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第7章 はじめての…
第39話 はじめての時、はじまりの時
 「それ」は一度始まると、意外と呆気ないものでもあった。どうしてもしたくてたまらないと、あさぎはこれほど思いつめていたというのに。なんだ、これだけのものかと冷静な感想を抱いてしまった場面があったこと、反対に頭の中が真っ白になってしまい、あっという間に時間が過ぎ去ってしまったことから、そう思ったのだろう。
 あさぎにとっての初体験は、思い描いていたものとは少々違っていた。清矢郎が力加減を知らなかったことも、その一因かもしれない。十六歳の少女がその喜びを深く知るにはまだ早いということは、この時のあさぎには分からず、自分たちの身体の相性が悪いのかと不安になってしまった。
 しかし清矢郎に不満があるわけでは決してない。あさぎは彼がそんな風に感じている自分にがっかりしていないかと心配になって、途中で何度も尋ねた。自分の反応がおかしくないかと。感じ足りないと思われているのか、それとも素直に声などを出してしまい、気持ち悪がられていないか。
 だがそれに対する清矢郎の反応は、あさぎの心を十分満足させるものだった。もちろん甘い時間を期待しているのに素っ気無い返事をされ、苛立つこと、心配になることもあった。そこであさぎがしつこく問い続けると、彼は怒ることなく「だから、今のままでいいから。嫌なわけないから。言わせるな、恥ずかしい」と怒ったように吐き捨ててくれた。眼鏡を外した、この時の清矢郎の表情の可愛さといったらない。こればかりはこの行為の際にしか見られない顔なので、やはり自分は今、とても幸せなことをしているなとあさぎは思った。

 何より印象的だったのは、初めて感じる清矢郎の手、唇、舌、肌の温度、身体の重さだった。
 自分で自分の身体に触れたことのあるあさぎは、軽い性的快感を既に体験している。だからいくら大好きな相手であっても、想像ほどの快感は得られなかった。自分でした方が……などと一瞬でも考えてしまう。
 だがここにもしっかりと、あさぎ一人では感じられない悦びがあった。大きな手で肌を撫でられる、唇や舌といった有り得ないもので汗ばむ身体に触れられる、一糸纏わず身を寄せ合う。これは絶対に一人で出来ないことであり、まさにそれを夢に見ていたのだから。
 互いに夢中になったり焦ってしまったりした時は見失うが、ふと動きを少なくし、ゆっくりじっくりと寄り添えば、心の底から幸福を実感する。伸ばした手の先に、自分に喰らいつく愛しい人がいる。癖になりそうだ。もっともっとと求めたくなる、まさに悦楽。
 だから大人は禁止しているのだな、とあさぎは納得した。きっとこうした、まだ未熟な自分たちには他のものが手に付かなくなりそうな強烈な刺激がいけないのだろう。
 清矢郎のぬくもりにうっとりと眼を閉じることもあるが、母親の声が耳の奥を過ぎり、罪悪感に胸が痛む。駄目だ、駄目だ。こんないけないことは今日限りにして、勉強に励もう。清矢郎にも、分かってもらおう。既に二度はしたくないと思われているかもしれないが。
 だけど、あさぎはまたこれをしたい。期待外れの部分はあっても、それを凌駕するこの甘美な蜜を味わいたい。きっと数を重ねれば、互いに上手になっていき、いいなと感じる瞬間の方が増えるはずだ。
 そんな淫らなことを願ってしまう自分に、高校一年生のあさぎの心は葛藤で潰れそうになる。緊張で胸を壊れそうに高鳴らせたり、快感に酔い痴れたり、それが得られず考え事をしてみたり、切なさに泣きそうになったり。乙女心は千々に乱れる。
「清矢郎……」
 だがそう呟いて広い背中に手を回せば、彼が抱き返してくれるのは、やはり何にも変えがたい喜びだ。このようにのんびり考えていられるのも、最後の痛みや、その先のリスクがこの時点ではまだ生じていないからなのだが。

