ざわりざわりと、竹の音。薄暗闇を泳ぐ金魚。それらが祠の周りで手招きしている。柔らかな流線型を描くようになった少女と、青年に近付きつつある少年を、土地の神社は再び迎え入れた。
二人の手はしっかりと繋がれている。あの頃にはもう戻れない。だったらもう進むしかない。それ以外に、あの嫌な思い出を上書きする方法はない。あさぎはそう信じていた。
それに清矢郎と付き合い始めたことで落ち着いてはきたが、あの、心がざらつく劣等感――清矢郎や友人への。それも彼の胸に飛び込むことで全て解消出来るような、そんな焦りもある。醜いことに、この関係を利用しようとしているのだ。
――触れたい。そう思っていることも、もう相手に知られているだろうか。誰も居ない静かな神社で、あさぎはこっそりと清矢郎を見上げる。
「どっか座る?」
すると彼の方から尋ねられ、あさぎはこくんと頷いた。
「花火、まだ始まらないし……」
それは言い訳だ。それこそ竹林や杉の木が生い茂り、花火などほとんど見えない。今日は特に此処へ来る者も居ないだろう。さりとて車両が入れないよう車止めがしてあり、掃除も行き届いているからか、たまり場になっているわけでもなさそうだ。
そうは言っても人家が近くにあり、鳥居の向こうの道路には車が何台も通っている。立っていれば外から見えてしまいそうで、何やら恥ずかしい。二人はどちらからともなく手を引き合い、あの日あさぎが一人で座っていた社――の裏側へと、自然に足を向けていた。
氏子の人々が草を刈ってくれていたからか、あさぎの下駄履きの足も傷つかずに済んだ。裏には倉庫や焼却炉もあるが、其処にも人の気配はなさそうだ。
「座ろ」
今度はあさぎがそう言った。あの時はたった一人で心を癒していたが、今日はその原因となった相手が隣に居る。しかもあさぎの全てを受け入れてくれる、それが償いだと言うのだ。――いや償いでは嫌だと言ったら、あさぎのことを好きだとさえ言ってくれた。だから償いの義務感以上にあさぎの心を支えてくれるつもりなのだろう。これまでの寂しさを思えば、何と心強いことだろうか。
元々花火大会が目的であったので、あさぎは下に敷くために大判のハンカチを持ってきていた。もちろん金魚の柄だ。縁側にハンカチを敷くと、あさぎはちょこんとそこに腰掛けた。あの頃よりも五センチほど身長が伸びた。下駄履きの足の先がぎりぎり地面につく。隣の清矢郎は、相変わらずでん、と足の裏までつけて座っている。
――折角二人きりになれたのに、どきどきしてくれないのかな?
座ったことで手も離れてしまった。あさぎは表情の変わらない清矢郎を、横から少々膨れて覗き込む。
「つまんない?」
もしかしたらそうかもしれないと不安に思い、尋ねた。
「別に」
つっけんどんな返事はいつものことだ。分かっている。しかしあさぎも清矢郎に対し、彼女が一方的に喋ることもあれば、気を遣って黙ることもあった。
昔からそうであるが、清矢郎も集中したい時は、あさぎがどんなに話し掛けても無視して彼の世界に没頭していた。しかし「うるせえなあ」などと、クラスの男子のような乱暴なことは言わない。黙って自分のしたいことをして、終わればあさぎの相手をしてくれた。
あさぎにはそれが清矢郎の「優しさ」として映っていた。そういった大人びたところが大好きだった。
それは今でも変わらないかもしれない。だったら彼に合わせて無言のまま、夏の宵闇の空気を楽しむのもいいだろう。
しかし黙っているとどうしても、色々なことを考えてしまう。やはり思い出すのは、最後に此処に来た四年前のこと。あの時、自分を緋色の水に突き飛ばした少年が隣に居る。あさぎはこのことは言わない方がいいだろうかと思いつつ、まるで花火のような赤い魚影を見上げて呟いた。
「昔、よく此処に遊びに来てたね」
「そうだな」
「最後に来たのは……四年前の、あの後、だったかな」
「……そっか」
しつこいと嫌われてしまうだろうか。寧ろあさぎが彼を傷つけてしまっているだろうか。
だがもう、無理にあの時のことを禁忌のように忘れよう、触れないでおこうとするのはやめたい。そうしている限り、いつまでも互いに遠慮がある気がする。特に清矢郎があさぎに遠慮し、罪を償うまではと彼の全てを曝け出してくれないのが悔しい。
