滅多に会えないのは寂しいと、あさぎは清矢郎とほぼ毎日メールを交わしている。けれど必ず毎晩というわけでもない。これも彼と気持ちが離れてしまったようで焦った時期があったが、清矢郎にとって重い存在になりたくない、なってはならないという気持ちも芽生えた。
それに清矢郎も言っていた。メールをやり取りしないからといって嫌っているわけでも、嫌われているとも思わないから信じていていいと。だからメールに頼らない日も最近ではある。
だが今日、あさぎは中学時代の同級生から告白されてしまった。過去の出来事や馴れ馴れしく肩に手を回されたことは言うつもりもないが、告白の事実だけでも伝えた方がいいのか。折悪く今は大学も夏休みで、清矢郎は剣道サークルの合宿に出かけている。友達と楽しんでいる時に込み入った話をするのもどうだろうか。付き合い始めの頃であれば狂ったように電話をかけていただろうが、あさぎも十八歳。相手の立場も配慮するようになってきた。
――もう。「彼女」がこんなに困っているのに。
あさぎはベッドの上でむくれるが、それは一度は言ってみたかった台詞だ。
同時に二人の男に言い寄られる。密かに憧れていたこの状況に、酔っていたいのだろうか。だからその期間を引き延ばすために、理由をつけて清矢郎に話そうとしないのか? まさか――。
あさぎがそこで嫌な予感に背後を振り向くと、赤い金魚が泳いでいた。いや、金魚ではない。それよりも長い。赤い腰紐のようなものが、身をくねらせている。
――なに? 幻覚?
そもそも金魚自体が幻覚なのだが、これまで金魚以外のものを見たことがなかったあさぎは、咄嗟にそれを「ありえないもの」として視界から遮断した。これは自分の心の中の象徴として認めてはならない、金魚以外のものは存在させてはならない。
何故なら、金魚はあさぎと清矢郎だけのものだから。
この狭い水槽の中に、他者の侵入を許してはならないのだから。
金魚が示しているものは、清矢郎への想いの丈と言い切れるほど美しいものではない。けれど清矢郎とのことをきっかけに見えるようになり、十二の夏からそれだけに囚われて生きてきた。これまでの自分を、自分たちを否定したくないなら。
その時、あさぎの携帯電話にメールが届いた。一瞬期待したものの、熊谷の名前を見てがっかりしてしまった。
清矢郎は友達との時間を大事にする。あさぎから連絡をした場合は、心配して会話を中断してでも返信や電話をくれるが、余程暇でない限り他人と一緒の時に彼からメールを送ってくることはない。無口な清矢郎はぺらぺらと喋っているわけではないだろうが、仲間との会話に集中したいらしい。
今日の告白を確認するように繰り返し、どうでもいいような話題を織り交ぜた熊谷からのメールは文字数が多い割に、言葉の少ない清矢郎のメールからのような安心感は得られなかった。同じデジタルの文字だと言うのに絡みつくような視線、もしくはいつ氷が割れて水底に突き落とされるかもしれぬ不安が浮かび上がってくる。ただ単に彼が好きではないからだろうが。
しかしあさぎは自分だったらメールを無視されたら悲しいなと思ってしまい、つい律儀に短めの返信をした。熊谷がこんな風にメールを送ってくるのも、あさぎが交際を断ったからかもしれない。熊谷の性格ならあさぎが落ちるまで躍起になって口説き倒し、万が一にも彼に本気になればそこで飽きられてしまいそうだ。
清矢郎以外の男子と仲良くなった経験がないため、過去の清算やそこからの劣等感の解消のためにも、熊谷と友情を築こうかと画策したあさぎだが、思ったようにはいかなさそうだ。浅はかな自分をあさぎは早々に恥じる。
あさぎがメールを返したことで、熊谷から更に返信が届いた。これからもメールは送られ続けるのか――。その不安は的中し、それからしばらくの間、熊谷からのメールが毎日続く羽目になった。
真面目に返信を続けていたあさぎだが、毎日というのは流石に少々辛くなってきた。熊谷もメールでは気さくで、嫌なことを言われているわけではない。しかし自慢話も含めた彼の話にどう付き合ってやればいいのか、どんな言葉を返せば喜ぶのかよく分からず、メールだというのに気疲れする。一度は電話が掛かってきてしまい困ったが、丁度母親に呼ばれ、すぐに切ることができてほっとした。
