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第11章 すっぱい幻
第65話 喪失(後編)
 ――きれい……。
 改めて清矢郎に気持ちを告げられたあさぎの上から、彼の背後にも。あの日よりもたくさん、まるで祝福の赤い花弁のように金魚たちは後から後から舞い下り、横に飛び、と乱舞している。
 七年前にも膨らみかけの胸と下腹部を触られながら、同じ大群の金魚を見ていた。それを思い出したことで、あさぎには眼前の清矢郎が中学二年生当時の彼に見えてきた。今よりいくらか背が小さく、肩幅も狭く、中学校指定のハーフパンツを穿いていて、頬にもあどけなさの残った少年に戻り、あさぎに告白してくれたかのような錯覚を起こす。
 となるとこの髪型であるし、もしかしたら清矢郎には小学六年生の自分に見えていたりするのだろうか。あさぎがそんなことをぼんやりと考え、金魚の舞いを眺めていると清矢郎が言葉を続けた。その低い声を聞いた途端、彼は二十一歳の青年に戻る。
「最初から、こうしてりゃ、よかったのかもな」
 清矢郎が珍しく微笑んだ。だが今度は自嘲とは異なっていた。
 もし、七年前。最初からこうしていたら、二人はどう変わっていただろうか。結果論であるが、上手くいったとも限らない。幼すぎて何もかもを壊し、彼を拒絶してしまったかもしれない。かえって取り返しのつかないことになっていたかもしれない。清矢郎も同様に考えたようだ。
「でもあの時じゃガキ過ぎたから、あさぎを幸せにすることなんて、出来なかっただろうな。――いつ、叔父さんたちに、話す?」
 今だからこそ、こうして具体的にお互いの立場や将来を考えられ、進むべき方向が見える。だから二人の絆も強靭なものになったわけだ。
「盆終わったらって思ってたけど、俺、これから就職活動だろ。勤める場所や県が決まってからの方が、叔父さん叔母さんも安心するよな、結婚の話するなら。その頃にはあさぎも成人してるし」
「そう、だね」
 高校時代からそんな夢物語を話してきたが、遂に二人の仲を打ち明けるだけでなく、どれだけ真剣かという話をするところまできたのだ。そうでないと、今後の親戚付き合いに差し障るかもしれないと判断したから。清矢郎は本当に、あさぎとの将来を考えてきてくれたのだ。
 あさぎはもじもじと膝を擦り合わせながらも、清矢郎を真っ直ぐに見た。そこには、照れ臭い言葉でも表情を変えずに淡々と言う青年が立って居た……薄闇の中に。襖や壁に目立つ染みができ、変色した畳も剥げてきたその部屋には、今は一匹の金魚も浮かんでいなかった。
 あさぎは金魚鉢を見下ろした。――居た。まだ二匹だけ、水の中を赤い金魚が泳いでいる。あの日一人で眺めていたのと同じ、「あさちゃんと、せいちゃんみたいだね」と言われ、抵抗を感じていたあの金魚が。

 ―― 一体いつから、始まっていたかと言われれば、きっと私がこの世に生まれた時から。
 小さなあなたに出会った日から。こうなると決まっていたに、違いない。

 七年前の夏の日、あさぎははとても怖かった。清矢郎との子供同士の、そしてただの親類であった間柄が突然崩されたから。それでも境界線の向こうへ踏み出したのは、彼と一緒に居たいと思ったから。他の誰にも渡したくないと願い、彼もそう思ってくれたから。一生一緒に居られる方法を二人で考えたのだ。
 だとすればもう彼の手を握っていれば、恐れなどないはずだから。恐怖や不安を慰めるための美しい幻影は見る必要がなくなり、これからは真に存在している彩と向かい合っていくことになるのだ。
「ねえ、せいちゃん」
 今なら聞ける気がして、あさぎは笑顔で問いかける。
「金魚、……見えてる?」
 あさぎの顔を見た清矢郎は、何故か胸を突かれたような顔をしていた。あさぎが自分の笑顔がそういう表情であったことに気付いたのは、彼の答えを聞いた時だった。
「――ああ」
 清矢郎もあさぎにしか分からないような、ごく僅かな笑みを浮かべて。それは嘘か真か、誰にも分からないが。

