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第2章 自覚
第6話 して、みたい
 人に言えない過去があるものの、あさぎも人並みの生活を送りたい。悩みやすい性格でも、悩んでばかりいては楽しくない。そう考えたあさぎはこの金魚は一生見え続けるのか、大人になり清矢郎以外の人を好きになった時にどうなるのか、などと未来の不安はあまり考えないようにしていた。
 夏休み直前のテストも終わった七月初旬。あさぎは部活に行くため、別棟にある国語科準備室へと向かった。二階が図書館になっており、その隣に国語科の職員室と準備室があるのだ。
 先述のとおり、あさぎは文芸部に所属する。夕映に誘われて入部したものだ。本を読むのは嫌いでなかったことと、夕映と本の趣味が合ったことによる。
 正直なところ、この部活にはいわゆる「オタク」集団というイメージがあったあさぎだが、意外にも二年生の部長を筆頭に少し大人びた雰囲気の、そして明るい少女たちが多かった。大人びた――というのは服装や素行などの表面的なことではなく、どんな物事に対しても大勢の意見に流されず自分をしっかり持っている、という意味だ。言い換えれば個性が強いとも言える。皆、「自己表現をしたい」という意欲に溢れているのだろう。
 そういった芯の強い女子ばかりでなく、あさぎ以上に地味で口数の少ない女子や多少は男子もいる。ただ強い女子に押されて、そういった生徒たちはあまり顔を出さないか、来ても黙っていることが多かった。
 あさぎにとっては彼女たちとの会話は発見があったり、楽しめる部分もあったので、定例会の水曜日以外にも週に何度か顔を出している。原稿を提出して、それを印刷し冊子にするのは月一回。それ以外に皆でする活動は実は何もない――学校要覧に掲載されるような表向きの活動内容としては、書いた文章を互いに読み合い助言し合ったり、既存の作家の作品の検討などが挙げられているが、結局はただ雑談をしている帰宅部同然のものだ。しかし通学に時間をとられている彼女には、その程度の息抜きと交流が丁度よかった。
 ちなみにあさぎがこのように小さな、女子だけのコミュニティの方を居心地よく思う理由には、前述のとおり男子が苦手だという背景もある。昔は元気な少女であったが清矢郎との一件や、中学の時に失言をして仲のよかった男子に突然怒鳴られたことなどから、同世代の異性が何を考えているのか分からず恐くなり、次第に何を話してよいか分からなくなったのであった。

「失礼しまーす」
 準備室へと行くには、隣接する国語科の職員室を関所のように通る。席に座っていた文芸部顧問の三十路男性教諭、荒芝に声を掛けたあさぎはそのまま隣の部屋へと行こうとした。が、無精髭を生やした教師の手元に、ふと眼を留める。
「先生、そんなの読んでいていいんですかー?」
 彼が開いているのは競馬新聞。珍しく軽口を叩いたあさぎだが、不思議なものでこうした年上の男性とは話がしやすい。第一、教師の場合はそういう「仕事」なので子供たちにはサービスよく接してくれるからだ。
 それに荒芝は何処かけだるそうに授業をするが、どの生徒にも分け隔てなく気軽に声を掛けてくるので、あさぎのような引っ込み思案でも話し掛けやすいのだろう。
「んー、じゃあ内緒にしといてよ」
 彼は新聞をがさりと捲り、耳に赤いペンを挟むと口の端に笑みを浮かべた。
「えー、どうしようかなー」
とあさぎも意地悪なことを言いながら、笑って部室へと入っていった。
 本当はあさぎとて男性だからといちいち避けて通りたくはなく、出来れば普通に誰とでも話をしたいと思っている。しかし同世代の異性と親しくなるにあたって、とりあえず恋愛または性的な対象と見なすか否か、という「選別」を第一印象でされているような気がしてしまい、そう見られることも見られないことも嫌で、どうしてよいか分からなくなるのだ。それも自信がないうえに考え込みやすい彼女が、捻くれて見ているだけなのだが。
 それはさておき、荒芝とならば話していても金魚は見えない。「性」の対象としての感情は、お互い抱いていないからだろう。そう思うと、男と女とは何なのか。どうしてこんなに意識しなくてはいけないのだろう。意識しすぎて自分を上手く出せないあさぎは、やはり悩んでしまう。
 しかし部室に入ると、いつもどおり女性の先輩や同学年の女子が話をしていたので彼女はその輪に加わることにした。