もしかしたら熊谷は自分のペースで、自分を大事にされることに慣れているのかもしれない。あさぎが清矢郎にしてもらってきたように。
残念ながらこの一週間清矢郎とは時間が合わず、メールで相談するには難しい話かと思い、この件をまだ相談できずにいた。合宿後、電話もしたが母親の眼や料金が気になりいつもどおり短時間で切ってしまい、結局言いそびれてしまった。
それに熊谷とはメールだけで、何の関係も始まっていないのだ。だから顔が見えない状況でややこしい話をして、清矢郎の気を揉ませたくなかった。
何よりあさぎ自身、後ろめたさがあるのかもしれない。こんなことになっているのは、そもそも連絡先を交換した自分の所為だ。昔の嫌な出来事が少しでもいい思い出に変わらないか、人を頼って自分のコンプレックスを解消できないかと、軽率な行動をしてしまったかもしれない。ただ単にちやほやされたかっただけと思われても仕方ない。
夏休み中の友人にも会えない一週間、一人で熊谷との微妙な関係に臨んでいたあさぎだったが、遂にそのままではいられない時がやってきた。
熊谷はやはり相手の都合を考えない少年のようだ。時間を考えずにメールを送り、時に即答を求めてくる。無論、あさぎやあさぎの友人にもそういうところはある。けれど清矢郎は、そういうことを滅多にしない。大体あさぎが眠る前や休日の退屈な時、放課後などにメールを送ってくる。授業時間中にも送られてこない。
だから夕食の際に一通のメールが届いた時は、あさぎも熊谷からだとすぐに分かった。うっかり居間に置いたまま、マナーモードにもなっていなかった。母親がじろりと睨んでくる。携帯電話料金は約束の範囲で収まっているものの、受験生で年頃の娘ということもありちくちくと心配してくるのだ。
「相変わらずメールばっかり。受験生なのに、何やってるのよ」
成績は安定しているがもっと勉強して偏差値の高い大学に行けばいいのに、とも言われている。あさぎが私立大学を志望しているので、金銭上の文句もあるようだ。と言って、自宅から通える公立大学は清矢郎の通っている学校しかない。今の学力では到底無理だ。
父親は相変わらず黙っている。母親に同感なのか、逆らってこれ以上彼女の機嫌を損ねたくないのか。
あさぎが返信をしなかったので、熊谷からのメールが立て続けに届いた。母親は更にむっとした顔をして、あさぎを一喝する。
「電源、切っておきなさい!」
しかしそれくらいのことを金切り声で叫ばれ、あさぎも今日はかちんと来てしまった。生理が近いからか。熊谷からのメールに辟易としていたからか。清矢郎にしばらく会っていないからか。この不安を誰にも話せないでいるからか。好きでもないのに、嫌とも言えず清矢郎以外の男子とやり取りをしている自分に苛立っているからか。つい反抗的な態度をとってしまう。
「分かってるよ。うるさいな」
「何よ! その態度」
「だってお母さんうるさすぎ。別にごはん食べないでメールしてるわけじゃないじゃん。他の家の子、そんなに言われてないよ」
「あんたが土日ふらふら出かけてるから、心配してるんでしょ! 本当に勉強しに行ってるの? 変な人と付き合ったり、変なことしに行ってるんじゃないの!?」
「大丈夫、だって! 勉強もしてる! 受験もがんばる! たまには息抜きしたっていいでしょ!」
「やめなさい」と父親は一応止めるものの、おっとりした彼の言葉はヒートアップしている母娘には届かない。
あさぎにしてみればメールが好き放題できる熊谷も、好きな時に好きな人と会える夕映も、稽古事は大変でもそれ以外のことは口うるさく言われず、気になる年上の人も両親に気に入られているという透流も、皆が羨ましかった。
だったら清矢郎との関係を両親に打ち明ければいいのだが、そうしたところでこの母親が、じゃあいつでも会ってもいいと言ってくれるわけでもないだろう。受験生の立場で、不健全な――車の中で肌を重ねるような男女交際を許してくれるとは思えない。それでも「それ」がしたい以上、清矢郎との関係を話すならせめて大学生になってからにしよう、もっと自由に行動できるようになってからにしよう。あさぎはそう考えていた。
好きな人を好きと言う感情を解放できず、会いたいのに会えない。そんな抑圧に苦しむのは、年齢が足りないからではなく、この過保護で心配性な母親の所為なのか――?