単純に、あさぎが好きだと叫んで欲しい。必要だと吠えて欲しい。求めて欲しい。それをもっと感じたい。――それが独りよがりの望みであったとしても。
もう、一人で抱え込まなくてもいいのだ。あの事件の衝撃に耐えたことも、両親にも友人にも言えず苦しかったことも、祖母の家で清矢郎と会うたびに一人やきもきしていたことも、周囲と自分を無意味に比べて苛々し、あんなことをしたくせに褒められている彼を引き合いに、憎しみに似た劣等感を抱いていたことも。
きっと傍に居れば、全部解消される。だからもう、忘れたい。乗り越えたい。彼の手を借りて変わりたい。
「ごめん」
「だから、謝って欲しいわけじゃないもん」
また誤解されてしまったと、あさぎは慌てて彼の方を見た。
「じゃあ、どうすればいい」
「あの時、何であんなことしたのか分かんないけど、今は私のこと……す、好きになって、くれたんでしょ?」
「ああ」
「私も、あれからせいちゃんじゃなきゃだめに――好きに、なっちゃったんだし、だからもう、気にしなくていいのっ」
「……ん」
どう反応してよいやら分からない、という様子でもあるが清矢郎は頷いた。しかし彼はまだ黙って前を見ているだけ。
「怒ってるの?」
「何で俺が。お前の方が」
「だから怒ってないって」
「……」
そしてまた無言に戻る。闇は一秒ごとに深くなっていく。時々車の走る音と、草むらに潜む虫の声、そして竹のざわめきが聞こえてくる。予め虫除け対策はしてきたが、一箇所刺された腕をあさぎはぽり、と掻いた。
清矢郎は依然あさぎに気を遣っているように見える。昔から思慮深い少年ではあったが、大人になって益々慎重になっているようだ。豪胆な一面もあるようだが。
先ほど昔のことを二人で蘇らせ、そして二人で遊んだ、二度と遊ばなくなったこの場所に戻ってきた。底の見えない渦に飛び込むしか前に進むには方法がないと思ったが、間違っていたのだろうか。
逆に妙に意識してしまい、会話も出てこなくなる。――これでは、
「なんか、四年前、みたいだね」
「……」
ため息混じりに呟いたあさぎを、清矢郎はゆっくりと見た。組んでいた腕を、驚いたように下ろして。
あさぎも彼を見た。夜と言う帳が下りても、その表情はまだ辛うじて分かる。
その言葉の意味を、彼は察したのだろうか。四年前みたいだ――この気まずさが。そしてこの男と女特有の微妙な空気が流れた後に、何が起こったか。
流石に女の子の方からは言い出したくない。「それ」は夢に見ていることだから。
「どういう、意味だよ」
静まり返った空間に、低い声が波紋を作る。あさぎはぴくんと肩を揺らす。――四年前とは、違う。彼が沈黙を破った。清矢郎もまた成長したからか、それとも今は恋人同士という安心感があるからか。
あさぎは黙って清矢郎の眼を見つめていた。いつの間にか身体を彼の方に向け、にじり寄るように前のめりの姿勢になって。暗闇に赤い金魚が浮かんでいる。いくつもの黒い眼がくるくると回る中で、彼の瞳だけは見落とさないように。
清矢郎もあさぎから眼を逸らさなかった。それは深い水の底のような眼をしていた。四年前と同じ大きさのはずだ。なのにあの時と違い、濁ってはいないように見えた。透明度が高く、奥の奥まで透き通っているような。だが深くまで見え過ぎて、それはかえって闇のような様相になっている。
――もう、触れてくれないの?
その水底に吸い込まれてしまいそうだと思いながら、あさぎは胸を波打たせていた。
触れたいよ、今なら。
触れて欲しいの、あの時のように。
唇がそう、素直に動きそうになる。そんなこと言ってはならない。いやらしい女の子だと、真面目な彼に嫌われないか。だが、「触りたい」くらいは言ってもいいだろうか。先ほども触れた、その大きな手くらいは。
あさぎの唇が震える。それを清矢郎の眼が捉えた。――そう思った時、赤い金魚のベールをかいくぐり、いきなり彼の顔が近付いてきた。
望んでいたはずなのに恐かった。しかし眼を閉じる間もない。勢いを止めるように細い肩に手が置かれたが、歯がこつんとぶつかった。あさぎは無意識のうちに肩を竦めると、眼を固く閉じた。
柔らかな、唇同士が重なった。
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