「あの、ね……。私、金魚が、見えなくなったの」

 今度は自分でも笑っていると、あさぎは分かっていた。泣いてしまいそうな気がしたが、頬は濡れていないのできっと笑えているだろう。
 清矢郎が感情を顔に出さない人物であることに、あさぎがこの時ほど感謝したことはない。彼はこの時一切の心の起伏を見せずに、「そうか」とだけ頷いてくれた。いつものあさぎの話を聞く時と、全く同じ調子で。
 あさぎは空になった金魚鉢を、古い棚の上に置いた。ことんと乾いた音がした。あさぎが宣言した以上、中には何も入っていない。透明なガラスの器に戻っていた。
「大丈夫か?」
 清矢郎の心配そうな声に、あさぎは「うん」と頷いた。
「……でも本当は、少し恐いの。金魚が見えなくなることが」
 あさぎは金魚鉢の代わりに清矢郎の手を取りながら、ぽつりぽつりと話し出す。
「私とせいちゃんを結んでいた証みたいだったのに、見えなくなるなんて、私やせいちゃんの気持ちが薄らいだのかなって悩んだこともあった。でも今なら、そういうわけじゃないって分かる。せいちゃんの言うとおり年齢から色んな力がついてきて、幻に逃避しなくてもよくなって、『本当にあるもの』が前よりちゃんと見えるようになってきたからだと思う。もちろんまだイライラすることは、私にもあるけれど」
 落ち着いて言葉にしてみると、これでよかったような気があさぎにはしてきた。清矢郎も同感してくれるのか、頷きながら話を聞いている。
「でもどれだけ時が経っても、おばあちゃん家や色んなものが無くなっていっても、金魚すら見えなくなっても、せいちゃんはずっと私の傍に居てくれた」
 あさぎはそこでふと笑顔を消すと、黒い瞳で清矢郎を見つめて確認した。
「でも、それでいいのかな。私はこのまま、せいちゃんに甘えていて、いいのかな。せいちゃんの傍から、本当は居なくなった方がいいんじゃないかな」
「――何、言ってんだよ!」
 薄々感じていた不安を、清矢郎がすぐに怒って打破してくれたことに、あさぎはほっとした。最初で最後だから、聞きたくなったのだ。金魚の喪失により、子供から大人になるに際して、「そうしなければいけないのではないか」とあさぎが思わなくてもいいように。

「私ももう金魚の幻覚見えることを盾に、せいちゃんに責任とってなんて言わないよ。言う必要もなくなった。でもここまで支えて、守ってもらってきて、この先もずっとそうしてもらっていていいのかなって。結局私は独り立ちできてないし、せいちゃんのこと、私が小さい時から縛って――」
「だから俺は、変わってねえって言っただろ! 俺は、最初からお前がよかったんだ。今更要らなくなったって言われても、困る。だから付き合ったんだし、皆に理解してもらうことにしたんだろ。他の奴となんて、絶対に嫌だ。これでいいんだよ。これでよくなくても、これから二人でなんとかしてきゃ、いいだろ!」
 痛いほど手を握り返され、噛み付かれるように睨まれる。そんな風に叱ってくれる清矢郎を、あさぎは何よりも誇りに思う。そんな彼に心から感謝する。
「うん。変なこと言って、ごめんね」
「……金魚は居なくなっても、俺は此処に居るから」
「うん」
「だから俺を、信じろ。お前だって何も変わってない。確かに前よりずっとしっかりしてきたけど、俺は昔から、今でもお前に助けられてるんだから」
「――うん」
 あさぎは震える声で頷いた。言葉の端々から、これは清矢郎なりの正式なプロポーズなのかもしれないと思え、鼻の奥がつんと痛くなってきた。
「だからお前も、此処に居ろ。お前は、もっとお前を信じればいい」
「うん、分かった。絶対に、清矢郎の傍に居るから。もうそんなこと、言わないから」
 長く抱いてきた劣等感などを清矢郎に打ち明けるまではしなかったものの、金魚を消失させられる唯一の存在である彼の手によって、幻影は消えていった。それも彼と一緒に現実を歩くという、最も望んでいた方法で。
 互いに過去を乗り越え、そして力を与え合っていく。ただお互いを信じて、傍に居て、今度は彼が迷った時に支えてあげればいい。それだけの、ことなのだ。
 それさえできれば、いつだって幸せになれるのだ。少なくとも、あさぎと清矢郎は。


