あさぎが久しぶりに清矢郎に会ってから十日ばかりが過ぎた、六月の中旬。彼女が着ているセーラー服も涼しげな白い夏服に衣替えされた。駅へと続く線路沿いを、通っている高校から一人で歩く、夕暮れ時。入学してすぐに同じクラスの宮坂 夕映という少女と仲良くなったが、いつも一緒に帰る彼女はアルバイトの面接だと言って先に帰ってしまったのだ。
あさぎも五月で十六歳になっているものの、両親からは厳しく「学生の本分は勉強だ」と言われ、また「女の子が犯罪にでも巻き込まれたら」と過保護なほど心配もされ、興味はありながらそうした大人社会への切符は渡されていない。だが両親が健在で仕事もあるからこそ学業に専念出来るありがたさを、彼女も高校生になり少しは理解していた。
そうは言っても社会に出たいという憧れや好奇心、自己実現の欲求もある。残念ながら部活動では芽が出ることなく、中学時代に補欠で終わったバレーボールは辞めてしまった。それでも流石に何もしないのは、と読書がそれなりに好きだったあさぎは本の趣味が合った夕映と文芸部に入ったが、まだ文章を書いたことはない。
何も部活でなくともよい。たとえば特に成績がよくなくとも、目立って人気がある同級生もいる。たった一人でもいい恋人を作って、「誰かに必要とされている」という自信を持って笑っているのもいい。そんな「認められ方」でもよかった。
だがあさぎは昔はお転婆であったが、清矢郎のことや中学生時代の経験から男子が苦手となって話す機会自体少ない。よって告白をした経験もなければ、された経験もないのである。
――本当に、誰からも必要とされる場所がない。あさぎには、自分があまりにつまらない人間のような気がしていた。それでもあるべきルールから外れることで無理矢理「大人」になろうとも思わないので、人のことを指を咥えてうらやましそうに見ていることしか出来ない。
本心では誰かに自分を認めて欲しい、自分に自信を持ちたい、自分は何も出来ない、だけど自分では何もしない――後ろ向きな考え方のあさぎにとって、社交的で行動力のある友人の夕映はとても輝いて見えた。しかし夕映だけでなく、あさぎと同じように地味な中学時代の友人相手でも同様にうらやんでしまう時がある。形のある成果を収めたり恋人などいなくとも、何かに胸を張っているならば、その姿に。
結局、あらゆる他人と自分を比べて拗ねている、精神的な幼さが今のあさぎの心を頑ななものにしていた。
そしてその結果、あの出来事を思い出す以外にも、こんなもどかしい――欲求不満な気分の時も、金魚は姿を見せていた。更に金魚が現れるのは、あさぎの精神状態だけでなく、身体の変化にも密接に関係しているようだ。
――あ、また、ちらちら見えてる……。
駅の上に広がる灰色の梅雨空に、赤い金魚が浮かんでいる。苛々していたあさぎはそれを振り払うように傘を持ち上げると、軽く振った。しかし傍から見れば変な人に思われることに気付き、傘を下ろすと慌てて辺りを見回す。
今、彼女が金魚を見ているのは清矢郎のことを思い出したからではない。そう、それは金魚が見える時の一番の条件――あの経験を境に、金魚が現れるようになったことを証明しているものだろう。
あさぎも他人には見えないこの幻覚が怖くなって、何故見えるのかその原因を考えたことがある。最初は子供だったので、不思議で面白いな、と思っていたほどであったが、成長するに伴い自分の精神に異常があるのではと不安になってきた。
だが時が過ぎても健康上何事もなく、視界が遮られて危険な目に遭ったり、勉強に集中出来ず成績が落ちるということもなかったため(逆に他のことに集中すると金魚は見えなくなる)、特に何の害もないならば、とあさぎはそのことを誰にも話さないでおこうと思った。