 しかしこうした戸惑いがあったおかげで、行為の間、あさぎは金魚の幻影に悩まされなかった。もちろん赤い金魚は見え続けている。それが薄暗い部屋で大演舞を見せる中で、もぞもぞと二人で動いていたのだが、思った以上に清矢郎の動きや自分の身体に神経を向け、気が逸らされていたので金魚がいつもよりも綺麗に踊っていても興味をそそられなかった。
 ――だからあさぎは驚いた。強い痛みを伴う最後の瞬間に、急に真っ赤な金魚たちが波のように襲い掛かってきたのには。
 身体を引き裂くような激痛が、あさぎの身体を下から上へと走る。同時に血がほとばしったように、ぱっと視界に広がる金魚。頭からその血をすっぽり被ってしまったようだ。赤。赤。赤しか見えない。鈍い血の色。緋色。紅。時に鮮血。
 今思えば前段階の幸せな時間は、ままごとのようなものだった。あさぎの人生において経験したことがないほどの痛みを必死で堪える。身体が割れる。息苦しい。もう嫌だ――止めたい。だが清矢郎には、止めて欲しくなどなかった。無理矢理にでも本懐を遂げて欲しかった。
 ここで出来なかったということになる方が悔しい。これは愛情なのか? それとも、間違っているのか。いくら愛とやらがあっても、痛いものは痛い。それでもどうしてこれをしたいと思うのか、その理由も最早分からなくなる。
 あさぎは開いた足先に力を入れ、眼をぎゅっと閉じると歯を食い縛った。逆に力を抜いた方が楽なのかと、意図的に息を吐いてみるがどうしても力が入ってしまう。床には縋るものがないので、真っ赤な幻影の中で手を伸ばして、清矢郎の肩や腕のあたりを握り締める。
 苦しくて痛くて、あさぎは赤い闇の中、咽び泣く。それでも少しの間、耐えようと心を決めた。初めての、大好きな清矢郎との瞬間だ。せめて彼の顔を見たい。そうすれば少しは耐えられるかもしれない。あの堅物で無表情な清矢郎が、あさぎの身体の上でどれほど淫靡で雄々しい表情を湛えているのか。それがたとえ醜いものであっても見届けたかった。
 だが何も見えない。眼を閉じても開いても赤の世界。魚のようなものがうじゃうじゃと蠢いているだけだ。
 ――何これ、いやだ!
 あさぎは痛みのあまり失明したのではないかと、焦って何度も瞬きした。このまま外界が見えなくなってしまうような恐怖を感じた。逆にそちらに気持ちがとられたおかげで、身体の痛みは多少緩和した。
 あの日、幼いあさぎが清矢郎に触れられた時に金魚の幻影が見えたように、どうやら欲求不満の時だけでなく、性に関する危険から己の心や身体を守るべくあさぎの本能が働いた時に、こうしたまやかしをを見せるのかもしれない。傷を麻痺させるために。
 痛みと引き換えに、血痕の如き金魚があさぎの全てを埋め尽くした。耳の中まで入ってくる。音も聞こえない。あの四年前の量の比ではない。――だがこれでは、清矢郎の顔が見えない!
 冷静さを失ったあさぎは、狂ったように髪を振り乱した。そして痛みも手伝い、泣きながら叫んだ。
「いやあ!! どいて!!」
 瞬間、清矢郎の身体がびくん、と揺れたのが振動であさぎにも分かった。そこで彼女は我に返った。