熊谷の登場により、これまでに積み重ねてきた不満が爆発してしまったあさぎ。金魚は母親の方へと攻撃するように口を開ける。けれどそれは小さく弱いもの。高圧的に怒鳴られれば、彼女は眼を潤ませて黙るだけ。
いつも人の所為にして、堪えることでこの場を凌ぎ、いつか自分の願いは叶うだろうと何もせずに待っている。そして自分で未来を掴み取って生きている人を羨んでいる。清矢郎と付き合っても、何も変わっていない。
それにしてもやはり、母親は母親だ。男の影を薄々感じ取っているようであさぎはどきりとしたが、証拠は残さないように心がけてきた。清矢郎が高校生だった時に公衆トイレでしていたことや、現在車の中でしていることを誰かに通報でもされなければ誤魔化せるはずだ。
第一、従兄なのだ。あの行為以外は、連絡を取り合っていたと言ったところで叱られることではない。要は時々結んでいる男女の関係について、とやかく言われたくないだけで。
これでも母親は見ないふりをしているのかもしれない。彼女なりにあさぎを信じて、時にこうして叱って。そんな母親に対しどういった態度を取ればいいのか分からないが、「勉強はしている。受験も頑張る。息抜きがしたい」、この言葉に尽きる。「息抜き」に性交が入っているのは否めないが、そればかりしているわけでもない。自分の性との付き合い方を、甘い部分はあっても考えているつもりだ。
だからこれ以上話すことはないと、あさぎは押し黙った。母親はまだぶつぶつ言っているが、あさぎがそう言う以上どうにもできないようだ。父親が二人の喧嘩が収まるのを、黙って待っていてくれるのは助かった。
ただ最後に「土日、あんまりふらふらするんじゃないわよ」と、釘を刺されたのは痛かった。入試まであと半年。これ以上心配かけないためには、受験が終わるまで月一回の逢瀬も危うくなるのだろうか――。本当はもっと反抗して、今すぐ大人の権利を勝ち取った方がいいのか。だが養われている身でそれはできない。あさぎとて自分の受験を成功させたい。まずは大学生になることだ。あさぎはどっと疲れた顔で自室に戻った。
もしこの人の子供でなければ――などと一瞬でも考えてしまったあさぎだが、すぐに反省する。そんなことは絶対に言ってはならない。命がけで産んでもらい、育ててもらったのに。それはあまりに幼いと、一人になったあさぎは冷静に考える。第一、産んでもらえなければ清矢郎とは出会えなかった。そのうえ大学卒業まで学費も出してくれ、後悔なく勉強して欲しいと願うからこの身を案じてくれるのだ。厳しくともたくさん抱き締めてもらい、人として生きる知恵や正義感なども教えてもらってきた。
いつか荒芝に言われたとおり、自分が両親に愛されているのは確か。だから今は、感謝の代わりに勉強に専念する時かもしれない。外出禁止令を出されたわけでもない。
家族内のルールはその家族にしか分からない。山本家の場合、子供ができるかもしれない行為は慎重にしろということを、以前より教えられている。だからあさぎが母親に一人の女として恋人の存在を認めてもらうには、どうやら成人してからの方が簡単に話が進められそうだ。
――うん、言おう。大学生になったら、お父さんとお母さんに、せいちゃんとのことをちゃんと話そう。
社会に出るまで黙っていようかとも思ったが、嘘をつき続けるのも良心が咎める。二人の関係を話して理解してもらった方が、交際ももっと気軽にできるかもしれない。身内ゆえに大変なこともあるかもしれないが、それでも成人していれば口出しされづらくなるだろう。
――頑張って、大学生になろう。
清矢郎と対等になりたい。彼ともっと会いたい。そして愛されている「子供」ゆえに縛られている様々なものから、解放されたい。あさぎはあさぎなりに両親に感謝した結果、そんな決意を固めていた。
そうなると、自己中心的ではいられない。過去とそれが原因で抱いている劣等感に決別するためにも。そのためにも他の男に眼を向けられていたい、などという醜い感情は捨てねばならない。
――強くならなきゃ。前に進まなきゃ。
あさぎは熊谷のメールを一読したものの、その夜は返信せずに画面を閉じた。
・・・・・・・・・・