第一誰かに話すということは、そのきっかけとなった清矢郎との出来事まで話すことになるかもしれない。最初、母親に幻覚が見えることを相談しようと思ったが、心配性の家族があさぎの言動にどんな反応をするか考えると恐くなった。あのことまで知られれば、清矢郎はどうなってしまうのか――それを想像すると、親戚の仲を険悪なものにしたくないあさぎは口を閉ざすしかなかった。
何よりも、「男にそんなことをされて、そんなものが見えるようになった可哀想な子」として家族に見られたくない、心配をかけて煩わせたくないというのが一番大きい。だから彼女は何故私だけが、と清矢郎を恨み苛々しつつも、この現象を仕方なく受け入れ、自分だけが見える「特別」な美しい光景を楽しんでしまうことにした。
そんなある日、あさぎは何も考えていないのに金魚が浮いている、ということに気が付いた。ふとその理由に思い当たる。――今、現在もそうだ、帰り道を歩いている彼女が感じる、鼻をつく、つんとした匂い。それは生理のひどい二日目などに身体に訪れる特徴であった。
あさぎのそれは決して「軽い」と分類される方ではない。濃くどろりとした赤い老廃物に毎回うんざりとし、腰や腹の痛みに耐える。まだ子供を産める状況でもないのに、無駄に流れる雌の証をを汚らしいものに感じていた。そんな日にも、金魚は見えるのだった。緋色の血や匂いそのものが幻影となったように。その汚れたものを、少しでも美しく見せようとするように。
そして生理の時だけではなかった。中学生に入学した頃から夜、一人になった時など、わけもなく身体が疼くことがあった。内側から沸き起こる、制御出来ない衝動。――誰かに傍に、居て欲しい。誰かに必要だよと囁かれたい。誰かに愛されたい――触れて欲しい。そんなおかしな気分の夜にも金魚は闇の中に、誘うように妖しく浮かぶ。
決定的だったのが、あさぎが友人から借りた性描写のある漫画を読んだ時だ。それを見て妙に心をざわつかせ、身体の一部分に異様な変化が現れた時に、金魚がいつもよりも数を増やして乱舞する姿が見えたのであった。
そこで彼女はひらめく。その当時の拙い言葉で表せばこうだ。――いやらしいことを考えた時に金魚が見えるんだ、と。
言い換えれば、動物に生まれたあさぎの身体が無意識のうちでも性的欲求を抱いた時に、金魚は現れるのだろう。だから生理前や生理の日には、その幻覚が見えるのだ。
あの時、生まれて初めて「女」と見られた時に見えたあの金魚。そのように男の欲望の対象とされ、自分の性を十二歳の幼さで強引に自覚させられた。だが同じように、女である己の身体にも本能的にそういった欲求があることをこうして知った。
あさぎの方でなかったことにしたいと言うくせに、夜、ベッドの上で彼女の心や身体がざわめけば、金魚たちが現れる。すると必然的にあの日の出来事も鮮やかに蘇り、それをこの欲求を満たすために胸の中で幾度も反芻してしまうのだ。それはあの忌まわしい出来事が、唯一男性に女性として「求められた」と、劣等感の塊のあさぎが歪んだ優越感を持てることであったから。
「私だって、大人の女だもん」と誰にアピールするでもなく、自分に対して言い聞かせてアイデンティティを保つ。忘れたいがいっそ忘れられないならば、と開き直り、甘美な疼きへと変換してあさぎはこの四年間それをずっと味わっていたのだ。いけないと思いつつも、あの日の続きをしたらどうなるだろうか――とすら考えてしまったことすらある。
そんな汚れた自分に、あさぎはぞっとした。「被害者」のはずなのに何を考えているのか。誰にも言えない愚かで浅ましい己の性に情けなくなる。
灰色の空からは、黒い雲が隙間を開けオレンジ色の光が僅かに差し込んできた。明日は晴れかもしれないが、あさぎの口からは今日もため息しか出なかった。
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