 あさぎはそこまで察しの悪い子ではない。今の言動は清矢郎に誤解させたとすぐに分かった。
 そう思ったのもこれまでの行為において彼は無口で武骨で、貪るような激しさも見せる一方で、あさぎの反応を常に気にし、何をするにもこれでいいのかと何度も尋ねていたのだから。
 これでは最悪だ。この行為の途中にそんなことを言われれば、誰だって誤解する。焦ってひやりとしたことで、金魚のカーテンが僅かに開いた。あさぎは涙で眼を洗おうと何度も瞬きをする。ぼやけた視界の中に、眼鏡を外した汗だくの清矢郎の顔がようやく確認できた。
「ご、ごめん!」
 あさぎが慌てて謝るのと同時に、
「そんなに、嫌なのかよ」
清矢郎は暗い声で呟いた。あさぎは懸命に首を横に振った。ここまで来て、最後まで出来ないことだけは嫌だ。だが、こうしている今も痛い。早く終わらせて欲しい。ロマンティックさの欠片もない。それが処女であるあさぎの本心だ。だが、話などをするだけの余裕もない。
 あさぎは懸命に手を伸ばして清矢郎に抱きつくと、叫んだ。
「いい、から。いたい、だけだから、やめないで、早く――」
 上手い言葉など、思いつくわけがない。清矢郎に嫌われたらどうしようと思うが、あさぎもこの状況では多くを考えられない。正直な気持ちが口についた。
 清矢郎もたとえ気を削がれることを言われたとしても、ここまで来れば止められなかったのだろう。あさぎの答えによってはここで中止するつもりだったかもしれないが、彼女が積極的な言葉を吐いてくれたため、彼もまたかねてからの、もしかしたらあさぎ以上に募っていたのかもしれない衝動に任せて、全身を動かし始めた。

 ・・・・・・・・・・

 どれくらいの時が経ったのか。意外にも短い時間であったのかもしれない。外を通る車の音がまるで遠い世界のもののように、薄暗い部屋の中では聞こえる。清矢郎はぼうっとしているあさぎの身体を抱いてくれているが、小さな頭の上でしきりに汗を拭っている。確かに、暑い。筋肉質の彼にしてみれば、余計にそう思うだろう。
 ――終わったんだ……。
 今は呆然としているあさぎ達であるが、行為直後は余韻も何もなく慌しかった。万が一誰かに見られては言い逃れが出来ないと、あさぎは痛みに顔を顰めながら急いで服を着た。清矢郎の動きも素早かった。彼が何をしているのかなど、あさぎは恥ずかしくて見られなかったが。
 ようやく服を着て何事もなかったかのようにした後、あさぎにどっと疲労が襲った。清矢郎に倒れ込むように寄り掛かれば、彼が優しく受け止めてくれたので、ほっとした。してしまった後、冷たくなるような男もいるから――これは仕方のないことだけれど、それをあからさまに態度に出すような奴には注意が必要だ、と夕映だけでなく幾人かの女子同士でも話題になったことがあるが、清矢郎はそうではないらしい。やっぱりいい男を選んだとあさぎはそっと微笑む。
 しかし男性だけでない。終わった、と気が抜けてしまったのは、あさぎも同じだ。しかしセックスに対する憧れは前ほど狂信的でなくなったかもしれないが、清矢郎に対する思い入れ、執着心は少し方向を変えて強くなった気がする。ただ彼を振り向かせたいだけでなく、もっと深いところで分かり合いたいと思うようになっている。心も、身体も。
 そして事前にあれほど思いつめていた割には、不思議と感慨に涙しなかった。――きっとこれは、終わりだからではない、始まりだからだ。
 秘密の恋の日々が、これから始まる。あの日以上に誰にも話してはならない、大きな秘密が出来た。従兄妹同士は結婚も出来るものの、あさぎたちの年齢が問題であり、知られれば厳しい二人の両親に高校生の分際で、とどれだけ叱責されるか分かったものではない。
 大人になるまで、大切な人たちには少しの間黙っていよう。そして認められるような大人になるよう、日々を一生懸命過ごそう、それまで互いを諦めずにいよう。それには、少なくともあさぎが受験を終えるまでの三年間は時間が必要になる。とても簡単なことだが、とても難しいことであるということはあさぎにも想像が出来た。高校生にとっての三年は決して短いものでない。
 だから今日は、そのスタート地点だ。従兄妹というだけでない、男と女の深い関係になった清矢郎との次のステップへの。両親に大きな嘘をつくことは恐くてたまらないが、何処かぞくぞくと興奮していた。エネルギーがないと乗り越えられないことなのだから、それでいいのかもしれない。