 今日も他愛の無いファッションの話や芸能ニュース、読んだ本や漫画の話、学校の噂話で盛り上がっていたが、ここでの話題も次第にどろどろしたものへと移ってしまった。
「そういえばさ、中学一緒だったから噂聞いたんだけどさ、花梨先輩」
 その話題の卒業生のことは知らないものの、周りに合わせてあさぎは耳を傾ける。
「なんかね……、大学入学してすぐ妊娠しちゃったんだって。彼氏できたのかな? 結婚するかは分からないけど、産むつもりだって聞いたよ」
「えー!! ウソだあ」
「だってだって、言っちゃ悪いけどすごい大人しい、つうか暗い人だったのに……アニメの話なら盛り上がれるみたいな感じの」
「でも大学だし、いろんな人いるじゃん。同じようなタイプがいたか、慣れてないから適当に遊ばれたとかじゃないの?」
 自分に関係のない話だからこそ盛り上がる。十代の少女たちは矢突き早に想像で言いたい放題。話によれば噂の少女は、とにかく大人しく友達も少ない少女で、男性とそういう関係になるのは皆、想像がつかないことだと言う。
 しかしあさぎはその少女に会ったことはないが、彼女の気持ちが少しだけ分かるような気がした。――もし、彼女が上手く人と関われないだけで人並みに性欲があれば、その「女」になる登竜門のような行為に興味を抱いたのではないか。快楽の持つ魅力だけでなく、大人しい自分でも優れた者になれた、世間に認められたような気がする憧れにまかせて。
 誰かに「選ばれ」なければ、そこには至れない。そんな形でもいいから、誰かに認められたい、誰かと密に接したい。誰でもいいとは言わないが、あさぎにも近い気持ちはあった。だからこそ、おそらく男性慣れしていないのも手伝って、噂の少女はその「毒」に手を伸ばしたのではないだろうか。
 あくまでこれはあさぎの中の推測で、既にこの世に宿っている生命のことを思えば、どうか相手と愛し合ったうえでの行為であって欲しいと、知らない人のことであっても彼女は祈りたくなるのだが。

「でもあたしも気をつけなきゃなー」
 そこで大学生と付き合っていると言う二年生――部長の中村 琴音は思わず呟くと、しまった、というようにわざとらしく口を塞いだ。
 彼女はそれこそ綺麗な外見だけでなく、セーラー服も自分らしく着崩すなど人一倍個性が強く、他人と違う空気を持っている。書いている小説もさすが部長と言うだけあり、あさぎには売っているものと同等な文芸作品に見えている。内容も女性心理や性的なものを主題にしていることが多く、校内には文芸部以外にもファンがいると言う話だ。その手合いのエッセイまで手がけているため、オープンな彼女のことだ、既に「経験済み」ということに誰も疑いは持たない。
「そうね。気をつけなさい」
 琴音と親しい二年生が、眼鏡を上げながらため息混じりに琴音の肩を叩く。あさぎがちらりと隣の夕映を見れば、彼女も神妙な顔をしていた。口には出さないが、他校生で先輩の彼氏との関係を考えているのだろうか。
 ――夕映も経験、あるのかな。
 そんなプライベートなことは聞いてはいけないと思っているあさぎだが、身に纏う空気や、彼氏と過ごしている時間の長さから、高校生になったのだしきっと「そう」だろうと想像していた。

 ――いいなあ。
 その時あさぎはふと、そんなことを思ってしまった。

 性行為をしていることをうらやましいと思う――その瞬間に金魚が飛び立つのは自明のことだった。赤い影はいやらしいあさぎを囃し立て、小さな胸は急かされるように高鳴ってくる。
 そういうことをしている少女たち。そういうことをしている自分。そんな淫靡な光景を想像しては、顔や体を熱くしてしまう。
 しかし実際は虚しい妄想だけで、相手は居ない。
 あさぎがそれらを手にしている「女」の彼女たちに感じるのは、劣等感。
 噂の先輩のように、地味な女性でも経験しているというのに。経験が早ければ優れているわけでもないのだが、アルバイトの件といい、どうしてこうも「大人」の真似をしている彼女たちをうらやましく思うのだろうか。
 ――でも、私だって、……少しなら、経験、あるもん。
 ぺちゃくちゃとお喋りをする少女たちの間を泳ぐ金魚を見ながら、あさぎはスカートをいじり、こっそりと唇を尖らせた。自分だって、「女」と見られたことがある、男に身体を触られたことくらいあるんだ、と自慢出来ることではないのに自己主張する。
 そこであさぎは、はっと気付く。あの忌々しい一件を、醜い優越感や同属意識を感じたいがためだけに思い出そうとしている汚らしい自分に、自己嫌悪を感じて顔を顰めた。
 そしてあのままその続きをしていたら、小学生でそれを経験していたことになるのか、その時に自分も妊娠でもしていたら――と有り得なかった過去だが、恐ろしさに身を震わせる。だがそれを想像したことは、一度や二度ではなかったのだ。たとえば……。

 そこまで考えた時、どうしたことか窓の外へと金魚が泳いでいった。あさぎが視線をそちらに向けると同時に、開け放たれた窓の下から複数の人の話し声が聞こえてきた。
「あれ? 平日に練習試合? 珍しい。日が長いからかな」
 こういう話題が苦手なのはあさぎだけではないようだ。別の二年生があさぎの視線に気付き立ち上がると、話を変えるように窓の方へと歩いていく。
「へー、どこー?」
 運動部と兼部している女子もいる。別の女子生徒も興味を示すと、窓から外を見下ろした少女は答えた。
「やっぱ、北高だ。近いし、レベル的にも似てるもんね。柔剣道場であの荷物だから……剣道部かな?」
 その言葉に、金魚がぴちゃんと跳ねた。あさぎの心も驚きにぜる。
 しかし「彼」は三年生だ。引退している可能性もある。それでもこの金魚のはしゃぎようからも、そして乙女の直感からも、彼――清矢郎は居るのではないかという確信と心踊る期待が、あさぎの胸に宿る。
 そしてもしも本当に彼が居るならば、見に行ってみたい……かな、などと性に関する話題から清矢郎を思い出していたからか、彼女は自然と思ってしまったのだった。
 
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