 空っぽの金魚鉢を置いて歩き出した二人は、そのまま固く手を繋いでいた。夏の日が西に傾き出す頃、もうひとつの思い出の場所に向かって。
 もう水槽もない。守ってくれる水も無い。
 今度こそ生身で外に出て、この足で歩き、形ない思い出と、形ある命を大切にして。
 「どうする?」と顔を見合わせた二人がこの日の最後にやって来たのは、近くに建てられている小さな神社であった。林に囲まれたこの場所でも二人はよく遊び、付き合い始めた三年前には初めて唇を重ねたという思い出があった。
 また、十二歳のあの日に、「女」になってしまったあさぎが金魚と共に逃げ込んで、正体不明の身体の熱を持て余していたことも記憶に残っている。清矢郎も数々の歯痒い想い――あの日からあさぎに抱いていた劣情も含まれていると、彼は言う――を粉砕しようと、ここで素振りをしてしたこともあったようだ。

 今度はその場所で、「あの日」に帰ろう。
 二人の行く道が重なった今、今度はあの日から抱えていた、幼い故に叶えられなかった欲望を、大人になった身で叶えてやろう。

 それはなんと、幸せなことだろうか。
 何一つ、失ったものなどないのだ。
 そして全ては、無くなったのだ。
 変化という形で。

 飽き足らない。飽き足らない。古い家で情交するなどいけないと言っておきながら、長年の何かが消失し何かが生まれ、全てが生まれ変わった興奮から、二人は求め合わずにいられなかった。神聖な公共の場所で、と愚かさも醜さも分かっているのに。事件の現場となった祖母の家での葛藤は、三年前に初体験という形で昇華しているので、次はあの日以降ここで悶々と性欲に苦しんでいた自分たちを救いたい、と自己満足のために互いを欲す。
 金魚は見えなくなったが、あさぎの性欲が無くなったわけではない。今度こそ、身体の疼きを常に満たせられる方法や権利を手に入れられるのだ。今まではほんの時折、短時間触れ合うだけで欲求不満が募っていたが、こちらも大人になることで幻が不要になり、相手の肉体そのものに溺れればよくなったのだから。

 とどのつまり清矢郎の言うとおり、二人の欲深さも何も変わりはしないのだ。
 似た者同士である、血の繋がったこの幼馴染が、ひたすら愛しくてたまらないのだ。

 竹のざわめきも金魚が消えたと同時に聞こえなくなったが、代わりに高い杉の木の陰が、座って抱き合っているあさぎと清矢郎の姿を隠している。蝉の鳴く神社の境内。服を身につけているものの、肝心な部分が徐々に剥き出しにされていき、熱い吐息を絡ませながら互いの肌をよく味わう。――そして時が経つのも忘れて、今は何もかも忘れて、まるで動物のように何度も交わり合った。
 小さく、何度も相手の名を唱えながら。淫靡な音色を口や局部から奏でながら。互いの肉体に縋りつくように、折れんばかりに抱き締めて。
 あさぎはこの日、突き上げられて果てる瞬間に、泣き出してしまった。清矢郎と繋がっている時に、初めて「彼」だけを見つめることができたから。これまで必ず二人を覆い、時に彼の顔すら隠してしまっていた緋色のベールは、もう無くなったのだ。透明な涙以外の何にも視界を妨げられず、快楽に頬を染める清矢郎を思い出の神社や黒い木々の下に見ることができたのだ。
「……っ! せい、ちゃん――」
 清矢郎もまた感極まったあさぎの涙を指で拭い、それでも足らずに舌を伸ばして温かい雫を掬い取ってやっていた。
 
◇拍手&簡易メッセ◇

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