさぎはぐっと顔を上げると、昔のように負けん気の強い真っ直ぐな視線を清矢郎に向けた。
 彼は今度こそ驚いた表情であさぎを見ているが、その眼は逸らさなかった。その切なげにも見える視線に、あさぎの方がたじろぎそうになる。だが顔を背けられなかったことと、その瞳が昔と変わらない彼女を心配する色を含んでいたことに内心、安堵した。どうやら邪険にされることはないようだからだ。

 やがて清矢郎は、やや困惑したような声で呟いた。
「何でだよ……。俺のことなんか、眼も合わせたくないんじゃないのか」
 あさぎはかあっと顔が熱くなった。金魚も炎のようにぶわっと舞い上がる。
 ――やっぱり、覚えてたんじゃない!
 四年前、この彼に胸や陰部に触れられたことをフラッシュバックさせてしまう。混み合う竹の中に居るような、蒸した息苦しさまでも。相手も今、自分のそこに触れたことを思い返しているのかと思うと、尚更恥ずかしい。
 これ以上、色々と考えてしまう前にあさぎは早口で言い切った。
「いや、だし、せ……せいちゃんのことなんて、きらい――。でもそっちが悪いのに、無視されるのは、もっといやなの!」
 「嫌い」と他に表現が思いつかず口走った瞬間、あさぎの胸が不思議と痛んだ。言霊という言葉があるように、言えば形を成してしまう。それは刃物のような形をしており、あさぎの心を切りつけた。
 どうしてそんな気持ちになるのか分からないが、今更訂正は出来ない。
 そして心の中では「清矢郎」と悪態をついているものの、実際本人を目の前にして三年生であることもあり呼び捨てには出来ず、と言って「くん」付けや「さん」付けもおかしく、結局幼い頃の呼び名で呼んでしまった。それもまた子供のようで、恥ずかしい。
 様々な感情に痛いほど胸を軋ませるあさぎは、青いリボンの結び目を握り締めると唇を噛んで俯いていた。

「――」
 そこであさぎの言葉に、清矢郎が今一度何かを言いかけた時、
「加納ー、何してんだー」
休憩が終わったのか、先ほど通り過ぎた柔剣道場の正面から、胴着姿の男子が二人ほど清矢郎の姿を見つけ、こちらへとやってくるではないか。
 どきりとする間もなく、二人は不思議そうな視線をあさぎの方へと向けてきた。それを眼の端に捉えた彼女は、清矢郎の顔も見ず慌てて駆け出した。
「おい!」
 清矢郎が呼び止める声が聞こえたが、振り向くことなど到底出来ない。
 我に返れば、とても恥ずかしい状況である。彼と違う学校でよかったと心底思った。でなければ、あの光景を見た生徒に誤解され、あらぬ噂が立つかもしれない。清矢郎は彼らに何か言われるだろうか。従妹だと弁解するのだろうか。流石にあの無口な彼が過去の恥まで話すとは思えないが。
 しかし沈黙を守れば余計に冷やかされるだろう。それを迷惑に感じ、あさぎのことを悪く思うかもしれない――それも哀しいな、と思い切なくなる。

 そこで彼女は気が付いた。あの日のことが忘れられない。自分を傷つけた彼のことが許せない。だからこそ、清矢郎がこれ以上あさぎを虐げるような態度を取ることは絶対に許せなく、あさぎのことを大事に思って欲しいと思っているのだ、と。
 あの日のことをなかったことにしたいと言う割に、清矢郎には忘れさせたくない、この小さな自分の存在を、彼だけにでもどうにか認めさせたい、誰かに必要とされたいと望んでいるのであった。
 これはただのコンプレックスからくるものか、どのような感情から生まれた気持ちかあさぎにも分からない。きっと金魚を見せられた恨みからだ――と、こびりつくような赤い幻影と共に走りながら、あさぎは自分に言い聞かせるのであった。

 鞄が国語科準備室にあるため、このまま帰るわけにもいかない。あさぎは急いで準備室へと戻ってきた。隣の職員室を通過する際に、椅子に凭れて座っている荒芝の視線を感じたが、そちらは見ないようにして。
 文芸部の女子部員は未だ話に花を咲かせていたが、
「あさぎちゃん? どうしたの?」
流石、と言うべきか。部長の琴音は、入ってきたあさぎのまだ赤い顔と複雑な表情に気付いてしまい、お節介にも心配してくる。その言葉に全員が、戻りが遅かったあさぎの方を振り向く。
「な……なんでも、ありません」
 あさぎは俯いて首を振ると、そう呟いた。「ちょっと生理で、おなかが痛かっただけです」と突っ込みづらい嘘を付け足し。
 恋愛や性の話題に敏感な少女たちは、「何か『そういうこと』があったのではないか」という目であさぎを興味深げに見ている。従兄の試合を見に行っただけなのに、そんな眼で見られることは絶対に嫌であった。
 清矢郎のことは憎むべき存在。そうでなければいけないとあさぎは頑なに思っていた。でなければ、あの日のことを何度も思い出し、彼に忘れて欲しくないと主張する理由がつかないからだ。
「えっと……、じゃあ、文化祭で作る冊子の件だけどさあ」
 別の二年生が、気まずくなりそうな空気を何とかしようと、部活らしい話題に変えて皆の気を引いた。
 先輩に気を遣わせることになってしまい、申し訳ないと思いながら、あさぎはずっと俯いたまま、唇を噛んで動揺を懸命に抑えていた。

 今日のことで、何かが変わるのか。動き出すのか。あさぎに「無視しないで」と言われた清矢郎は、とても意外そうな顔をしていたが、どのような気持ちになったのか、今、何を考えているのか。それがとても気に掛かる。
 案の定、この日の出来事がいつまでも忘れられず、あさぎは今までになく毎日金魚を見る羽目になってしまったのであった。
 
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