まだ夏休みは終わっていないが、今日も補習があった。この日は透流もあさぎと同じ授業を受け、彼女が居ればクラスの女子とも話しやすい。授業後、久しぶりにクラスメイトたちと談笑をした。
女子だけが残っていたため、やがて恋愛の話題へと移っていく。文芸部に限らず、女子同士が集まればそういう流れにもなる。だが今日の内容は丁度、あさぎが今気にかかっていることと重なった。
「だからさあ、一生ずっと一人の人とだけって、あたしは、やなのよ」
その少女はまだ男性と付き合ったことはないが、最初に肌を重ねた人と添い遂げ、他の男性を知らないまま人生を終えるのは嫌だと言うのだ。同調する女子、大人にならないと分からないという女子、その人が好きなうちはそうは思わないだろうという女子と居たが、言葉に詰まったあさぎと透流は顔を見合わせた。
透流はほんのり頬を染めて首を傾げている。好きな人のことを思い出しているのか。透流の性に対するこだわりは、あさぎよりもずっと淡白な気がする。だから彼女なら今好きな人に一生を捧げることに、何の迷いもないだろう。肉欲などに目を眩ませず、大事なものを手放さず、真っ直ぐに生きていきそうだ。
そんな透流が眩しかった。今度は境遇が、ではない。その廉直な魂が。彼女なら熊谷のような男に言い寄られても、心をぶれさせないだろう。そもそも隙を作らないかもしれない。あさぎは「私も透流ちゃんと同じだ」と宣言するように、彼女に笑顔を向けた。
――そうでありたい。清矢郎だって、そう言ってくれるかもしれないのだから。男性なのに、まだ若いのに。浮気もせず、最初に抱いたあさぎの身体だけで一生構わないと表情も変えずに言いそうだ。あの日あさぎの心を壊した負い目からだけでなく。
誰でもいい、女扱いされたい、愛されたい。清矢郎と気持ちを通い合わせる前は、どうしてそんな欲望に振り回されていたのか。
けれど今は違う。清矢郎は自分を信じてくれている。こんな自分でも、心から。
どうして心がぶれた? どうして他の男のことなど、考えられる? 金魚を見せた自分に愛情を感じ、金魚ごと自分を受け入れてくれた彼以上に、この世界に自分を想ってくれる人間が居るとでも? その彼をどうして、裏切れる?
金魚を見せてくれた、竹のような姿に魅せられた、あの人のようになりたい。
恥ずかしくない、自分で在りたい。
あさぎはその日から、熊谷のメールへの返事を完全に止めた。母親に叱られた時から頻度を落としていたが、彼に気持ちを察してもらうよう祈り、ようやく一切の返信をしないことにした。かえって熊谷を傷つけたかもしれない。自分が悪かったと分かっている。それでもメールが届き続けても、冷たく跳ね除ける。
同窓会の連絡も来なくなりそうだが、全ては自分の撒いた種。強くならないと。自分の方が過去を受け入れてやらないと。そのために、過去と決別するのだ。
回り道をしたことがよかったのか、分からない。だがこれが、十八歳のあさぎが出したぼろぼろの結論だった。
・・・・・・・・・・
そして八月もあと数日で終わりという日。すれ違いが続いていたあさぎと清矢郎は、久しぶりに会うことができた。今日も車で出かけたが、山の中ではなく見晴らしのよい都市公園へと連れて行ってもらう。
セックスができなくてもいい。今日はゆっくり話をしたい。清矢郎には悪いがあさぎがそうお願いすると、彼女の意思を彼は尊重してくれた。
そんな清矢郎だから。いつもいつもあさぎのことを一番に考えてくれる彼だから。あさぎも彼のことを考えなければならず、自分本位であってはいけない。心配かけたくないと黙っていたが、自分の醜い感情を知られたくなく、このまま何もなかったような顔をしていようと思っていたが、やはりそれではいけないのだ。
「あのね、せいちゃん」
清矢郎からサークルの合宿の様子などを聞かせてもらっていたあさぎだが、駐車場から降りて風通しのよい高台まで歩いてきたところで思い切って告げた。夏休みの間に起こった、一番重要な出来事を。
「えっとこの前……ど、同級生から告白、されちゃったんだけど」
その言葉を聞いた途端、清矢郎の眼が大きく見開かれた。
◇拍手&簡易メッセ◇
個人サイト>碧落の砂時計TOP
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。