 だが、ひとつ心配が残る。
「ね、ねえ。今の、嫌じゃなかった?」
 初めての接吻の時もそうだったが、あさぎはいつも気になってしまう。女性としてのコンプレックスがあるからかもしれない。こんな質問ばかりをしていたら、清矢郎の方も嫌になってしまうかなと心配しながらも上目遣いで彼を見上げた。清矢郎はあさぎの方を見ずに、長い指で彼女の黒髪を梳いたり頭を撫でたりしながら呟いた。
「そっちこそ」
 彼もまたいつもと同じ言葉を繰り返すが、今回はあさぎにも身に覚えがあった。
「途中でやめろとか言うしさ」
 続けられた言葉にあさぎは軽く首を竦める。ぶすりとふて腐れたように言う清矢郎は、やはり可愛い。あさぎに身体だけでなく心も開いてくれたのは、清矢郎も同じだろうか。だとすれば、嬉しい。とても嬉しい。
 年上の大人びた清矢郎が自分に対し拗ねてくれるだなんて、彼が自分だけを特別と認めてくれているようで。そのうえ最後の時も今も、あさぎを守るんだ、という頼もしさが伝わってくる。しかし浮かれている場合ではない。
「そんなに、下手だった?」
 既に眼鏡は掛けてしまったが再び陰りを帯びた表情で言われ、あさぎは「ううん、そんなことない!」と必死に否定した。上手くいかないことがあっても、彼なりにあさぎのことを思いやり、優しくしてくれたと分かっているし、その点については期待以上だったのだから。
 そこであさぎは、俯いてしばし考えた。やがて決意したように顔を上げ、清矢郎の顔を見た。自分の眼を見て信じて欲しくてそのTシャツを引っ張ると、彼は恥ずかしいのかあさぎをちらりと横目で見下ろした。

「あの、ね……私、金魚が見えるの」

 あさぎの突然の告白に、清矢郎の眼が驚きできょとんと丸くなる。何を言っているのだろう、といった顔だ。
 あさぎは不安げに彼を見つめていた。こんなことを伝えて、気味悪がられるかもしれない。身体の関係にまでなっておいて、そうなっても困る。それでも言わずにはいられなかった。始まりの時を迎えるために。彼と共に未来へ歩んでいくために。
 誤解を解くためにも、真実を語るべきだと思った。それにあさぎも清矢郎のように心を開きたくなったのだ。全ての事実を知って欲しくなった。彼と心から結ばれるために。
 金魚が見える自分も自分なのだ。こういう関係になったからこそ、清矢郎に丸ほど愛して欲しいと浅ましい望みが湧いた。二人は違う人間なのだから、そんなこと出来はしないのに。だが清矢郎ならば、受け入れてくれるかもしれない。逆にこれくらいのことすら受け入れられないならば、この先のことは乗り越えられないだろうとあさぎは男心を試していた。
 更にはあの駅のホームで騒動を起こし、今回のセックスの際にも叫んでしまったように、今後もあさぎが金魚の幻影に飲み込まれることがあるかもしれない。清矢郎に迷惑を掛けてしまう、そんな時こそ彼に理解して欲しく、支えて欲しかった。押し付けがましくとも清矢郎が原因なのだから。
 だが清矢郎は、あさぎの心配を悉く打破してくれる少年だった。
「どういう、ことだよ」
 彼は奇妙なものを見るような眼は一切せずに、真剣な表情であさぎを直視すると尋ね返してきたのだった。
 
◇拍手&簡易メッセ◇

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